裁判官が入廷するずっと以前に、法廷はもはや超満員でした。
一段高いところにある裁判官席の右手に、陪審員たちのためのテーブルと二列の肘掛椅子がならんでいました。
左手は被告と弁護人の席でした。
裁判官席に近い法廷中央に、《証拠物件》をのせたテーブルが置かれていました。
その上には、「フョードル」の白い絹の、血まみれになったガウン、殺害に使用されたと推定される例の運命的な銅の杵、袖口が血で汚れた「ミーチャ」のシャツ、あのとき血でぐっしょり濡れたハンカチをつっこんだために、うしろのポケットに血のしみがついたフロック、血糊でごわごわになり、今では真黄色になっているそのハンカチ、「ペルホーチン」の家で「ミーチャ」が自殺のために装填し、モークロエで「トリフォン」がこっそり取りあげたピストル、「グルーシェニカ」のための三千ルーブルが用意されていた、上書きのある封筒、封筒を結んでおいた細いバラ色のリボン、その他おぼえきれぬくらい、いろいろの品がのっていました。
《証拠物件》のテーブルの上は、何と言ったらいいのでしょう、殺伐とした状況ですね、《証拠物件》がたくさんありすぎて「おぼえきれぬくらい」と書かれておりますので、語り手は傍聴席に座っているということになります、ということは何でも知っている全能の作者から離れた場所にいるのですね。
そこから少し離れて、法廷の奥の方にかけて傍聴席がはじまっていましたが、その手すりの手前に、証言を終えたあと法廷にさらに残らねばならぬ証人たちのために、肘掛椅子がいくつか置いてありました。
「法廷の奥の方にかけて」ということは、裁判長の視点から法廷を見ているのでしょうか。
正十時に、裁判長と、陪席判事、名誉治安判事、各一名からなる裁判官が入廷しました。
もちろん、ただちに検事も姿を現しました。
裁判長は中背よりやや低い、がっしりした、五十くらいの男で、痔のわるそうな顔をし、白いもののまじった黒い髪を短く刈り上げ、赤い大綬をつけていましたが、何の勲章だったかはおぼえていません。
検事は、わたしには、いや、わたしだけではなく、だれの目にもそう映ったのですが、ひどく青ざめた、ほとんど緑色と言ってもよい顔をし、おそらく一夜のうちになぜか突然痩せこけたかのようでした。
それというのも、つい一昨日わたしが会ったときには、まだまるきりふだんと同じ顔つきをしていたからです。
「わたし」がたびたび登場しますが、ここでは登場人物と会ったと言っていますので、この町の確固とした構成員という想定でしょう。
さて、裁判長は、陪審員が全員出席しているかという、廷吏に対する質問から開始しました・・・・しかし、これ以上こんな調子でつづけるわけにゆかぬことは、わたしにもわかっています。
なぜなら、ききとれなかったことも多いし、ききもらした個所もあり、記憶しておくのを忘れたこともあるうえ、何よりも、すでに述べたとおり、言われたことや起ったことを全部思い起していたら、文字どおり時間も紙数も足りなくなってしますからです。
わたしにわかっているのは、双方、つまり弁護人と検事とで委嘱した陪審員の数があまり多くないことだけであります。
十二人の陪審員の構成をわたしは思いだしましたが、この町の官吏が四名、商人が二名、土地の百姓と町人が六名でした。
まだ裁判になるずっと以前から、この町の社交界では、特に女性たちがある種のおどろきをこめてしきりにこう質問していたのを、わたしはおぼえています。
「ほんとうにこんな微妙な、複雑な、心理的な事件を、そこらの小役人や、あげくの果ては百姓たちなんぞの抜き差しならぬ決定に委ねる気なんでしょうか、そこらの小役人やまして百姓なぞにいったい何がわかるというのでしょう?」
ロシアの陪審員制度のことがネットにありました。「ロシアでは、1864年にアレクサンドル2世による司法改革の一環として陪審制度が導入されました。その後、ボルシェビキにより1917年、陪審制度は廃止され、人民参審制に変わりました。陪審制度は、旧ソ連のペレストロイカ時代に復活が検討され、1993年から一部の地域で導入されました。2001年には刑事訴訟法典が陪審制度を規定し、2010年には陪審制度がロシア連邦全体へ拡大されました。」とのこと、この物語の現時点、つまり「フョードル」が殺害されたのを1866年と考えると、少し前に制度が確立したのですね、また、少し詳しい内容の次のようなこともネットにありました、「ロシアは陪審制である。陪審制から参審制へ、参審制から陪審制へと移行した。 現在の陪審制は1993年に開始された制度であるが、元々の陪審制は帝政ロシア時代まで遡る。 ピョートル1世の時代(1682~1725年)に糾問的訴訟が確立されていたが、アレクサンドル 2世によって実施された1864年の大司法改革により陪審制が導入された。しかし、1917年の 10月革命により、アレクサンドル2世が設けたすべての裁判所が廃止され、陪審制も廃止された。 陪審制に代わって導入されたのが、裁判官1名と交替制の参審員2名からなる参審制であった。 1922年には、刑事事件も民事事件もすべての裁判が、裁判官1名と人民参審員2名の構成によ る参審制で行われるようになり、1936年制定のソ連憲法に参審法は規定されるようになった。 しかし、参審制は形骸化していった。人民参審員の法律知識の欠如と裁判長の参審員軽視行動に よるようである。 ソ連崩壊後、1993年のロシア共和国の司法改革により陪審制が復活した。当初は、全国89地 域のうち9地域のみで開始されたが、チェチェン共和国を最後に2010年に全国で実施されるよ うになった。ロシアの陪審制の対象事件は、法律に列挙された州級裁判所の管轄に属する重大な犯罪である。 裁判体の構成は、陪審員が12名、裁判官は1名である。少なくとも2名の予備陪審員が選出さ れることになっている。陪審制は、被告人の請求にもとづく裁判である。選任方法は、選挙人名 簿から無作為抽出で、陪審員の任期は、事件毎の選任である。評決方法は、全員一致が原則で、 全員一致が得られないときは多数決(7/12票以上)で決める。陪審員の権限は、「行為が存在 したか」「被告人がそれを実行したか」「被告人は有責か」の三つの基本的設問を審理し、情状酌 量の可否が追加的設問としてある。」とのこと、当時も今も基本は12名ということで同じですね、ただ構成員の選出については選挙人名簿などから無作為に選ぶのでしょうか、よくわかりません、日本では裁判員制度は2009年導入されました。
実際また、陪審員のメンバーに入った四人の官吏は、どれもみな、官位の低い、白髪の小役人で-一人だけいくらか若かった-この町の社交界でもほとんど知られておらず、安月給でしがない生活を送り、おそらく人前にはとうてい出せぬ年とった細君と、たぶん素足で走りまわっているような大勢の子供とをかかえ、余暇はどこかでカードの勝負を楽しむくらいがせいぜいで、もちろんいまだかつて一冊の本も読みとおしたことがないにきまっています。
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