「・・・・これで被告はもう腹を立て、こんな質問は侮辱にひとしい瑣末事だと考える。しかも、いいですか、まったく本気で、本心からそう思うのです! しかし、彼らはみんなこうなのです。『自分のシャツを引き裂いたんです』という答えが返ってきます。『結構です。それなら、明日にでもあなたの下着類の中から、切れ端を引き裂いたそのシャツを見つけだしましょう』いかがですか、陪審員のみなさん、もし本当にそのシャツを発見できさえすれば(本当にそういうシャツが存在するとしたら、被告のトランクか箪笥の中に見つかるにきまっていますからね)、そうすればこれはたしかに事実であり、被告の供述の正しさを証明する歴然たる事実ということになるのです! ところが被告はそこまで思いめぐらすことができない。『よくおぼえていないけど、ことによるとシャツを引き裂いたんじゃなく、下宿のおかみのナイトキャップで縫ったんです』と被告は言いだす。『どんなナイトキャップですか?』『おかみのところから、くすねてきたんです。あそこにころがっていたもんでね。古いキャラコのぼろ布ですよ』『それははっきりおぼえているんですね?』『いいえ、はっきりおぼえているわけじゃありません・・・・』そして、かんかんになって怒るのですが、しかし考えてもみてください。これをおぼえていないはずがあるでしょうか? 人間にとってもっとも恐ろしい瞬間、たとえば刑場に曳かれてゆくときなどこそ、こうした些細な事実が記憶に残るのであります。すべてを忘れても、途中でちらと見えたどこかの緑色の屋根とか、十字架の上にとまっていたカラスとか、そういうものは記憶に刻みつけるのです。なにしろ被告はそのお守り袋を縫うにあたって、下宿の人々の目を避けたはずですし、だれか部屋に入ってきて見つけはせぬかという恐怖に、針を手にしながらどれほど屈辱的な苦しみを味わったか、当然、記憶しているにちがいないのです。ノックの音がしただけで、とびあがって、衝立のかげに逃げこんだはずなのです(彼の部屋には衝立があるのですから)・・・・それにしても、陪審員のみなさん、何のためにわたしはこんな細部の事実を、瑣末なことを、くだくだとお話ししているのでしょうか?」
突然「イッポリート」は叫びました。
「ほかでもありません、被告が今この瞬間にいたるまで、こんなばかげた話を頑なに言い張りつづけているからなのです! 被告にとって宿命的なあの夜以来、この二カ月の間ずっと、被告は何一つ説明できず、それまでのとっぴな供述を説明づけるような、具体的な状況をただの一つも付け加えていないのです。そんなものはすべて瑣末なことだ、名誉にかけて信じてほしい、と言うのであります! そう、われわれも喜んで信じたい、たとえ名誉にかけてでも信じたいと切望しております! われわれが人間の血に飢えた山犬ででもあるでしょうか? 被告に有利な事実をたとえ一つなりと示し、与えてくれれば、われわれは大喜びするのです。しかし、被告の表情によって実の弟の出した結論だとか、被告が胸をたたいたのは、きっとお守り袋を、それも闇の中でさし示したにちがいないなどという指摘ではなく、歴然とした具体的な事実でなければ困ります。われわれは新しい事実を歓迎し、真っ先に起訴を取り下げます。急いで取り下げるでしょう。だが、今は正義が叫んでおり、われわれはあくまでも主張を貫いて、何一つ取り下げることができないのです」
「イッポリート」はここで結語に移りました。
彼は熱にうかされたように見えました。
流された血のために、《卑しい強奪の目的で》息子に殺された父親の血のために、彼は絶叫しました。
数々の事実の悲劇的なおどろくべき総和を、彼はしっかりと指摘したのでした。
「天才をもって知られる被告の弁護人から、たとえどのようなことをきかされようと」
「イッポリート」はこらえきれずに言いました。
たしかに私も、お守り袋を縫ったときのことははっきりと記憶に残っているのではないかと思いますが、「ドミートリイ」がはっきり覚えていないのならそういうこともありうるのではないでしょうか、信じられないから否定するのではなく、信じられないことが往々にして現実には起こることもありうるのではないでしょうか。
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