2019年2月19日火曜日

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十 弁護人の弁論。両刃の刀

有名な弁護士の最初の一言がひびき渡ると、すべてが鳴りをしずめました。

法廷全部が彼に目を釘付けにしていました。

彼はしごく率直な、簡明な、自信にみちた口調で話しはじめましたが、不遜な影はみじんもありませんでした。

雄弁や、悲愴な調子や、感情のふるえひびく言葉などを駆使しようという野心は少しも見られませんでした。

共感してくれる人たちの親しい集まりで話しはじめた人のようでした。

その声は美しく、声量も豊かで、感じがよく、声そのものにさえすでに何か真剣な、素直なものがひびいている感じでした。

しかし、この弁士なら、一挙に真の悲愴な調子にまで高揚して、《ふしぎな力で人々の心を打つ》(訳注 プーシキンの詩の一句)ことができるのが、みなにすぐわかりました。

ことによると、彼の話し方は「イッポリート」より型破りだったかもしれませんが、長たらしい文章がなく、むしろ正確でさえありました。

とうとう最後の「フェチュコーウィチ」の弁護がはじまりましたね、検事の論告がたいへん饒舌で感動的で完全でしたので、彼の発言はそれに対抗するだけの内容が要求されるわけです、作者は自分で山のように高いハードルを自分でこしらえて、それをさらに乗り越えようとしているのです、ここで「フェチュコーウィチ」の弁護の特徴がいくつかあげられています、①率直で簡明で自信にみちた口調、②不遜さはまったくない、③雄弁や、悲愴な調子や、感情のふるえひびく言葉などを駆使しようという野心がない、④共感してくれる人たちの親しい集まりで話しているようだ、⑤美しく、声量も豊かで、感じがよく、声そのものに何か真剣な、素直なものがひびいている感じ、⑥長たらしい文章がなく、むしろ正確ということです、つまり話し方がうまいということですね。

一つだけ婦人たちの気に入らぬ点がありました。

彼がいつもなんとなく背を曲げていたことで、特に弁論の最初には、おじぎするというのでもなく、なにか傍聴席の方へまっしぐらに飛んで行こうとするみたいに、長い背中を二つに折り、まるでその細い長い背中に蝶番でも取りつけてあって、そのためにほとんど直角に折り曲げることができるかのような感じでした。

弁論の最初のころは、なにか散漫な話し方で、体系がなく、手あたりしだいにいろいろな事実をつかみだしてくるように思われましたが、最後には一つの全体像ができあがっているのでした。

彼の弁論は二つの部分に分けることができそうでした。

前半は、検事論告の批判と反駁で、ときおり意地わるい辛辣な調子になりました。

ところが後半に入ると、ふいに語調も、態度さえも一変した感じで、一挙に悲愴な気分に高揚したため、法廷はこれを待ち構えていたかのように、感激に打ちふるえました。

彼はまっすぐ核心に入り、自分の活動舞台はペテルブルグでこそあるが、被告の弁護のためにロシアの各都市を訪れるのは今回がはじめてではない、しかしそれは、自分が無実だと確信できる被告か、あらかじめ無実の予感がする被告に限るのだ、ということから説き起こしました。

「この事件に関してもまったく同様であります」

彼は説明しました。


「最初のころの新聞の報道を見ただけで、すでにわたしには何か被告に有利なものがひらめき、極度に心を打ったのであります。一言で言えば、何よりも先にわたしの関心をひいたのは、ある法律的な事実なのです。これは裁判上の慣例でしばしばくりかえされるものであるとは言え、今度の事件のように完全な形で、これほど個性的な特徴をそなえて現れることは決してないように思えるのです。この事実は弁論の終りに、わたしが話をしめくくるにあたって述べるべきでありましょうが、わたしはいちばん最初にその考えを言ってしまいます。それというのも、わたしは効果を隠したり、印象を節約したりせずに、ずばり本題に入るという欠点を持っているからです。これはわたしとしては損得を考えぬやり方かもしれませんが、その代り誠実なわけであります。わたしのその考え、わたしの公式とは、次のようなものです-つまり、数々の事実の圧倒的な総和は被告に不利であっても、その反面、それらを一つ一つそれ自体検討してみると、批判に堪えるような事実はただの一つもないという点であります! その後さらにいろいろの噂や新聞によってこの事件に注目し、わたしはますますこの考えを確信するようになったのですが、そこへ突然、被告の身内の方から弁護の依頼を受けたのでした。わたしはただちに当地へ急行し、ここに来てもはや最終的な確信を得ました。数々の事実の恐るべき総和を粉砕し、それぞれの起訴事実の証拠不十分と空想性とを明るみに出すために、わたしはあえてこの事件の弁護を引き受けたのであります」


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