2019年2月25日月曜日

1061

「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・ところが検事は、被告がその日のうちに預かった金の半分を取り分けて、お守り袋に縫いこんだことを、どうしても認めようとしない。『被告の性質はそんなものじゃない。そんな気持をいだくはずがない』と言うのです。しかし、カラマーゾフは広大だと叫んだのは、あなた自身ではありませんか。カラマーゾフは二つの深淵を見つめることができると絶叫したのは、あなた自身だったではないでしょうか? カラマーゾフはまさしく二つの面を、二つの深淵をそなえた天性であるため、抑えきれぬ遊興の欲望にかられた際でも、もしもう一つの面から何かに心を打たれたならば、踏みとどまることができるのです。そのもう一つの面とは、愛です。まさにそのとき、火薬のように燃えあがった愛情であります。しかもその愛には金が必要だ、そう、当の恋人との遊興に使うより、はるかに切実に必要なのです。彼女が『あたしはあなたのものよ、フョードルなんかごめんだわ』と言ったら、彼女を引っさらって、連れださねばならない。連れ去るには費用が要るのです。これは遊興より大事であります。カラマーゾフがそれを理解できぬでしょうか? そう、彼が心を痛めていたのはまさにこの点であり、この心配だったのです。彼が万一のために金を二つに分けて、隠したのが、なぜ信じられぬ話なのでしょうか? ところが、時はどんどんたってゆくのに、フョードルは三千ルーブルを被告によこしそうもなく、それどころか、自分の恋人を誘惑するのにその金を当てるという噂まで耳に入ってくる。『親父が金をくれないと、俺はカテリーナ・イワーノヴナに対して泥棒になっちまう』と被告は考えます。こうして、お守り袋に入れて肌身につけているその千五百ルーブルを持っていって、ヴェルホフツェワ嬢の前に置き、『俺は卑劣漢ではあるけど、泥棒じゃない』と言おうという考えが、生れるのです。したがって、被告がその千五百ルーブルを虎の子のように大切にして、決してお守り袋を開けもしなければ、百ルーブルずつぬきだしたりもしなかったのには、もはや二重の理由ができたのであります。どうしてみなさんは、被告に名誉を重んずる感情があることを否定なさるのですか? とんでもない、彼には名誉を重んずる感情があるのです。かりに正しくない、そしてきわめてしばしば間違ったものであるにせよ、その感情はあるのですし、情熱にまでなっているのです。被告がそれを立証したではありませんか。ところが、事態がこじれてきて、嫉妬の苦しみが極限に達すると、またしても以前からの二つの問題が、被告の熱した頭の中でますます苦しくてやりきれぬほど浮彫りにされてきたのです。『カテリーナ・イワーノヴナに返すんだ。でも、そうしたらグルーシェニカを連れて逃げる金はどこにある?』彼がこのひと月の間ずっと、分別をなくして酒に溺れ、飲屋で荒れていたとすれば、それはおそらく、彼自身も悲しくて、堪えきれなかったためかもしれません。この二つの問題はついには極度に尖鋭化し、彼を絶望に導くほどになったのです。・・・・」

ここで切ります。

「フェチュコーウィチ」は「ドミートリイ」の性格をある種の典型にあてはめるように一面的にしか見ない「イッポリート」に向けて次のような言葉を発します、「しかし、カラマーゾフは広大だと叫んだのは、あなた自身ではありませんか。カラマーゾフは二つの深淵を見つめることができると絶叫したのは、あなた自身だったではないでしょうか?」、これは(1035)での「イッポリート」の論告の中で、「彼が広大なカラマーゾフ的天性の持主だからであり-わたしの言いたいのは、まさにこの点なのですが、ありとあらゆる矛盾を併呑して、頭上にひろがる高邁な理想の深淵と、眼下にひらけるきわめて低劣な悪臭ふんぷんたる堕落の深淵とを、両方いっぺんに見つめることでできるからであります。ここで、カラマーゾフ家の家族構成を間近で深く見つめてこられた若き観察者、ラキーチン氏が、先ほど述べられたあの卓抜な思想を思い起していただきたいのです。『あの放埓な奔放な気質にとっては、堕落の低劣さの感覚と、気高い高潔さの感覚とが、ともに同じくらい必要なのである』-まさにこれは真実であります。こうした気質にとっては、この不自然な混合が絶え間なく常に必要とされるのです。二つの深淵です、みなさん、二つの深淵を同時に見ること、これがなければ彼は不幸であり、満足できず、彼の存在は不十分なものとなるのです。彼は広大です、母なるロシアと同じように広大であり、すべてを収容し、すべてと仲よくやってゆけるのであります!」と言ったことを指しています。


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