「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。
「・・・・『きっとあの瞬間、母が僕のために祈ってくれたんでしょう』と予審で被告はこう供述しています。だから、父の家にスヴェトロワがいないことを確かめるやいなや、逃げだしたのです。『しかし、窓ごしに確かめられるはずがない』と検事は反駁するにちがいない。なぜ、できないのでしょう? 被告の行なった合図で、窓は開けられたではありませんか。その際、フョードルが何かそういう言葉を口にし、そのような叫び声を口走ったかもしれないのです。そして被告がスヴェトロワのいないことを、すぐに納得したかもしれません。いったいどういうわけで、われわれは必ず、自分の想像どおりに仮定し、仮定したとおりに想像しなければいけないのでしょう? 現実には、きわめて緻密な小説家の観察からさえ見落されるような、数知れぬ事柄が起りうるのです。『なるほど、しかしドアが開いていたのをグリゴーリイは見ている、とすれば被告はきっと家の中に入ったはずだし、したがって殺したにちがいない』と言うかもしれません。このドアのことですが、陪審員のみなさん・・・・いいですか、ドアが開いていたと証言したのはたった一人だけで、しかもその人はあのときあんな状態にあったのですから・・・・が、まあいいでしょう、ドアが開いていたとしてもいい、被告が彼の立場としてはきわめてもっともな自己防衛の気持から自供を拒み、嘘をついたとしてもいいでしょう、かまいません、被告が家に忍び入り、家に入ったとしてもかまいません、それがどうだというのでしょう、いったいなぜ家に入ったからには、必ず殺したということになるのでしょうか? 被告は家に押し入り、部屋から部屋を走りぬけたかもしれないし、父親を突き倒し、父親を殴りさえしたかもしれません。しかし、スヴェトロワが父のところにいないことを確かめると、彼女がいなかったことを、そして父親を殺さず逃げだしたことを喜びながら、逃走したのです。おそらく、一分後につい夢中で殴り倒したグリゴーリイのそばへ塀の上からとびおりたのも、同情と憐れみの純粋な感情をいだくことができる状態にあったからです。それというのも、父親を殺したいという誘惑から逃れたためであり、父を殺さずにすんだという潔白な心と喜びを感じていたからであります。検事は先ほどモークロエ村における被告の恐ろしい状態を、すなわち、恋がふたたび目の前にひらけ、新しい生活に招いているというのに、背後に父親の血まみれの死体があり、その死体の向うに刑罰があるために、もはや愛することができぬという恐ろしい状態を、ぞっとするくらい雄弁に描写しました。しかし、それでも検事はやはり恋を認め、それをお得意の心理学で、『酩酊状態や、罪人が刑場に曳かれながら、時間はまだたっぷりあると期待する心理、等々』と説明なさいました。だが、再度おたずねしますが、あなたが創造したのは別の人物ではないでしょうか、検事さん? もし本当に父の血に染まっているとしたら、そんな瞬間にもまだ恋だの、法廷に対する申し開きだのを考えることができるほど、被告は粗野な、冷酷な人間なのでしょうか? いいえ、決してそんなことはありません! 彼女が自分を愛してくれ、手をさしのべ、新しい幸福を約束していることが明らかになったとたん、そう、もし背後に父の死体が横たわっていたとしたら、誓って言いますが、被告は当然そこで自殺したいという二重、三重の欲求を感じたはずですし、必ず自殺したにちがいないのです! そう、ピストルの置き場所を忘れたりするはずがありません! わたしは被告の人柄を知っております。検事がそしったような、野蛮な、冷酷な非情さは、被告の性格と一致しないのです。彼なら自殺したにちがいない、これは確かです。彼が自殺しなかったのは、《母が祈ってくれた》からであり、父親の血に関しては心が清らかだったからであります。被告があの夜モークロエで悩み、悲しんでいたのは、殴り倒したグリゴーリイ老人のことだけで、老人に対する罪も免れるよう、ひそかに神に祈っていたのでした。なぜ事件のこういう解釈をしてはいけないのでしょう? いったいどんな確かな証拠があって、被告は嘘をついているなどと言うのでしょうか? 現に父親の死体があるじゃないか、被告は逃げだしたのだ、彼が殺さないとしたら、いったいだれが老人を殺したのだと、またしてもただちに指摘するにちがいありません。・・・・」
ここで切ります。
「フェチュコーウィチ」はとうとう「お得意の心理学」と言葉に出して「イッポリート」を小馬鹿にしていますね、しかし、彼の弁論は見事だと思います、特に「・・・・だが、再度おたずねしますが、あなたが創造したのは別の人物ではないでしょうか、検事さん? もし本当に父の血に染まっているとしたら、そんな瞬間にもまだ恋だの、法廷に対する申し開きだのを考えることができるほど、被告は粗野な、冷酷な人間なのでしょうか? いいえ、決してそんなことはありません!・・・・」、また、「・・・・わたしは被告の人柄を知っております。検事がそしったような、野蛮な、冷酷な非情さは、被告の性格と一致しないのです。彼なら自殺したにちがいない、これは確かです。・・・・」の部分です、カラマーゾフの二重性の良い面を「フェチュコーウィチ」は見ており、「イッポリート」は悪い面を見ています、この善悪の同居する二重性は人間一般に言えることかもしれません。
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