2019年3月1日金曜日

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「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・くりかえして申しますが、ここに検事側のいっさいの論理があるのです。彼でないなら、いったいだれが殺したのだ、彼の代りに挙げるべき人間がいないではないか、と言うのです。陪審員のみなさん、はたしてそうでしょうか? 本当に、たしかに、挙げるべき人物は全然いないのでしょうか? われわれは、検事が当夜あの家にいた人間、居合わせた人間を一人残らず指折り数えたのを、ききました。わかったのは五人であります。そのうち三人が完全にシロであることは、わたしも同意します。それは、当の被害者と、グリゴーリイ老人と、その妻です。となると、残るのは被告とスメルジャコフということになり、そこで検事は、被告がスメルジャコフの名を挙げたのは、ほかに示すべき人物がいないからであり、もしだれか六人目の人物なり、六人目の幻なりと存在していたら、被告はスメルジャコフに罪を着せることを恥じて、ただちにみずからそれを放棄し、その六人目をさし示したにちがいないと、感激調で絶叫したのであります。しかし、陪審員のみなさん、なぜわたしが正反対の結論を出してはいけないのでしょうか? 残るのが被告とスメルジャコフの二人だとしたら、なぜ、わたしの依頼人を有罪にしようとするのは、ほかに罪を着せるべき人間がいないからにすぎないではないかと、このわたしが言ってはいけないのでしょう? ほかに人がいないのは、みなさんが前もってまったくの先入観でスメルジャコフをいさいの嫌疑から除いたためにすぎないのです。そう、なるほど、スメルジャコフの名を挙げているのは、当の被告と、二人の弟と、スヴェトロワ、それだけです。だが、証人の中にほかにも何人かいるではありませんか。それはある疑問が、ある疑いが、漠然とでこそあれ、一定程度、社会にかもしだされていることであります。何かすっきりせぬ噂が耳に入り、何らかの期待の存することが感じられるのです。そして最後に、いくつかの事実のある種の対立が、曖昧であることは認めるとは言え、きわめて特徴的な形で存するのです。第一に、事件当日のあの癲癇の発作、なぜか検事があれほど必死に弁護し、かばわざるをえなかったあの発作があります。さらに、公判前夜のスメルジャコフの突然の自殺。次に、これまで兄の有罪を信じながら、だしぬけに金を持ってきて、またしても犯人としてスメルジャコフの名を挙げた、被告のすぐ下の弟の、これに劣らぬほど唐突な証言があります! おお、わたしも裁判官や検事側とともに、イワン・カラマーゾフが譫妄症の病人であり、その証言がたしかに、死者に罪をかぶせて兄を救おうという、それも熱にうかされて考えついた、絶望的な試みかもしれないと、十分確信しております。が、それでもやはりスメルジャコフの名前がまたもや出たし、またしても何か謎めいたひびきがするように思われるのです。何かがまだ言いつくされておらず、すっかり片づいていないかのようなのです。陪審員のみなさん。ことによると、これから語りくつされるのかもしれません。しかし、さしあたりその件はひとまずおいて、いずれまたあらためて取りあげることにします。当法廷は先ほど審理の継続を決定しましたが、さしあたり今、それを待つ間にわたしは、たとえば、検事があれほど鋭く、きわめて才能豊かに描きだした故スメルジャコフの性格分析について、二、三の指摘を行なってもかまいますまい。しかし、検事の才能に驚嘆しながらも、わたしはやはりあの性格分析の本質に全面的に同意することはできないのです。わたしはスメルジャコフを訪ね、彼に会って話をしましたが、わたしの受けた印象はまったく異なるからであります。彼は病弱な人間だった、これは本当です。しかし、性格や心は、検事の結論したほど弱い人間では決してありません。特にわたしは彼の内に小心さを-検事があれほど特徴的に描きだした小心さを、見いだせませんでした。素朴さなど彼にはまったくなく、むしろ反対にわたしは、憎しみの下に隠された恐ろしい猜疑心と、きわめて多くのことを見ぬくことのできる知力とを見いだしたのです。そう、検事はあまりにも素朴に彼を知能薄弱者と見なしたのです。彼はまったく明確な印象をわたしに与えました。わたしはこの人物がとことんまで悪意にみち、度はずれに野心的な、復讐欲の強い、嫉妬心に燃える男だという確信をいだいて、帰ってきたのです。・・・・」

ここで切ります。

「フェチュコーウィチ」も検事と同じく「当夜あの家にいた人間、居合わせた人間」が犯人だということには同意しているようですが、それ以外にも「六人目」の可能性があることは考えないのでしょうか、今の推理小説なら、犯人は必ずと言っていいほど読者が考えもしないような人物になるのですが、たとえば、「フョードル」に商売上の恨みを持っている人物とか、「イワン」が誰にも見られずに帰ってきたとか、さすがに聖人のような人物である「アリョーシャ」が犯人だとは考えにくいのですが、どこかで「アリョーシャ犯人説」というのも書かれているのを見たことがあります、つまり「アリョーシャ」については修道院に帰ってからのことが何も書かれていないのがあやしいということですが、それに疑がえば、「グリゴーリイ」もその可能性が全くないとは言い切れません。

「フェチュコーウィチ」はまた「イッポリート」が「感激調で絶叫した」と小馬鹿にしていますね、そしてはっきりと「わたしはやはりあの性格分析の本質に全面的に同意することはできない」と言っています、そして「ことによると、これから語りくつされるのかもしれません」と言っているのは、これから真実が「ドミートリイ」の口から発せられるかもしれないということでしょうか。

そして「フェチュコーウィチ」は「イッポリート」が「スメルジャコフ」を良心的な人物だと判断していることに反論して、自分が会って話した印象では全く反対の評価を下しています、つまり「スメルジャコフ」は、①病弱ではあるが性格や心の弱い人間ではない、②小心ではない、③素朴ではない、④憎しみの下に恐ろしい猜疑心が隠されている、⑤多くのことを見ぬくことのできる知力がある、⑥知能薄弱者ではない、⑦とことんまで悪意にみちている、⑧度はずれに野心的である、⑨復讐欲が強い、⑩嫉妬心に燃える男である、とのことです。


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