彼女は、つまり「グルーシェニカ」なのですが、なるほどキスで《おあいこにする》という奇妙な目的はありましたが、その手をそっと唇に持っていきました。
「カテリーナ」は手をひっこめませんでした。
彼女は最後に「グルーシェニカ」の言った、《奴隷のように》仕えるという、これまた実に奇妙な表現の約束を、内気な望みをいだきながらききました。
「内気な望み」とは、心の中でそのような望みの可能性もあるかもしれないと感じた、ということでしょうか。
「カテリーナ」は緊張して相手の目を見つめていました。
その目に彼女が見いだすのは、先ほどと同じく信じきったようなあどけない表情と、かげりのない快活さでした・・・『もしかすると、この人は無邪気すぎるのかもしれない!』と、「カテリーナ」の心を一抹の希望がちらとよぎりました。
「カテリーナ」の心をよぎった「一抹の希望」とは、相手は馬鹿かもしれないということかもしれません、そのあどけない表情から幼子のようにどうとでもなるかもしれないと思ったのでしょう。
一方、「グルーシェニカ」はさも《かわいい手》に感激したように、ゆっくりその手を唇のところに持っていきました。
しかし、唇のすぐそばまで待っていって、彼女はふいに何事か思案するように、一、二秒とどめました。
「ねえ、やさしいお嬢さま」ふいに今度はもう、この上なくやさしい甘たるい声で、彼女はゆったりと言いました。「あの、お嬢さまのお手をとりましたけど、キスはしないことにしますわ」そして、小刻みな楽しそうな笑い声をたてました。
「どちらでも・・・どうなすったの?」と、突然「カテリーナ」はびくりとしました。
「このことをよく憶えといてくださいね、お嬢さまはあたしの手にキスをなさったけど、あたしはしなかったんですから」と、ふいに彼女の目に何かが光りました。
ここで「グルーシェニカ」が「よく憶えといてくださいね」と強調した意味は何でしょう、重要な部分ですが、私はよくわかりません。
相手は自分にキスをしたが、自分はしなかったということは、自分の方が上に立つということでしょうが、そのことがこの三角関係でどのような意味をもつのでしょうか。
彼女は恐ろしくまじまじと「カテリーナ」を見つめました。
「失礼な」と、突然何かをさとったように、だしぬけに「カテリーナ」が口走り、顔を真っ赤にして、席を立ちました。
「グルーシェニカ」はゆっくり立ちあがりました。
「あなたがあたしの手にキスなさったのに、あたしは全然しなかったってことを、さっそくドミートリイさんにも伝えますわ。あの人、さぞ笑うことでしょうね!」
このキスの件を「ドミートリイ」が聞けば、「さぞ笑う」とのことですが、やはりどういう意味で笑うのか、私はわかりません。
あの気位の高い「カテリーナ」が身分の低い「グルーシェニカ」にキスをしたということでしょうか、それならば、「グルーシェニカ」がキスを返そうとしたこと云々は関係がないことになりますので、ここでは私のわからない何かが表現されているのでしょう。
「恥知らず、出て行け!」
「まあ、恥ずかしくございませんこと、お嬢さま、恥ずかしくございませんの、あんまりはしたないじゃありませんか、そんな言葉を口になさるなんて、お嬢さま」
「出て行くがいい、淫売!」と、「カテリーナ」がわめきたてました。
まったく引きゆがんだその顔の、線という線がふるえていました。
「淫売で結構ですわ。自分だって、若い娘の身でお金目当てに男のところへ夕方忍んでいらしたくせに。自分の美しさを売りにいらしたんでしょう、あたし知ってますのよ」
「カテリーナ」は叫び声をあげて、とびかかろうとしかけたが、「アリョーシャ」がありたけの力で押しとどめました。
「相手になっちゃいけません!話しちゃだめです、何も答えないで。この人はもう帰ります、今帰りますから!」
またまた予想を裏切るような展開になってきました。
「アリョーシャ」も大変ですね。
少し前には「ドミートリイ」と「フョードル」の仲裁に入ったばかりだったのですが、ここでもまた仲裁しなければならないのですから。

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