「カラマーゾフの兄弟」の「中巻」に入りました。
まだ「第二部」の「第五編プロとコントラ」の続きです。
六 今のところ、まだきわめて曖昧なものだが
一方、「イワン」は「アリョーシャ」と別れたあと、父「フョードル」の家に向かいました。
だが、奇妙なことに、ふいに彼は堪えがたい憂鬱におそわれ、しかも特に、家に近づくにつれてひと足ごとに、ますますそれがつのるばかりでした。
奇妙なのは憂鬱そのものではなく、憂鬱の原因が「イワン」にはどうしてもはっきりできないことでした。
これまでにも憂鬱な気持になることはしばしばあったから、こういう瞬間にそれが訪れたからといってべつにふしぎではありませんでした。
なにしろ明日はいよいよ、彼をこの土地へ惹きつけたあらゆるものとひと思いに縁を切って、ふたたび大きく方向を転じ、まったく勝手知らぬ新しい道に、それも以前のようにまたまったく一人きりで足を踏み入れるつもりになっているのですが、希望は数多くありながら、いったい何を希望しているのかわからず、人生への期待も多すぎるくらいあるのに、その期待も、自分の願望さえも何一つはっきりできぬ有様なのです。
未知の新しいものに対する憂鬱がたしかに心の中にありはしたものの、やはりこの瞬間彼を苦しめていたものは、まったくそれではありませんでした。
『父の家に対する嫌悪ではなかろうか?』彼は内心で思いました。『そうらしいな。それほどいやになったんだ。今日が最後とはいえ、おぞましいあの敷居をまたぐのは、やっぱり不愉快だからな・・・・』だが、違う、それでもない。
「アリョーシャ」との別れや、彼と交わした会話のせいではないだろうか。
『何年間も世間に対して沈黙を守り、口をきこうとしなかったのに、突然、ばかげたことをさんざ話しちらしたからな』実際、青年らしい世間知らずと青年らしい虚栄心との若々しい憤りかもしれませんでした。
自分の考えをうまく語りきれなかったことに対する、おまけにそれも、心の中で疑いもなく大きな期待をかけていた「アリョーシャ」にような人間を相手にすっかり語りきれなかったことに対する憤りかもしれませんでした。
もちろん、それも、つまりそうした憤りもありました。
むしろ必ずあるはずでした。
だが、それでもない、それもやはり違うのです。
『胸がむかつくほど憂鬱なのに、自分が何を望んでいるか、はっきりさせられないのだ。いっそ、考えぬことにするか・・・・』
「イワン」は《考えまい》としてみましたが、それも役に立ちませんでした。
何よりも特に、この憂鬱がなにか偶発的な、まったく外的な様子を呈していることが、いっそう腹立たしく、いらいらさせられました。
それは感じとれました。
どこかに何か人なり物なりがにゅっと突き立っていて、ときには何かが目の前に突き出ているみたいな感じなのに、仕事中だったり、話に熱中していたりして、永いこと気づかずにいるのだが、実際には明らかにいらいらさせられ、ほとんど苦しめられているにひとしく、そのうちやっと無用の品物を、それもたいていの場合、どんでもないところに置き忘れていた物とか、床に落ちたハンカチとか、書棚にしまわずにいた本などという、実に他愛のないこっけいな品物を取り除くことに思い当る、といったあの気持でした。
長々と「ある気持」をあらわすために書かれているのですが、実に複雑な心理状態でfおもしろい表現ですね。
Aという事実によって、それを正確に認識しているのではないが、その影響でBという心情になり、そのBという心情によって、Dを想起するということです。
ようやく「イワン」は、この上なくうとましい苛立たしい気分で父の家にたどりつきましたが、木戸から約十五、六歩手前でふと門を見るなり、とたんに自分を苦しめ不安にさせていたものが何であったか、思い当たりました。
「イワン」を襲った憂鬱の正体がわかったようですね。
「イワン」の憂鬱は、最初はその原因がはっきりしなかったのですが、明日の出立、人生の希望や期待や願望の具体的な形が見えないこと、父の家に対する嫌悪、「アリョーシャ」との別れと会話の内容の不満など複合的なものですが、今、別にその中心的な憂鬱の原因が見つかったのです。
それは何でしょうか?

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