2017年10月9日月曜日

557

「イワン」はちらと彼を眺めて、立ちどまりました。

つい一分前に望んでいたように、素通りしてしまわずに突然立ちどまってしまったことが、身ぶるいするほど癪にさわりました。

怒りと嫌悪をこめて彼は、「スメルジャコフ」の去勢されたような痩せた顔や、櫛で撫でつけた小鬢の毛や、小さくふくらませた前髪をにらみつけました。

わずかに細めに相手の左目がウィンクし、まるで『どうしました、素通りなさらないところをみると、われわれ利口な人間には、ゆっくり話し合うべきことがあるのがおわかりのようですね』とでも言いたげに、薄笑いをうかべました。

「イワン」は身をふるわせました。

『どけ、ろくでなしめ、俺はお前なんぞの仲間じゃない、ばか者!』

こんな啖呵がほとばしりかけましたが、われながらひどくおどろいたことに、口をついて出たのはまったく別の言葉でした。

「どうだ、親父(おやじ)さんは。眠ってるか、それもと目をさましたかい?」

自分でも思いがけなく、彼は低い声で神妙に言うと、これもまったく思いがけなく、ひょいとベンチに腰をおろしました。

一瞬、恐怖に近い気持をおぼえたのを、彼は後日思いだしました。

「イワン」はあれほど、憂鬱の原因になった「スメルジャコフ」に対して、気持と正反対の行動をとったわけですが、その気持のもっと奥には彼に対してそうせざるを得ないような何かがあったのだと思います。

心の中で思っていることと全く正反対の言葉を発し、行動をとったそういう自分自身に対して、恐怖を感じたのと同じように、「イワン」は自分の心の奥にある感情の存在に関しても恐怖を感じたのかもしれません。

それはさておき、このことを「イワン」は後になって思い出したと書かれていますが、そちらの方が興味深く思います。

ずっと先の(957)で「おい、俺は我慢してきいてやってるんだぞ! いいか、悪党、かりに俺があのときだれかを当てにしていたとすれば、もちろんそれはドミートリイじゃなく、お前だよ。誓ってもいいが、お前が何か汚ない真似をしそうな予感さえしたんだ・・・・あのとき・・・・俺はその印象をおぼえている!」の部分でしょうか。

「スメルジャコフ」は両手を背にまわして、真正面に立ち、きびしいと言っていいくらい自信たっぷりに見つめていました。

「まだお寝(やす)みになっておられます」

ゆっくりと彼は答えました。

(『最初に口を切ったのはそちらでわたしじゃありませんよ』と言わんばかりでした)。

「あなたにはほとほとおどろきますよ、若旦那」

しばしの沈黙のあと、彼はなにやらもったいぶった様子で目を伏せ、右足を前に出して、エナメル靴の爪先をおどらせながら、付け加えました。

「どうしておどろくんだ?」

「イワン」は必死に自分を抑えながら、険しい口調でぶっきらほうに言いましたが、ふいに、自分が強い好奇心をおばえており、それを満足させぬうちは決してここから立ち去らぬにちがいないことを、嫌悪とともにさとりました。

「なぜ、チェルマーシニャへ行こうとなさらないんです?」

突然「スメルジャコフ」が目をあげ、狎れなれしげに微笑しました。

『賢いお方なら、なぜわたしが笑ったか、ご自分でわかるはずですよ』

細めた左目がこう語っているかのようでした。

「なぜ俺がチェルマーシニャへ行くんだい?」

「イワン」はびっくりしました。

「スメルジャコフ」はまた沈黙しました。

「大旦那さまさえ、ご自分からそう頼んでらしたじゃございませんか」

そのうちやっと、あわてる様子もなく彼は言いましたが、自分でもそんな返事には意味を認めていないらしく、『何か言わなきゃならないから、適当な理由で逃げときまさあ』と言わんばかりでした。

「えい、畜生、もっとはっきり言ったらどうだ、いったい何の用なんだ?」

ついに「イワン」は穏やかな口調から荒っぽい調子に変りながら、腹立たしげに叫びました。

「スメルジャコフ」は右足を左足につけて、身をまっすぐに起しましたが、相変わらず落ちつきはらって例の微笑をうかべながら、眺めつづけていました。


「べつにこれといった用事はございませんが・・・・ただ、お話のついでに・・・・」


0 件のコメント:

コメントを投稿