2017年11月10日金曜日

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(B)ゾシマ長老の人生における聖書

そのあと、わたしは母と二人きりになった。

間もなく親切な知人たちが母に、今やお宅に残されたのは息子さん一人になったし、お宅は貧乏なわけではなく、資産もあるのだから、どうして世間の例にならってペテルブルグへ勉強に出してやろうとしないのか、こんなところに置いておけば、出世するかもしれぬ息子さんの一生を台なしにしてしまう、と忠告してくれた。

そして母に、ゆくゆくは近衛師団に入れるようペテルブルグの士官学校にわたしを入学させたら、と知恵をつけたのである。

母は残された最後の息子をどうして手放せようかと、永いこと迷っていたが、やはり、さんざ涙を流しはしたものの、わたしの幸福に役立つならと考えて、決心した。

母はわたしをペテルブルグへ連れてゆき、学校に入れてくれたけれど、それ以来わたしはまったく母に会うことができなかった。

というのは、三年後に母が世を去ったからだ。

その三年の間、母はわれわれ二人の息子を思って嘆き悲しみつづけていたという。

わたしが親の家から持って出たものは、尊い思い出だけだった。

なぜなら人間にとって、親の家ですごした幼年時代の思い出はど尊いものはないからだ。

家庭内にたとえほんの少しでも愛と結びつきかありさえすれば、ほとんど常にそうだと言ってよい。

どんなにひどい家庭でも、こちらの心が尊いものを求める力さえあるなら、尊い思い出がそっくり残ることはありうるのだ。

この「アリョーシャ」の文章はまだまだ続きますが一旦切ります。

「ゾシマ長老」の生い立ちが書かれていますが、兄との別れ、母との別れはかわいそうですね。

ここで書かれている「ゾシマ長老」の言葉、「人間にとって、親の家ですごした幼年時代の思い出はど尊いものはない」は、なかなか自分では実感できませんでしたが、それは「こちらの心が尊いものを求める力」がなかったからだと思いますし、なるほどと新鮮な気持ちで読むことができました。

ペテルブルグ、つまりサンクトペテルブルグについてネットで調べてみました。

「都市の名は、『聖ペテロの町』を意味します。聖ペテロとは十二使徒の一人ですが、英語読みすればピーター、ドイツ語読みでぺーテル、ロシア語読みだとピョートル。つまり、ピョートル大帝にちなんだ名称です。なお、ブルグ-burgとは、ドイツ語で「城壁都市」を意味し、ドイツやオーストリアの都市によく見られます。(ブランデンブルグ、ハンブルグ、ハイデルブルグ、ザルツブルグなど。)ピョートル大帝(在位1682-1725)は、ロシアの近代化、西欧化に努めたロマノフ朝最盛期の皇帝です。対外的にはスウェーデンを破って北欧方面の支配権を確立しますが、バルト海への拠点としてフィンランド湾に面した寒村に新しい都市を建設しました。ご多分に漏れず、その建設作業は過酷を極め、多くの人命が犠牲になったと言われています。都市が完成し、新しいロシア帝国の首都とされたのが1703年というわけです。西欧かぶれのピョートルのことですから、都の名前にダサいロシア語なんか使いません。正式名称はかっこよくドイツ語風に「ペテルブルグ」としたのです。ところで、サンクトペテルブルグもまた歴史の流れとともに、その名称を変えてきた都市です。20世紀を迎え、ペテルブルグを中心に栄華を極めてきたロマノフ朝もその命運が尽きようとしていました。1914年、ロシアはバルカン半島をめぐる対立からドイツと戦争を始めました。ピョートルが愛したドイツも今や敵国です。首都の名前が「ペテルブルグ」じゃいくら何でもまずいというので、戦争開始直後にロシア語風に名称変更されました。「ペテル」が「ペトロ」に、「ブルグ」は「グラード」に、つまりペトログラードPetrogradとなったのです。さて、ロシアとドイツの戦争は瞬く間にヨーロッパの国々を巻き込み、第一次世界大戦の幕開けとなるわけですが、一方でこの戦争はロマノフ朝の終幕を招くことになります。戦争による窮乏に業を煮やした首都ペトログラードの労働者たちが、1917年3月、大規模な暴動を起こしました。これをきっかけにロマノフ朝は倒れ、ロシアは史上初の社会主義国となっていくのです(ロシア革命)。その立役者は、レーニンという男でした。1924年、レーニンが死去すると、その5日後には、ペトログラードは彼の名をとって「レニングラードLeningrad」と改称されました。すでに、1918年に首都はペトログラードからモスクワに移されていましたが、これ以後、レニングラードは、世界的に有名なバレエやオーケストラの本拠地として、ソ連における文化の中心的な位置を占めるようになります。伝統ある名前を変えられたのは、「ペテルブルグ」だけではありません。ソビエト政権は、かつての帝政時代の名残を払拭するべく、多くの都市の名前を変えていきました。たとえば、エカチェリーナ1世にちなんだエカテリンブルグYekaterinburgは、1924年、共産党幹部の名をとってスベルドロフスクに、啓蒙専制君主として知られるエカチェリーナ2世にちなむエカテリノダールEkaterinodar(エカチェリーナの贈り物の意)はクラスノダールKrasnodar(赤=革命の贈り物)と変えられました。また、"雷帝"イヴァン4世が建設し、ツァリツィン(皇后の都市)と名付けた町は、1925年、レーニンに代わってスターリンが実権を握ると、スターリングラードStalingradと改称されたのです。スターリンが自分の名前をつけた地名は100か所以上あったそうですが、スターリンの死後、フルシチョフによるスターリン批判に伴い、すべて再改名されています。元ツァリツィンのスターリングラードは、1961年、ボルゴグラードと改称されました。1991年、ソ連邦が崩壊すると、社会主義時代に改名した都市名の旧称復活が行われ、レニングラードはもとのサンクトペテルブルグに戻されることになりました。しかし、「レニングラードバレエ団」は、固有名詞としてあまりにも定着したためか、いまだに旧都市名を名乗っているようです。ところで、第二次世界大戦中、ソ連に侵攻したヒトラーは、首都モスクワは早々にあきらめたものの、レニングラードの占領にはこだわり続けました。ヒトラーにとっては、この町はあくまでも「ペテルブルク」であり、決して「レニングラード」とは呼ばなかったそうです。憎むべき社会主義革命の発祥の地であり、しかも革命の指導者レーニンの名前をもつこの都市を地上から抹殺することが、ヒトラーにとって世界制覇への大きな一歩となるものだったのです。そのこだわりは、約2年半にもわたるレニングラード包囲に如実に表れていると言えます。市民の徹底抗戦により、陥落は失敗しますが、この間の犠牲者は数十万人にものぼると言われています。そんな悲惨な歴史も見つめてきたサンクトペテルブルグ。今やロシアの一大観光地となっています。市内の歴史地区は世界遺産(サンクトペテルブルグ歴史地区と関連建造物群)に登録されており、エルミタージュ美術館、アレクサンドル・ネフスキー修道院など、多くの観光客でにぎわっています。」

ペテルブルグの地名だけでこの記事はすばらしいですね。

大変興味深く読まさせていただきました。

この小説の舞台は、スターラヤルッサですが、そこからペテルブルグまではどのくらいかかるのでしょうか、(565)で「スターラヤ・ルッサとノヴゴロドはイリメニ湖を挟んだ対岸どおしで直線距離で約100km離れています」と書きましたが、地図で見るとその延長線上のさらに北にペテルブルグあります。


ちなみにGoogleマップで調べてみますと、277kmで徒歩で56時間、交通機関を利用すると6時間45分でした。


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