ウズの地に、心正しく、神を恐れるヨブという人がいた(訳注 ヨブ記第一章)。
その人にはおびただしい富があり、何千頭ものラクダや、何千頭もの羊と驢馬を持ち、子供たちも楽しくすごしていた。
彼は子供たちを非常に愛し、子供たちのために神に祈っていた。
ことによると、楽しんでいるうちに、子供たちも罪を犯しているかもしれないと思ったからである。
あるとき、サタンが神の子らといっしょに神の前にあらわれ、地の上、地の下をくまなく行きめぐってきたことを告げた。
「わたしのしもべヨブを見たか?」と神がたずねられた。
そして神は、偉大な神聖なしもべヨブをさし示して、悪魔に自慢なさった。
サタンは神の言葉をきいてせせら笑った。
「あの男をわたしに預けてごらんなさい、あなたのしもべが不平を言い、あなたの御名を呪うところをごらんに入れましょう」
そこで神はお気に入りの、敬虔なしもべをサタンに預けた。
サタンは彼の子供たちや、家畜を打ち殺し、さも神の嵐が荒れたかのように、彼の全財産をふいに四散させてしまった。
するとヨブは上着を引き裂き、地にひれ伏して、叫んだ。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸で大地に帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の御名はとこしえに讃むべきかな!」
神父諸師よ、今のわたしの涙を赦してください。
それというのも、幼年時代のことがすべて眼前にふたたびよみがえる心地がして、あのころ八歳の少年の胸が呼吸した息吹きを今もそのまま息づき、あのときと同じようにおどろきと、困惑と、喜びとを感ずるからである。
あのときわたしの頭をいっぱいにしたのはラクダであり、神にあんな口をきいたサタンであり、自己のしもべを破滅に追いやった神であり、そして「主がわたしを罰しようと、主の御名は讃むべきかな」と叫んだしもべであった。
さらにまた、会堂にひびき渡る「わが祈り、叶わんことを」という静かな快い歌声であり、またしても司祭の香炉から立ちのぼる香の煙と、ひざまずいての祈りであった!
それ以来わたしはこの聖なる物語を涙なしに読むことができないし、つい昨日も手にとってみたばかりだ。
それにしてもこの本には、どれだけ多くの偉大な、神秘な、想像しがたいものが含まれていることだろう!
その後わたしは、嘲笑や非難をする人々の言葉を、思い上がった言葉をきくことがあった。
いかに神とはいえ、自分の聖者たちのうち最愛の者を慰みものとしてサタンに与え、子供たちを奪い、聖者自身をも病気や腫物で苦しめて、陶器の破片で傷口から膿をかきださせるようなことが、よくもできたものだ、それもただサタンに対して「どうだ、わたしの聖者はわたしのためになら、あんなことまで我慢できるのだぞ!」と自慢したい一心からなのだ、と彼らは言う。
しかし、そこに神秘があり、移ろいゆく地上の顔と永遠の真理とかここで一つに結ばれる点にこそ、偉大なものが存するのである。
地上の真実の前で永遠の真実の行為が行われるのだ。
そこでは造物主が、天地創造の最初の日々に、毎日「わが創りしものはよし」と讃めたたえながら、仕上げをしていったときのように、ヨブを見つめ、あらためて自分の創造を誇りに思う。
また、ヨブは、主を讃えることによって、単に主に仕えるだけではなく、子々孫々、末代まで、主のあらゆる創造物に仕えることになるのだ、なぜならそれが彼の使命だからである。
ここで一旦切ります。
「ヨブ記」の内容については、「ゾシマ長老」が死の床で、神父たちに読み上げたとは考えにくいので、これは「アリョーシャ」が付け加えたのかもしれません。
重要なのは、「ゾシマ長老」が死ぬ寸前まで、「ヨブ記」を手にしていたということです。
それだけ「ヨブ記」の内容は奥深いものがあるということです。
自分の信ずる神にひどい仕打ちを受けながらも変わることのないヨブの心という、この一見どうなのかと疑問をいだきたくなるような内容ながら、「しかし、そこに神秘があり、移ろいゆく地上の顔と永遠の真理とかここで一つに結ばれる点にこそ、偉大なものが存するのである。地上の真実の前で永遠の真実の行為が行われるのだ。」というのです。
ここで、「地上の真実」と「永遠の真実」ということが対比され、それが「一つに結ばれる点にこそ、偉大なものが存する」とのことですが、深すぎてわたしにはわかりません。

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