医者が来ると(エイゼンシュミットというドイツ人の医者が往診に通ってきていた)、兄は「どうですか、先生、あと一日くらいは生きていられそうですか?」などと、よく冗談を言った。
「一日と言わず、何日も生きられますとも。この先何ヶ月も、何年も生きられますよ」と医者が答える。
「どうして何年だの、何ヶ月だのが必要なんです!」と兄が叫ぶ。
「いまさら日数なんぞ数えて何になりますか。人間が幸福を知りつくすには、一日あれば十分ですよ。ねえ、どうして僕らは喧嘩したり、自慢し合ったり、お互いに恨みをいだき合ったりしているんでしょう。このまますぐに庭に出て、散歩したり、はしゃいだり、愛し合ったり、ほめ合ったり、キスしたりして、われわれの人生を祝福しようじゃありませんか」
「坊ちゃんはもうこの世に暮していないも同じですよ」
母が表階段まで送りに出ると、医者はこう言った。
「病気のために精神が錯乱しているのです」
兄の部屋の窓は庭に面しており、庭には古い木々が仄暗いかげを作っていたが、木々には春の若芽が萌え出て、早くも渡ってきた小鳥たちがさえずり、兄の窓に向かって歌っていた。
そして兄は突然、この小鳥たちを眺め、見とれながら、小鳥たちにまで赦しを乞うようになった。
「神の小鳥よ、喜びの小鳥よ、僕を赦しておくれ。お前たちに対しても僕は罪を犯していたんだから」
こうなると、そのころのわれわれには、もはやだれ一人として理解できなかったが、兄は喜びのあまり泣いているのだ。
「そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の栄光があふれていたのに、僕だけが恥辱の中で暮し、一人であらゆるものを汚し、美にも栄光にもまったく気づかずにいたのだ」
「お前はあんまりたくさんの罪をわが身にかぶりすぎているわ」
母はよく泣きながら言ったものだ。
「お母さん、僕が泣いているのは楽しいからで、悲しみのためじゃありませんよ。僕はみずからすすんで、みなに対して罪深い人間でありたいと望んでいるんです。ただ、うまく説明できないだけですよ。だって僕はそういう美や栄光をどうやって愛したらいいのか、わからないんですもの。僕はあらゆるものに対して罪深い人間でいいんだ、その代りみんなが僕を赦してくれますからね。これこそ楽園じゃありませんか。はたして僕が今いるところは、楽園じゃないでしょうか?」
十七歳の「マイケル」は死の恐怖を前に錯乱したのでしょうか、それとも宗教に目覚めたのでしょうか、このような若さで死と向き合うということはどういうことでしょうか、その壮絶な精神の葛藤は経験したものにしかわからないのかもしれません。

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