三 ゾシマ長老の法話と説教から
(E)ロシアの修道僧と、考えられうるその意義について数言
小見出しが現れましたが、これはまだ、「アリョーシャ」が書いた「ゾシマ長老」の記録の途中です。
(583)で書いた「今は、説話の細部まですべて述べることをせず、むしろ「アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ」の原稿にもとづく長老の物語だけに限ることを、断わっておきます。くりかえして言いますが、もちろん大部分は「アリョーシャ」がこれまでのいろいろな説話からも選んで、一つにまとめたものであるとはいえ、このほうが簡潔ですし、それにさほど退屈でもないでしょう。」ということです。
しかし、ここまで長いと何かわかりにくいですね。
とにかくあとしばらく続けます。
神父諸師よ、修道僧とはいったい何であろうか?
現代の文明社会において、この言葉はすでに嘲笑とともに口にされ、またときには罵言として用いられている。
そして、日を追うごとに、ますますその感が強い。
なるほど、たしかに修道僧の中にも怠け者や、淫乱な人間、好色漢、恥知らずな浮浪者などが大勢いる。
それらをさして俗世の教養ある人々は言う。
「お前らは怠け者で、社会の無益な屑だ。お前たちは他人の労働で生きているのだ、恥知らずな乞食め」
だが実際のところ、修道僧には、孤独を渇望し、静寂の中での熱烈な祈りを望んでいる謙虚で柔和な人がきわめて多いのである。
そうした人たちのことを世間はあまりさし示そうとせず、まったくの沈黙で逃げようとさえしている。
だから、もしわたしが、孤独な祈りを渇望しているこれらの柔和な人々から、ことによると、ふたたびロシアの大地の救いが出現するかもしれない、などと言えば、世人はさぞおどろくことだろう。
本当にこれらの人々は静寂の中で《その日その時のために》修行を積んでいるのである。
彼らは今のところ孤独の中で、いにしえの神父や使徒や殉教者から受けついだキリストの御姿を、神の真理の純粋さのまま、ゆがめることなく壮麗に保ちつづけ、やがて必要な時がくれば、俗世のゆらいだ真理の前にそれを現わすことだろう。
この思想は偉大である。
この星はやがて東の空から輝くことであろう。
わたしは修道僧についてこのように考えるのだが、はたしてこれは誤りだろうか、傲慢であろうか?
俗世の人々のもとで、いや、神の民を傲然と支配している世界全体で、神の御姿と真理とがゆがめられていないかどうか、よく見るがよい。
彼らには科学があるが、科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。
人間の存在の高尚な半面である精神の世界はまったく斥けられ、一種の勝利感や憎しみさえこめて追い払われているではないか。
世界は自由を宣言し、最近は特にそれがいちじるしいが、彼らのその自由とやらの内にわれわれが見いだすものは何か。
ただ、隷属と自殺だけではないか!
ここでいう「隷属と自殺」とは何でしょう。
ある特定の思想信条の下に自らの意思でその言いなりとなることだと思います。
なぜなら俗世は言う。
「君らはさまざまな欲求を持っているのだから、それを充たすがよい。なぜなら君らも、高貴な裕福な人たちと同等の権利を持っているからだ。欲求を充たすことを恐れるな、むしろそれを増大させるがよい」-これが俗世の現代の教えである。
この中に彼らは自由を見いだしているのだ。
だが、欲求増大のこんな権利から、どんな結果が生ずるだろうか?
富める者にあっては孤独(二字の上に傍点)と精神的自殺、貧しい者には妬みと殺人にほかならない。
それもいうのも、権利は与えられたものの、欲求を充たす手段はまだ示されていないからだ。
距離が短縮され、思想が大気を通って伝えられることによって、世界は、時がたつにつれ、ますます団結し、兄弟愛の交流は結ばれてゆく、と彼らは力説する。
ああ、このような人類の団結を信じてはならない。
彼らは自由を、欲求の増大や急速な充足と解することにより、自己の本性をゆがめているのだ。
なぜなら、彼らは自己の内に、数多くの無意味で愚劣な欲望や習慣や、愚にもつかぬ思いつきを生みだしているからである。
ここで切ります。
ここでは、修道僧の存在意義の確認と、現代の物質文明と唯物論への批判が語られています。

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