2017年12月11日月曜日

620

人々はもっぱらお互い同士の羨望と、色欲と、尊大さのためにだけ生きている。

パーティや、社交界への出入りや、馬車や、官位や、奴隷の下僕などを持つことが、もはや絶対の必要事と見なされ、その必要を充たすためなら、生命や名誉や人間愛さえ犠牲にし、万一それを充たすことができなければ、自殺さえやってのけるのだ。

ということは(619)の「自殺」は比喩的な表現ではなかったのすね。

一言で言えば、お金が神になったのですね。

裕福でない人々の間にも、まったく同じことが見られるし、貧しい人々にあっては、欲求不満と羨望とがさしあたり飲酒でまぎらわされている。

だが、ほどなく、酒の代りに彼らは血に酔いしれることだろう、彼らの導かれてゆく先はそこなのだ。

この「血」は比喩的な表現だと思いますが、殺し合いとか暴力とか戦争とかでしょうか。

わたしはみなさんにうかがいたい-こんな人間がはたして自由なのだろうか?

わたしはさる《思想のための闘士》を知っているが、その闘士がみずから話してくれたところによると、刑務所で煙草が吸えなくなったとき、あまりの苦しさに、わずかばかりの煙草をもらいたい一心から、もう少しで自分の《思想》を裏切りそうになったという。

こんな人物が「人類のために戦うぞ」などと言っているのだ。

こんな人物がどこへおもむき、何をやれるというのだろう?

おざなりの行為ならともかく、永く堪えぬくことはできまい。

だから、彼らが自由の代りに隷属におちこみ、兄弟愛と人類の団結に対する奉仕の代りに、むしろ反対に、わたしの青年時代の師である神秘的な客が言ったように、離反(二字の上に傍点)と孤独におちこんだのも、ふしぎではない。

だからこそ、俗世では人類への奉仕とか、兄弟愛とか、人類の統一とかいう思想がますます消え薄れ、実際にこの思想がもはや嘲笑とともに迎えられてさえいるのだ。

なにしろ、この隷属が、みずから考えだした数知れぬ欲求を充たすことにこれほど慣れてしまった以上、どうやってその習慣から脱し、どこへ行こうというのであろうか?

孤独になった人間にとって、全体のことなぞ、何の関係があるだろう。

こうして得た結果と言えば、物を貯えれば貯えるほど、喜びはますます少なくなってゆくということなのだ。

これは、またまた共産主義の思想への批判ですね。


ここで切ります。


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