修道僧の道はまったく異なる。
贖罪のための勤労とか、精進とか、祈祷などは笑いものにさえされているが、実際はそれらの内にのみ、本当の、真の自由への道が存するのである。
余分な不必要な欲求を切りすて、うぬぼれた傲慢な自己の意志を贖罪の労役によって鞭打ち鎮め、その結果、神の助けをかりて精神の自由を、さらにそれとともに精神的法悦を獲ち得るのだ!
孤独な富者と、物質や習慣の横暴から解放された者(六字の上に傍点)と、はたしてどちらが偉大な思想を称揚し、それに奉仕する力を持っているだろうか?
修道僧はその隠遁生活のために非難される。
「お前は修道院の壁の中でおのれを救うために隠遁なぞして、人類の兄弟愛的な奉仕を忘れたのだ」
だが、いったいどちらが兄弟愛にいっそう努力しているか、もう少し様子を見ようではないか。
なぜなら、孤独が生れるのは、われわれのところではなく、彼らのほうであり、それに気づかぬだけだからだ。
われわれの間からは昔から民衆の指導者が輩出してきた。
今日もそうした人物がありえないはずはあるまい。
精進と無言の行にはげむ同じその謙虚で柔和な修道僧たちが、やがて立ちあがり、偉大な仕事におもむくことだろう。
ロシアの救いは民衆にかかっている。
ロシアの修道院は昔から民衆とともにあった。
民衆が孤独であれば、われわれもまた孤独である。
民衆はわれわれの流儀で神を信じているのであり、神を信じぬ指導者はたとえ心が誠実で、知力が卓抜であろうと、わがロシアでは何一つできるはずがない。
このことをおぼえておくがよい。
民衆は無神論者を迎えてこれを倒し、やがて統一された正教のロシアが生れることだろう。
民衆を大切にし、民衆の心を守らねばならない。
静寂の中で民衆をはぐくみ育てることだ。
これこそ、あなた方修道僧の偉大な仕事である。
なぜなら、この民衆は神の体現者にほかならないからだ。
ここで切ります。
「ゾシマ長老」は西洋から入ってくる新しい文明や思想に対してかなりの危機感を持っており、それらを激しく批判することによって修道院の存在意義を確認し、修道僧の立場を守ろうとしています。
勢いを増してきている共産主義は民衆の中に広がってゆき、宗教を徹底的に批判して潰そうとしているのですから。

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