2017年12月13日水曜日

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(F)主人と召使について。主人と召使は精神的に互いに兄弟となりうるか

このタイトルの内容こそ、現在では違和感を感じるのですが、当時としては封建制はまだ残っており、人々の意識の底にも召使に対する差別意識として残っていたのでしょう。

「ゾシマ長老」のこれまでの発言の中にも、これからの記述される中にもそのようなものが見受けられます。

では、続けましょう。

嘆かわしいことに、一部で言われるとおり、民衆の間にも罪がある。

また、堕落の炎は目に見えて刻々と燃えさかり、上から下へひろがってゆく。

民衆の間にも孤独化が生じ、富農や搾取者が現れはじめた。

すでに商人はますます尊敬を求めるようになり、教養などまったく持たぬくせに、教養ある人間に見せようと努め、そのために破廉恥にも昔からの慣習をないがしろにし、父祖の信仰さえ恥じる始末だ。

得々として公爵家などに出入りしてはいるが、しょせんは根性の腐った百姓にすぎない。

民衆は飲酒のために化膿しはじめ、もはや酒から離れることができない。

そして家族や、妻や、子供にさえ冷酷の限りをつくすが、すべては飲酒のせいである。

わたしは工場で十歳くらいの子供たちを見たことがある。

弱々しく痩せこけて、背が曲り、もはや性的に乱れているのだ。

息苦しい建物、唸りひびく機械、終日の労働、卑猥な言葉、そして酒-まだ年端もゆかぬ子供の魂にこんなものが必要であろうか?

彼らに必要なのは太陽と、子供らしい遊び、いたるところで示される明るい手本、せめてほんの一滴なりと注がれる愛情なのである。

修道僧諸師よ、こんなことがなくなるよう、こんな児童虐待がなくなるよう、早く、一刻も早く立ちあがって、道を説いてもらいたい。

「児童虐待」は現代でも深刻な問題として存在します。

ただ、この頃と違って目に見えにくい「児童虐待」が増えています。

その原因はいろいろ言われていますが、第一には貧困の問題ではないかと思います。

「ゾシマ長老」は修道僧諸師に一刻も早く立ちあがって、道を説いてもらいたいと言っています。

だが、神はロシアを救いたもうだろう。

なぜなら、たとえ民衆が淫蕩に堕し、もはや自己の悪臭芬々たる罪業を棄てきれぬとしても、やはり悪臭芬々たる自分の罪業が神に呪われていることや、罪を作っている自分の振舞いがけしからぬことを、わきまえているからである。

それゆえ、わが国の民衆はまだ倦むことなく真理を信じ、神を認め、感動の涙を流すのだ。

だが、上流社会ではこうはゆかぬ。

上流社会の人々は科学に盲従して、もはやキリストに頼らず自分たちの知力だけで、かつてのように正しい体制を作ろうと望み、すでに、犯罪もないし罪悪もないと宣言したのだ。

彼らの考えからすれば、それも道理である。

なぜと言って、神がない以上、いかなる犯罪があるだろうか?

ヨーロッパでは民衆がもはや力をもって富者に立ち向い、民衆の指導者はいたるところで民衆を流血に導き、彼らの怒りが正当であることを教えている。

だが、『その怒りは、残酷なるがゆえに、呪われるべき』ものだ。

だが神は、すでにいくたびとなく救ってくださったように、ロシアを救いたもうだろう。

救いは民衆の中から、民衆の信仰と謙譲から現れるにちがいない。

神父諸師よ、民衆の信仰を大事になさるがよい、これは夢ではないのだ。

わたしは一生を通じて、わが国の偉大な民衆の内に存する真の美徳に感嘆してきた。

この目で見てきたのだから、証言することもできる。

この目で見ておどろいたのだ。

民衆の罪業の悪臭や、乞食のような姿にもかかわらず、わたしはそれに気づいた。

民衆は卑屈ではない、しかも二世紀にわたる奴隷制度のあとでもそうなのだ。

態度といい、様子といい、のびのびしているが、それでいていささかも無礼ではない。

執念深くもなければ、嫉妬深くもない。

『お前さんは身分も高いし、金持ちで、頭もいいし、才能もある。結構なことだ、神さまが祝福してくださいますように。わたしはお前さんを尊敬する、でも、こんなわたしもやはり人間であることを知っているんだ。妬みもせずにお前さんを尊敬することによって、わたしはお前さんに人間的な徳を示しているんだよ』

実際には、こんなことは言わぬにしても(なぜなら、まだこんな気のきいたことを言うすべを知らないのだ)、そんなふうに振舞っている(六字の上に傍点)のを、わたしはこの目て見たし、経験もしてきた。

そして本当の話、わがロシア人は、貧乏で地位が低くなればなるほど、ますますこの美しい真理が顕著になるのだ。

それもいうのも彼らのうちの富農や搾取者は、すでに大分部が堕落しきっているからだが、それとてわれわれの怠惰と不注意から生じた場合がきわめて多い!

ここで切ります。

「ゾシマ長老」は、上流社会はもう手遅れだが、民衆は堕落したとはいえまだ反省する心を持っているから大丈夫だと言っています。


彼はあくまでも民衆の中にある真の美徳、つまり昔からの神の力を信じています。


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