しかし、わたしが面会を望んでも、永いこと許されなかった。
いちばんの強敵は彼の妻だった。
「主人の心を乱したのはあなたです」と言うのだ。
「以前から暗い人でしたけれど、この一年というもの、だれもが主人の異様な興奮と奇妙な振舞いに気づいていたのです。そこへ、ちょうどあなたが現われて主人を滅ぼしたのですわ。あなたがさんざお説教をして主人を疲れさせてしまったんです、主人はまる一ヶ月もあなたのところに入りびたっていたんですもの」
それになんたることだろう、彼の妻だけではなく、町じゅうの者がみな、わたしを攻撃し、責めるのだった。
「何もかも、あなたのせいだ」と言うのである。
わたしは黙っていた。
それに心の中では喜んでいた。
なぜなら、自己に反逆して自己を罰した者に対する、疑う余地なき神の慈愛を見いだしたからだ。
ここでも、世間一般の判断や正義というのはどうでもいいことで、自分と神の真理だけが重要だということですね。
彼の精神錯乱をわたしは信ずることができなかった。
とうとう、わたしも面会を許された。
当の彼が、わたしに別れを告げたいと、執拗に要求したのだった。
入るなり、わたしはすぐに、彼がもはや数日どころか、数時間の生命であることを知った。
衰弱しきって、黄ばんだ顔をし、手がふるえ、息を切らせていたが、感動にみちた嬉しそうな目をしていた。
「ついにやりどげたよ!」
彼は言った。
「ずっと君に会いたくてならなかったよ、どうして来てくれなかったね?」
わたしは面会させてもらえなかったことを、彼に告げなかった。
なぜ、「ゾシマ長老」は理由を言わなかったのでしょうか、彼の妻に対する思いやりでしょうか。
「神さまがわたしを憐れんで、おそばによんでくださっている。もうすぐ死ぬ身であることはわかっているけれど、永い年月のあとではじめて喜びと安らぎを感じているんだ。せねばならぬことをやりとげただけで、いっぺんで心の中に楽園を感じたんだ。今ならもう子供を愛し、子供たちに接吻してやることだってできる。わたしの話は信じてもらえないんだ、妻も裁判官たちも、だれ一人信じてくれなかった。子供たちだって決して信じないだろう。この点にもわたしは子供たちに対する神の慈悲を見いだすのだ。わたしが死んでも、子供たちにとってわたしの名前は汚れぬままだろうからね。今やわたしは神を予感しているし、心はさながら楽園に遊んでいるみたいだよ・・・・務めをはたしたからね・・・・」
彼の意に反して、真実を周りの人たちに知ってもらうことはできなかったのですが、彼の心の中ではそれはあまり重要なことではなくて、神と自分との関係においての真実が一番重要なのですね。
つまり、まわりからどう思われたって、自分が納得すればいいということです。
彼はもう口がきけずに、息をあえがせ、熱っぽくわたしの手を握りしめて、燃える目で見つめていた。
だが、わたしたちが話したのは、しばらくの間だけで、彼の妻がのべつ様子をのぞきにくるのだった。
それでも、彼はすばやくわたしにささやいた。
「あの晩、真夜中にわたしが二度目に訪ねて行ったのを、おぼえているかい? そのうえ、おぼえておくように言っただろう? 何のためにわたしが行ったか、わかるかね? あれは君を殺しに行ったんだよ!」
わたしは思わずぎくりとした。
「あの晩、君のところから闇の中に出て、通りをさまよいながら、わたしは自分自身と戦っていた。そしてふいに、心が堪えていられぬほど、君が憎くなったんだ。『今やあの男だけが俺を束縛している。俺の裁判官なんだ。俺はもう明日の刑罰を避けることができない。だって、あの男が何もかも知っているからな』君が密告するのを恐れたわけじゃなく(そんなことは考えもしなかった)、こう思ったのだ。『もし自首しなければ、どうしてあの男の顔を見られるだろう?』たとえ君が遠く離れたところにいようと、生きているかぎり、しょせん同じことだ。君が生きており、何もかも知っていて、わたしを裁いている、という考え堪えられないからね。まるで君がすべての原因であり、すべてに罪があるうように、わたしは君を憎んだ。そこでわたしは君のところへ引き返したんだよ。テーブルの上に短剣があったのを、今でもおぼえているよ。わたしは坐り、君にも坐るよう頼んで、まる一分というもの考えつづけた。もし君を殺せば、たとえ以前の犯罪を自白せぬとしても、どのみちその殺人のために身を滅ぼしたにちがいない。でも、あの瞬間、そんなことは全然考えなかったし、考えたくもなかった。わたしはただ君を憎み、すべての復讐を精いっぱい君にしてやりたかっただけなんだ。だけど、神さまがわたしの心の中の悪魔に打ち克ってくださった。それにしても、いいかい、今まで君はあれほど死に近づいたことはなかったんだよ」
ここで切ります。
しかし、「あれは君を殺しに行ったんだよ」というのは驚きました。
それではなぜ殺さなかったのでしょうか。
その部分は次のようものでした。
「椅子に坐った。わたしは彼のわきに立っていた。『あなたも坐りませんか』と彼が言うので、わたしは腰をおろした。二分ほどそのまま坐っていた。彼は食い入るようにわたしを見つめ、ふいに皮肉な笑いをうかべた。わたしはそれをよくおぼえている。そのあと、立ちあがって、固くわたしを抱きしめ、接吻した・・・・『おぼえておいてくれたまえ』彼は言った。『君のところへ二度も来たってことをね。いいかい、おぼえておいてくれたまえ!』はじめてわたしに、君(一字の上に傍点)という言葉を使ったのである。そして出て行った。」
つまりこの文章の中にある二分間の沈黙の中で神と悪魔の格闘をし神が勝ったのですね。

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