そして、この正義が、事態の推移そのものによって、「アリョーシャ」の期待の中で、熱愛するかつての師の遺体からただちに予期しうる奇蹟という形をとったとしても、むりはないだろう?
やはりわかりずらいところですが、正義の集約が奇蹟ということですが、「事態の推移そのものによって」が曖昧なように思います。
なにしろ、修道院のだれしもが、たとえばほかならぬ「パイーシイ神父」のように、「アリョーシャ」が敬服する知性の持主でさえ、そう考え、期待していたのであり、だからこそ「アリョーシャ」はまったく疑惑に心を騒がせることもなく自分の夢に、だれもが装わせているのと同じ形をとらせたのでした。
ここでわかったのですが、先ほどの「事態の推移そのものによって」というのは、腐臭をめぐっての修道僧たちの力関係の推移ということですね。
それにまた、まる一年間の修道院生活によって、もうずっと以前から彼の心の中ではそんな形ができあがっていたし、彼の心もそう期待するのがすでに習慣になっていました。
しかし彼が渇望していたのは、正義、あくまでも正義であって、単に奇蹟だけではなかった!
ところが、彼の期待では全世界のだれよりも当然高くたたえられるべき、ほかならぬその人が、ふさわしい栄光の代りに、突然おとしめられ、恥ずかしめられたのである!
何のために?
だれが裁いたのか!
だれがそんな判断を下しうるのか-これが彼の世間ずれしていない無垢な心を苦しめた疑問でした。
行い正しき人の中でももっとも正しい人が、はるか下に位する軽薄な群衆のあんな嘲笑的な、悪意にみちた愚弄にさらされたことを、彼は侮辱と、内心の憤りなしには堪えられませんでした。
ここまでくるとだいぶんわかってきました、「ゾシマ長老」の「正義」、この「正義」というのは説明がありませんが、秩序とか正論とか善悪とかのことだと思います。
「アリョーシャ」が感じたのは、その「正義」を群衆が批判した現象に対する戸惑いと群衆への疑問と憤りですね。
たとえ、奇蹟が全然なくともかまわない、奇蹟的なことが何一つ起らなくとも、期待していたことがただちに実現しなくともかまわない、だが、いったいなぜあんな不名誉なことが現われ、なぜあんな恥辱がそのままにされたのか、敵意を持つ修道僧たちの言葉を借りれば、《自然に先んじて》、なぜあんなに早く腐敗が生じたのだろう?
「アリョーシャ」も普通より腐敗が早いと思っているようですが、これも周りの意見に惑わされているからそう思うのでしょう。
彼らが今「フェラポント神父」といっしょになって得意げに持ちだしている、あの《教示》は、なぜ生じたのか、そしてなぜ彼らは、そんな言葉を持ちだす権利さえ得たと信じているのだろう?
神は、神の御手はどこにあるのか?
何のために神は《最も必要な瞬間に》(とアリョーシャは思った)御手を隠し、どうして盲目で物言わぬ無慈悲な自然の法則にみずからを従わせる気になったのだろうか?
「アリョーシャ」の心が血を流したのはそのためであるし、すでに述べたとおり、その場合に何よりもまず目の前に立ちはだかっていたのは、もちろん、世界でいちばん敬愛する顔であって、しかもその顔が《恥ずかしめられ》、《泥を塗られ》たのである!
ここで「顔」という言葉の説明が出てきますが、これは単に「顔を汚された」とか「顔に泥を塗れれた」とか言う場合の「顔」のことみたいです。
青年のこの不平が軽率であり、無分別であるというなら、それでもかまわないが、三たびくりかえして言うと(これも軽率かもしれぬが、その意見にはあらかじめ同意しておく)、わが青年がこうした瞬間にあまり分別くさくなかったことを、わたしは喜んでいるのです。
なぜなら、愚かでない人間ならば必ず分別のうかぶ時が訪れるものだが、もしこのような特別の瞬間に、青年の心に愛が現れぬとしたら、現れるべき時はほかにないからです。
ここで使われている「愛」とは何でしょうか、それは「実際的な愛」のことであって、その瞬間瞬間に現れるべき種類のものだと思いますし、私もこの意見には全く賛同します。
分別よりもその瞬間の「実際的な愛」が一番大事なことだと思います。

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