2018年1月9日火曜日

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実のところ、わたしは今、主人公のために釈明や弁解や弁護をするつもりはないと言明はしたものの(ことによると、あまり性急すぎたかもしれないが)、それでもやはり、この物語のこれからの理解のためにある程度の説明が必要であることは、わかっています。

括弧書きがよく使われているのですが、原稿ではどのようになっているのでしょうか、あとから気がついて原稿用紙に空いたところに書かれているのか、それとも最初から意図的に括弧書きを予定していたのか、元の原稿を見て見たいものです。

ここでは、語り手の「わたし」が「これからの理解のためにある程度の説明が必要である」ことがわかっているとわざわざ言っているのですから、これからの「アリョーシャ」についての言及は十分注意する必要があると思われます。

わたしの言いたいのは、この場合、問題は奇蹟ではないということです。

彼の心にあったのは、性急という意味で不謹慎な奇蹟の待望ではありません。

それに、そのとき「アリョーシャ」が奇蹟を必要としたのは、なんらかの信念の勝利のためでもなければ(これはもう全然違う)、他の思想に対して早く勝利をおさめるにちがいないような、それまでの先入観的な思想のためでもありませんでした。

ここは私としては実にわかりにくいです。

積極、「アリョーシャ」は奇蹟を望んでいたのですよね。

その奇蹟というのは、迷信としての奇蹟でもなく、自分の中の信念の証明でもなく、いろいろと存在している思想の中での勝利でもないということでしょうか、ではどのような奇蹟でしょうか。

そう、それはまったく違います。

この問題全体を通じて、なによりもまず、第一の場所を占めて彼の前に立ちはだかっていたのは、一つの顔、つまり敬愛する長老の顔、熱愛に近いほど敬っていた正しき人の顔だけでした。

顔?、どういう意味でしょうか、たぶん抽象的な表現としての顔でしょうが。

まさに問題はここにあります。

つまり、彼の若い純粋な心に秘められていた《すべての人あらゆるもの》への愛が、この当時と、これに先立つまる一年間、時には全面的に、そしてことによると変則的にすら思えるほど、もっぱらただ一人の人間に、少なくとも強い心の衝動にかられたときには、今は亡き最愛の長老に注がれてきたのでした。

たしかに、この存在が議論の余地ない理念としてきわめて永い間彼の前に立ちはだかってきたため、もはや青春のすべての力、あらゆる志向がもっぱらこの理念に向けられざるをえなかったのだし、時によると《すべての人あらゆるもの》を忘れるほどにさえなっていたのです(のちに彼自身が思いだしたことだが、この苦しい一日、前の日にあれほど心配して悩んだ兄ドミートリイのことなど忘れていたし、やはり前の日にあれほど熱心に実行するつもりでいた、イリューシャの父親に二百ルーブルを届けることも忘れていた)。

しかし、ここでもやはり、彼に必要だったのは奇蹟ではなく、《至高の正義》だけであり、彼の信仰によればそれが砕かれたからこそ、そのことによって心がこれほどむざんに突然傷つけられたのでした。

ここで突然《正義》という概念が持ち上がってきますが、非常にわかりずらいです。

作者は、ここで「アリョーシャ」の急激な心変わりがあり、そこのところがあとあとの物語の展開に重要になってくるので説明しましょうと言っているのですが、その説明がわかりずらいのです。


つまり今まで「アリョーシャ」は全身全霊でもって「ゾシマ長老」を敬愛していましたが、亡くなると同時に動揺し不安になるということは、彼が信仰全体に帰依していたのではなく「ゾシマ長老」という個人に帰依していたということ、それは信仰の「顔」としての「ゾシマ長老」であり、「ゾシマ長老」を中心に構築された強固な《正義》の環境というものに夢中になっていたにすぎないということなのでしょうか。


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