2018年1月8日月曜日

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もし「長老の遺体がたちどころに快癒の奇蹟を起すどころか、反対にあんなに早く腐敗しはじめたというだけの理由で、こんな悲しみや不安が彼の心に生じうるものだろうか」と端的にたずねられたとしたら、わたしはためらうことなく「そう、事実はそのとおりなのだ」と答えるだろう。

ここで「わたし」が出てきていますがこの「わたし」は半分は小説の中にいて、あと半分は外にいるように思います。

その外にいる「わたし」にたずねるとしたら「読者」ですね。

つまり、「読者」が(「わたし」=作者)にたずねるということですが、虚構としての小説からはみ出しているわけで、どうしてそのような体裁をとったのでしょうか。

文中の「快癒の奇蹟」とは、死者が生き返るということなのでしょうか、現代では信じられません。

わが青年の純情な心を、あまりにも性急に笑わぬよう、それだけを読者におねがいしておきたい。

ここで語り手としての作者は久しぶりに「読者」という言葉を使ってきました。

わたし自身とて、彼のために許しを乞うつもりもなければ、彼のこうした素朴な信仰を、たとえば年の若さとか、これまで修めてきた学問の根の浅さとかによって、弁護したり、弁解したりするつもりもないばかりか、むしろその反対ですらあり、彼の天性の心に対して真摯な尊敬をいだいていることをはっきり言明しておきます。

たしかに若者の中には、慎重に心の印象を受け入れ、人を愛するにも熱烈にではなく微温的な程度にとどめ、知性にしても地道でこそあれ、年齢から考えてあまりにも分別くさい(したがって安手な)ような者もいるし、わたしに言わせれば、そういう若者なら、わが主人公の身に起ったようなことは免れたであろうが、実際のところ、場合によっては、たとえ愚かしくはあってもとにかく偉大な愛から生じた熱中の対象に打ちこむほうが、まるきり打ちこまぬよりも立派なことがあるものです。

青年時代にはなおさらそうです。

なぜなら、あまりいつも分別くさい青年は、頼りにならないし、値打ちも低い-これがわたしの見解である!

「しかし」

ここでおそらく賢い人々は叫ぶにちがいありません。

「あらゆる青年がそんな偏見を信ずるわけにはいかないし、それにお前の青年はほかの者の手本ではない」

これに対して、わたしはまたしてもこう答えよう。

「そう、わたしの青年は信じていた。神聖な揺るがぬ信仰を持っていた。しかし、わたしはやはり彼のために赦しを乞うつもりはない」


つまり、「アリョーシャ」は神聖な揺るがぬ信仰を持っていたがその一端がくずれ自分の思うようにならなかったことで信仰が揺らいだ、ということですが、このことをどうして作者がこだわり、「読者」に対して弁解じみたことを言うのか、それはどういうことなのか、次の展開をまたなければわかりません。


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