『ひょっとすると、彼女はあの屏風の向うにいるのかもしれない。もう眠っているのかもしれないぞ』
心がちくりと痛みました。
この痛みはどんなものでしょうか、面白い表現ですね。
「フョードル」が窓のそばから離れました。
『親父は彼女の姿を窓から探してたんだ。してみると、彼女は来ていないんだな。ほかに暗闇をうかがう理由はないものな? つまり、待ち遠しくていらいらしているってわけだ・・・・』
「ミーチャ」はすぐに駆けよって、また窓からのぞきにかかりました。
老人は明らかに気落ちした様子で、もう小テーブルの前に坐っていました。
やがて肘をつき、右手を頰にあてました。
「ミーチャ」はむさぼるように観察しました。
『一人だ、一人きりだ!』
彼はまたくりかえしました。
『もし彼女が来てるんなら、親父の顔つきがもっと違うはずだからな』
奇妙なことに、ふいに心の中で、彼女が来ていないことに対する何かふしぎな、意味もない憤りがたぎりはじめました。
『いや、来ていないことに対してじゃない』
「ミーチャ」は意味をはっきりさせ、すぐに自分で答えを出しました。
『彼女が来ているかいないか、どうしても確実に突きとめられないことに対してなのだ』
のちに「ミーチャ」自身が思い起したことですが、この瞬間の彼は、頭が異常なほど冴えており、すべてをぎりぎりの細部まで思いめぐらして、一つ一つの点まで把握していました。
だが、淋しさが、まったく様子がわからぬ煮えきらぬ状態に置かれた淋しさが、心の中で度はずれな早さでつのっていきました。
『結局、彼女はいるのか、いないのか?』という思いが、憎しみにみちて心の中で沸騰しました。
そして彼はふいに決心し、片手をのばすと、窓の枠をそっとノックしました。
老人と「スメルジャコフ」との合図のノックをしたのです。
最初は静かに二度、それから早く三度、トントントンとたたく、『グルーシェニカが来た』という意味の合図でした。
この合図は(560)で「もしあの女が来たら、戸口に駆けつけて、ドアか、あるいは庭から窓を最初は小さく二度、こんなふうにトン、トンと手でたたくんだ、それからすぐに今度はもう少し早くトン、トン、トンと三回たたくんだぞ。そうすれば、あの女が来たなとすぐにわかるから、そっとドアを開けてやる」と書かれてあったことです、しかしこの合図を言いつけられている「スメルジャコフ」は病気で寝込んでいるはずなのですが、そんなことも考えなかったようですね。
老人はびくりとふるえて、頭をあげ、大急ぎで跳ね起きると、窓の方へとんできました。
「ミーチャ」は暗がりにとびすさりました。
「フョードル」が窓を開け、首を突きだしました。
「グルーシェニカ、お前かい? お前なのかい?」
彼はなにかふるえ声で、半ばささやくように言いました。
「どこにいるんだ、かわい子ちゃん、小ちゃな天使、どこにいるんだい?」
老人はおそろしく興奮し、息を切らせていました。
『一人だ!』
「ミーチャ」は断定しました。
「どこにいるんだい?」
老人はふたたび叫んで、いっそう首を突きだし、右や左を見まわしながら、肩まで乗りだしました。
「ここへおいで。おみやげを用意しといたんだよ。さ、おいで、見せてあげるから!」
『あれは例の三千ルーブルの包みのことだな』
「ミーチャ」の頭にこんな考えがひらめきました。
「さ、どこにいるんだい?・・・・ドアのところかな? 今すぐ開けてあげるよ・・・・」
そして老人は、庭の出口のある右手の方をのぞき、闇の中で見分けようと努めながら、窓から落ちそうのなるほど身を乗りだしました。
一秒後には、「グルーシェニカ」の返事を待ちきれずに、必ずドアを開けに走るにちがいありませんでした。
「ミーチャ」は横から見つめ、身じろぎもしませんでした。
あれほど不快な老人の横顔、たれさがった咽喉仏、甘い期待にやにさがる鉤鼻、唇、これらすべてが部屋の左手からさすランプの斜光で明るく照らしだされました。
おそろしい、もの狂おしい憎悪が、突然「ミーチャ」の胸にたぎり返りました。
『こいつだ、こいつが俺のライバルなんだ、俺を苦しめ、俺の生活を苦しめる男なのだ!』
これこそ、四日前にあずまやで「アリョーシャ」と話したとき、「どうしてお父さんを殺すなんてことを、口にできるんです?」という「アリョーシャ」の問いに対して、さながら予感していたかのように答えた、ほかならぬあの突発的な、復讐心にみちた、もの狂おしい憎悪でした。
「でも、わからんよ、わからんさ」
あのとき、彼はこう言いました。
「ひょっとしたら、殺さんかもしらんし、あるいは殺すかもしれない。心配なのは、まさにその瞬間になって(十一字の上に傍点)、ふいに親父の顔が(四字の上に傍点)憎らしくなりそうなことさ。俺はあの咽喉仏や、鼻や、目や、恥知らずな薄笑いが、憎くてならないんだ。個人的な嫌悪を感ずるんだよ。そいつが心配なのさ。どうにも我慢できそうもないからな・・・・」
その個人的な嫌悪がもはや堪えられぬまでにつのりました。
「ミーチャ」はすでにわれを忘れ、突然ポケットから銅の杵をつかみだしました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長い・・・・続きますが、この沈黙はこの物語のクライマックスです。
下の写真は(713)で「ドミートリイ」が『スイカズラの実、なんてきれいな赤だ!』と思ったスイカズラの実ですが、この赤が何かを象徴しているようにも見えます。
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