714
あのときは神さまが僕を守ってくださったんです、と後日「ミーチャ」はみずから語りました。
まさにちょうどそのとき、病気の「グリゴーリイ」が寝床で目をさましたのです。
その日の夕方、彼は「スメルジャコフ」が「イワン」に話した例の治療を行いました。
つまり、何か秘密の強烈な薬草を浸したウォトカを、老妻の助けをかりて全身に塗り、残りを老妻の唱えてくれる《ある種のおまじない》とともに飲み干して、眠りについたのです。
「マルファ」もお相伴し、もともと酒を飲まないので、夫の隣で死んだように寝入ってしまいました。
ところが、まったく思いがけなく、「グリゴーリイ」は夜中にだしぬけに目をさまし、ちょっと考えたあと、とたんにまた焼けつくような痛みを腰におぼえはしたものの、ベッドの上に起き直りました。
それからまた何事か思案して、起きだし、手早く服を着ました。
ことによると、自分が眠りこけていて、《こんな危険なおりに》屋敷が番人もなしにおかれていることに対して、良心の呵責が胸を刺したのかもしれません。
癲癇に倒れた「スメルジャコフ」は、隣の小部屋で身動きもせずに寝ていました。
「マルファ」も身じろぎ一つしませんでした。
『婆さんもすっかり弱ったもんだ』
老妻をちらと眺めて、「グリゴーリイ」は思い、呻きながら表階段に出ました。
歩くのが思うにまかせず、腰と右足の痛みは堪えきれぬほどでしたから、もちろん、表階段の上から様子を見るだけのつもりでした。
ところが、たまたまふと、庭へ入る木戸が夕方からずっと錠をかけていなかったことを思いだしました。
彼はこの上なく几帳面な、正確無比の人間で、いったん定めた秩序や、永年来の慣習は守りぬく男でした。
痛みに身をまげ、跛をひきながら、表階段をおり、庭に向かいました。
はたせるかな、木戸は開け放しのままでした。
(712)で「ドミートリイ」が「正面左手にある、屋敷から庭への戸口はぴったり閉って」いることを確認したと書かれていますが、ここで言っている「庭へ入る木戸」と(712)の「屋敷から庭への戸口」というのは、同じでしょうか、そうだとすると辻褄が合いません。
彼は機械的に庭に足を踏み入れました。
ことによると、何か見えたような気がしたのか、あるいは何か物音がきこえたのかししれませんが、左手の方をのぞいて、彼は主人の寝室の窓が開け放されているのを見いだしました。
窓はがらんとして、もはや外をのぞいている者もありませんでした。
『なぜ開いているんだろう、夏でもないのに!』
「グリゴーリイ」は思いました。
まさにその瞬間、突然、彼の真正面の庭に何やら異様なものがちらつきました。
四十歩ほど向うの闇の中を何者かが走りすぎたような感じで、なにやら影が非常な早さで動いていました。
「おのれ!」
「グリゴーリイ」は叫ぶと、われを忘れ、腰の痛みも忘れて、逃げてゆく男の行手をさえぎろうと突っ走りました。
彼は近道を選びました。
明らかにこの庭は、逃げてゆく男より彼のほうが勝手知ったものでした。
相手は蒸風呂の小屋に向い、小屋の裏に走りこんで、石塀にとびつきました・・・・
「グリゴーリイ」は相手を見失わぬように追いつづけ、無我夢中で走りました。
塀に駆けつけたとき、ちょうど相手はもう塀を乗りこえようとしているところでした。
「グリゴーリイ」は夢中で叫びたて、とびあがって、相手の足に両手でしがみつきました。
案の定、予感は彼を欺きませんでした。
彼は相手を見定めました。
それはやはり《ならず者の親殺し》でした!
耐えきれぬほどの腰と右足の痛みで歩くのも大変な「グリゴーリイ」ですが、最後の力を振り絞って頑張ったのですね。

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