彼は腰をおろして、思案にくれるというのでもなく、なにかぎょっとしたような、呆然としたような感じでした。
しかし、すべては白日のように明らかでした。
あの将校だ-彼はその将校のことを知っていました。
何もかも実によく知っていましたし、当の「グルーシェニカ」からきいて知っていました。
ひと月前に手紙をよこしたことも知っていました。
つまり、ひと月もの間、今その新たな男が到着するまでまるひと月もの間、この件は彼に深く秘して運ばれていたのに、彼はその男のことなぞ考えてもみなかったのだ!
それにしても、どうして考えずにいられたのだろう?
なぜあのときこの将校の話を忘れてしまったのか、その男のことをきいてすぐに忘れてしまったのだろう?
(680)で「ドミートリイ」がこのポーランド人の将校のことを忘れた理由についてあれこれ書きました。
要するに考えるに値しないと思ったのでしょう。
これが何か怪物のように彼の前に立ちはだかった疑問でした。
そして彼は実際にぎょっとし、恐怖に寒けをおぼえながらこの怪物を観察していたのでした。
ここで「ぎょっと」という表現が使われています、この表現はすぐ前にも使われおり、またここではその対象を「怪物」とも表現しています、「ドミートリイ」にしてみれば、こんなことは自分の考えの想定外のことであり、その自分の思い至らなさについての咄嗟の反省もあったのではないでしょうか、次の章で一転して「フェーニャ」にもの静かにやさしく話しはじめたのはそういった自己反省によって、別の自分に切り替わったのではないでしょうか、いや彼の場合自己反省というものはなく、むしろそのことを考えることから逃げだすという衝動が転機のきっかけになっているのかもしれません。
だが彼は突然、たった今「フェーニャ」をあれほど震えあがらせ、侮辱し、苦しめたことなどまったく忘れてしまったように、もの静かなやさしい子供さながら、静かにおとなしく彼女と話しはじめました。
だしぬけに、今の彼の状態からすれば異常な、むしろふしぎなくらいの正確さで、「フェーニャ」にあれこれ質問しはじめたのです。
「フェーニャ」もまた、彼の血まみれの両手をびっくりしたように見つめてはいたものの、やはりふしぎなほど素直に要領よく一つ一つの質問に答えはじめ、《ありのままの事実》を急いで述べてしまおうとするかのようでした。
ここでの「フェーニャ」の態度にも注目すべきものがありますね、彼女も「ドミートリイ」と同じように、恐怖から逃れるために別の自分に転換したのではないでしょうか、人間はそういう行動をとることがあるように思います。
あらゆる細かな事実を彼女は少しずつ、一種の喜びさえおぼえながら語りはじめたが、それとて相手を苦しめるつもりなどまったくなく、心底から精いっぱい彼につくそうとあせっているふうに見えました。
「一種の喜びさえおぼえながら」というところがこの緊迫した状況のもとで現実味をより一層ひきたたせているように思います。
彼女は今日一日の出来事や、「ラキーチン」と「アリョーシャ」の来訪、自分が見張りに立ったこと、奥さまが出かけたときの様子、さらに奥さまが兄さんの「ミーチェニカ」によろしくと窓から「アリョーシャ」に叫び、『ほんのいっときだけれど、あたしが愛していたことを、一生忘れないように』伝えてくれと頼んだことなどを、細かな事実一つにいたるまで話してきかせました。
「アリョーシャ」への伝言の内容まで喋っているのですね。
この伝言をきくと、「ミーチャ」はふいに苦笑し、青ざめた頰にさっと赤みがさしました。
「フェーニャ」はその瞬間、もはや自分の好奇心を少しも恐れずに言いました。
彼女の精神状態は、先ほどの恐怖の状態とは別の次元に行ってしまっていますからこんな素直な質問が出てくるのでしょう。
「その手はどうなさったんですか、ドミートリイさま、血まみれで!」
「うん」
「ミーチャ」は機械的に答えて、ぼんやり両手を眺めたが、すぐに手のことも、「フェーニャ」の質問も忘れました。
彼はまた沈黙にふけりました。
駆けこんできたときから、すでに二十分ほどたっていました。
先ほどの驚愕は消えましたが、どうやら、今度はもう何か新たな不屈の決意がすっかり彼を捉えたようでした。
彼はだしぬけに席を立つと、考え深げに微笑しました。

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