「旦那さま、何があったんでございます?」
「フェーニャ」がまた彼の両手を指さしながら、言いました。
悲しみに沈む今の彼にいちばん身近な存在であるかのような、同情のこもった口調でした。
「ミーチャ」はあらためて自分の手を眺めました。
「これは血だよ、フェーニャ」
異様な表情で彼女を見つめながら、彼はつぶやきました。
「これは人間の血だ、ああ、何のためにこの血を流してしまったんだろう! だけどな、フェーニャ・・・・ここに一つの塀がある(彼は謎をかけるように彼女を眺めた)。高い、見るからに恐ろしい塀だ。でも・・・・明日の夜明け、《太陽がさし昇る》ころ、このミーチェニカはその壁をとびこえるんだよ・・・・どんな塀か、お前にはわからないだろうな、フェーニャ。だけど、かまわんさ・・・・どうせ明日になれば耳に入るし、何もかもわかるんだから・・・・今は、さようなら! 邪魔しないで、身を引くよ、俺だって身を引くことくらいできるだろう。俺の喜びよ、達者に暮してくれ・・・・ほんのいっときでも俺を愛してくれたのなら、このミーチェニカ・カラマーゾフを永久におぼえていておくれ・・・・だって彼女はいつも俺のことをミーチェニカとよんでくれたものな、おぼえているだろう?」
なんだか、悲しいセリフですね、「壁」とは何でしょう、「壁」の向こうとは死の世界でしょうか、「俺の喜びよ、達者に暮してくれ」とは「グルーシェニカ」のことですね。
この言葉とともに彼はふいに台所を出て行きました。
「フェーニャ」は、さっき彼が駆けこんでくるなり、とびかかってきたときにもまして、この出て行き方にいっそう震えあがりました。
きっかり十分後、「ドミートリイ」はさっきピストルを抵当に預けてきた例の若い官吏、「ピョートル・イリイチ・ペルホーチン」の家に入って行きました。
「ピョートル・イリイチ・ペルホーチン」というのは、(700)で登場した、飲屋《都》で知り合った武器のマニヤの若い官吏のことですね、名前が出てきたのはここがはじめてです。
すでに八時半で、「ペルホーチン」は家でお茶を十分飲んだあと、飲屋《都》へ球を撞きに行くため、またフロックに着かえたばかりのところでした。
「ミーチャ」は出がけの彼をうまくつかまえました。
相手は彼の姿と、血まみれの顔を見て、思わず叫びました。
「たいへんだ! いったいどうしたんです?」
「実はね」
「ミーチャ」は早口に言いました。
「ピストルをいただきにきたんです、お金は持ってきました。いろいろありがとう、急いでいるもんで、なるべく早く頼みます、ピョートル・イリイチ」
「ペルホーチン」はますますおどろくばかりでした。
「ミーチャ」の手に札束が握られていることに、突然気づいたのです。
何よりおどろいたことに、彼はその札束をわしづかみにしたまま、入ってきたのでした。
札束をわしづかみにして、よその家へ入ってくる者などいないだろうが、彼は紙幣をそっくり右手に握りしめ、まるで見せびらかすようにその右手を前に突きだしていました。
ここで文無しであったはずの「ドミートリイ」が、突然札束を持っているのですが、これは「フョードル」が「グルーシェニカ」のために用意した三千ルーブルを奪ったとしか考えられませんね、しかし、今右手でわしづかみにしている札束は、少なくとも先ほど「フェーニャ」たちのところにいる時はまだわしづかみにしているわけではありません、仮に「フョードル」のところで札束を手に入れ、わしづかみにしていれば、「フェーニャ」たちの家の手前でわしづかみにした札束をポケットにしまいこんだことになるのですが、このような呆然とした状態の「ドミートリイ」がそのような面倒なことをするとは思えません、ということは「ペルホーチン」に家に行く途中でわしづかみにしたということになります。

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