「本当のことを言うと、僕はこういう議論に入るのがやりきれないんです」
彼は話を打ち切るように言いました。
「だって、神を信じなくても人類を愛することはできますしね、あなたはどうお思いになります? ヴォルテールは神を信じなかったけれど、人類を愛したじゃありませんか?」
(『また、また!』と、彼はひそかに思った)
「ヴォルテールは神を信じてはいたけど、それほど深くではないようだし、それにあの人は人類もあまり愛していなかったようですけど」
「人類を愛す」とはどういうことでしょうか、「人が好き」「人間が好き」ということでしょうか、反対に「人が嫌い」「人間が嫌い」という人もいるでしょう、そういう人は植物が好きだったり、本が好きだったり、山登りが好きだったりしますが、「人が好き」「人間が好き」な人であってもそういう人はたくさんいます、この「人が好き」「人間が好き」ということは、言葉としてはありふれた陳腐なものという感じ方もありますが、本当はものすごく重要なことのような気がします。
まるで自分と同い年か、むしろいくつか年上の人とでも話すように、「アリョーシャ」が低い声で、遠慮がちに、まったく自然な口調で言いました。
「コーリャ」は、自己の「ヴォルテール」観に対する「アリョーシャ」の自信なげな様子や、子供の「コーリャ」にこの問題の解決を委ねるかのような態度に、おどろかされました。
「君はほんとにヴォルテールを読んだんですか?」
「アリョーシャ」がしめくくりました。
「いいえ、読んだというほどでは・・・・もっとも『カンディード』は読みました。ロシア語訳で・・・・古いお粗末な訳でしたよ、こっけいな・・・・」
「ヴォルテール」の『カンディード』は、「『カンディード、あるいは楽天主義説』は、1759年に発表されたフランスの啓蒙思想家ヴォルテールによるピカレスク小説である。」とのことであり、あらすじは「ところはドイツのウェストファリア、領主ツンダー・テン・トロンクの城館に、領主の甥にあたるカンディードという若者がいた。家庭教師パングロスによる「すべて物事は、今あるより以外ではありえない」ことが証明されていて、「一切万事は最善である」というライプニッツの楽天主義を信じて幸福に育ったカンディードであったが、領主の娘キュネゴンドと接吻を交わしたために、生まれ育った城から追放の憂き目に遭う。騙されてブルガリア連隊に編入させられたカンディードは、脱走を試みて捕まり、連隊中の兵士から鞭打ちの刑罰を喰らう。ブルガリア(プロイセンのアレゴリー)とアバリア(フランスのアレゴリー)との合戦の際、戦闘の混乱に紛れて再び逃げ出したカンディードは、戦場の至る所で、両軍の兵士により虐殺された市民の死体を目にする。血まみれの乳房を子どもにふくませたまま死んでいく女性や、陵辱後に腹を裂かれて死んでいく娘たちを見る。オランダで仕事にありついたカンディードは、梅毒病みの乞食となった旧師パングロスと再会する。ツンダー・テン・トロンクの城を襲ったブルガリア兵により、キュネゴンドを含む一族郎党が皆殺しにされたことを知らされ、カンディードは悲嘆に暮れる。恩師を治してと善良な雇い主に懇願して、梅毒から回復したパングロスと一緒にカンディードは雇い主の供でリスボンへ向かう。リスボンへ向かう途中で嵐に遭った船は沈没し、カンディードとパングロス、人でなしの水夫だけが生き残る。リスボンでは大地震に巻き込まれる。カンディードとパングロスは地震を止めるための異端審問に掛けられる。パングロスは火炙りの刑ではなく、絞首刑に処される。刑の直前、カンディードは赦免される。カンディードを救ったのは、ブルガリア兵の暴行を生き延び、今は金持ちのユダヤ人と異端審問官の共同の妾となっているキュネゴンドであった。老婆に導かれ、カンディードはキュネゴンドと再会する。キュネゴンドの話を聞いて激昂したカンディードは、ユダヤ人と異端審問官を殺してしまう。カンディードとキュネゴンドは老婆の過去を聞く。老婆は元々教皇の美しい娘で、ふとしたことから母と共に海賊に捕まり、母は殺され、自身は犯され、モロッコからアレクサンドリア、イスタンブール、アゾフ、モスクワ、リガ、ハーグなど時には売られ、時には篭城に巻き込まれ、時には逃げ出し、年を重ね、ついにはユダヤ人の元で働いていたということを語る。カンディードとキュネゴンドは、供の老婆を連れて南アメリカ大陸まで落ち延びるが、ブエノスアイレスで追っ手に追いつかれ、やむなくカンディードは従僕カカンボだけを連れて逃れ去る。逃避行の途中で2人は黄金郷エルドラドーに迷い込む。エルドラドーは、黄金や宝石が石ころのように道端に転がっており、争いも災厄もないユートピアであった。宗教は「必要なものは何でもくださる」神に「たえず」「お礼を申し上げる」というだけ。この国に留まるよう説得するエルドラドーの王を振り切って、キュネゴンドの事を忘れられぬカンディードは、黄金と宝石を羊に積み込んでエルドラドーを離れる。持ち出した黄金や宝石のほとんどは、災厄により失われてしまう。そして旅路の途中で虐待された瀕死の黒人奴隷を目にする事により、ついにカンディードは楽天主義と訣別せざるを得ないことを自覚する。「楽天主義とは、どんな悲惨な目に遭おうとも、この世の全ては善であると、気の触れたように言い張ることなのだ!」キュネゴンドの捜索に送り出したカカンボは、行方知れずになってしまう。待ちきれなくなったカンディードはヴェネツィアまでやってくるが、航海の途中で出会った詐欺や泥棒により、残りの黄金のほとんども失われる。世間に愛想を尽かしたカンディードは、「この国で最も不幸な人間」を自分の同行者として公募する。厭世主義の貧乏学者マルチンが同行者として選ばれる。マルチンと果てしのない議論を繰り返しながら、イタリアやフランス、イギリスといったヨーロッパ諸国を歴訪し、遂にコンスタンチノーブルで、カンディードはキュネゴンドやカカンボ、パングロスと再会する。見る影もなく醜く成り果てたキュネゴンドに、カンディードは百年の恋も覚めてしまうが、約束を守るためにキュネゴンドとの結婚を決意する。エルドラドーから持ち帰った残り少ない黄金でカンディードは地所を購入する。パングロスやマルチンと実りの無い議論を繰り返すだけの毎日は、耐え難いものであった。最後に、小さな農家で悠々自適の生活を送る老人との会話をきっかけにして、カンディードは労働こそ人生を耐え得るものにする唯一の方法であることに思い至り、日々の仕事とその成果の中に、ささやかな幸福を見出すようになる。今でも時おりパングロスは、「もし君がツンダー・テン・トロンクの城を放逐されず、数々の不幸や災厄に見舞われなければ、今の幸福もなかったのだから、やはりこの世のすべてが最善である事は認めざるを得ないだろう」と議論を持ちかけるのだが、カンディードはただこう答えるのだった。「お説ごもっとも。けれども、わたしたちの畑を耕さなければなりません(Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin)」。」とのことです、また「イタリアの映画監督グァルティエロ・ヤコペッティが『ヤコペッティの大残酷』として、本作を映画化している。」とのことでした。
(また、またこれだ!)
「で、わかりましたか?」
「ええ、全部・・・・つまり・・・・なぜ僕にはわからないだろうと、お思いになるんですか? そりゃもちろん、あの中には卑猥な個所がたくさんありますけど。でも、僕はもちろん、あれが哲学的な小説で、ある思想を広めるために書かれたものだってことくらい、理解できますよ・・・・」
「コーリャ」はもはやすっかり混乱していました。
「僕は社会主義者なんです、カラマーゾフさん、節を曲げない社会主義者なんですよ」
どういうつもりか、突然彼はふっと言葉を切りました。
「社会主義者?」
「アリョーシャ」が笑いだしました。
「いったいいつの間になったんです? だって君はまだやっと十三でしょう?」
「コーリャ」の顔がひきつりました。
(875)で「アリョーシャ」の質問に対し、「いえ、つまり、数え年で十四、あと二週間すれば満で十四歳になります。もうすぐですよ。あなたには前もって僕の弱点を打ち明けておきますけど、カラマーゾフさん、これはあなたにいっぺんで僕の性質を知っていただけるように、お近づきのしるしに打ち明けるんですが、僕は年齢のことをきかれるのが大きらいなんです、大きらい以上なんですよ・・・・」と言っていました。
「第一、僕は十三じゃなく、十四です。あと二週間で十四なんです」
彼は真っ赤になりました。
「第二に、この場合僕の年齢に何の関係があるのか、さっぱりわかりませんね。問題は、僕がどういう信念を持っているかで、僕がいくつかってことじゃないはずです、そうでしょう?」
「もう少し年がいけば、年齢が信念に対してどんな意味を持つか、君もひとりでにわかりますよ。僕には、君の話しているのが自分の言葉じゃないような気がしたもんだから」
「アリョーシャ」は「コーリャ」の発言に対して自分の意見はあまり述べていませんが、この「年齢が信念に対してどんな意味を持つか」という発言は奥深いですね、変わらぬものが信念であるとすると年齢はその信念自体の意味を変えるということかもしれないです。
「アリョーシャ」が謙虚に穏やかに答えましたが、「コーリャ」はむきになってそれをさえぎりました。

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