モスクワから帰って最初の数日のうちに、彼は「カテリーナ」に対する炎のような狂おしい情熱に、もはや抜き差しならぬ勢いでのめりこんでしまったのです。
これがよくわかりません、そういう流れではなかったのでは。
その後、全生涯に影響を与えた「イワン」のこの新しい熱情に関して語り起すには、ここはその場所ではありません。
作者はその顛末を書かないつもりですが、「イワン」の「全生涯に影響を与えた」ということは、全生涯にわたって彼女と関わりあったということでしょうか、それともその時のきっかけで彼が何かするようになったのでしょうか。
それだけで、すでにほかの物語なり、別の長編なりの構想に十分使えるはずですが、その長編にそのうち取りかかるのかどうか、わたしにもわかっていないのです。
ということは、かなりの波乱万丈があったということでしょうね。
しかし、やはり黙っているわけにもいかないので、ここでは、すでに書いたように、あの夜、「イワン」が「アリョーシャ」といっしょに「カテリーナ」のところから帰る途中、「俺は彼女に関心がないのさ」と言ったとき、あの瞬間ひどい嘘をついたのだ、ということだけ記しておきましょう。
(944)での会話、「カテリーナ・イワーノヴナは兄さんを愛しているんですよ」「かもしらんな。ただ、俺は彼女に関心がないのさ」の部分です、これは嘘なのですね、よくわかりませんね、というか事実は全然逆で「イワン」が「カテリーナ」に夢中なわけですね、私は完全に騙されていました。
たしかにときには殺しかねぬほど憎くなることも事実ではありましたが、彼は狂おしいくらい彼女を愛していました。
これには数多くの理由が重なっています。
つまり、「ミーチャ」の事件でショックを受けた彼女は、ふたたび戻ってきた「イワン」に、まるで救世主でも迎えたようにとびつきました。
彼女は感情を傷つけられ、侮辱され、卑しめられていました。
ところがそこへ、以前から彼女を深く愛していた男が(そう、彼女にはそれがわかりすぎるくらい、よくわかっていた)、そして、その知性に対しても情操に対しても日頃から彼女が心からの敬意を払っていた男が、ふたたび現れたのです。
しかし、節操の固いこの娘は、恋人のカラマーゾフ的な欲望の激流や、彼のあらゆる魅力にもかかわらず、自己のすべてを捧げはしませんでした。
このへんの文章の展開は、唐突な感じがするのですが。
と同時に彼女は、「ミーチャ」を裏切ったという後悔にたえず苦しみ、「イワン」との凄まじいいさかいの瞬間には(そういう瞬間は、始終あった)、そのことをはっきり口に出しました。
「ミーチャ」を裏切ったとは何のことでしょうか、「イワン」と付き合うことでしょうか、「ドミートリイ」は裏切られても仕方ない行動をとっているので「裏切った」ことにはならないと思いますが、それとも「ドミートリイ」のことが好きでもないのに、好きなように振舞っているということでしょうか。
「アリョーシャ」と話したとき、「イワン」が《嘘の積み重ね》とよんだのは、このことでした。
(944)で「もし今俺が手を切れば、彼女は俺への腹癒せに明日の法廷であの無頼漢を破滅させることだろう、なぜって彼女はあいつを憎んでいるし、自分が憎んでいることを承知しているからな。すべて嘘ばかりさ、嘘の積み重ねだよ! ところが今、俺がまだ手を切らずにいるうちは、彼女もいまだに望みを持っているし、俺があの無頼漢を災難から救いだしたいと思っているのを知っているから、あいつを破滅させるような真似はしないだろう。」とあります。
もちろん、二人の間には実際にも数多くの嘘があり、それが何よりも「イワン」を苛立たせたのですが、それらのすべては、あとまわしにしましょう。
なぜか、このあたりは大事なところで、読者に分からせるように書かれていると思うのですが、分かるべきことが私には分からないでいるようなのであせります、何がどうなっているのでしょう。
一口で言うなら、彼は一時「スメルジャコフ」のことをほとんど忘れていました。
しかし、最初の訪問から二週間ほどすると、またしても以前と同じ奇妙な考えが彼をさいなみはじめました。
つまり、何のために俺はあのとき、出発前の最後の夜、「フョードル」の家で、泥棒のようにこっそり階段に出て行って、階下で父が何をしているか、きき耳をたてたのだろう、なぜそれをあとで思いだしたとき、嫌悪にかられたのだろう、なぜ翌朝、道中であんなに突然、気が滅入り、モスクワに列車が入る頃になって、「俺は卑劣な人間だ!」と自分自身に言ったのだろう、などとたえず自分に問いかけるようになった、とだけ言えば十分でしょう。
そして今度はあるとき、これらのやりきれぬ考えのために、「カテリーナ」のことさえ忘れかねない、という気さえしました。
それほど強く、そうした考えが彼の心をふたたびとらえたのでした!
ちょうど、そのことを考えていたときに、彼は通りで「アリョーシャ」に出会いました。
彼はすぐに弟をよびとめ、だしぬけに質問を投げかけました。
「おぼえているだろう、いつか食後ドミートリイが家にあばれこんできて、親父をたたきのめしたとき、そのあと庭で俺が《期待の権利》は留保しておくとお前に言ったっけな。あのときお前は、俺が親父の死をのぞんでいると思ったかい、どうだ?」
「思いました」
低い声で「アリョーシャ」が答えました。
「もっとも、実際そのとおりだったんだから、べつに勘ぐることは何もないわけだ。しかし、あのときお前は、《二匹の毒蛇が互いに食い合いをする》ことを、つまり、まさしくドミートリイが親父を、それもなるべく早く殺してくれることを、この俺が望んでいるとは思わなかったかい・・・・しかも俺自身、それに協力することさえいとわない、と?」
「アリョーシャ」は心もち青ざめ、無言のまま兄の目を見つめていました。
「さ、言ってくれ!」
「イワン」は叫びました。
「あのときお前が何を考えたか、俺は心底から知りたいんだ。俺は知らなけりゃならない。さあ、本当のことを、ありのままを言ってくれ!」
もう今からある種の敵意をこめて「アリョーシャ」をにらみながら、彼は苦しげに息をつきました。
「赦してください、僕はあのときそれも考えました」
「アリョーシャ」はささやき、《事態を和らげる》言葉一つ付け加えずに黙りました。
「ありがとう!」
「イワン」は語気鋭く言うと、「アリョーシャ」を置き去りにして、ひとり足早に歩み去りました。
要するに「イワン」は自分の心の良心とたたかっているのではないでしょうか、その良心と重なるのが「アリョーシャ」なのでしょう。
このとき以来「アリョーシャ」は、兄の「イワン」がなにか露骨に自分を避けるようになり、きらうようにさえなったらしいのに気づきましたので、やがて彼の方も兄を訪ねるのをやめました。
ところが、そのとき、「アリョーシャ」と会った直後に、「イワン」は自宅にも寄らないで、だしぬけにまた「スメルジャコフ」のところに足を向けたのでした。

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