2018年12月4日火曜日

978

九 悪魔。イワンの悪夢

わたしは医者ではありませんが、それでも「イワン」の病気の性質に関して、せめて何らかの説明を読者にせねばならぬ時がきたのを感じます。

先まわりして、一つだけ言っておくと、この晩の彼はまさに譫妄症の一歩手前まできていたのであり、この病が、ずっと以前から調子を乱しながらも頑なに抵抗していた彼の身体の組織を、ついに完全に征服したのでした。

「譫妄症」というと病名のように見えますが、ネットでは「譫妄症」という言葉でははほとんどのってなく、大部分が「せんもう【譫妄 delirium】」という症状の説明です、つまり「軽度の意識混濁を背景に,活発な錯覚や幻覚などの陽性症状を示す最も代表的な意識変容の形。外界は夢のように変容し,周囲の人や物は鬼や怪物などに錯覚され,さらに恐怖の,ときには楽しい場面の情景的な幻覚がつぎつぎに不連続的に現れる。患者は幻想的な世界に巻き込まれているため,幻覚や錯覚に左右され,ときにはその人の職業にかかわるしぐさをすることがあり,これを作業譫妄(職業譫妄)という。小人がたくさん出てくる小人島幻覚も出現し,うじ虫のような小動物がうごめきながら体にいっぱいたかってくるような幻覚では,幻触を伴うことがある。」とのことです、また「認知症、高齢、重症患者、うつ状態、複数薬物、聴視覚障害(難聴や白内障)、感染症、薬物の中毒症状、アルコールや薬物の離脱症状、疼痛、手術後、身体抑制などがリスクファクターと言われている。」そうです。

「イワン」の場合、原因はよくわかりませんが「うつ状態」かもしれません。

医学のことは何もわかりませんが、あえて仮定を述べるなら、おそらく彼は、もちろん病気をすっかり征服できると空想しながら、恐るべき意志の緊張によって本当に一時、病気を遠ざけることに成功したのかもしれませんでした。

自分が健康でないことは承知していましたが、今このときに、つまり、ちゃんと出廷して、自分の言うべきことを大胆にきっぱりと言い、《自己に対して身のあかしを立てる》必要のある、自己の人生の宿命的な瞬間を目の前にして、病気になったりするのは、嫌悪を感ずるほどいやでした。

もっとも彼は、すでに述べたように「カテリーナ」がとっぴな考えに従ってモスクワから招いた医者に、一度診てもらっていました。

医者は容態をきいて診察した結果、脳の変調とも言うべきものであると診断し、彼がそれでも嫌悪をおぼえながら行なったある種の告白に、少しもおどろきの色を見せませんでした。

「このご容態では、幻覚も大いにありうることです」

医者は結論を下しました。

「もっとも、確かめてみなければなりませんが・・・・概して、一刻もむだにせず、真剣に治療をはじめる必要がありますな、でないととんだことになりますよ」

しかし、「イワン」は医者のもとを辞したあと、この分別ある忠告を守らず、安静に治療することを怠りました。

『現にこうして歩けるんだから、さしあたり体力はあるんだ。ぶっ倒れたら、話は別で、そのときはだれにでも治療してもらうさ』

彼はあっさり片手を振って、こう決めました。

というわけで、彼は今、自分がうなされているのをほとんど自覚しながら坐り、すでに述べたように、真向かいの壁ぎわにあるソファーの上の何かを、執拗に見つめていたのです。

「イワン」が「スメルジャコフ」のところから戻って、部屋に入ったとき、部屋にはまだだれもいなかったのだから、いつどうやって入ってきたのかはわかりませんが、そこに突然、ある人物が坐っていることがわかったのです。

私は勘違いしていました、「イワン」が見つめていたのは「悪魔」だと思っていましたが、この「ある人物」なのですね。

それは一人の紳士、というよりもっと的確に言うなら、年齢もすでに若くなく、フランス人のいわゆる《五十に手の届きかけた》、ある種のロシア型ジェントルマンで、かなり長いまだ豊かな黒い髪にそれほど白髪も目立たず、三角形に刈りこんだ顎ひげをたくわえていました。

着ている焦茶の背広は、見るからに上等の仕立てらしかったのですが、もう着くたびれていましたし、ほぼ三年くらい前の仕立てで、すっかり流行からはずれたため、社交界のちゃんとした人間なら、ここ二年ばかり、だれ一人こんなものは着ていませんでした。

当時のロシアでも、このように流行の移り変わりは今と同じように早いのですね、驚きました。

ワイシャツも、襟巻のように長いネクタイも、すべてシックなジェントルマンの型どおりでしたが、近くでよく見ると、ワイシャツは薄汚れていましたし、幅広のネクタイもひどくすりきれていました。

この客の格子縞のズボンは、しっくり合っていましたが、これもまた色が派手すぎるうえ、あまりにも細すぎて、今ではもうだれもはかなくなったような代物でしたし、客がおよそ季節はずれにかぶってきた白いモヘヤのソフトも、同然でした。

「モヘヤ」とは、ある記事の説明では「モヘヤ(英: mohair、モヘア)は、アンゴラヤギ(w:Angora goat)の毛でそれらから作った織物を総称してそう呼ばれています。アンゴラといえばウサギの毛というのが一般的な意味合いで使われるのですが日本ではモヘアとアンゴラを混同して使われているところがあるようなので皆様ご注意を!特徴としては生糸のような独特の光沢をもっており、比較的腰の強い繊維のためセーター、毛布、ショール使われています。欠点といえば毛が長く、抜けやすく、静電気が起きやすいというところでしょうか、それでも、普段使っている方が多いと思いますが、それほど不便に感じたことはないと思います。」と書かれていました。


一口に言えば、きわめて乏しい懐ろで、なんとか身なりをととのえたという格好でした。


0 件のコメント:

コメントを投稿