このジェントルマンは、農奴制時代に栄華をきわめた、かつての無為徒食の地主階級に属しているようでした。
明らかに、かつては社交界や上流社会に出入りし、有力な縁故も持ち、おそらくいまだにその縁故を大切に保ってはいるのだが、若いころの楽しい生活のあと、先ごろの農奴制の廃止後は、零落するにつれてしだいに、親切な昔の知人たちのところを転々とさすらい歩く、上品な居候といった存在になってゆきます。
知人たちが彼を受け入れるのも、人づきあいのいい円満なその性格を買ってであり、さらにまた、とにかく彼が、もちろん末座にではありますが、だれとでもいっしょに食卓に坐らせておける、きちんとした人間だからでもあります。
こういう居候は、性格の円満なジェントルマンで、まともな話もできれば、カードの相手もつとまるのですが、どんな頼みごとにせよ押しつけられるのは徹底的にきらいで、たいてい、独身とか、男やもめといった孤独な人間です。
なかには子供のいる場合もありますが、子供は必ずどこか遠くの伯母さんかだれかに育てられており、当のジェントルマンは、そいういう親戚をいささか恥じるかのように、まともな席ではほとんど一度も口にしたことがありません。
時たま、名の日やクリスマスに子供たちから祝いの手紙をもらい、時には返事を出すことさえあっても、しだいに子供のことなどすっかり忘れてしまいます。
この思いがけない客の顔立ちは、お人好しというのではないまでも、やはり円満で、その場の空気しだいで、どんな愛想のいい表情でもすぐにうかべそうでした。
時計はつけていませんでしたが、黒いリボンを結んだ鼈甲の柄付き眼鏡を持っていました。
右手の中指に安物のオパールを飾った、大きな金の指輪が光っていました。
この「ジェントルマン」の説明はおそろしく長いです、人物描写をして個性を作りあげようとしていますがふつうはここまで表沙汰にはせずに個人的なメモに書いたりすると思うのですが、この登場人物が普通ではないので仕方ないのかもしれません。
「イワン」は怒ったように黙って、口をきこうとしませんでした。
客はまるで、あてがわれた二階の部屋から主人のお茶の相手をしに下りてきたばかりの居候が、主人が忙しそうな様子で何やら眉をひそめて考えているのを見て、おとなしく黙っている、といった感じで坐って、待ち受けていました。
そのくせ、主人が切りだしさえすれば、どんな愛想のいい話にでも応ずるつもりでいるのです。
突然、その顔がなにかふいに気がかりそうな色をうかべました。
「あのね」
彼は「イワン」にこう切りだしました。
「失礼だけど、ちょいと気づかせてあげようと思ってね。君はカテリーナ・イワーノヴナのことをききだすつもりで、スメルジャコフのところへ行ったのに、何一つ探りださずに帰ってきたじゃないか。きっと忘れたんだろう・・・・」
「あ、そうか!」
突然「イワン」が口走りました。
その顔が気がかりそうに曇りました。
「そうだ、忘れてた・・・・もっとも、今となっちゃどうだっていいや。すべて明日までなんだから」
彼はひとりごとをつぶやきました。
「しかし、君」
彼は苛立たしげに客に声をかけました。
「それは俺がすぐに自分で思いだすべきことだったんだぞ、なぜってまさにそのことで気がふさいでたんだからな! どうして差し出がましい口をきくんだい。そんなことをされちゃ、俺が自分で思いだしたんじゃなく、君に教えてもらったと、信じちまうだろうに?」
「じゃ、信じなけりゃいいよ」
ジェントルマンは愛想よく苦笑しました。
「強制でどんな信仰が生れるというんだい? おまけに、信仰にはどんな証拠も役に立たないんだ、特に物的証拠なんぞね。トマスが信仰を持ったのは、復活したキリストを見たからじゃなく、それ以前から信仰を持ちたいと願っていたからなんだよ。たとえば、降神術者だってそうだ・・・・僕はあの連中が大好きでね・・・・だってさ、あの連中は悪魔があの世から角を見せてくれるから、自分たちが信仰にとって役立つ存在だと思っているんだからね。『これは、あの世が存在することの、いわば物的証拠にほかならない』だとさ。あの世と物的証拠、やれやれだ! それに結局、悪魔の存在が証明されたからといって、神の存在が証明されたかどうか、まだわからないしね。僕は観念論者の仲間に加えてもらいたいよ。連中の中で造反してやるんだ。『僕は現実主義者(リアリスト)だけど、唯物論者じゃないからね、へ、へ!』と言ってね」
この発言は何を言いたいのかわかりにくいですね、自分が思いたいと思っていることが肝心なことで、外部からの作用など大したことではないということでしょうか。
「トマス」とは「使徒トマス」のことですね、ネットからの拾い集めた情報ですが、「使徒トマスに関して新約聖書では十二使徒の一人として挙げられるほかは、『ヨハネによる福音書』に以下の記述があるのみである。『ヨハネによる福音書』では情熱はあるが、イエスの真意を理解せず、少しずれている人物として描かれている。(ヨハネ11:16参照)ヨハネ20:24-29ではイエスが復活したという他の弟子たちの言葉を信じないが、実際にイエスを見て感激し、「私の主、私の神」と言った。またイエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んでその身体を確かめたとも。これを西ヨーロッパでは「疑い深いトマス」と呼ぶ。この故事は後世、仮現説に対し、イエスの身体性を示す箇所としてしばしば参照された。またトマスの言葉はイエスの神性を証するものとして解釈された。そのような解釈では、トマスの言動はイエスが神性・人性の二性をもつことを証ししたと解される。正教会では「研究を好むフォマ」と呼び、復活祭後の主日を「フォマの主日」と呼んで、八日後にトマスがイエスにあった際の言動を記憶する。」「ところで、現行の新約聖書では、使徒トマスは、十二使徒の一人に数えられるだけであまり目立たず、時として低く評価されている。この点については、新約聖書正典を制定した正統派教会が軽視する使徒トマスを本福音書があえて高く取り上げたか、あるいは、本福音書が高く評価するがゆえに正統派教会がトマスを貶めたかの、いずれかの可能性がある。」など、複雑です。

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