2019年1月9日水曜日

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もっとも、ドイツ語で話しているときも同じことがしばしばあり、そんなときはいつも、まるで失くした言葉をつかまえようと探しまわるみたいに、顔の前で片手をふりまわし、そうなったらもう彼が見失った言葉を探しだすまでは、だれもとぎれた話をつづけさせることはできぬはずでした。

被告が入廷したときに、婦人たちを眺めてしかるべきはずだったという彼の指摘は、傍聴席におどけたようなささやきをよび起しました。

私もこの彼の発言に違和感があり、どうしてこういうことをわざわざ書いたのかと思いましたが、彼自身の内部にも違和感があるようですので、これはこれでいいのでしょうか。

この町の婦人たちはみなこの老人を大好きでしたし、それに彼が生涯独身で通し、信仰心の篤い純潔な人間で、女性を一段高尚な理想の存在と見ていることも、みなが知っていました。

それだけに彼の意外な指摘が、だれにとってもひどく奇妙に思われたのであります。

自分の順番がきて尋問を受けたモスクワの医者は、被告の精神状態を《極度とさえ言えるくらい》異常なものと考えていることを、語気鋭く執拗に主張しました。

彼は《心神喪失》と《偏執狂》に関してむずかしい話を大いに弁じたて、蒐集した資料から見て被告はすでに逮捕の数日前から疑いもなく病的な心神喪失の状態にあって、かりに犯罪を行なったとしても、それを意識こそしていたものの、自分をとらえた病的な精神衝動と戦うことがまったくできぬまま、ほとんどわれ知らずやってしまったにちがいない、と結論を下しました。

しかし、心神喪失のほかに、博士は偏執狂とも見立てており、博士の言葉によれば、それはもはや将来、完全な狂気へ一直線であるということでした。

(筆者注 わたしは自分なりの言葉で伝えているのであり、博士はきわめて学術的な、専門用語で説明したのである)

「被告の行動はすべて、常識と論理に反しております」彼はつづけました。

「わたし自身が見ていないこと、つまり犯罪そのものやこの悲劇全体については、もはや申しますまい。しかし、一昨日わたしと話している際でさえ、被告は何とも説明しがたい、据わった眼差しをしておりました。また、まったく必要のないときに発する唐突な笑いにしても、不可解な絶えざる苛立ちにしても、《ベルナール》だの《倫理学》だの、そのほか必要もない奇妙な言葉にしても、すべてそうなのです」

「ドミートリイ」はこの博士にもお気に入りの《ベルナール》を使ったのですね。

しかし博士は特に、被告がほかのあらゆる失敗や侮辱についてはかなり気楽に話したり、思いだしたりするにもかかわらず、自分が欺されたと思いこんでいる例の三千ルーブルのことになると、何か異常な苛立ちを見せずに話すことさえできぬという点に、偏執狂の徴候を見ていました。

最後に、いろいろ問い合せてみると、被告はそれまでも、話が例の三千ルーブルのことになると必ず、ほとんど一種の狂乱状態におちいったということであるが、その反面、彼が無欲な恬淡たる人物であることは証明されている点も、彼は指摘しました。

「恬淡(てんたん)」とは、「あっさりとしていて、名誉・利益などに執着(しゅうじゃく)しないさま」とのことです。 

「学識豊かな同僚の見解に関して一言するならば」と話を結ぶにあたって、モスクワの博士はたっぷりにしめくくりました。

「被告は法廷に入る際、真正面ではなく、婦人たちの方を見てしかるべきだったとのことですが、わたしはただ、このような意見は不謹慎であるばかりか、そのうえ根本的に間違っているとだけ申しあげておきます。なぜなら、被告が自分の運命の決せられる法廷に入る際に、あのようにじっと正面を見つめるのはおかしいし、これこそ実際に現在の瞬間における被告の異常な精神状態を示す徴候と見なしうるだろうという説には、わたしも完全に同意はいたしますものの、同時にわたしは、被告が左手の婦人席を見るべきではなく、むしろ反対に右の方を見て、今やその人の助力にすべての希望が託され、その人の弁論によって自分の運命が左右される弁護人をこそ、目で探し求めてしかるべきであると、主張するからであります」

博士は自説を断定的に押しつけがましく主張しました。

ところが、最後に尋問された医師「ワルヴィンスキー」の思いがけない結論が、二人の学識豊かな鑑定人の意見の相違に、一種特別な喜劇性を与えることになりました。

彼の見解によれば、被告は現在も以前もまったく正常な状態にあり、たしかに逮捕の直前には神経の極度にたかぶった状態にあったはずだとしても、それは嫉妬とか、憤り、ぶっつづけの酩酊状態など、多くの明白な理由から生じうるものであります。

しかし、この神経的な状態は、今言われたような特別の《心神喪失》などまったく含んでいるはずがありません。

被告が入廷に際して、左右いずれを見るのが当然かという点に関しては、《卑見によれば》、被告は法廷に入るに際して、実際に見ていたように、真正面を見つめるのが当然と思われる。

なぜなら真正面には、今や自分の全運命を左右する裁判長と裁判官たちが坐っているからであり、「したがって、真正面を見つめていたとすれば、ほかならぬその一事によって被告は、現在の瞬間における知性の完全な正常さを証明したことになるのです」

若い医師はいくらかむきになって《卑見》を結びました。

これで、鑑定医として出廷した三人、つまり①この町の「ヘルツェンシトゥーベ」博士、②モスクワの有名な博士、③若い医師「ワルヴィンスキー」の尋問が終わりました。

①「ヘルツェンシトゥーベ」博士は「ドミートリイ」の知的能力の異常性を主張、②モスクワの博士は、

被告の精神状態を《極度とさえ言えるくらい》異常で《心神喪失》と《偏執狂》であると主張、③「ワルヴィンスキー」は被告はまったく正常な状態だと主張しました、ということは、鑑定医は2対1で被告側に有利な証言をしたということですが、これは多数決ではありませんね。


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