2018年4月7日土曜日

737

「アンドレイ」は疲れはてた三頭立てをギャロップで駆りたて、本当ににぎやかな音をさせながら高い表階段に乗りつけると、汗だらけになって息もたえだえの馬をぴたりと止めました。

原文はどうなっているのか知りませんが「本当ににぎやかな音をさせながら」の「本当に」というのがたいへん面白いと思います、「本当に」という言葉は普通ならこの場合は不要かもしれませんが、この言葉によって語り手と文章との距離感がわかります。

「ミーチャ」が馬車からとびおりました。

ちょうどそのとき、寝室に引き上げようとしていた宿の主人が、こんなに威勢よく乗りつけたのは何者だろうと好奇心を起して、表階段からのぞいてみました。

「トリフォン・ボリースイチ、お前か?」

主人は身をかがめて、じっと目をこらしたあと、まっしぐらに表階段を駆けおり、卑屈な喜びを示して客に走りよりました。

「旦那、ドミートリイさまじゃございませんか! またお目にかかれるなんて!」

この「トリフォン・ボリースイチ」は、やや小太りの顔をした、中背の、がっちりした頑健な百姓で、一徹そうな厳格な顔つきは、モークロエの百姓たち相手のときにはとりわけはなはだしかったが、儲けにありつけそうな気配を感じとると、すばやくその顔をきわめて卑屈な表情に変える才能を持っていました。

いつも襟の斜めについたルバーシカに半外套という、ロシア風の服装をしており、すでに相当な金を貯めこんでいるのですが、たえずもっと良い役割を夢みていました。

「ルバーシカ」の説明はウィキペディアは「ブラウスないしスモック風のプルオーバータイプのシャツ・上着で、もとはウクライナの農民の衣装でルバーハ(Rubakha)と呼ばれた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、襟部や袖口にカラーやカフスがつくようになった。名称もルバーハが愛称、通称化してルバシカに変化した。ルバシカは男女両用であり、身頃がゆったりとしていて、詰襟、前開きは左脇または右脇寄りになっている。前開きは、途中までボタンで留る。襟や袖口などにロシア風の刺繍が施してある。着用時には裾はズボンの外に出してベルトを締める。晩年のレフ・トルストイがルバシカを着用していたため、インテリゲンツィアを中心にロシア社会に広まった。日本でも戦前、戦後を通じ、トルストイ主義者を中心に着用する者が見られた。ロシア語のРубашкаはシャツ全般を指し、民族衣装のルバシカに限らない。」とのこと。

村の百姓の半数あまりは彼に頭があがらず、みんなが動きのとれぬほど彼に借金していました。

彼は地主たちから土地を借りたり、自力で買いとったりし、その土地を百姓たちが、一生逃れられぬ借金の代償に耕すのでした。

彼は男やもめで、成人した娘が四人いました。

長女はもう未亡人で、彼の孫にあたる二人の幼な子といっしょに彼のもとで暮し、彼のために日雇いで働いていました。

百姓娘まるだしの次女は、どこかの書記を勤めあげた官吏と結婚していましたので、宿屋の一室の壁にかかっている家族たちの写真の中に、制服に肩章をつけたこの官吏の、豆粒のような写真も見いだせるはずでした。

下の娘二人は、教会の祭日やどこかへ客に行くときは、背中をきつく絞って七十センチもの長い裳裾を引きずった、流行の仕立ての紺や緑色のドレスを着て、めかしこむのですが、その翌朝はいつもと同じように、夜の明けぬうちに起きだして、白樺の箒を手に客室の掃除をしたり、残飯をかつぎだしたり、泊まり客のちらかしたごみを片づけたりしていました。

どうしてここまで詳しく「トリフォン・ボリースイチ」やその家族のことを描写しているのでしょう、ここでの人物描写は物語的には重要とはいえない彼自身を描くのが目的ではなく、当時のロシアの農村の典型ともいえるような社会状況を描きたかったのでしょう。


もう何千という金を儲けたにもかかわらず、「トリフォン」は豪遊する客からごっそり頂戴するのが大好きでしたし、まだひと月とたたぬ以前、「ドミートリイ」が「グルーシェニカ」と豪遊しに来たときに、彼からわずか一昼夜の間に、三百とは言わぬまでも二百ルーブルあまり絞りあげたことはよくおぼえていましたので、今も「ドミートリイ」が表階段に馬車を乗りつけた様子だけでもう、またしても儲けの匂いを嗅ぎつけ、喜色満面でまっしぐらに迎えに出たのでした。


2018年4月6日金曜日

736

「じゃお前は、お前は赦してくれるかい、アンドレイ?」

「あっしが赦すも赦さねえも。旦那はあっしに何もなさらないじゃありませんか」

「いや、みんなに代ってさ。みんなに代って、お前一人が今、たった今ここで、この道中でみなに代って俺を赦してくれるかい? 言ってみろよ、純朴な男だもの!」

「ああ、旦那! 旦那をお運びするのが、こわくなってきましたよ。なんだか妙なお話ばかりで・・・・」

「アンドレイ」が赦すかどうか聞きたかったですが。

しかし、「ミーチャ」はろくにきいていませんでした。

彼は熱狂的に祈りを唱え、ひとり異様につぶやいていました。

「主よ、無法の限りをつくしてきたわたしを、そのまま受け入れてください。ですが、わたしを裁かないでください。あなたのお裁きなしに通してください・・・・わたしはみずから自分を裁いたのですから、どうか裁かないでください! 汚らわしいわたしですが、それでもあなたを愛しているのです。たとえ地獄へおとされても、地獄であなたを愛し、永久に愛しつづけると地獄から叫ぶことでしょう・・・・でも、わたしにも愛を完うさせてください・・・・今この地上で、あなたの熱い光がさしのぼるまでのせいぜい五時間かそこらの間、愛を完うさせてください・・・・わたしはわが心の女王を愛しているのです。愛していますし、愛さずにはいられないのです。わたしがどんな人間か、あなたはすっかりお見通しのはずです。これからわたしは駆けつけて、彼女の前にひれ伏します。そして言ってやるつもりです、お前が俺のそばをすりぬけて行ったのは正しいのだ・・・・さようなら、お前の犠牲のことなぞ忘れて、もう二度と心配しないでいいよ、と!」

冷静に考えると、こんなことはしなくていいと思うのですが、当事者はそうは言ってられないですね、神への敬虔な感情や正直で素朴な感情や醜く意地汚い感情などあらゆる感情がごちゃまぜになって押しとどめることができない状態でしょう、これは理性を超えていることですから、そういう状況に置かれた人間にしかわからないものです。

「モークロエですぜ!」

鞭で前方をさし示しながら、「アンドレイ」が叫びました。

青白い夜の闇を通して、突然、広大な空間にひろがる家々のがっちりした集団が、くろぐろと望まれました。

モークロエ村は人口二千ほどでしたが、この時刻にはすかり眠りに沈み、わずかにそこかしこで闇の中からまばらな燈火がまたたいているだけでした。

「とばせ、とばすんだ、アンドレイ、俺が来たんだぞ!」

まるで熱病にかかったように「ミーチャ」が叫びました。

「まだ眠ってませんね!」

村のすぐ入口に立っているプラストゥーノフの宿屋を鞭でさしながら、「アンドレイ」がまた言いました。

通りに面した六つの窓がみな、明るくかがやいていました。

「眠ってないな!」

「ミーチャ」が嬉しそうに相槌を打ちました。

「鈴を鳴らせ、アンドレイ、ギャロップでとばすんだ。鈴を鳴らせ、鳴物入りでぶっとばしてやれ。だれが来たか、みんなにわかるようにな! 俺が来たんだぞ! みずから乗りこんできたんだ!」

「ギャロップ」とは、「馬術における全速力の指示 - 襲歩(しゅうほ)とも」とのこと。


「ミーチャ」は狂ったように叫びました。


2018年4月5日木曜日

735

「ミーチャ」はふいに背後から彼の肩をつかみました。

「お前は馭者だろう? 馭者だろうが?」

この「ドミートリイ」の話の持って行き方は、随分遠いところへ落としていますね、「アンドレイ」の聞きたいところへ合流するには、かなり回り道しなければなりませんが「ドミートリイ」にはその気はないようです。

彼は狂ったように叫びだしました。

「馭者ですが・・・・」

「だったら、道を譲らにゃならんてことを知ってるはずだ。馭者だから、だれにも道を譲らなくていい、俺さまのお通りだ、轢き殺すぞ、で通ると思ってるのか! そうじゃあるまい、馭者は人を轢いちゃいかん! 人を轢いてはならんし、人の生活を台なしにしてもいけないんだ。もし人の生活を台なしにしたら、自分を罰することだ・・・・人の生活を台なしにしたり、命を奪ったりしたら、自分を罰して、消え去らにゃいけないんだぞ」

これらすべてが、完全なヒステリーに陥ったかのように、「ミーチャ」の口からほとばしりました。

「アンドレイ」は旦那の様子にびっくりはしたものの、とにかく会話をつづけました。

「それは本当でございますね、ドミートリイの旦那、確かにおっしゃるとおりでさ。人を轢き殺しちゃいけねえし、苦しめるのだっていけませんや。そりゃ、どんな生き物でも同じことでさね。なぜって生き物はすべて、神さまのお創りになったものですからね。早い話、この馬にしてもそうでさ。あっしら馭者仲間でも、むやみと馬をひっぱたくやつもいますよ・・・・我慢てことを知らないから、かっとなったら最後、そのまま突っ走るんでさ」

「地獄へか?」

突然「ミーチャ」が半畳を入れ、日ごろのように唐突な短い笑い声をたてました。

「アンドレイ、お前は純朴な男だな」

彼はまた馭者の肩を強くつかみました。

「どうだ、お前の考えだと、このドミートリイ・カラマーゾフは地獄へ落ちるかい、それとも落ちないかね?」

「あっしにゃわかりませんですね。そいつは旦那しだいでさあ。なぜって旦那はこの町じゃ・・・・いえね、旦那、その昔、神の子イエスが十字架にはりつけにされて亡くなったあと、イエスは十字架から降りたその足でまっすぐ地獄に行って、苦しんでいる罪びとたちを全部解放してやったんだそうです。だもんで地獄は、もう今後は一人も罪びとが来ないだろうと思って、呻きはじめたんでさ。そこで主は地獄にこう言ったんですと。『呻くでない、地獄よ、これからも偉い人たちや、政治家や、裁判官や、金持がどんどんやってくるだろうし、今後わたしが訪ねるまでには、永遠の昔からそうであったように、ここもまたいっぱいになっているだろうから』たしかにそのとおりでさあ、この言葉は実になんとも・・・・」

(733)で「アンドレイも話し好きな百姓ではありま」したとあるように、かなりおしゃべりですね。

石川五右衛門の辞世の句に「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」がありますがこれと同じですね、「偉い人たちや、政治家や、裁判官や、金持」も盗人と同じかもしれません。

「民間の伝説だな、傑作だ! さ、左の副馬に鞭をあてろ、アンドレイ!」

「地獄ってのはそういう連中のためにあるんでさあ、旦那」

「アンドレイ」は左の副馬に一鞭くれました。

「ところが旦那は、がんぜない子供と同じですからね・・・・あっしらはそう見てるんでさ・・・・そりゃ、たしかに旦那は怒りっぽいにちがいないけれど、でも旦那の正直さに免じて神さまが赦してくださいますとも」

「アンドレイ」は「ドミートリイ」を「がんぜない子供と同じ」と言っています。


「がんぜない【頑是無い】」とは、①幼くてまだ物事の是非・善悪がわからない。幼くてききわけがない ②あどけなく無邪気なこととのことです、「がんぜない子供」とは一歩間違えば侮辱していると思われかねない発言だと思いますが「アンドレイ」は自分だけがそう思っているのではなく「あっしら」と付け足すところなどなかなかの話し上手ですね。


2018年4月4日水曜日

734

だしぬけに「ミーチャ」が、恐ろしい不安にかられて叫びました。

「アンドレイ! もし連中が寝てたら、どうしよう?」

ふいにこの考えが頭にふりかかったのです。

それまでは、そんなことなぞ考えてもいませんでした。

「もうお床に入られたってことは、十分考えられますね、ドミートリイの旦那」

「ミーチャ」は病的に眉をひそめました。

実際、こんな気分で自分が駆けつけて・・・・もう眠っていたりしたら、どうしよう・・・・ことによると彼女も同じところで眠っているかもしれない・・・・憎しみの感情が心にたぎりはじめました。

「急げ、アンドレイ、とばすんだ、アンドレイ、すっとばせ!」

彼は狂おしく叫びました。

「でもたぶん、まだ寝ちゃいますまい」

しばらく沈黙したあとで、「アンドレイ」が判断を下しました。

「さっきチモフェイが言ってましたけど、なんでも大勢集まってたそうですから・・・・」

「宿場にか?」

「宿場じゃなく、プラストゥーノフの宿屋だそうで。つまり、私営の宿場でさ」

「知ってる。で、大勢っていうのは、どういうわけだ? どうして大勢なんだ? いったい何者だ、そりゃ?」

思いがけぬ知らせに、「ミーチャ」は恐ろしい不安に包まれて叫びました。

「チモフェイの話だと、みんな立派な旦那方だそうで。お二人はこの町の者だそうですが、それがどなたか、あっしは存じませんや。ただ、チモフェイの話だと、お二人はこの町の旦那で、もう二人は旅の人らしいとか。ほかにもだれかいるかもしれませんが、あっしもくわしくきかなかったもんでしてね。なんでも、カードをはじめたって話でしたよ」

「カードを?」

「へえ、カードをはじめたとなると、たぶんまだ寝てませんや。今はせいぜい十一時ちょっと前くらいのもんでしょうからね」

「急げ、アンドレイ、急ぐんだ!」

「ミーチャ」はまた神経質に叫びたてました。

「実は、旦那におたずねしたいことがあるんですが」

ちょっと沈黙していたあと、また「アンドレイ」が口を開きました。

「ただ、お腹立ちになりはしないかと、それが心配で、旦那」

「何だ、いったい?」

「さっき、フェドーシヤ・マルコヴナが旦那の足もとにひれ伏して、奥さまと、それからもう一人だれかとを殺さないでくれと哀願してましたでしょうに・・・・だもんで、旦那をあそこへお運びするのがどうも・・・・お赦しくださいまし、旦那、ただなんとなく気がとがめるもんで、ばかなことを申しまして・・・・」


「アンドレイ」のように、思ったことは後で後悔しないように言った方がいいですね、読者もそのように聞きたいと思うところを彼が代わりに聞いてくれています。


2018年4月3日火曜日

733

またときによると、それが自分でもふしぎに思われました。

なぜなら、自分の手で紙に『自己を処刑し、罰する』とペンでしたため、その紙片はすでに用意されてポケットに入っていたし、ピストルも装填して、明日の朝《金髪のポイボス》の最初の熱い光をどのように迎えるか決心もついていたのですが、それにもかかわらず、心にわだかまって苦しめる過去のすべてを清算することが、やはりできなかったからです。

彼は苦しいほどどれを痛感し、その思いが絶望となって心に突き刺さるのでした。

死んでも死にきれぬということでしょうが、その心情はわかるようにも思います。

途中で、いっそふいに「アンドレイ」に馬をとめさせて、馬車からおり、装填したピストルを取りだして、夜明けを待たずにすべてに決着をつけてしまおうか、と思った一瞬もありました。

しかし、その一瞬は火花のように流れすぎました。

それに、トロイカが《空間をむさぼり食いながら》ひた走っており、目的地に近づくにつれて、またしても彼女ひとりをめぐる思いがますます強く胸をしめつけ、他のいっさいの恐ろしい幻影を心から追い払っていきました。

ああ、たとえちらとでも、たとえ遠くからでも、彼女を一目眺めたくてなりませんでした!

『今、彼女は男(一字の上に傍点)といっしょにいる。今その男と、かつての恋人とどんなふうにしているか、見とどけよう。俺に必要なのはそれだけだ』

自己の運命にとって宿命的とも言えるこの女性に対して、これほどの愛が、これほど新しい、いまだかつて経験したことのない感情が、胸の奥から湧き起ったことは、これまでに一度としてありませんでした。

それは自分自身でさえ思いがけぬ感情であり、彼女の前で消えてしまいたいほどの、祈りに近いやさしい感情でした。

「そうだ、消えてしまうのだ!」

この消えてしまいたいという感情は、かなり感情的で感覚的だと思いますが、これは自分の姿形を消して、視線だけ残しておきたいということでしょうか、「祈りに近いやさしい感情」と書かれていますから、自分は消えて現実に起こるすべてを許し、ただ神のように彼女を見ていたいという直接的な願望だけを満たしたいということでしょうか。

突然、何かヒステリックな歓喜の発作にかられて、彼は口走りました。

もうほとんど一時間近く走っていました。


「ミーチャ」は黙りこんでいましたし、「アンドレイ」も話し好きな百姓ではありましたが、口をきくのを恐るかのように、やはり一言も発せず、もっぱら栗毛の、痩せてはいるが駿足の三頭立ての《駄馬》を、がむしゃらに駆りたてていました。


2018年4月2日月曜日

732

六 みずから乗りこむぞ!

一方、「ドミートリイ」は街道をとばしていました。

モークロエまでは、二十キロと少しでしたが、「アンドレイ」のトロイカはひた走りつづけましたので、一時間十五分くらいで行きつけそうな勢いでした。

(690)で「ネットで馬車の速度を調べましたら、通常移動で6km以内、中速移動で10km以内、高速移動で20km以内となっており、全力でも20kmほどしかスピードは出ませんとのことでした。」と書きました、馬の頭数や乗る人数などによっても、速度は変わってくるとおもいますが、この記述は辻褄が合います。

「モークロエまでは二十キロと少し」とのことですので、新宿から府中くらいの距離になります。

とぶような疾走がふいに「ミーチャ」の心をさわやかにしたかのようでした。

大気はひんやりとさわやかで、澄みきった空には大きな星がかがやいていました。

それは、「アリョーシャ」が大地に倒れ伏して、『永遠にこの大地を愛すると狂ったように誓いつづけた』あの同じ夜であり、ことによると同じ時刻かもしれませんでした。

これは(678)のシーンです。

しかし、「ミーチャ」の心は乱れ、ひどく騒いでいたので、さまざまなことが今彼の心を責めさいなんでいたとはいえ、この瞬間には全存在が、最後に一目見るためにこうして馬車をとばしてゆく、彼の女王の方へ、ただ彼女の方へのみ、さからいえぬ力で引き寄せられていました。

一つだけ断っておきますが、彼の心は一瞬たりとライバル意識に燃えさえしませんでした。

そう言っても信じてもらえぬかもしれませんが、この嫉妬深い男が、地の底から湧いたようにふいに出現した新しい人物、新しいライバルである《将校》に対しては、いささかの嫉妬もおぼえなかったのです。

ほかのだれであれ、そういう人物が現われたなら、彼はとたんに嫉妬し、ひょっとすると恐ろしい手をまた血で染めたところだろうに、この《彼女の最初の男》に対しては、今こうしてトロイカをとばしながらも、嫉妬の憎しみはおろか、敵意さえ感じませんでした-もっとも、この男にはまだ会ったこともなかったのです。

『この場合、論議の余地はない。彼女と男の当然の権利なのだ。これが彼女の最初の恋だったのだし、彼女は五年もそれを忘れずにいたんだからな。つまり、この五年間、彼女はその男だけを愛しつづけていたのだ。それなのに俺は、なんだって俺はそんなところへ割りこんでいったんだろう? この場合、俺なんぞ何だというのだ、何の関係がある? 身を引くんだ、ミーチャ、道を譲れ! それに今の俺はいったい何だ? 今となっては、その将校がいなくたって、すべて終りじゃないか。たとえ将校が全然あらわれなかったとしても、どうせ何もかも終りなんだ・・・・」

もしも今の彼に判断する力があったとしたら、自分の今の感じをほぼこんな言葉で述べたにちがいない。

ここのところはめずらしい表現ですね、『』書きの中は「ドミートリイ」が思ったことではなくて、語り手が「ドミートリイ」の心を想像して書いています、そして彼が嫉妬をしなかったのは、自分では気づいていませんが、それは感情より、理屈であり、論理であったわけですね。

しかし、そのときの彼はもはや判断することなどできませんでした。

今の彼の決意はすべて、判断ぬきに一瞬のうちに生れたものであり、先ほど「フェーニャ」のところで、彼女の最初の数言をきいただけで、ただちに心に感じ、その結果生ずるあらゆる事態を承知のうえでそっくり採択されたものでした。

(717)の「駆けこんできたときから、すでに二十分ほどたっていました。先ほどの驚愕は消えましたが、どうやら、今度はもう何か新たな不屈の決意がすっかり彼を捉えたようでした。」のところですね。

だが、せっかくの決心にもかかわらず、やはり心は乱れ、苦しいほど騒いでいました。

その決意も平静をもたらしてはくれませんでした。


あまりにも多くのものが心にわだかまり、苦しめるのでした。


2018年4月1日日曜日

731

この上なく不快な気分で飲屋につくと、彼はすぐにゲームをはじめました。

ゲームは気持を晴らしてくれました。

もう一ゲーム終ると、彼はふいに相手の一人に、「ドミートリイ・カラマーゾフ」がまたもや大金をつかんだことや、三千ルーブルくらいあるのをこの目で見たこと、また「グルーシェニカ」とモークロエで豪遊しに繰りだしたことなどを話しはじめました。

この話はきき手たちにほとんど予想外とも言えるほどの好奇心で受けとられました。

だれも笑いもせず、なにか異様なくらい真顔で話しだしました。

ゲームさえ中断したほどでした。

この会話を挿入することによって、町の人と「ドミートリイ」との関係が浮かび上がってきます、普段この飲屋で彼に接している町の人は、恐らく彼の中にある何か不穏なものを予感していたのでしょう。

「三千ルーブル? どこから三千もの金が入るんだろう?」

さらにくわしく質問が浴びせられました。

「ホフラワコ夫人」に関するニュースは、眉唾ものとして受けとられました。

この一文も町の人の庶民的な判断でありおもしろいです、しかし「ペルホーチン」自身はどう思っていたのでしょう、これほど一刀両断に判断できずもやもやしていたのではないでしょうか。

「親父から奪ったんじゃないか、てっきりそうだぜ?」

「三千もね! なんだかおかしいな」

「親父を殺すと公言していたしな、みんながここできいたんだ。そう言や、三千ルーブルの話をしていたぜ・・・・」

「ペルホーチン」はこれをきくと、ふいに質問に対して言葉少なに素気なく答えるようになりました。

「ミーチャ」の顔や手についていた血に関しては一言も触れませんでしたが、ここへくるときには、話す気になりかけていたのでした。

「ペルホーチン」はそもそも楽観的な人間ですね、自分ではうすうす気づいているとは思いますが、その考えを消し去ろうとしています、自分にとって嫌なことは考えないタイプです、そして「ミーチャの顔や手についていた血に関して」は「ここへくるときには、話す気になりかけていた」のにやめたということは、町の人の意見を聞いたことで風向きが変わって何か自分の方がおかしいのではないかとやっとここで気づきはじめたのですね。

三回めのゲームがはじまり、「ミーチャ」の話はしだいに消えていきました。

だが、三回目のゲームを終えると、「ペルホーチン」はそれ以上つづけようとせずに、キューを置き、予定していた夜食もとらずに、飲屋を出ました。

広場に出て、彼は意を決しかね、自分の気持をふしぎにさえ思いながら、立ちどまりました。

突然、今すぐ「フョードル」の家に行って、何事も起らなかったか確かめてみるつもりになっていることに気づいたのです。

『蓋を開けてみりゃ下らないにきまっていることのために、赤の他人の家をたたき起して、みっともない騒ぎをしでかすなんて。ふう、畜生、俺があいつの伯父さんてわけでもないし』

この上なく不快な気分で彼はまっすぐわが家に向いましたが、突然「フェーニャ」のことを思いだしました。

『えい、畜生、さっきあの女にきけばよかったのに』

腹立たしさにかられながら、彼は思いました。

『すべてわかっただろうにな』

すると、彼女と話して確かめたいという、どうにもこらえきれぬ執拗な望みが心の内に燃えだしたため、彼は途中から、「グルーシェニカ」が一棟借りていたモロゾワの屋敷に方向を転じました。

門に歩みよって、ノックすると、夜のじじまにひびき渡るその音が、ふたたび急に彼を冷静に戻し、憤らせるかのようでした。

おまけに、だれ一人応ずる者はなく、家の者はみな眠っていました。

『こんなところでまで、俺はみっともない騒ぎを引き起すのか!』

もはや一種の苦しみを心に抱きながら、彼は思いましたが、思いきりよく立ち去る代りに、突然また、今度はもう力いっぱいノックしはじめました。

通りじゅうに騒音がひびきました。

『こうなったらやめないぞ、起きるまでたたいてやる、たたき起してやるんだ!』

音が一つひびくごとに凶暴なほど自分に対して腹を立て、しかも同時に門のノックをいっそう強くしながら、彼はつぶやきました。


このあたりの物語の進行は「ペルホーチン」の気持の移り変わりを微妙かつ大胆にあらわしていると思います、つまり冷静だった彼が何か不本意なことに気づきつつも、やがて気持ちをうまくコントロールできなくなり、さらに今や狂気を帯びているかのような行動にかりたてられているのです。