2016年7月7日木曜日

98

「アリョーシャ」が宗教の道に入った理由は、ほかにもあるかもしれないと作者は言います。

たとえば、幼いころ、母に連れられてこの町の修道院の礼拝式に行ったときに、何か印象づけられるものがあったのかもしれません。

また、癲狂病みの母が幼い彼を抱き上げて聖像の前に差し出したときに見た入日の斜光も作用しているのかもしれません。

このときの彼の記憶のことは前に書かれていましたが、母の祈りと叫び声と入日の斜光という強力なイメージが交錯する狂気のような特別の世界が彼の原体験として残されていたのではないでしょうか。

そして彼は瞑想に耽りがちな人間ですので、もしかすると、この町へやってきたのは「ここにはすべてがあるのか、それとも二ルーブルにしかすぎないのかを確かめるためにだけ」だったのかもしれません。

しかし、運命はそうはさせてくれませんでした。

「そして、修道院であの長老とめぐりあったのだった・・・」と続きます。


2016年7月6日水曜日

97

信仰の道に入った「アリョーシャ」はすべてが変わってしまい、自分のこれまでの生き方はいったい何だったのかと思うようになりました。

ここで聖書の言葉が引用されています。

『完全でありたいと望むならば、すべてを分け与え、わたしに従え』と。

ネットで調べてみましたら、この言葉は、マタイによる福音書19章21節の引用で、別の訳もたくさんありましたが、そのうちのひとつは、以下のとおりです。

イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」

イエスはある富める青年に対し、あなたに足りないことがひとつある、あなたのすることがまだひとつ残っていると言って、いつくしんで、彼に言った言葉です。

「アリョーシャ」はこの言葉に従いたいと思いました。

《すべて》の代りに二ルーブルを与えてお茶を濁したり、《わたしに従う》代りに礼拝式に通うだけにすることなど自分にはできないと自問します。

完璧主義ですね。



2016年7月5日火曜日

96

「アリョーシャ」はよくよく考え抜いた末に「不死と神は存在する」と確信しました。

そして、自分はそのために生きて、中途半端な妥協など受け入れないという決心をしました。

しかし、彼の考えた結論が反対に「不死や神は存在しない」となっていれば、すぐに無神論者か社会主義者になっていたでしょう。

なぜならば、と、次はカッコ書きで書かれています。

(なぜなら、社会主義とは、単に労働関係や、いわゆる第四階級の問題ではなく、主として無神論の問題でもあり、無神論の現代的具体化の問題、つまり、地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ)と。

そして、「第四階級」とは何か、訳注が付けられています。

それによると、封建社会で第一階級は国王や大名、第二階級は貴族、僧侶、第三階級はブルジョアジーを中心とする平民、そして第四階級はプロレタリアートを示すそうです。

この辺も私にとってはたいへん難しいです。

まず「社会主義」というのは、思想であったり、運動であったりするのですが、その定義はいろいろあると思います。

ひとことで言うことは、できないでしょうが、無理やり言ってしまえば、単純すぎるかもしれませんが「平等」ということではないでしょうか。

私の想像でしかありませんが、「アリョーシャ」が目をつけたのもそういう社会的な矛盾を解消しようというところからで、その手段が宗教であっても、社会革命であってもよかったのかもしれません。


2016年7月4日月曜日

95

「アリョーシャ」にはみんなと同じように真理を求め、生命をかけて行動する「わが国の現代青年」という一面もありました。

しかし、一般には不幸なことに、これら青年たちはある場合には生命を犠牲にすることが、もっとも簡単なことであるということがわかっていません。

また、青春期の5〜6年間を、自分の理想を達成するための力を10倍ほども強めるために、つらい困難な勉学や研究のために犠牲にすることがどれだけたいへんなことであるか、まったくと言っていいほどわかっていません。

しかし、「アリョーシャ」の場合は違っていました。

彼は多くの青年と同じように早く偉業をなしとげたいという思いは同じでしたが、みんなと反対の道を選びました。

このあたりは、どういう意味か、私はわかりません。

ロシアの青年たちは目先の目的のために命を犠牲にしがちであり、たいへん忍耐力のいることではあるが、今はじっと我慢してよりよい目的達成のためにもっと勉強したり研究したりする必要があるというようなことを言っているのでしょうか、わたしにはこの部分の意味がよくわかりませんでした。


2016年7月3日日曜日

94

次は、◯◯と考えるかもしれないが、そうではなくて◯◯、の形式の三つ目になります。

「アリョーシャ」は①鈍くて、②発育が遅れていて、③学校も途中までしか行ってないと言う人がいるかもしれないが、③以外はそうではなくて実は①と②はたいへんな間違いであると言っています。

その理由について、以前にも書かれていたことをあらためてくりかえしておくと前置きされて、「彼がこの道に入ったのは、もっぱら、当時それだけが彼の心を打ち、闇を逃れて光に突きすすもうとあがく彼の魂の究極の理想を一挙にことごとく示してくれたからにほかならない。」と、「アリョーシャ」の紹介の章で説明されたことと同じ内容が書かれています。

そして、さらにそれに加えて、彼が、「わが国の現代青年」であり、つまり誠実で、真理を求め、探求し、信ずる人間であり、いったん信じれば、全身全霊でそれをなしとげようとし、そのためなら生命をも犠牲にしようと、やむにやまれぬ気持ちをいだいている青年であると。


2016年7月2日土曜日

93

現実主義者が信仰を信じたら、奇蹟も現実主義者として認めるはずです。

そして、使徒トマスは、「自分の目で見るまでは信じないと明言したが、いざ見るに及んで、『わが主よ、わが神よ!』と言った。」そうです。

この部分は注釈が付いていて「十二使徒の一人トマスはキリストの復活を信じようとせず、『わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れてみなければ信じない』と言ったが、八日のちにイエスの姿を見て『わが主よ、わが神よ』と言った。ヨハネによる福音書第二十章」ということです。

ヨハネによる福音書からの引用は冒頭にもありましたね。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書。第12章24節)」です。

少し長いですが、使徒トマスを「Wikipedia」で調べてみます。

使徒トマス(Thomas the Apostle, 生年不詳 - 72年12月21日)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。アラム語の原義は「双子」。彼に由来する男性名としても一般的に用いられている。ディディモ (Didymus) は「双子」をギリシャ語に訳したもの。ロシア正教会とその流れを汲む日本ハリストス正教会ではフォマ (Фома)。
福音書の一部写本や外典に「ユダ・ディディモ」とあり、本名ユダのあだ名とも考えられる。「双子」の名がなぜ付いたか、誰と双子なのかは不明。
使徒トマスに関して新約聖書では十二使徒の一人として挙げられるほかは、『ヨハネによる福音書』に以下の記述があるのみである。
『ヨハネによる福音書』では情熱はあるが、イエスの真意を理解せず、少しずれている人物として描かれている。(ヨハネ11:16参照)ヨハネ20:24-29ではイエスが復活したという他の弟子たちの言葉を信じないが、実際にイエスを見て感激し、「私の主、私の神」と言った。またイエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んでその身体を確かめたとも。これを西ヨーロッパでは「疑い深いトマス」と呼ぶ。この故事は後世、仮現説に対し、イエスの身体性を示す箇所としてしばしば参照された。またトマスの言葉はイエスの神性を証するものとして解釈された。そのような解釈では、トマスの言動はイエスが神性・人性の二性をもつことを証ししたと解される。

そして、作者は奇蹟が使徒トマスに信仰をいだかせたのではないと言い切っています。

「彼が信じたのは、もっぱら、信じようとねがったからにすぎない」。

さらに、作者は彼が「自分の目で見るまでは信じない」と述べたそのときから、全面的に信じていたのかもしれないと言っています。


2016年7月1日金曜日

92

それにしても「アリョーシャ」は「全面的に奇蹟を信じてはいた」とはどういうことでしょうか。

また、「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。」とはどういうことでしょうか。

これは、現実主義者は現実にそくして物事を考えるわけですから、目の前で起こった奇蹟をたんに現実と考えるだけということではないでしょうか。

そして、作者は続けます。

「現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。」と。

これも、同じ理由で、つまり、現実主義者の奇蹟はこれも現実ということだけで、それと信仰とは関係がないということではないでしょうか。

次に続きます。

「真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟も信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。」

このあたりは、信仰とか奇蹟とかの話になっているのですが、信仰をもたない者にとっては実感として理解するのはむずかしいですね。

「信仰をもっていなければ」ということは、神の存在を信じなければということですが、神を信じない現実主義者であれば、その段階ですでに信じないという力を自分の中にもっているわけであり、奇蹟が起こったとしてもそれが現実であると理解するより、自己の感情の欠損として、その感情を否定するということでしょうか。

そして、「また、もし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったにすぎぬ事実として認めるにちがいない。現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。」

この現実主義者にとって「奇蹟が信仰から生まれる」というのは、奇蹟も信仰も同じことのように考えると、意味のないことを言っているように思えます。

これは、つまり、理屈ではなく、最初に信仰のあるなしがあるということを言っているのでしょうか、現実主義者である「アリョーシャ」は「全面的に奇蹟を信じてはいた」ということはそういうことなのでしょうか。

結局、作者の言いたいことは、現実主義者だから神を信じないということへの反論なのでしょうか、よくわかりません。