2018年7月7日土曜日

828

「そんなに心配なさらないでください、ドミートリイ・フョードロウィチ」

検事が結論を言いました。

「今記録されたことはすべて、あとであなた自身にきいていただきますし、同意いただけぬ個所があれば、あなたのお言葉どおりに訂正しますから。ところで、これがもう三度目なのですが、同じ質問をくりかえさせてください。ほんとうにだれも、だれ一人として、お守り袋に縫いこんだ金のことをあなたからきいた者はいないのですか? あえて申しあげますが、ほとんど想像できない話ですのでね」

権力というものは、こういう場合、相手から都合のいい供述を引き出すためにはどんな嘘も平気でつくのではないかと思いますが、そう言った嘘が何の罪もないように扱われるのは間違っていますね、この検事のように歯の浮いたようなお世辞を使いながら自分の作ったストーリーを完成させよとする態度は虫酸が走ります、そして「三度目」の質問になると言っていますが、一つ目は(821)の「あなたはこれまでにその事情を、せめてだれかに告げておかれなかったんですか・・・・つまり、ひと月前のそのとき、千五百ルーブルを手もとに残しておいたことをですね?」「だれにも話してません」というところだと思いますが、二度目がみあたりません、(825)で彼は自ら「この千五百ルーブルの件は、弟のアリョーシャにさえ打ち明ける決心がつかなかったし」とは言っていますがこのことでしょうか、このしつこい質問は大変重要なことはわかりますが、「ドミートリイ」はだれにも話していないと言っているのですから、その袋をどこに捨てたかを聞いてすぐにそれを探しに行くのが筋ではないでしょうか。

「だれも、一人もいないと言ったでしょうに。でなけりゃ、あなたが何もわからなかったんだ! もう僕にかまわないでください!」

「いいでしょう、この問題ははっきりさせなけりゃなりませんのでね、まだこの先、時間は十分ありますから。しかし、とりあえずよく考えてごらんなさい。この前使った三千ルーブルのことを、千五百じゃなく三千ルーブルのことを、まさしくあなたが自分で吹聴し、行く先々で強調してさえいたという証言が、われわれの手もとには、おそらく何十も集まっているんですよ。それに今度だって、ゆうべ大金が現れてた際に、あなたはやはりすかさず大勢の人に、また三千ルーブル持ってきたぞと触れまわっているんですかね・・・・」

「何十どころか、何百という証言を握っているんでしょうに。二百の証言をね、二百の人間がきいてましたからね、いや、千人もの人がきいているんだ!」

「ミーチャ」は叫びました。

「だってそうでしょうが。みんながそう証言しているんですよ。みんな(三字の上に傍点)という言葉は、やはり何事かを意味するんじゃないでしょうか?」

「何も意味するもんですか。僕がはったり(四字の上に傍点)を言ったら、それを受けてみんながでたらめを言うようになったまでです」

まったく意味のない会話ですね。

「しかし、何のために、あなたの言葉を借りるなら、そんな《はったり》を言う必要があったんですか?」


「そんなこと、わかるもんですか。見栄かもしれませんね・・・・そう・・・・そんな大尽遊びをしたという・・・・あるいは、袋に縫いこんだ金を忘れるためかもしれないし・・・・そう、まさしくそのためですよ・・・・畜生・・・・いったい何度その質問をくりかえすんです? そう、はったりを言ったんです、もちろん、一度はったりを言ったら、もう訂正するのがいやだったんですよ。人間てやつはどうしてときおりでたらめを言うんでしょうね?」


2018年7月6日金曜日

827

「正気か正気でないかはともかく、もちろん、つい夢中になって・・・・女性の嫉妬には思いいたりませんでした・・・・あなたが力説なさるように、本当に嫉妬がそこに生じうるとしたら・・・・そう、おそらく、その種のことはあるでしょうね」

検事は「女性の嫉妬」と的外れなことを言っていますね、そういう問題もありますが、「ドミートリイ」の言っているのはそれ以前の個人的な問題なのです。

検事は苦笑しました。

「しかし、そんなことをしたら、あんまり汚なすぎますよ」

「ミーチャ」は凶暴に拳でテーブルをたたきました。

「いくら僕でも知らないほど、臭味のある行為になってしまう! あなた方にはわからないかもしれないけれど、あの人なら僕にその金をくれたはずです。そう、くれるでしょう、きっとくれたにちがいないんだ。僕を見返すためにくれたはずです。復讐の喜びと、僕に対する軽蔑からくれたにちがいない。なぜってあの人もやはり悪魔的な心の持主だし、深い怒りに燃えた女性ですからね! そして、この僕のことだからその金を受けとるにちがいないんだ。そう、受けとるでしょうね、受けとりますとも、そうしたら一生涯・・・・ああ、やりきれない! すみません、みなさん僕がこんなにどなるのも、ついこの間まで、ほんの一昨日、夜中にセッターのやつにてこずらされたときに、そんな考えをいだいたからなんです。そのあと、昨日も、そう、昨日も一日じゅう、忘れもしませんが、例のあの事件が起るまで・・・・」

「ドミートリイ」は「カテリーナ」のことを「あの人もやはり悪魔的な心の持主」と言いましたね、これは誰もがそういう一面があり、いくらみんなから尊敬されている彼女もその中のひとりであるにすぎないと彼が思っているということです、そして「深い怒りに燃えた女性」とは潜在意識の問題でしょうか。

「どの事件です?」

どの事件なんでしょうか、「僕がこんなにどなるのも、ついこの間まで、ほんの一昨日、夜中にセッターのやつにてこずらされたときに、そんな考えをいだいたからなんです。そのあと、昨日も、そう、昨日も一日じゅう、忘れもしませんが、例のあの事件が起るまで・・・・」とありますが、「例のあの事件」とは何でしょうか、読み返してもわかりませんでしたが、「そんな考え」とはたとえば(693)の「父の家のドアが秘密めかしく開き、その戸口に「グルーシェニカ」が走りこむ・・・・」という「ドミートリイ」の悪夢のことであり、「例のあの事件が起るまで・・・・」とは、「グルーシェニカ」に愛されているという予想外の至福を確信したことでしょうか。

「ネリュードフ」が好奇心を示して口をはさみかけましたが、「ミーチャ」は耳もかしませんでした。

「僕はあなた方におそろしい告白をしたんです」

暗い顔で彼はしめくくりました。

「そこを買ってください、みなさん。いや、それだけじゃ足りない、買ってくれるだけじゃまだ足りない。買ってくれなくたっていいから、重要さを認めてください。それがだめなら、もしこの告白まできき流されてしまうようなら、もはやあなた方はまったく僕に敬意を払ってくれないことになりますよ、みなさん、僕はあえてそう言います。そして、あなた方みたいな人に告白をした恥ずかしさに、死んでしまいますよ! そう、ピストル自殺をするんだ! 僕にはもうわかってます、わかってますとも、あなた方は僕の言葉を信じてくれないんだ! なんですか、こんなことまで記録するつもりですか?」

すでに怯えだ様子で彼は叫びました。

「ええ、今あなたがおっしゃったことをね」

「ネリュードフ」がいぶかしげに彼を見つめました。

「つまり、あなたがごく最近まで相変わらずカテリーナさんのところへ、それだけの金額を借りに行くつもりでおられた、いうことをです・・・・はっきり言って、これはわれわれにとって非常に重大な供述なんですよ、ドミートリイ・フョードロウィチ、つまり、この事件全体に関してですね・・・・それから特にあなたにとって、とりわけあなたにとって重大なんです」

「この事件全体に関して」ごく最近まで相変わらず「カテリーナ」に千五百ルーブルを借りに行くつもりでいたということが、どう重要なんでしょうか。

「とんでもない、みなさん」

「ドミートリイ」は両手を打ち鳴らしました。

「せめてこれだけは書かないでください、恥を知るもんですよ! だって僕は、いわばあなた方に前に心を真っ二つに割ってみせたんですよ、ところがあなた方はそれをいいことにして、両方の切り口を指でひっかきまわしてるんだ・・・・ああ、やりきれない!」

「せめてこれだけは書かないでください」とは、「カテリーナ」に千五百ルーブルを借りに行くつもりだったということですね。


彼は絶望にかられて両手で顔を覆いました。


2018年7月5日木曜日

826

「ミーチャ」は蒼白でした。

極度に興奮していたにもかかわらず、その顔はやつれきり、疲れはてた表情でした。

「あなたの気持がわかりかけてきました、ドミートリイ・フョードロウィチ」

検事が穏やかに、むしろ同情してさえいるかのように、間延びした口調で言いました。

「しかし、それらすべては、まあ、あなたの問題でしょうが、わたしに言わせると神経にすぎませんよ・・・・病的な神経です、そうですとも。それに、たとえば、ほとんどまる一ヶ月にも及ぶそれほどの苦しみから解放されるために、なぜあなたにお金を預けられたそのご婦人のところへ行って、千五百ルーブルをお返しになっちゃいけないんでしょうね。そして、その方と十分話し合われたあと、先ほどのお話のように当時のあなたの経済状態が実にひどかったことを考えるならば、どうしてごく自然に頭にうかんでくる構想を試みてみなかったんですか。つまり、あなたの過ちをその方にいさぎよく打ち明けたあと、なぜあなたの支出に必要な金額を頼んでごらんにならなかったんでしょう、そうすればその方だって、もともと寛大なお心の持主だし、あなたの窮状をごらんになれば、もちろん断わりはしなかったでしょうに。特に、借用証を書くとか、あるいは、いよいよとなれば、あなたが商人のサムソーノフやホフラコワ夫人に提供なさろうとした担保を保証にしたっていいじゃありませんか? だって、あなたは今でもあの担保を値打ちのあるものと見なしておられるんでしょう?」

「ミーチャ」は突然、真っ赤になりました。

「本当にあなたは僕をそれほどまで卑劣漢と思っているのですか? あなたが本気でそんなことを言うなんて、ありえない話だ!」

検事の目を見つめ、今耳にした言葉が信じられぬかのように、彼は憤りをこめて言い放ちました。

「はっきり申しあげますが、本気ですとも・・・・なぜ本気じゃないとお考えになるんです?」

今度は検事がびっくりする番でした。

「ドミートリイ」と検事の話は噛み合っていません、検事はお金をかりることと、そのお金をどう使うかということが別物だと考えています、しかし当事者である「ドミートリイ」にとっては単なるお金ではなく、意味のあるお金であり、心の中でそれを忘れることはできないのです、しかし両者の立場上から言えば当然の会話の成り立ちかもしれません。


「ああ、そんなことをしたら、それこそ卑劣じゃありませんか! みなさん、あなた方は僕を苦しめているってことが、わかってるんですか! わかりました、何もかも言いましょう。いいですとも、こうなったらもう僕の地獄に堕ちた心をすっかりさらけだしますよ。しかし、それはあなた方を恥じ入らせるためにです。人間のさまざまな感情の組合せが、どこまで卑劣になりうるものか、当のあなた方だってびっくりするでしょうよ。実はね、僕自身もそんな構想をいだいていたんです、今あなたがおっしゃったのと同じ構想をね、検事さん! そうなんです、みなさん、この呪わしいひと月の間ずっと、その考えが心にあったんです。そのために、ほとんどもうカーチャを訪ねる決心を固めかけていたほどでした、そこまで卑劣になっていたんです! しかし、あの人を訪ねて、僕の心変りを打ち明けたあげく、その心変りのために、金を頼んで(頼むんですよ、いいですか、頼むんですからね!)、そのあとすぐにほかの女と、あの人のライバルと、あの人の仇敵であり侮辱した当人である女と駆落ちするなんて-冗談じゃありませんよ、あなた正気ですか、検事さん!」


2018年7月4日水曜日

825

検事が大声で笑いだし、予審調査官も笑いました。

「わたしに言わせれば、ご自分を抑えて、全部使ってしまわなかったのは、むしろ分別のある、道義的なことだと思いますがね」

「ネリュードフ」が含み笑いして言いました。

「だってべつにそれほどのことはないじゃありませんか?」

「しかし、盗んだんですからね、そうでしょうが! ああ、あなた方の無理解には、そら恐ろしくなりますね! その千五百ルーブルを縫いこんだ袋を胸にさげて持ち歩いている間ずっと、僕は毎日、毎時間、『お前は泥棒だ、お前は泥棒だ!』と自分に言いつづけてきたんです。このひと月僕が荒れていたのも、レストランで喧嘩したのも、親父を殴ったのも、みんな、自分は泥棒だと感じていたからなんだ! この千五百ルーブルの件は、弟のアリョーシャにさえ打ち明ける決心がつかなかったし、その勇気がありませんでした。それほどまで、自分を卑劣漢のこそ泥と感じていたんです! でも、きいてください、その金を身につけていた間、同時に一方では毎日、毎時間、『いや、ドミートリイ、ひょっとすると、お前はまだ泥棒じゃないかもしれないぞ』と自分に言っていましたよ。なぜだと思います? ほかでもない、明日にも行って、その千五百ルーブルをカテリーナに返すことができるからですよ。それなのに昨日、フェーニャのところからペルホーチンの家へ行く途中、僕はその袋を頸から引きちぎる決心をしたんです。その瞬間まで決心がつきかねていたのに、ひきちぎったとたん、その瞬間に僕はもう、決定的な文句なしの泥棒に、一生涯、泥棒に、恥知らずな人間になってしまったんです。なぜだと思います? なぜって、カーチャのところへ行って『僕は卑劣漢だけれど、泥棒じゃない』と言う夢まで、袋といっしょに引き裂いてしまったからですよ! 今度はわかったでしょう、わかりましたか!」

「レストランで喧嘩した」というのは、「スネギリョフ」の一件でしょうか。

「ドミートリイ」にとって、胸に下げた千五百ルーブルの袋は、自分は泥棒だという気持ちとそうじゃないという正反対の気持ちをおこさせるものだったのですね、また、「昨日、フェーニャのところからペルホーチンの家へ行く途中、僕はその袋を頸から引きちぎる決心をした」と言っていますがそんなことは書かれていませんでした、あらためて(717)のところを見ると「その手はどうなさったんですか、ドミートリイさま、血まみれで!」「うん」「ミーチャ」は機械的に答えて、ぼんやり両手を眺めたが、すぐに手のことも、「フェーニャ」の質問も忘れました。彼はまた沈黙にふけりました。駆けこんできたときから、すでに二十分ほどたっていました。先ほどの驚愕は消えましたが、どうやら、今度はもう何か新たな不屈の決意がすっかり彼を捉えたようでした。彼はだしぬけに席を立つと、考え深げに微笑しました。この「何か新たな不屈の決意」というのが、袋を引きちぎる決意だったことがわかります、そして(718)で「ここで文無しであったはずの「ドミートリイ」が、突然札束を持っているのですが、これは「フョードル」が「グルーシェニカ」のために用意した三千ルーブルを奪ったとしか考えられませんね、しかし、今右手でわしづかみにしている札束は、少なくとも先ほど「フェーニャ」たちのところにいる時はまだわしづかみにしているわけではありません、仮に「フョードル」のところで札束を手に入れ、わしづかみにしていれば、「フェーニャ」たちの家の手前でわしづかみにした札束をポケットにしまいこんだことになるのですが、このような呆然とした状態の「ドミートリイ」がそのような面倒なことをするとは思えません、ということは「ペルホーチン」に家に行く途中でわしづかみにしたということになります。」と書いたのですが、「フェーニャ」の家を出てきっかり十分後、八時半に「ペルホーチン」の家に行っていますので、この十分間に袋を引きちぎったのですね。

「なぜ、ほかでもない昨夜、そう決心なさったんです?」

「ネリュードフ」がさえぎろうとしかけました。

「なぜですって? こっけいな質問ですね。なぜって、朝の五時に死のうと決めたからですよ。夜明けにここでね。『どうせ死ぬんなら、卑劣漢だろうと、高潔な人間だろうと、同じことじゃないか!』と思ったんです。ところが、とんでもない、同じじゃないってことがわかりましたよ! 信じていただけないかもしれませんがね、みなさん、この一晩何よりも僕を苦しめたのは、あの老僕を殺したことでもなければ、シベリヤの脅威が、しかもせっかく僕の恋が成就してふたたび青空がひらけた矢先に、シベリヤの脅威が迫っているということでもない! そう、それも苦しかったにはちがいないけれど、それほどじゃなかった。つまり、自分がとうとうこの呪わしい金を胸から引きちぎって、使ってしまった、従って今やもう僕は決定的な泥棒なのだという、呪わしい自覚にくらべれば、それほどじゃありませんでしたよ! そう、みなさん、僕は心からの思いをこめてくりかえしますが、この一夜にずいぶん多くのことを知りました! 卑劣漢では生きていけないばかりか、卑劣漢では死ぬこともできないのを、僕は知ったんです・・・・そう、みなさん、心清く死ななければいけないんですよ!」

「ドミートリイ」の「卑劣漢では生きていけないばかりか、卑劣漢では死ぬこともできない」という言葉は印象的です、しかし彼が自殺をしなかったのは別の理由からですのでこの説明では説得力がありません、「みなさん、心清く死ななければいけないんですよ!」というのは心清く生きなければならないという著者のメッセージかもしれませんが。


ここで亀山郁夫訳では、「卑劣漢」ではなく「卑怯者」になっていますのでこの部分は「・・・・卑怯者のまま生きることが不可能なだけじゃなく、卑怯者のまま死ぬことも不可能なんだってことを・・・・いいえ、みなさん、死ぬときは誠実でなくちゃいけない!・・・・」となっています、「卑怯者のまま死ぬこと」が不可能とはちょっとハードルが高すぎるのではないでしょうか。


2018年7月3日火曜日

824

「かりに何らかの差があるとしても、ですね」

検事が冷たい笑いをうかべました。

「それにしても、あなたがその点にそれほど決定的な相違を見ておられるのは、やはりふしぎですね」

「そう、決定的な相違を見るんですよ! 卑劣漢にはだれだってなれるし、現にどんな人間だって卑劣漢かもしれない。しかし、泥棒にはだれもがなれるわけじゃなく、最低の卑劣漢だけがなるんです。この微妙な点はうまく言えませんがね・・・・ただ、泥棒ってのは卑劣漢より、さらに卑劣ですよ、これが僕の信念なんです。いいですか、僕はまるひと月もその金を身につけて持ち歩いていて、明日にも返す決心をすることができる。そうすりゃもう僕は卑劣漢じゃない。それなのに、どうにも決心がつかないんだ。こういうわけですよ。毎日、決心しそうになり、毎日『早く決心しろ、卑劣漢め、決心するんだ』と自分をせきたてながら、まるひと月も決心をつけられずにいるんです、そうなんですよ! どうです、立派でしょう、あなた方のお考えじゃ、立派なことですか?」

「卑劣漢」という言葉がよく出てきますが、今はあまり使われない言葉ですね、ネットの辞書で意味を調べてみました、「卑劣漢」とは「低劣な人間を表す言葉」だそうで、類語としては「クズ野郎 ・ 男の風上にもおけない人間 ・ クズ ・ ゲス ・ クズ人間 ・ 下衆の極み ・ 下衆 ・ 下種な男 ・ 性根の腐った奴 ・ クズヤロー ・ ゴミ ・ ゴキブリ ・ ウジ虫 ・ 社会の癌 ・ DQN ・ 卑劣漢 ・ 人間のクズ ・ クズのような人間 ・ 愚劣の極み ・ 下品な男 ・ 下賎な男 ・ ゲス野郎 ・ 人の風上にも置けないヤツ ・ 人間の屑 ・ 最低の人間 ・ 卑劣な野郎 ・ 蛆虫 ・ ウジ虫野郎 ・ 蛆虫野郎」と気分が悪くなりそうな単語ばかりです、この「卑劣漢」という言葉は亀山郁夫訳では「卑怯者」となっています。

「ドミートリイ」は「泥棒ってのは卑劣漢より、さらに卑劣ですよ、これが僕の信念」だと言っています、ロシア語ではどうなっているのかわかりませんが、ここで「卑劣」というのは、「ずるい」ということ、「泥棒」というのは文字通り「盗むこと」つまり犯罪であるということかもしれません、また、「卑劣」というのは「現にどんな人間だって卑劣漢かもしれない」と彼が言っているように、誰でも程度の差はあるが「卑劣」性は持っているのかもしれません、そして「泥棒」というのは、彼が「泥棒にはだれもがなれるわけじゃなく」と言っているように、「卑劣」とは全く違うことです、「卑劣」は程度の差で計れますが、「泥棒」は程度の差は関係なく、どんな小さいことでもやってしまえばそれは完全に「泥棒」なのです、そこにな大きな違いがあります、ただ彼は「卑劣」と「泥棒」にこのような質的な差異を認めながらも、「最低の卑劣漢だけが泥棒になる」とも言っているように、そこに一連性があるとも言っていますね、これは「泥棒」の属性の中に多くの「卑劣」が含まれているということでしょう。

「まあ、あまり立派なことではないとしても、わたしはよくわかりますし、その点では異議はありませんね」

検事が控え目に言いました。

「それに概して、そういう微妙な点や相違についての議論はいっさいあとまわしにして、お差支えなければまた本題に移っていただけませんか。要するに、いったい何のために最初その三千ルーブルを二つに分けられたのか、つまり半分は使ってしまい、あとの半分をしまっておかれたのかを、われわれがおたずねしたのに、まだご説明いただいてないものですからね。いったい何のためにしまっておかれたんですか、ドミートリイ・フョードロウィチ」

「おお、本当にそうでしたね!」

自分の額をたたいて、「ミーチャ」は叫びました。

「すみません、あなた方をいらいらさせるだけで、いちばん肝心の点を説明しないなんて。さもなければ、すぐにわかっていただけたはずなのに。なぜならその目的に、まさに目的に恥辱があるんですから! 実は、これもみな、死んだ親父のせいなんです。親父はかねてグルーシェニカに言い寄っていたし、僕は嫉妬して、そのころは彼女が僕と親父の間で迷っているのだと思っていました。そして、ふいに彼女が決心したら、もし僕を苦しめるのに疲れて、だしぬけに『あたしが愛しているのはお父さんじゃなく、あなたよ。世界の果てへ連れて行って』と言ったら、どうしようと、毎日そんなことばかり考えていたんです。僕には二十カペイカ銀貨がたった二枚しかない、駈落ちする金はどうしようか、そうなったらどうすればいいだろう、何もかも終りだ。僕はそのころ彼女の人柄を知らなかったし、理解していなかったもんだから、彼女に必要なのは金だ、彼女は僕の貧乏を許してはくれまい、と思っていました。そこで、悪賢く三千ルーブルのうち半分を取りわけて、いとも冷静に針で縫いこんだんです。打算があって縫いこんだわけです。縫いこんだのは飲みに行く前のことで、もうちゃんと縫いこんでしまったあと、残りの半分で飲みに繰りだしたんですよ! そう、これは卑劣な行為だ! これでわかったでしょう?」


千五百ルーブルは、もしもの場合にとっておいたのですね、たしかにこれは「卑劣」というしかないでしょう。


2018年7月2日月曜日

823

「しかし、どうしてでしょうね」

苛立たしげに検事が苦笑しました。

「すでにけしからぬ方法で、いや、もしお望みなら、恥ずべき手口で着服した三千ルーブルのうち、ご自分の判断で半分だけ取りわけておいたことが、どうしてそんなに恥辱なんです? より重要なのは、あなたが三千ルーブルを着服したことで、それをどう処理したかじゃないでしょうに。ついでにおたずねしますが、なぜそんなふうに処理なさったのです、つまり、半分だけ取りわけるなんて? 何のために、どういう目的でそうなさったのか、ご説明ねがえませんか?」

これはもっとも普通で自然な意見と質問ではないかと思います。

「ああ、みなさん、その目的こそ、重要な点なのです!」

「ミーチャ」は叫びました。

「取りわけたのは、卑劣さからです、つまり打算からなんですよ。なぜって、この場合の打算は卑劣さにほかなりませんからね・・・・しかも、まるひと月もその卑劣さがつづいていたんですよ!」

「わかりませんね」

「あなた方にもおどろきますね。しかし、もうちょっと説明しましょう、もしかすると本当にわかっていただけないかもしれませんから。いいですか、僕の話をよくきいてください。かりに僕が、正直さを見込んで預けられた三千ルーブルを着服して、その金で豪遊し、すっかり使いはたしたあげく、翌朝あの人のところへ行って、『カーチャ、すまない、僕は君のあの三千ルーブルで遊んじまったんだ』と言うとしますよ。そうですか、いいことでしょうかね? とんでもない、よくないことです。恥知らずで、小心で、けだもので、けだものに堕すまで自制できない人間ということになる、そうでしょう。そうでしょうが? しかし、それでも泥棒じゃありませんよね? 本当の泥棒じゃない、そうでしょう! 遊びに使いはしたけれど、盗んだわけじゃありませんからね! ところで今度は第二の、さらに有利な場合です。よくきいてください、でないと僕はまた話がもたつくから。なんだか、めまいがするもんでね。ところで第二の場合です。僕がここで三千のうち千五百だけ、つまり半分だけ使ったとしますよ。翌日あの人のところへ行って、あとの半分を返すんです。『カーチャ、恥知らずの、軽薄な卑劣漢から、この半分を受けとっておくれ。なぜって、半分は遊びに使っちまったし、あとの半分も使ってしまいそうだから。僕に罪を作らせないでおくれ!』この場合はどうです? けだものでも、卑劣漢でも、何でもかまわかいけれど、今度はもう泥棒じゃない。絶対に泥棒じゃありませんよ。だって、もし泥棒なら、きっと残りの半分を返したりせず、着服しちまうでしょうからね。そうすれば彼女はこう思うでしょう。こんなにすぐ半分を持ってくるくらいだから、あとの金、つまり使いこんだ分も持ってくるだろう。一生かかって金を探し、働いて、いずれ金を見つけて返しにくるだろうってね。こういうわけで、卑劣漢ではあっても、泥棒じゃない。どう思おうと勝手ですが、泥棒じゃありませんよ!」

「あなた方にもおどろきますね。」とは、軽率な言い方ですね、普通の人には「ドミートリイ」の気持ちはわかりません、ただ彼が自己中心的なだけです。

「ドミートリイ」の説明は小学生に説明するようにわかりやすいのですが、破綻しているのではないでしょうか、彼は「泥棒」が一番の悪だと認識しています、客観的には彼のしたことは明らかに「泥棒」行為以外なにものでもありません、このことは彼もわかっています、「ドミートリイ」ははっきり言って広義の「泥棒」なのです、社会的にはそれを「泥棒」と言うのです、しかし彼は自分の心の中ではいろいろと理由をつけて「泥棒」ではないと自分を自分で納得させようとしています、つまり自分は「卑劣漢ではあっても、泥棒じゃない」と言っています、この辺が彼独特の考え方です、自分の気持ちの上では「泥棒」じゃないというわけですがこのようなことは社会的には通用しませんね、そこで三千ルーブルの半分を取り分けた問題ですが、これは社会的なことはすべて棚上げして、自分の内心の問題だけになります、しかしこの自分の内心の中に、もう一人の他人つまり「カテリーナ」の意識が入ってきます、全額使い込んだ場合と半分返還した場合との、相手方の気持ちの違いが述べられています、その内容はあくまで推測になるのでどうでもいいのですが、「ドミートリイ」はそこに大きな意味を付け加えるのです、しかし彼の考えは元婚約者の「カテリーナ」ということではなく、彼女も他人として考えようとしていますので、破綻が生じるのだと思います、要するに「ドミートリイ」の言い訳にすぎないと思うのですが、(822)で「けしからぬ行為」と「恥ずべき行為」についての個人と社会の認識の違いが「人間の本質を問う」という文学作品だからこそなしうることのできる究極の問題提起なのではないかと思います」などと書きましたが、今回の場合はそれとは違います、おそらく作者も、弁解じみたわかりにくさをいろいろと「ドミートリイ」に述べさせているのはそのせいでしょう。


要するに、「ドミートリイ」は半分お金を返したら、相手はそんなに怒らないだろうと、いや怒れないだろう、それを見越して半分は使わずに取っておいた、その打算的なところが自分の卑劣さだというのでしょう、たしかにそれはそうでしょう、そしてその卑劣を卑劣とわかった上である意味平然と日常生活を送る自分を肯定的に思う自分に違和感を感じるのでしょう。


2018年7月1日日曜日

822

「それは妙ですな。それじゃ、まるきりだれにも?」

「まるきりだれにも。どこのだれにも話していません」

「しかし、なぜそんなに内緒にしておられたのです? そのことをそれほど秘密にせねばならなかった動機は、いったい何ですか? もっと正確に説明しましょう。あなたはついに秘密を打ち明けられた。あなたのお言葉によると、きわめて《恥ずべき》秘密だそうですが、しかし実際のところ、と言ってももちろん比較的というにすぎませんが、その行為は、つまり他人の三千ルーブルを流用した行為、それも疑いもなくごく一時的な流用にすぎませんが、少なくともわたしの目から見ればその行為は、きわめて軽率な行為でしかありませんよ、しかし、そのほか、あなたの性格も考慮に入れるなら、それほど恥ずべき行為とは言えないですね・・・・まあ、かりに、きわめてけしからぬ行為であるとしてですよ、それにはわたしも同意しますが、あくまでもけしからぬというだけで、やはり恥ずべき行為とは言えませんよ・・・・つまり、大体わたしが言いたいのは、あなたがばらまかれた例の三千ルーブルがカテリーナさんのお金であることは、あなたの供述を待つまでもなく、この一ヶ月というもの、すでに大方の人間が推察していたということです、わたし自身そうした風説を耳にしましたし・・・・たとえば、マカーロフ署長もやはり小耳にはさんでいます。ですから結局のところ、それはほとんどもう風説じゃなく、町じゅうの噂になっていたんですよ。そのうえ、もしわたしの思い違いでなければ、あなた自身それをだれかに打ち明けた形跡もある。つまり、その金がカテリーナさんのものだということをですね・・・・ですから、あなたが今まで、つまり今のこの瞬間まで、あなたの言葉によればべつに取りわけたその千五百ルーブルのことを、それほど極度の秘密になさって、その秘密に何か恐怖さえ結びつけておられたのが、わたしにはあまりにもふしぎでならないのです・・・・その程度の秘密を打ち明けるのが、あなたにとって、それほどの苦痛に値するなんて、信じられないんですよ・・・・なぜって、あなたは今、打ち明けるくらいなら、懲役に行くほうがましだとまで絶叫なさったのですからね・・・・」

それに「カテリーナ」が「ドミートリイ」の元婚約者という点も考慮して「けしからぬ行為」にすぎないという判断材料に加えてもいいのではないでしょうか、まったくの他人ではないのですから。

三千ルーブルの出所が「カテリーナ」だという風説があるのを検事たちが知っていたというのは意外でした、しかし、風説はそうでも検事たちはやはり「ドミートリイ」をうたがっていますね、そして検事は「けしからぬ行為」と「恥ずべき行為」を明確に分けています、しかし、検事にとっての、また一般大衆にとってもそうかもしれませんが彼らの言う「けしからぬ行為」は「ドミートリイ」にとっては全く正反対なことなのです、検事は「けしからぬ行為」を世間でよくあるような軽いことだとしてすまそうとしていますが、「ドミートリイ」にとってはそれこそが自己倫理に照らし合わせて生きるか死ぬかに匹敵する「恥ずべき行為」なのです、ではいったい検事の言う「けしからぬ行為」と「恥ずべき行為」はどう違うのでしょう、おそらく「けしからぬ行為」というのは「社会」を基準に想定しているのであり、「恥ずべき行為」は「個人」を基準にしているのだと思います、ではどっちが重要で重いのでしょうか、「ドミートリイ」にとっては「恥ずべき行為」が自分を律する唯一の基準であることは確かなのですが、これは「人間の本質を問う」という文学作品だからこそなしうることのできる究極の問題提起なのではないかと思います。

検事は口をつぐみました。

彼はむきになっていました。

ほとんど憎悪に近いほどの憤りを隠そうともせず、もはや文体の美しさなどには心も砕かず、つまり脈絡もなしに、支離滅裂といってよい口調で、胸につもっていたことを残らずぶちまけました。

「千五百ルーブルに恥辱があるのではなく三千ルーブルのうち千五百ルーブルを取りわけた点にあるんですよ・・・・」


「ミーチャ」が毅然として言いました。