2018年3月21日水曜日

720

「プロトニコフの店へね、それは結構だ!」

「ドミートリイ」はこの時点でもうモークロエに行く決心をしていたのですね、(717)の「フェーニャ」の家で話しているときに「先ほどの驚愕は消えましたが、どうやら、今度はもう何か新たな不屈の決意がすっかり彼を捉えた・・・・」と書かれていますので、このときに決心したのでしょう、また、モークロエに行くときはピストルを持って行くということも。

ピストルと持って行くということはもしかして万が一の場合は「グルーシェニカ」の相手の将校を撃ち殺し、自分も彼女も死ぬ気だったのかもしれませんね。

ふと何かの考えがうかんだように、「ミーチャ」も叫びました。

「おい、ミーシャ」

入ってきた少年に彼は声をかけました。

「あのな、プロトニコフのところへ一走りして、ドミートリイ・カラマーゾフがよろしく言ってたと伝えてくれ、今本人が来るからって・・・・それから、いいか、俺が行くまでにシャンパンを、そう三ダースばかり、いつかモークロエへ繰りだしたときのように馬車に積みこんでおくようにな・・・・そのときはあの店で四ダースも買いこんだんですよ」

だしぬけに彼は「ペルホーチン」をかえりみて言いました。

「先方で承知してるから、心配ないぞ、ミーシャ」

彼はまた少年をふりかえりました。

「それと、いいか、チーズと、ストラスブール・ピローグ(訳注 鵞鳥のペーストをつめたピローグ)と、鮭の燻製と、ハムと、イクラと、とにかくあの店にあるものを全部、そうさな、この前と同じように百ルーブルか、百二十ルーブル分くらいだ・・・・それに、いいかね、手みやげを忘れんようにな、キャンディと、梨と、西瓜を二つか三つ、それとも四つかな、いや、西瓜は一つでたくさんだ、それにチョコレートと、ドロップと、ゼリーと、ヌガーか、とにかくあのときモークロエへ持って行ったものを全部だ、シャンパンとこみ(二字の上に傍点)で三百ルーブル分くらいな・・・・今度もあのときとそっくりに同じにさせてくれ。よくおぼえて行けよ、ミーシャ・・・・たしかお前はミーシャといったな・・・・この子はミーシャというんでしたね?」

「ストラスブール・ピローグ」とは「鵞鳥のペーストをつめたピローグ」との説明があります、ストラスブールとはフランス北東部のライン川左岸に位置するグラン・テスト地域圏の首府であり、バ=ラン県の県庁所在地でもあるそうです。

ネットで調べているとある方のブログで、プーシキンの「エヴゲーニン・オネーギン」の描写に現れる西欧の料理として、その中のひとつに「ストラスブールのビローグ」と出ていました。

当時のロシアでは西欧風の料理として流行っていたのかもしれませんね。

日本では通常「ピロシキ」と呼ばれているのですが、ロシアではいろいろの種類があるようです。

ちなみに、光文社の文庫本「カラマーゾフの兄弟3」(亀山郁夫訳)205ページには「ストラスブール・パイ」と訳されていました、パイでもピローグでも同じようなものだと思いますが、訳注に鵞鳥のペーストをつめたとありますのでフォアグラのことかもしれないと思い、ネットを眺めていると「ストラスブール名物?フォアグラパテ入りのパイも」とかいう写真が出ていましたので、もしかしてこれのことかもしれません。

また彼は「ペルホーチン」をかえりみました。

「まあ、お待ちなさい」

不安そうに話をきき、じろじろと眺めながら、「ペルホーチン」がさえぎりました。

「それよりご自分でいらして、そのときにおっしゃるほうがいいでしょう。注文を間違えそうだから」

「間違える、たしかに間違えそうだな! おい、ミーシャ、厄介なことを頼むお礼にキスでもしてやる気になっていたんだけどな・・・・もし注文を間違えなかったら、十ルーブルやるから、大急ぎでとんでくれ・・・・シャンパンだぞ、大事なのはシャンパンを運びださせておくことだ。これにコニャックと、ぶどう酒は赤と白を両方、全部あのときと同じだ・・・・あのときのことは先方が承知しているから」

「まあ、おききなさい!」

もはやしびれを切らして、「ペルホーチン」がさえぎりました。

「いいですか、この子はただ両替に走らせて、店を閉めぬように言わせるだけでいいんです、あとはあなたが行って、ご自分で注文するほうがいい・・・・その紙幣を一枚よこしなさい。さ、行ってこい、ミーシャ、大至急だぞ!」

「ペルホーチン」はどうやら、ことさら急きたてて「ミーシャ」を追いだしたようでした。

この「ペルホーチン」という人はなかなか落ち着いています、はじめに「ドミートリイ」についた血を見ても動転した様子はありませんでしたし、また適切な行動をとる人ですね。


それというのも、少年が客の前にあらわれるなり、客の血だらけの顔や、ふるえる指で札束を握りしめている血まみれの手に目を見はって、おどろきと恐怖に口を開けたまま、棒立ちになり、確かに「ドミートリイ」の注文したものなぞ、ろくにわかっていない様子だったからです。


2018年3月20日火曜日

719

玄関に「ミーチャ」を出迎えた召使の少年があとで語ったところによると、彼は金をわしづかみにしたまま玄関に入ってきたというから、つまり、通りをずっとこうやって、右手に握った金を前につきだしたまま走ってきたのでしょう。

札はみんな虹色の百ルーブル紙幣ばかりで、彼はそれを血まみれの指で握っていました。

「ペルホーチン」は後日、その金はどれくらいあったかという関係者の質問に、あのときに目分量で計算するのはむずかしかったが、おそらく二千か三千ルーブルあったかもしれないし、札束は厚い《ずっしりした》ものだったと申し立てました。

これらの文章からもわかるように、やはり彼は「フェーニャ」の家を出てから「ペルホーチン」の家の向かう道のどこかでその「二千か三千ルーブル」を調達したのであって、私はこの先の展開を知っているからこそそのことに気づいているのですが、「札束は厚い《ずっしりした》もの」の《ずっしりした》というのは、これは重要なことでありはじめての読者は後でその意味に気づくと思います。

やはり後日の彼の証言によれば、当の「ドミートリイ」の様子は『まったくわれを失っていたようであるが、酔っていたわけではなく、まるで何かに感激したみたいに、ひどく放心状態だった一方、思いつめていたようでもあって、まるで何事か考えて解決しようと努めながら、解決できないみたいだった。ひどくあせっていて、返事もつっけんどんな、非常にへんてこなものだったし、ときおりはまるきり悲しみにとざされぬばかりか、陽気にさえなったかのようだった』といいます。

「それにしても、どうしたんです、何かあったんですか?」

肝をつぶして客をじろじろ眺めながら、「ペルホーチン」はまた叫びました。

「どうしてそんなに血だらけなんです、ころんだんですか、まあ見てごらんなさい!」

彼は相手の肘をつかんで、鏡の前に立たせました

「ミーチャ」は血を塗りたくったような自分の顔を見て、びくりとふるえ、腹立たしげに眉をひそめました。

「えい、畜生! おまけにこの有様だ」

彼は憎さげにつぶやくと、右手の札束を急いで左手に持ちかえ、気ぜわしげにポケットからハンカチをつまみだしました。

「右手の札束を急いで左手に持ちかえ」とは細かい表現ですね、そして服かズボンかは書かれていませんが、ポケットは当然あるわけです、ということは仮に「フョードル」の部屋から三千ルーブルを取ったとすれば、「フェーニャ」の家に入る前にその三千ルーブルをポケットに入れたことになります、しかし、彼は作者が「右手に握った金を前につきだしたまま走ってきたのでしょう」と書いているように右手に札束を持っていたのですから三千ルーブルを入れたのは右側のポケットだったということになり、服かズボンかはわかりませんが、呆然とした状態の「ドミートリイ」ですのでそのハンカチといっしょに入れていた可能性もあるわけですが、やはり「フョードル」の部屋から三千ルーブルを取ったという考えには無理があるでしょう。

しかし、ハンカチもすっかり血染めになっていることがわかりました(ほかならぬこのハンカチで、グリゴーリイの頭や顔を拭いてやったのである)。白いところはほとんど一個所もなく、しかも血が乾きはじめたなどという段階ではなく、ごわごわに固まって、どうにもひろがろうとしませんでした。

「ドミートリイ」はいまいましげにハンカチを床にたたきつけました。

「えい、畜生! お宅に何かぼろ布はありませんか・・・・拭きとりたいんだけど・・・・」

「じゃ、血で汚れたたけで、怪我はしてないんですね? だったら洗うほうがいいですよ」

「ペルホーチン」は答えました。

「さ、洗面器です、お貸ししましょう」

「洗面器? それはありがたい・・・・ただ、こいつをどこへやりますかね?」

なにやらまったく異様な困惑におちて、彼は百ルーブル紙幣の束を「ペルホーチン」に示し、まるで彼自身の金のしまい場所を相手に決めてもらうのが当然といわんばかりの、もの問いたげな様子で眺めました。

「ポケットにしまいなさいよ、でなけりゃ、このテーブルの上に置くんですね、なくなりゃしませんから」

「ポケット? そう、ポケットがいいな。そいつはいい・・・・いや、あのね、そんなのはどうだっていいんです!」

ふいに放心状態から脱したのように、彼は叫びました。

「あのね、最初に例の件を片づけましょうや、ピストルですよ。あれを返してください、これがお金です・・・・なぜって僕はひどく、ひどく必要なんですよ・・・・それに時間も、時間も全然ないし・・・・」

そして札束からいちばん上の百ルーブル紙幣をとって、官吏にさしだしました。

「でも、お釣りがありませんよ」

相手が注意しました。

「細かいのはないんですか?」

「ないんです」

また札束を眺めやって、「ミーチャ」は言うと、自分の言葉に自信がもてぬかのように、上の二、三枚を指でしらべてみました。

「ないですね、みんな同じだ」

彼は付け加え、またもの問いたげに「ペルホーチン」を見つめました。

「それにしても、どこからこんな大金を手に入れたんです?」

相手はたずねました。

「ペルホーチン」の質問に「ドミートリイ」は全く答えていませんね、しかし「ペルホーチン」は当然彼が犯罪を犯したことに気づいており、何とかしようと対応を考えているのでしょう。

「待ってくださいよ、うちの小僧を一走りプロトニコフの店へやりましょう。あそこは店を閉めるのも遅いから、両替してくれるんじゃないかな。おい、ミーシャ!」


彼は玄関に向って叫びました。


2018年3月19日月曜日

718

「旦那さま、何があったんでございます?」

「フェーニャ」がまた彼の両手を指さしながら、言いました。

悲しみに沈む今の彼にいちばん身近な存在であるかのような、同情のこもった口調でした。

「ミーチャ」はあらためて自分の手を眺めました。

「これは血だよ、フェーニャ」

異様な表情で彼女を見つめながら、彼はつぶやきました。

「これは人間の血だ、ああ、何のためにこの血を流してしまったんだろう! だけどな、フェーニャ・・・・ここに一つの塀がある(彼は謎をかけるように彼女を眺めた)。高い、見るからに恐ろしい塀だ。でも・・・・明日の夜明け、《太陽がさし昇る》ころ、このミーチェニカはその壁をとびこえるんだよ・・・・どんな塀か、お前にはわからないだろうな、フェーニャ。だけど、かまわんさ・・・・どうせ明日になれば耳に入るし、何もかもわかるんだから・・・・今は、さようなら! 邪魔しないで、身を引くよ、俺だって身を引くことくらいできるだろう。俺の喜びよ、達者に暮してくれ・・・・ほんのいっときでも俺を愛してくれたのなら、このミーチェニカ・カラマーゾフを永久におぼえていておくれ・・・・だって彼女はいつも俺のことをミーチェニカとよんでくれたものな、おぼえているだろう?」

なんだか、悲しいセリフですね、「壁」とは何でしょう、「壁」の向こうとは死の世界でしょうか、「俺の喜びよ、達者に暮してくれ」とは「グルーシェニカ」のことですね。

この言葉とともに彼はふいに台所を出て行きました。

「フェーニャ」は、さっき彼が駆けこんでくるなり、とびかかってきたときにもまして、この出て行き方にいっそう震えあがりました。

きっかり十分後、「ドミートリイ」はさっきピストルを抵当に預けてきた例の若い官吏、「ピョートル・イリイチ・ペルホーチン」の家に入って行きました。

「ピョートル・イリイチ・ペルホーチン」というのは、(700)で登場した、飲屋《都》で知り合った武器のマニヤの若い官吏のことですね、名前が出てきたのはここがはじめてです。

すでに八時半で、「ペルホーチン」は家でお茶を十分飲んだあと、飲屋《都》へ球を撞きに行くため、またフロックに着かえたばかりのところでした。

「ミーチャ」は出がけの彼をうまくつかまえました。

相手は彼の姿と、血まみれの顔を見て、思わず叫びました。

「たいへんだ! いったいどうしたんです?」

「実はね」

「ミーチャ」は早口に言いました。

「ピストルをいただきにきたんです、お金は持ってきました。いろいろありがとう、急いでいるもんで、なるべく早く頼みます、ピョートル・イリイチ」

「ペルホーチン」はますますおどろくばかりでした。

「ミーチャ」の手に札束が握られていることに、突然気づいたのです。

何よりおどろいたことに、彼はその札束をわしづかみにしたまま、入ってきたのでした。

札束をわしづかみにして、よその家へ入ってくる者などいないだろうが、彼は紙幣をそっくり右手に握りしめ、まるで見せびらかすようにその右手を前に突きだしていました。


ここで文無しであったはずの「ドミートリイ」が、突然札束を持っているのですが、これは「フョードル」が「グルーシェニカ」のために用意した三千ルーブルを奪ったとしか考えられませんね、しかし、今右手でわしづかみにしている札束は、少なくとも先ほど「フェーニャ」たちのところにいる時はまだわしづかみにしているわけではありません、仮に「フョードル」のところで札束を手に入れ、わしづかみにしていれば、「フェーニャ」たちの家の手前でわしづかみにした札束をポケットにしまいこんだことになるのですが、このような呆然とした状態の「ドミートリイ」がそのような面倒なことをするとは思えません、ということは「ペルホーチン」に家に行く途中でわしづかみにしたということになります。


2018年3月18日日曜日

717

彼は腰をおろして、思案にくれるというのでもなく、なにかぎょっとしたような、呆然としたような感じでした。

しかし、すべては白日のように明らかでした。

あの将校だ-彼はその将校のことを知っていました。

何もかも実によく知っていましたし、当の「グルーシェニカ」からきいて知っていました。

ひと月前に手紙をよこしたことも知っていました。

つまり、ひと月もの間、今その新たな男が到着するまでまるひと月もの間、この件は彼に深く秘して運ばれていたのに、彼はその男のことなぞ考えてもみなかったのだ!

それにしても、どうして考えずにいられたのだろう?

なぜあのときこの将校の話を忘れてしまったのか、その男のことをきいてすぐに忘れてしまったのだろう?

(680)で「ドミートリイ」がこのポーランド人の将校のことを忘れた理由についてあれこれ書きました。

要するに考えるに値しないと思ったのでしょう。

これが何か怪物のように彼の前に立ちはだかった疑問でした。

そして彼は実際にぎょっとし、恐怖に寒けをおぼえながらこの怪物を観察していたのでした。

ここで「ぎょっと」という表現が使われています、この表現はすぐ前にも使われおり、またここではその対象を「怪物」とも表現しています、「ドミートリイ」にしてみれば、こんなことは自分の考えの想定外のことであり、その自分の思い至らなさについての咄嗟の反省もあったのではないでしょうか、次の章で一転して「フェーニャ」にもの静かにやさしく話しはじめたのはそういった自己反省によって、別の自分に切り替わったのではないでしょうか、いや彼の場合自己反省というものはなく、むしろそのことを考えることから逃げだすという衝動が転機のきっかけになっているのかもしれません。

だが彼は突然、たった今「フェーニャ」をあれほど震えあがらせ、侮辱し、苦しめたことなどまったく忘れてしまったように、もの静かなやさしい子供さながら、静かにおとなしく彼女と話しはじめました。

だしぬけに、今の彼の状態からすれば異常な、むしろふしぎなくらいの正確さで、「フェーニャ」にあれこれ質問しはじめたのです。

「フェーニャ」もまた、彼の血まみれの両手をびっくりしたように見つめてはいたものの、やはりふしぎなほど素直に要領よく一つ一つの質問に答えはじめ、《ありのままの事実》を急いで述べてしまおうとするかのようでした。

ここでの「フェーニャ」の態度にも注目すべきものがありますね、彼女も「ドミートリイ」と同じように、恐怖から逃れるために別の自分に転換したのではないでしょうか、人間はそういう行動をとることがあるように思います。

あらゆる細かな事実を彼女は少しずつ、一種の喜びさえおぼえながら語りはじめたが、それとて相手を苦しめるつもりなどまったくなく、心底から精いっぱい彼につくそうとあせっているふうに見えました。

「一種の喜びさえおぼえながら」というところがこの緊迫した状況のもとで現実味をより一層ひきたたせているように思います。

彼女は今日一日の出来事や、「ラキーチン」と「アリョーシャ」の来訪、自分が見張りに立ったこと、奥さまが出かけたときの様子、さらに奥さまが兄さんの「ミーチェニカ」によろしくと窓から「アリョーシャ」に叫び、『ほんのいっときだけれど、あたしが愛していたことを、一生忘れないように』伝えてくれと頼んだことなどを、細かな事実一つにいたるまで話してきかせました。

「アリョーシャ」への伝言の内容まで喋っているのですね。

この伝言をきくと、「ミーチャ」はふいに苦笑し、青ざめた頰にさっと赤みがさしました。

「フェーニャ」はその瞬間、もはや自分の好奇心を少しも恐れずに言いました。

彼女の精神状態は、先ほどの恐怖の状態とは別の次元に行ってしまっていますからこんな素直な質問が出てくるのでしょう。

「その手はどうなさったんですか、ドミートリイさま、血まみれで!」

「うん」

「ミーチャ」は機械的に答えて、ぼんやり両手を眺めたが、すぐに手のことも、「フェーニャ」の質問も忘れました。

彼はまた沈黙にふけりました。

駆けこんできたときから、すでに二十分ほどたっていました。

先ほどの驚愕は消えましたが、どうやら、今度はもう何か新たな不屈の決意がすっかり彼を捉えたようでした。


彼はだしぬけに席を立つと、考え深げに微笑しました。



2018年3月17日土曜日

716

五 突然の決心

彼女は祖母と台所にいました。

二人とも寝支度にかかっていたところでした。

「ナザール」を当てにして、二人はまたしても内側から錠をおろしておきませんでした。

門番頭の「ナザール・イワーノウィチ」のことですね。

「ミーチャ」は駆けこむなり、「フェーニャ」にとびかかり、咽喉をぎゅっとつかみました。

「今すぐ言え、彼女はどこにいる、モークロエで今だれといっしょなんだ?」

狂ったように彼はわめきたてました。

女は二人とも悲鳴をあげました。

「はい、申しあげます、ドミートリイさま、何もかも今申しあげます、何一つ隠しだていたしませんから」

死ぬほど怯えた「フェーニャ」は早口に叫びました。

「奥さまはモークロエの将校さんのところへいらしたんです」

「将校ってだれだ?」

「ミーチャ」はどなりました。

「ドミートリイ」はこの事態を全く予想していなかったのですが、まだ気づかないのでしょうか。

「以前のあの将校さんです。昔の恋人だったあの方です。五年前ここにいらして、奥さまを棄てて、行ってしまったあの人で・・・・」

「フェーニャ」はやはり早口にしゃべりつづけました。

「ミーチャ」は彼女の咽喉をしめつけていた手をはなしました。

彼は死人のように青ざめて声もなく彼女の前に突っ立っていましたが、その目を見れば、すべてをいっぺんに理解したことは明らかでした。

ここに至ってはじめて「ドミートリイ」はわかったのですね。

言葉半ばですべてを最後の一点にいたるまで理解し、何もかも察しとったのです。

もちろん、この瞬間に彼が理解したかどうかを観察するなど、哀れな「フェーニャ」の役柄ではありませんでした。

彼がとびこんできたとき、彼女は長持に腰かけていたのですが、今もそのままで、全身をふるわせ、まるで身を守ろうとするかのように両手を前にひろげ、その姿勢のまま息をひそめていました。

恐怖に瞳孔のひろがった、怯えた目で、彼女は食い入るように相手を見つめていました。

おまけに相手は両手とも血まみれでした。

これは怖いですね、(710)で「フェーニャ」は嘘をつきましたし、興奮して銅の杵を持ち去った「ドミートリイ」に対し「まあ、たいへん、人殺しをする気だわ!」と言っていたくらいですので。

走ってくるみちみち、きっと顔の汗をぬぐうために両手で額にさわったのでしょう、額にも右頬にもこすりつけた血の赤いしみが残っていました。

「フェーニャ」は今にもヒステリーを起しかねぬ様子でしたし、料理女の老婆もとびすさったまま、ほとんど意識を失って、狂人のように見すえていました。


「ドミートリイ」はしばらく棒立ちになっていましたが、突然「フェーニャ」のわきの椅子に機械的に座りこみました。


2018年3月16日金曜日

715

「親殺し!」

老人はあたり一面にひびくような大声で叫びましたが、それだけ叫ぶのがやっとでした。

突然、雷に打たれたように老人は倒れました。

「ミーチャ」の手には銅の杵が握られており、彼は機械的にそれを草の中に投げすてました。

この場面は詳しく描かれていませんが、塀に駆け上ろうとした「ドミートリイ」が「グリゴーリイ」に足をつかまれて引き摺り下ろされたのですね、そして「ドミートリイ」は銅の杵で「グリゴーリイ」の頭を叩き、彼はその杵を「機械的に」投げ捨てたのです。

杵は「グリゴーリイ」から二歩ばかり離れたところに落ちましたが、草の中ではなく、小道のいちばん目立つ場所にでした。

先ほどの文章では、「彼は機械的にそれを草の中に投げすて・・・・」とありましたが、ここでは「草の中ではなく、小道のいちばん目立つ場所」と書かれています、この違いはどういう意味があるのでしょうか。

数秒の間、彼は目の前に倒れている老人をしげしげと眺めました。

老人の頭は血まみれでした。

「ミーチャ」は片手をのばし、さわってみました。

あとになってはっきり思いだしたことですが、彼はその瞬間、老人の頭をたたき割ってしまったのか、それとも杵で頭頂部を殴って《昏倒させた》だけなのかを、《十分に確かめ》たくてならなかったでした。

ということは、その瞬間に「ドミートリイ」は反射的に「グリゴーリイ」を殴ったのであり、少なくとも殺意のようなものはなかったということですね、そこには本人の意志は存在しなかったのです。

だがしかし、血がおそろしい勢いでどんどん流れ、一瞬のうちに「ミーチャ」のふるえる指を熱い流れが浸しました。

彼は、「ホフラコワ夫人」をたずねるときに用意した新しい純白のハンカチをポケットから出し、額や顔の血を拭こうと無意味な努力を重ねながら、老人の頭に押しあてたことをおぼえています。

しかし、ハンカチもたちまち血でずぶ濡れになってしまいました。

『冗談じゃない、何のためにこんなことをしているんだろう?』

ふいに「ミーチャ」はわれに返りました。

『たたき割ったとすりゃ、いまさら確かめてもはじまらない・・・・それに今となっては、どうせ同じことじゃないか!』

突然、絶望的に彼は付け加えました。

「殺したものは殺したんだ・・・・爺さんもわるいところへ来たもんだ、じっと寝てるがいい!」

彼は大声で言い放つと、いきなり塀にとびつき、路地にとびおりて、まっしぐらに走りだしました。

ぐっしょり濡れたハンカチは右の拳に丸めて握っていましたが、彼は走りながらそれをフロックの尻ポケットに突っこみました。

彼は一目散に走りつづけたため、町の通りの闇の中ですれ違った何人かの数少ない通行人は、後日、その夜、狂ったように走ってゆく男に出会ったことを思いだしたものでした。

彼はふたたびモロゾワの家をめざしてとんで行きました。

先ほど「フェーニャ」は、彼が帰るとすぐ門番頭の「ナザール・イワーノウィチ」のところへ駆けつけ、『後生だから、今日も明日も大尉さんを二度と通さぬよう』懇願しはじめました。

「ナザール・イワーノウィチ」は話をききとると、承知しましたが、間のわるいことに急によばれて二階の奥さんのところに行っており、その途中、ごく最近に田舎から出てきたばかりの二十歳くらいになる甥に出会ったので、門番をするよう言いつけたのですが、大尉の件を言っておくのを忘れていました。

門に駆けつけると、「ミーチャ」は扉をたたきました。

若者はすぐに相手を見分けました。

「ミーチャ」はこれまでに一度ならず、この若者に酒手を与えていたからです。

「酒手」(さかて)は、「酒を買う金。さかだい。」のこと。

若者はすぐくぐり戸を開けて、中に入れ、陽気に笑いながら、「アグラフェーナ」さまはただいま留守でございます」と前もって急いで知らせました。

「どこに行ったんだ、プロホル?」

突然「ミーチャ」は立ちどまりました。

「さっきお出かけになりました。二時間ほど前に、チモフェイの馬車でモークロエに」

「チモフェイ」というのはモークロエから迎えにきた馭者ですね。

「何しに?」

「ミーチャ」は叫びました。

「それは存じませんが、どこかの将校さまのところへいらしたので。どなたか、あちらから迎えの馬車をおまわしになったんでございますよ・・・・」

全部言ってしまいましたね。

「ミーチャ」は若者を放りだし、気違いのように「フェーニャ」のところに駆けこみました。


2018年3月15日木曜日

714

714
あのときは神さまが僕を守ってくださったんです、と後日「ミーチャ」はみずから語りました。

まさにちょうどそのとき、病気の「グリゴーリイ」が寝床で目をさましたのです。

その日の夕方、彼は「スメルジャコフ」が「イワン」に話した例の治療を行いました。

つまり、何か秘密の強烈な薬草を浸したウォトカを、老妻の助けをかりて全身に塗り、残りを老妻の唱えてくれる《ある種のおまじない》とともに飲み干して、眠りについたのです。

「マルファ」もお相伴し、もともと酒を飲まないので、夫の隣で死んだように寝入ってしまいました。

ところが、まったく思いがけなく、「グリゴーリイ」は夜中にだしぬけに目をさまし、ちょっと考えたあと、とたんにまた焼けつくような痛みを腰におぼえはしたものの、ベッドの上に起き直りました。

それからまた何事か思案して、起きだし、手早く服を着ました。

ことによると、自分が眠りこけていて、《こんな危険なおりに》屋敷が番人もなしにおかれていることに対して、良心の呵責が胸を刺したのかもしれません。

癲癇に倒れた「スメルジャコフ」は、隣の小部屋で身動きもせずに寝ていました。

「マルファ」も身じろぎ一つしませんでした。

『婆さんもすっかり弱ったもんだ』

老妻をちらと眺めて、「グリゴーリイ」は思い、呻きながら表階段に出ました。

歩くのが思うにまかせず、腰と右足の痛みは堪えきれぬほどでしたから、もちろん、表階段の上から様子を見るだけのつもりでした。

ところが、たまたまふと、庭へ入る木戸が夕方からずっと錠をかけていなかったことを思いだしました。

彼はこの上なく几帳面な、正確無比の人間で、いったん定めた秩序や、永年来の慣習は守りぬく男でした。

痛みに身をまげ、跛をひきながら、表階段をおり、庭に向かいました。

はたせるかな、木戸は開け放しのままでした。

(712)で「ドミートリイ」が「正面左手にある、屋敷から庭への戸口はぴったり閉って」いることを確認したと書かれていますが、ここで言っている「庭へ入る木戸」と(712)の「屋敷から庭への戸口」というのは、同じでしょうか、そうだとすると辻褄が合いません。

彼は機械的に庭に足を踏み入れました。

ことによると、何か見えたような気がしたのか、あるいは何か物音がきこえたのかししれませんが、左手の方をのぞいて、彼は主人の寝室の窓が開け放されているのを見いだしました。

窓はがらんとして、もはや外をのぞいている者もありませんでした。

『なぜ開いているんだろう、夏でもないのに!』

「グリゴーリイ」は思いました。

まさにその瞬間、突然、彼の真正面の庭に何やら異様なものがちらつきました。

四十歩ほど向うの闇の中を何者かが走りすぎたような感じで、なにやら影が非常な早さで動いていました。

「おのれ!」

「グリゴーリイ」は叫ぶと、われを忘れ、腰の痛みも忘れて、逃げてゆく男の行手をさえぎろうと突っ走りました。

彼は近道を選びました。

明らかにこの庭は、逃げてゆく男より彼のほうが勝手知ったものでした。

相手は蒸風呂の小屋に向い、小屋の裏に走りこんで、石塀にとびつきました・・・・

「グリゴーリイ」は相手を見失わぬように追いつづけ、無我夢中で走りました。

塀に駆けつけたとき、ちょうど相手はもう塀を乗りこえようとしているところでした。

「グリゴーリイ」は夢中で叫びたて、とびあがって、相手の足に両手でしがみつきました。

案の定、予感は彼を欺きませんでした。

彼は相手を見定めました。

それはやはり《ならず者の親殺し》でした!


耐えきれぬほどの腰と右足の痛みで歩くのも大変な「グリゴーリイ」ですが、最後の力を振り絞って頑張ったのですね。