2018年4月30日月曜日

760

「カルガーノフ」は怒りだしてしまいました。

「まるきり新味のない歌じゃないか」

彼はきこえよがしに言い放ちました。

「だれがこんな歌を作るんだ! いっそ鉄道員かユダヤ人でも通りかかって、娘たちにたずねるほうがいいようなもんさ。あの連中ならみんなを陥落させるだろうからな」

ここで「鉄道員」と「ユダヤ人」が挙げられていますが、彼らはこの時代ではどういう評判だったのでしょうか、「ポーランド人」や「ユダヤ人」が差別の対象になっていたのは耳にしたことがありますが、「鉄道員」はどうだったのでしょうか。

そして、ほとんど侮辱されたような気になり、その場で、わびしくなったと言いすてて、ソファに坐ると、突然うとうとしはじめたのでした。

美しい顔がいくらか青ざめ、ソファのクッションの上にのけぞっていました。

「見てごらんなさい、とってもかわいいじゃないの」

「ミーチャ」を彼のそばへ引っ張ってゆきながら、「グルーシェニカ」が言いました。

「さっきこの坊やの髪をとかしてあげたのよ。まるで亜麻みたいな、濃い髪だわ・・・・」

「亜麻みたいな」とはどんな髪のことでしょう、「亜麻」は食用や園芸種や油絵の「アマニ油」の他に繊維としての「亜麻」があり、茎の繊維は衣類などリネン製品となるとのこと、繊維としては「亜麻は、日本工業規格 (JIS) 上は、「麻」と表記される(麻繊維参照)。麻(大麻の繊維:ヘンプ)と誤解されることがあるが、まったく異なる植物種である。一般に大麻よりも柔らかい繊維とされる。亜麻は、通気性・吸湿性に優れて肌触りが良いことから織られて高級な衣類などになる。麻は縄や麻袋など耐久性の必要な用途にも使い、衣類としても庶民的な繊維とみなされるが、上布のように上質な織物にも使われる。古くは亜麻の糸をライン (Line) といい、この細くて丈夫な亜麻糸からの連想で「線・筋」を意味する英単語になった。フランス語ではランと発音され、ランジェリーはアマの高級繊維を使用した女性の下着に由来する。また繊維の強靭性から劣質の繊維はテントや帆布として利用され、大航海時代の帆布はアマの織布である。」とのことです。

そして感動したように身をかがめて、青年の額にキスしました。

「カルガーノフ」はとたんに目を開けて、彼女を見ると、中腰になり、「マクシーモフ」がどこにいるかを心配そうな顔でたずねました。

「お目当てはあんな人ってわけね」

「グルーシェニカ」は笑いだしました。

「しばらくあたしのお相手をなさいよ。ミーチャ、この人の大事なマクシーモフをよんできてあげて」

ところが「マクシーモフ」は、娘たちのそばを離れようとせず、時々リキュールを手酌でつぎに走るくらいなのに、チョコレートのほうは、コーヒー・カップに二杯も飲んでいることがわかりました。

チョコレートドリンクの飲み過ぎはよくないように思いますが。

顔がすっかり赤くなり、鼻は赤紫色で、目は気持よさそうにうるんでいました。

彼は駆けよってくると、今から《あるメロディにのせて》木靴踊りをやるつもりだと告げました。

「マクシーモフ」のキャラクターはどうも私には想像できませんが、「木靴踊り」はどういう意図でやるのでしょうか。

「実は子供の時分、こうした上流社会の上品な踊りを全部教わったものでした・・・・」

「木靴踊り」は「上流社会の上品な踊り」なのですね、娘たちの下品な踊りを連れの「カルガーノフ」が嫌がっているので自分が上品な踊りを踊って見せようとするのでしょうか、それともただ披露したかっただけでしょうか。

「じゃ、行ってらっしゃい。ミーチャ、いっしょに行ってらっしゃいよ。あたしはここからその人の踊りを見物するわ」

「いえ、僕も、僕も見に行きます」

しばらく相手をしてほしいという「グルーシェニカ」の申し出を、いたって無邪気にはねつけながら、「カルガーノフ」が叫びました。

そこでみんなが見に行きました。

「マクシーモフ」は本当に踊りをやりましたが、「ミーチャ」を除いて、ほとんどだれの心にもさほどの感嘆をよび起こしませんでした。

馭者の「アンドレイ」に対してもそうでしたが、普通の人は心に留めないようなことでも「ドミートリイ」には相手に対する思いやりがありますね。

踊りといっても要するに、靴底を上に向けて両足を左右に蹴りあげ、跳躍するたびに「マクシーモフ」が掌で靴底をたたくというだけのことでした。

「カルガーノフ」にはまるきり気に入りませんでしたが、「ミーチャ」は踊り手に接吻してやったほどでした。

「やあ、ご苦労さん、疲れただろう。何でこっちを眺めてるんだい。キャンディでもほしいのかい、え? それとも葉巻?」

「巻煙草を一本」

「酒は要らないの?」


「わたしはこちらでリキュールを、はい・・・・チョコレート・キャンディはございませんので?」


2018年4月29日日曜日

759

それでも彼女は一度、腑におちぬような、心配そうな様子で彼をよびよせました。

「どうしてそんなに沈んでいるの? 沈んでいるのが、あたしにはわかるわ・・・・ううん、ちゃんとわかるんだから」

彼の目を鋭く見つめながら、彼女は付け加えました。

「あっちで百姓たちと接吻したり、わめいたりしていたって、あたしには何かあるのがわかるのよ。だめよ、陽気になさいな。あたしが陽気にしているんだから、あんたも陽気にしてくれなきゃ・・・・あたしね、ここにいるだれかさんを愛しているのよ、だれだか当ててごらんなさい・・・・あら、ちょっと見て。坊やが寝てしまったわ、酔ったのね、かわいい坊や」

彼女が言ったのは、「カルガーノフ」のことでした。

青年は事実、酔いがまわって、ソファに坐ったまま、一瞬寝入ってしまったのです。

しかし、彼が寝入ったのは酔いのせいだけではなく、ふいになぜか気が滅入ってきたのでした。

というより、彼に言わせると、《わびしく》なってきたのです。

酒宴とともにだんだん何かもはやあまりにも猥雑な、羽目をはずしたものに変りはじめた娘たちの歌も、しまいには彼をひどくがっかりさせました。

それに、娘たちの踊りもそうでした。

二人の娘が熊に仮装し、おてんば娘の「ステパニーダ」が杖を片手に熊使いの役を演じながら、《見世物》をはじめました。

「もっと陽気にやって、マリヤ」

彼女は叫びました。

「でないと杖がとぶわよ!」

やがてついに熊たちは、隙間もないほどつめかけた百姓や女たちの見物の割れるような爆笑の中で、何やらまるきりあられもない格好で床の上にひっくり返ってしましました。

「いいじゃないの。好きにやらせておけば」

「グルーシェニカ」が幸せそうな顔で、しかつめらしく言いました。

「この人たちは陽気に浮かれる日なんてめったにないんですもの、喜んじゃいけないって法はないわ」

一方「カルガーノフ」は、まるで何かで汚されでもしたような顔をしていました。

「低俗だ、何もかも。国民性まるだしじゃないか」

彼は若くて将来に希望をもっていますので、つまりはあるがままの大衆が嫌いなんでしょうね。

その場を離れながら、彼は感想を洩らしました。

「あれは、夏の夜、一晩中太陽を大事にするいう意味の、彼らの春の遊戯なんだ」

しかし、なかでも特に彼の気に入らなかったのは、にぎやかな踊りのメロディをつけた《新しい》民謡で、地主の旦那が馬車でまわって村の娘たちにきいてみる、という歌詞でした。

旦那が娘にきいたとさ。
わたしを愛してくれるかと。

しかし、村の娘たちは旦那を愛してはいけないような気がしました。

旦那はひどくぶつでしょう。
好きになったりできないわ。

今度はジプシー(娘たちはジープシと発音した)が通りかかって、同じことをききました。

ジープシが娘にきいたとさ。
わたしを愛してくれるかと。

だが、ジプシーを愛するわけにもいきません。

ジープシは泥棒するでしょう。
あたしは嘆かにゃなりませぬ。

こうしていろいろな人が通りかかり、娘たちにたずね、兵隊までたずねます。

兵士が娘にきいたとさ。
わたしを愛してくれるかと。

しかし、兵隊はばかにされ、追い返されます。

兵士は背嚢を背負うでしょう。
あたしはうしろで・・・・

このあと、ひどくえげつない一句がつづき、それがまったく堂々とうたわれて、聴衆の間に拍手喝采をよび起しました。

「・・・・」は何でしょうか。

結局、この唄は商人でしめくくられました。

商人が娘にきいたとさ。
わたしを愛してくれるかと。

そして、非常に好かれていることがわかりました。

その理由はこうでした。

商人はごっそり稼ぐでしょう。

女王の暮しができるもの。


2018年4月28日土曜日

758

こんなとき、そこらの百姓が金の無心でもすれば、彼はただちに札束をそっくりつかみだして、数えもせずに左右に分け与えたにちがいない。

おそらくそのせいだろうか、どうやら今夜は寝床に入るのをすっかりあきらめたらしい宿の主人「トリフォン」が、それでも酒をろくに飲もうとせず(パンチをたった一杯飲んだだけだった)、自分なりの考えで「ミーチャ」の損得に鋭く目をくばりながら、彼を監視すべく、ほとんど付ききりでまわりをうろちょろしていました。

「自分なりの考えで」と書かれていますが「トリフォン」の気持ちは彼自身でもよくわからないかもしれません、何かいいことがありそうな予感と好奇心はもちろんのこと、百姓たちに贅沢をさせればよくない意識が身につくであろうこと、そうなれば自分の儲けが減ってしまう心配もあるでしょうし、自分が百姓を支配しているという意識が百姓たちから消えていくかもしれないということ、「ドミートリイ」の無駄な散財を防いであげるという親心的な意識、宿の主人としての秩序の維持の責任感などたくさんの思いが、そしてその中には矛盾する思いなどもあるのですが、それらが複合しているのでしょう。

必要とあらば、卑屈なほど愛想よく「ミーチャ」を引きとめ、説き伏せて、《いつぞや》みたいに百姓どもに《葉巻やラインぶどう酒》や、まして金なぞを分け与えたりせぬようにし、娘たちがリキュールを飲んだりキャンディを食べたりしているのを、ひどく憤慨してみせるのでした。

「虱たかりしかいませんや、ドミートリイの旦那」

彼は言いました。

「わたしだったら、どの娘っ子だって膝で蹴上げて、それさえ光栄だと思わせてやりまさあ。その程度の連中ですよ!」

「ミーチャ」はもう一度「アンドレイ」のことを思いだし、パンチを届けてやるように言いつけました。

「さっき彼にわるいことをしたんでな」

(751)でも「ドミートリイ」は「アンドレイにわるいことをしたよ!」と言ってウォトカをあげていますが何がそんなに悪いことなのだと意識しているのでしょうか、(740)でのいきさつの件でしょうが「アンドレイ」は彼に「わたしは心配で、旦那・・・・」と言って必要以上のお金を取らなかったのですが、この言葉の裏に「ドミートリイ」は彼の中の誠実さを見抜いたのかもしれませんね。

彼は気弱になりました。

やさしさにあふれる声でくりかえしました。

「カルガーノフ」は飲みたくなさそうな素振りをしかけましたし、娘たちのコーラスも最初はひどく気に入りませんでしたが、シャンパンをグラスに二杯飲むと、ひどく浮かれだして、部屋から部屋へ歩きまわり、笑い声をたて、歌も音楽も、あらゆるもの、あらゆる人をほめちぎりました。

「マクシーモフ」は一杯機嫌でうっとりし、彼のそばを離れようとしませんでした。

やはり酔いのまわりはじめた「グルーシェニカ」は、「カルガーノフ」を指さしては、しきりに「ミーチャ」に言うのでした。

「なんてかわいいんだろう、とってもすてきな坊やだわ!」

これをきくと「ミーチャ」は、大喜びで「カルガーノフ」や「マクシーモフ」と接吻しに駆けて行くのです。

ああ、彼は多くのことを予感していました。

この彼の「多くの予感」というのは読者の想像力を刺激しますね、おそらく一発逆転で彼の最も理想とする予感、あまり現実的ではありませんが、そのまま彼女を連れて遠くへ行ってしまうということでしょう。

彼女はまだ何一つそうしたことを言わなかったし、ときおりやさしい、しかし熱っぽい目で彼を見つめてくれるだけで、明らかにわざを口に出すのを控えているようでした。

が、やがてついに彼女はいきなり彼の手をぎゅっとつかむなり、力いっぱい引き寄せました。

そのとき彼女自身は戸口の肘掛椅子に坐っていました。

「さっきはなんて勢いで入ってきたの、え? なんて入り方! あたし、すっかり震えあがっちゃった。どうしてあんな男にあたしを譲る気になったの、ねえ? ほんとにそう思った?」

「君の幸福をぶちこわしたくなかったんだ!」

「ミーチャ」はうっとりと甘い口調で言いました。

だが、彼女にはその返事も必要ありませんでした。

「じゃ、もう行って・・・・陽気にやってらっしゃい」

またもや彼女は彼を追いたてました。

「泣くんじゃないのよ、またよんであげるから」

なんだか、犬みたいな扱いをされているのですが、男女の間の心の機微なのでそれはそれでいいのでしょう。

そして彼が走り去ると、彼女はまた歌をきいたり、踊りを眺めたりしはじめるのですが、その目は彼がどこにいても、あとを追いつづけ、ものの十五分もたつとまたぞろ彼をよびよせ、彼がふたたび駆け戻ってくる始末でした。

「さ、今度は隣に坐って、話してちょうだい、昨日、あたしがここへ来たことを、どうやってききつけたの? だれからいちばん最初にきいたの?」

そこで「ミーチャ」は、脈絡や順序もなしに一部始終を話しはじめましたが、それにしても奇妙な話しぶりで、しばしばふいに眉をくもらせて言葉を切るのでした。

「どうして眉をひそめたりするの?」

彼女はきいてみました。

「いやべつに・・・・あっちに病人を一人置いてきたもんでね。癒ってくれるなり、癒るとわかりなりすれば、今すぐ僕の十年間を捧げてもいいな!」

これは怪我をさせて「グリゴーリイ」のことでしょうが、なぜ怪我人といわず病人というのでしょうか。

「まあ、どうせ病人なら、放っておきなさいよ。それじゃ、ほんとに明日ピストル自殺するつもりだったの、おばかさんね。でも、理由はなあに? あんたみたいに無鉄砲な人って大好き」

「あんたみたいに無鉄砲な人って大好き」というセリフは何とも言えません。

いくらか重たくなった舌で彼女は甘たるく言いました。

「じゃ、あたしのためになら、どんなことでもしてくれるのね? え? おばかさんね、ほんとに明日ピストル自殺をするつもりだったんだわ! だめよ、当分お預け、明日になればいいことを話してあげるかもしれなくってよ・・・・話すのは今日じゃなく、明日。今日ききたいところでしょう? だめ、今日は言いたくないの・・・・さ、もう行って。今日はあっちへ行って、陽気にやってらっしゃい」


まさしく恋の駆け引きですね。



2018年4月27日金曜日

757

八 悪夢

どんちゃん騒ぎと言ってもいいほどの派手な酒盛りがはじまりました。

「グルーシェニカ」が真っ先に、酒をよこせと叫けびだしました。

「飲みたいわ、この前みたいにすっかり酔ってしまうくらい飲んでみたい。おぼえている、ミーチャ、おぼえているでしょう、あのときあたしたち、ここですっかり意気投合したわね!」

「グルーシェニカ」についてはなんだかやけ酒のようでもありますね。

「ミーチャ」自身もまるで夢うつつで、《自分の幸福》を予感していました。

「ドミートリイ」にとってもこれは思いもよらぬ展開で平常心を失いそうです。

もっとも、「グルーシェニカ」はのべつ彼を自分のそばから追い立てにかかりました。

なぜ彼女は「ドミートリイ」を「追い立て」ているのでしょうか、その理由がわかりません、もし彼が彼女の側にぴったりくっついて離れなければ、この場をとりしきるものがいなくなり今から起ころうとしているどんちゃん騒ぎができなくなるからでしょうか。

「あっちへ行って、陽気にやってらっしゃい。みんなで踊って、浮かれるように言ってきて。あのときみたいに《小屋も踊れ、ペチカも踊れ》っていうくらい!」

この「どんちゃん騒ぎ」だけについては「ドミートリイ」と「グルーシェニカ」は共通の意識を持っています。

彼女は叫けびつづけていました。

彼女はひどく興奮していました。

「ミーチャ」も指図をしにとんで行きました。

コーラスが隣の部屋に集まりました。

その上、今までみんなが坐っていた部屋は狭く、しかも更紗のカーテンで二つに仕切られており、カーテンの奥にはまたしても、やけに大きなベッドが置かれて、ふかふかした羽布団と、同じような更紗の枕が小山のようにのっていました。

それにこの宿屋の四つの《小ぎれいな》部屋には、どれもベッドが入っているのでした。

「グルーシェニカ」が戸口のすぐわきに陣取ったので、「ミーチャ」は肘椅子をそこへ運んでやりました。

《あのとき》、二人がはじめて豪遊した日にも、彼女はちょうどこんなふうに坐って、そこからコーラスや踊りを見物したものでした。

娘たちはあのときの顔ぶれが全部揃いました。

バイオリンやツィターをかかえたユダヤ人たちもやってきたし、待ちに待った酒や食料品のトロイカもやっと到着しました。

「ツィター」というのは「チター」ともいわれ、ギターと語源を同じくするものらしく「日本の箏(琴)に似た形状をしているが、長さは短い。約30本の伴奏用弦と5、6本の旋律用のフレット付き弦が張られている。これを親指につけたプレクトラムと呼ばれる爪を使って弾く。」「ヨハン・シュトラウス2世のワルツ『ウィーンの森の物語』の冒頭と末尾で演奏されるソロが有名であり、映画『第三の男』のテーマソングをアントーン・カラスが弾いた楽器としても知られている。」「アルプスという閉鎖的な環境の中、ツィターは数少ない娯楽として家庭に広く浸透していき、19世紀にその最盛期を迎えた。しかしその演奏の難しさから近年はツィター離れが進んでいる。」とのことです、youtubeで演奏風景を見ることができますがなかなかいい音です、しかし弦の数が多く、両手の複雑な演奏はかなり難しそうではあります、参考までに下に写真をつけておきます。

「ミーチャ」は忙しげにとびまわっていました。

もう眠っていた、何の関係もない百姓やおかみさんたちまで、目をさまし、ひと月前と同じように、めったにありつけぬ大振舞いを感じとって、部屋に入ってきました。

「ミーチャ」は顔見知りの連中と挨拶を交わし、抱擁し合い、人々の顔をしだいに思いだしながら、酒壜の栓をせっせと抜いては、だれかれかまわずついでまわりました。

シャンパンをしきりにねだるのは娘たちだけで、百姓たちにはもっぱらラムやコニャック、そして特に熱いパンチが気に入りました。

「パンチ」とは「ポンチともいう。酒,水,砂糖などを混ぜてつくる飲料。サイダー,シロップ,ラムネなどの多種類の飲料を用いてつくられているが,普通はワイン,酒類,ジンジャーエールなどにレモンジュース,香辛料,紅茶や水を加えてつくられ,冷やして供する。赤ワインを入れたイギリスのクラレットパンチは有名で,季節の果物を入れたフルーツパンチとともに,パーティーなどによく用いられる。」とのこと。

「ミーチャ」は、娘たち全員に行きわたるようチョコレートを沸かすことと、やってきた者にはだれにでも紅茶とパンチを振舞ってやるため、三つのサモワールを夜どおし切らさずに沸かしておくことを指図しました。

この「サモワール」という道具は、これまでも何度かでてきましたが、日本人にはあまり縁がなく私も何となくわかってはいるものの実際に見たことがありませんので具体的なイメージがわきませんので調べてみました、「サモワール(ロシア語:самовар, IPA: [səmɐˈvar] ( 音声ファイル)サマヴァール、ペルシア語: سماور‎、トルコ語: semaver)はロシアやその他のスラブ諸国、イラン、トルコなどで湯を沸かすために伝統的に使用されてきた金属製の容器である。簡単に言うと給茶器。沸かした湯は通常紅茶をいれるのに利用されるため、多くのサモワールは上部にティーポットを固定して保温するための機能が備わっている。その起源には諸説あるが、中央アジアで発明されたといわれている。古くは石炭や炭で水を沸かしたが、現在生産されるサモワールの多くは電熱式である。なお、名称はロシア語の「サミ(自分で)」と「ワリーチ(沸かす)」を結合したものである。素材は銅、黄銅、青銅、ニッケル、スズなどで、富裕層向けには貴金属製のものや非常に装飾性の高いものも作られた。胴部に水を入れられるようになっており、伝統的なサモワールは胴部の中央に縦に管が通っていて、そこに固形の燃料を入れて点火し、湯を沸かした。胴の下部には蛇口がついていて、そこから湯を注ぐ。湯を沸かして火を消した後、上部にティーポットを置いて保温できるようになっていた。小型のサモワールは、行楽に携行されることもあった。」とのこと、参考までに下に写真をつけておきます。

ほしい者には振舞ってやれというわけでした。


一口に言って、何やら滅茶苦茶な、常軌を逸した騒ぎがはじまったのですが、「ミーチャ」はそれが生れつき性に合っているかのように、すべてが常軌を逸すれば逸するほど、ますます元気づいていきました。




2018年4月26日木曜日

756

「俺もそんなことだと思ってたよ」

「ミーチャ」がどなりました。

しかし、そう言いも終らぬうちに、うろたえて激昂した「ヴルブレフスキー」が、「グルーシェニカ」をふりかえり、拳で脅しながら叫びました。

「この淫売め!」

しかし、そう叫ぶか叫ばぬうちに「ミーチャ」がとびかかり、両手で羽交いじめして、持ち上げると、一瞬のうちに、たった今二人を連れていった右隣の小部屋へ広間からかつぎだしました。

さすがに軍人将校「ドミートリイ」ですね、「ヴルブレフスキー」は身長二メートルもあろうかという大男なのですが、俊敏な動作で何の抵抗もさせずに羽交いじめしています、溜飲が下がります。

「床の上へぶん投げてきた!」

彼はすぐに戻ってきて、興奮に息をはずませながら、告げました。

「悪党め、いっぱし抵抗しやがって。でもたぶんもう現われまい!」

ここでは書かれていませんが、隣の小部屋で「ヴルブレフスキー」が抵抗したのかもしれません、彼は二メートルの大男なのでそんなに弱いと思えないのですが、もしかして「ドミートリイ」はピストルを持っていてそれで脅したのかもしなません、だから「たぶんもう現われまい」と言ったのかもしれませんね。

彼は両開きの戸を片方だけ閉め、もう一方を開けたまま、小柄な男に声をかけました。

「おい、貴族さん、あっちへいかがです? どうぞ!」

「ドミートリイの旦那」

「トリフォン」が言いました。

「やつらから金を取り返しなさいまし。巻き上げられた分を! だって盗んだも同然なんですから!」

「僕は自分の五十ルーブルを取り返そうとは思わない」

だしぬめに「カルガーノフ」が応じました。

「俺も二百ルーブルはいいや、俺も要らない!」

「ミーチャ」が叫びました。

「絶対に取り返したりせんぞ、せめてもの慰めにくれてやるさ」

「立派よ、ミーチャ! かっこいいわ、ミーチャ!」

ついに「ドミートリイ」は「グルーシェニカ」から褒められましたね、彼女はきっぷのいい性格なのでこんな潔いことは好きなのですね。

「グルーシェニカ」が叫びました。

その感嘆には、ひどく敵意にみちたひびきがありました。

小柄なポーランド人は憤りに赤紫色になり、それでも威厳を少しも失わずに戸口に向いかけましたが、立ちどまると、「グルーシェニカ」をふりかえって、だしぬけに言い放ちました。

「もし、わたしについてくる気があるなら、いっしょに行こう。もしなければ、さようならだ!」

そして、怒りと自尊心とで息をはずませながらも、もったいぶって戸口から出て行きました。

気の強い男でした。

あんなことのあったあとでも、まだ彼女がついてくるだろうという望みを失っていないのです。

それほど、うぬぼれていたのです。

「ミーチャ」は出て行ったあとのドアをぴしゃりと閉めました。

「鍵をかけて閉じこめちまいなさいよ」

「カルガーノフ」が言いました。

しかし、錠前は向う側からかかりました。

自分たちが鍵をかけて閉じこもったのです。

「上出来だわ!」

「グルーシェニカ」がまた容赦なく、憎しみの叫びをぶつけました。

「上出来よ! これで当然なんだわ!」


これでポーランド人のことは予想外の展開でしたが一件落着しました、今度は「ドミートリイ」の立場がどのようになるのか、いろいろと重大なことを抱えている彼ですから想像もつかない状況ではありますが、確かここでこれから愁嘆場が演じられることになるのですよね。


2018年4月25日水曜日

755

「パーニ・アグラフェーナ、わたし古いこと忘れて赦すため来たです、今日までのこと忘れるつもりで・・・・」

この言い方は相手の反発を招くこと必至ですね。

「赦すですって? このわたしを赦すために来たと言うの?」

「グルーシェニカ」がその言葉をさえぎり、席から跳ね起きました。

「そのとおりです。わたし、心ちいさくない、寛大です。でも、お前の情夫たち見て、びっくりしたね。ミーチャさん、向うの部屋で、わたしに立ち去れ言って、三千ルーブルくれようとした。わたし顔に唾ひっかけてやったです」

「何ですって? あの人があたしのためにお金を払おうとしたの?」

「グルーシェニカ」はヒステリックに叫びました。

「本当、ミーチャ? よくそんな真似ができたものね! あたしが売物だとでも思ってるの?」

「君、ねえ君」

「ミーチャ」は絶叫しました。

「彼女は清らかな、光かがやく存在なんだ。僕は一度だってこの人の情婦になったことなんぞない! いい加減なことを言うなよ・・・・」

「ドミートリイ」は自分がお金で「グルーシェニカ」をどうにかしようとしたことをはぐらかすために話題を変えましたね。

「よくこんな男の前であたしの弁護なんかできるものね!」

「グルーシェニカ」が叫びました。

「あたしの身持がきれいだったのは、貞淑だからでも、サムソーノフがこわかったからでもないのよ。この男の前で胸を張っていたかったからよ。この男に会ったときに、卑劣漢と言ってやるだけの権利を持っていたかったからだわ。でも、まさかこの男だってあなたから金を受けとりやしなかったでしょう?」

「いや、受けとろうとしたんだ、受けとりかけだんだよ!」

「ミーチャ」は叫びました。

「ただ、三千ルーブル耳を揃えて一度にほしかったのに、僕が内金を七百しか出そうとしなかったから」

「それでわかったわ。あたしが金を持っていることをききこんで、それで結婚しに来たのね!」

「パーニ・アグリッピーナ!」

ポーランド人がわめきだしました。

「わたし騎士です、貴族です、やくざ者でない! わたし、お前を妻に迎えるため来たのに、会ってみると、まるで人間変わっていた。昔のお前でなく、わがままで恥知らずな女になってた」

ああ、こんなことまで言ってしまっては、もうおしまいでしょう。

「だったら、元いたところへ帰るがいい! あたしが今すぐ追いだせって命令すれば、お前なんかたたきだされるのよ!」

「グルーシェニカ」は狂ったように叫びました。

「ばかよ、あたしはばかだったわ、五年も自分を苦しめていたなんて! それも、まるきりこんな男のために自分を苦しめていたんじゃない。憎しみから自分を苦しめていたんだもの! それに、こんな男、全然あの人とは違うわ! ほんとにこんな男だったかしら? これはあの人の父親か何かよ! どこでそんなかつらを注文したのさ? あの人は若い鷹たっだけれど、こんなの鴨じゃないか。あの人はよく笑ったし、歌をうたってくれた・・・・ああ、あたしとしたことが、このあたしが五年間も涙にかきくれていたなんて。どうしようもないばか女だわ、卑しい、恥知らずな女なんだわ!」

さらに、「グルーシェニカ」のこの発言は、もう絶対に修復不可能でしょう、しかし、父親だとか鴨だとかこんな緊張感に満ちた場ではありますがユーモアにあふれていますね。

彼女は肘掛椅子に崩れこみ、両手で顔を覆いました。

その瞬間、ふいに左隣の部屋で、やっと顔の揃ったモークロエの娘たちのコーラスがひびきわたりました-浮きうきした踊りの歌でした。

ここは映画のような見事なシーンの展開だと思います。

「まさにソドムだ!」

「ソドム」とは「旧約聖書「創世記」に記されている都市名。死海南端付近にあったと伝えられ、その住民の罪悪のために、ゴモラの町とともに神の火に焼かれて滅びたという。罪悪に対する神の審判の例として、聖書にしばしば登場する。」とのこと。

突然「ヴルブレフスキー」が咆えました。

「親父、恥知らずな連中をたたきだせ!」

もうだいぶ前から野次馬根性で戸口から様子をうかがっていた主人は、どなり声をききつけ、客たちが喧嘩をはじめたのを感じて、すぐに部屋に入ってきました。

「何をわめいているんだよ、咽喉でも破る気かい?」

むしろふしぎなくらいぞんざいな口調で、主人は「ヴルブレフスキー」に言いました。

「むしろふしぎなくらいぞんざいな口調」の主人は、なぜそんな態度をとるのか非常に不可解ですね、いろいろと考えてしまいましたが、後を読めばわかります。

「この畜生め!」

「ヴルブレフスキー」がわめこうとしかけました。

「この畜生だと? それじゃ、手前は今どんなカードで勝負をしたんだ? 俺がカードを出してやったのに、そいつを隠したじゃねえか! いかさまカードを使いやがって! 俺は手前をいかさまカードの罪でシベリヤ流しにすることだってできるんだぞ、そのことを知ってるのか。これは贋札と同じことなんだからな・・・・」

こう言ってソファに歩みよるなり、ソファの背とクッションの間に指を突っこみ、封の切られていないカードをそこから取りだしました。

「ほら、これが俺のカードだ、封も切ってないじゃねえか!」

主人はカードをかざして、周囲のみなに示しました。

「こいつが俺のカードをそこの隙間に突っこんで、手前のと取り替えるところを、俺はあそこから見ていたんだ、なんて汚ねえ野郎だ、貴族だなんて笑わせるない!」

「僕もあっちの人が二度カードをすりかえたのを見ましたよ」

「カルガーノフ」が叫びました。

(752)で「カルガーノフ」がゲーム中に「ドミートリイ」が二百ルーブルをクイーンの上に放りだそうとしかけたときに片手でそのカードを覆い「いい加減になさい!」とゲームをやめさせようとしましたが、その理由を聞かれた時に、「なぜでもです。唾でもひっかけて、お帰りなさい、これが理由ですよ。これ以上は勝負をさせませんからね」と言いましたが、これでやっとその理由がわかりました、一応彼はイカサマだと知ってはいたのですね。

このポーランド人たちはどうしようもない人間ですね、イカサマ用のカードを持っているということは、いつもイカサマをしているということです。

「まあ、なんて恥ずかしいことだろう、ああ、なんて恥さらしな!」

「グルーシェニカ」が両手を打ち合せて叫び、本当に羞恥のあまり真っ赤になりました。


「ああ、こんな、こんな男に成り下がったのね!」


2018年4月24日火曜日

754

「何ご用ですか?」

小柄な男が片言で言いました。

「実はね、くどくどとは申しません。さ、お金をさしあげます」

彼は札束を引っ張りだしました。

「三千ルーブルほしかったら、これを持って、どこへでも行ってください」

「ドミートリイ」はついにお金で事を処理しようとしたようですね、しかし突然の思いつきであっても、この時点でこのような卑怯な手をつかって恋敵を追っ払い「グルーシェニカ」を手に入れられると思ったこと自体よくわかりませんが、先ほどの彼の決意や彼自身の自尊心はどこに行ったのでしょう、これは一か八かの最後のあがきでしょうか。

ポーランド人は目を見はって、探るように「ミーチャ」の顔に視線を釘付けにしました。

「三千ですって?」

彼は「ヴルブレフスキー」と顔を見合わせました。

「三千、三千だよ! あのね、どうやら君は分別のある人間のようだ。この三千を持って、どこへなりと行っちまってくれよ。ヴルブレフスキーも連れていくんだぜ、いいかい? ただし、たった今、今すぐにだ。それも永久にだよ、君、ほら、この戸口から永久に立ち去るんだ。向うの部屋に何が置いてある、皮外套かい、毛皮外套か? 僕が持ってきてやるよ。今すぐ君のために馬車を支度させるから、それでさよならだ。え?」

「ミーチャ」は自身たっぷりに返事を待っていました。

少しの疑念もありませんでした。

ポーランド人の顔に何やら異常なほど決然とした表情がひらめきました。

「で、その金は?」

「金はこうしよう。五百ルーブルは今すぐ馬車代と手付金として君にあげるし、あとの二千五百は明日、町で払う。名誉にかけて誓うよ。金はできるとも。地の底からでも取りだしてみせるさ!」

「ミーチャ」は叫びました。

ポーランド人たちはまた顔を見合わせました。

小柄な男の顔はしだいに邪悪なものに変わっていきました。

「七百だ、五百じゃなく七百、今すぐ手渡すよ!」

何か不穏なものを感じて、「ミーチャ」は金額をふやしました。

「どうしたんだい? 信用しないのか? 三千ルーブルをそっくり今すぐ渡すわけにゃいかないよ。今渡せば、君は明日にでも彼女のところへ舞い戻ってくるだろうからな・・・・それに今は三千ルーブルそっくり手もとにはないし、町の家においてあるんでね」

「ミーチャ」は一言ごとに心が臆し、気落ちしながら、たどたどしく言いました。

「ほんとだよ、家にあるんだ、しまってあるのさ・・・・」

一瞬、並みはずれた自尊心が小柄な男の顔にかがやきました。

「ほかに何か、言いたいことあるですか?」

彼は皮肉にたずねました。

「恥知らずな。破廉恥な!」

ここでもそうですが、そして今までもそうでしたが、ポーランド人の話すポーランド語には翻訳語の横にポーランド語の読みのルビがふられています、最初私はカッコ書きでそのルビを書いたことがありますが、面倒なのでずっと省略しています。

そして唾を吐き棄てました。

「ヴルブレフスキー」も唾を吐きました。

「そんなふうに唾を吐いたりするのは」

万事終ったことをさとって、「ミーチャ」はやけくそに言い放ちました。

「グルーシェニカからもっと巻き上げる肚でいるからだろうが。お前らは二人とも去勢した鶏みたいなもんだ、そうだとも!」

「こんなひどい侮辱があるか!」

突然、小柄な男が蝦のように真っ赤になり、おそろしい憤りにかられて、もはや何一つききたくないと言わんばかりにさっさと部屋を出て行きました。

しかし、この恋敵もダメですね、一時は三千ルーブル=三百万円の力に負けていましたから。

「ヴルブレフスキー」も長身を揺すりながらそれにつづき、さらにすっかり狼狽して途方にくれた「ミーチャ」もあとを追って出ました。

彼は「グルーシェニカ」がこわいと思いました。

たしかにこんなことが「グルーシェニカ」の耳に入ると大変なことになるでしょうね。

ポーランド人がすぐにわめきだすにちがいないと予感していました。

まさにそのとおりでした。

ポーランド人は広間に入るなり、芝居がかった態度で「グルーシェニカ」の前に立ちました。

「パーニ・アグリッピーナ、わたしはひどい侮辱を受けました!」

彼は叫ぼうとしかけましたが、「グルーシェニカ」はまるでいちばん痛い個所にでもさわられたように、突然いっさいの忍耐を失いました。

「ロシア語でおっしゃい、ロシア語で。ポーランド語なんて一言もききたくないわ!」

彼女は男をどなりつけました。

「前にはロシア語を話してたくせに、五年の間に忘れてしまったの!」

彼女は憤りに顔を真っ赤にしました。

「パーニ・アグリッピーナ・・・・」

「あたしはアグラフェーナよ、グルーシェニカだわ。ロシア語でおっしゃい。でなけりゃききたくもない!」


ポーランド人は自尊心から息をあえがせ、ブロークンなロシア語で、早口にきざったらしく言いました。