2017年8月23日水曜日

510

「イワン」の発言の途中からです。

「これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ。というわけで、俺は神を認める。それも喜んで認めるばかりか、それ以上に、われわれにはまったく測り知れぬ神の叡智も、神の目的も認めるし、人生の秩序や意味も信じる。われわれがみんなその中で一つに融和するとかいう、永遠の調和も信じる。また、宇宙がそれを志向し、それ自体が《神にいたる道》であり、それ自体が神にほかならぬという言葉(訳注 キリストを意味する)も、俺は信じるし、そのほかいろいろと無限に信じるよ。この問題については数限りない言葉が作りだされているからな。どうやら俺も正しい道に立っているようじゃないか、え? ところが、どうだい、結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することを知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのとこを理解してくれ。俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ。断っておくけど、俺は赤児のように信じきっているんだよ-苦しみなんてものは、そのうち癒えて薄れてゆくだろうし、人間の矛盾の腹立たしい喜劇だっていずれは、みじめな幻影として、あるいはまた、原子みたいにちっぽけで無力な人間のユークリッド的頭脳のでっちあげた醜悪な産物として、消えゆくことだろう。そして、結局、世界の終末には、永遠の調和の瞬間には、何かこの上なく貴重なことが生じ、現れるにちがいない。しかもそれは、あらゆる人の心に十分行きわたり、あらゆる怒りを鎮め、人間のすべての悪業や、人間によって流されたいっさいの血を償うに十分足りるくらい、つまり、人間界に起ったすべてのことを赦しうるばかりか、正当化させなしうるに足りるくらい、貴重なことであるはずだ。しかし、たとえそれらすべてが訪れ、実現するにしても、やはり俺はそんなものを認めないし、認めたくもないね! たとえ二本の平行線がやがて交わり、俺自身がそれを見たとしても、俺がこの目でたしかに見て、交わったよと言うとしても、やはり俺は認めないよ。これが俺の本質なんだ、アリョーシャ、俺のテーゼだよ。俺はまじめに話したんだぜ。俺は、これ以上愚劣な切りだし方はないといった感じで、お前との話をはじめたけれど、結局は俺の告白になっちまったな。それというのも、お前に必要なのはそれだけだからさ。お前に必要なのは神についての話じゃなく、お前の愛する兄が何によって生きているかえお知ることだけなんだよ。だから俺は話したのさ」

「イワン」は長口舌を、ふいに、何か一種特別な思いがけぬ感情をこめて結びました。

「イワン」はこの中でそれが自分のテーゼであるとまで言っていることは、神は認めるが神が創った世界は認めないということです。

これは、どういうことでしょうか。

たとえ平行線が交わるところを見たとしても、自分はそれを認めないと言っています。

自分が体験したことまで認めないということですが、私は「イワン」の言うことがわかりません、それでは肉体から切り離された理念だけを認めるということになります。

「世界を認めない」とはどういうことでしょうか。

この「認めない」ということはどういうことでしょうか。


たとえば「イワン」は、神を信じてはいるが神の創ったこの世界を認めることができないっというのだが、仮に神が別の理想的な世界を創ればそれを認めるということでしょうか、そうだとすれば、この世界は仮の誤った世界ということになります、また、この誤った世界を創ったのは神ではないと言うこともできるかもしれません。


2017年8月22日火曜日

509

「じゃ、何からはじめるか、言ってくれよ。お前が注文するんだ。神の話からか? 神は存在するか、ということからかい?」

「何でも好きなものから、はじめてください。《反対側》からでもかまいませんよ。だって兄さんは昨日お父さんのところで、神はいないと断言したんですから」

「アリョーシャ」は探るように兄を眺めました。

「俺は昨日、親父のところで食事をしながら、そう言ってお前をわざとからかったんだけど、お前の目がきらきら燃えたのがわかったよ。でも今はお前と話す気は十分あるんだし、とてもまじめに言ってるんだ。俺はお前と親しくなりたいんだよ、アリョーシャ。俺には友達がいないから、試してみたいのさ。だって考えてもみろよ、ひょっとすると俺だって神を認めているかもしれないんだぜ」

「イワン」は笑いだしました。

「お前にとっちゃ、思いもかけぬ話だろう、え?」

「ええ、もちろんですとも。ただし、今も兄さんがふざけているのでないとすればね」

「冗談じゃないよ。昨日も長老のところで、俺はふざけてるって言われたっけね。あのね、十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考えだすべきである、S’il n’existait pas Dieu,il faudrait I’inventer.(訳注 ヴォルテールの『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節)、と言ったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、ふしぎでもなければ、別段おどろくべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入りこみえたという点が、実におどろくべきことなんだよ。それほどその考えは神聖なんだし、それほど感動的で、聡明で、人間に名誉をもたらすものなんだな。俺自身に関して言えば、俺はもうずっと前から、人間が神を創りだしたのか、それとも神が人間を創ったのか、なんて問題は考えないことにしているんだよ。もちろん、この問題に関する現代のロシアの小僧っ子たちの公理なんぞ、どれもこれもヨーロッパの仮説からの孫引きだから、検討するつもりもないよ。なぜって、向うの仮説が、ロシアの小僧っ子にかかると、とたんに公理になってしまうし、それが小僧っ子だちだけじゃなく、どうやら大学教授たちまで、そうらしいからな。それもいうのも、ロシアの大学教授も今やきわめて往々にしてロシアの小僧っ子と変りないからなんだよ。だから、いっさいの仮説は敬遠しよう。だって、今の俺たちの課題は何だと思う? ほかでもない、できるだけ早くお前に俺の本質を、つまり、俺がどういう人間であり、何を信じ、何を期待しているかを説き明かすのが、課題なんだ、そうだろう? だから俺は、率直かつ単純に神を認めるってことを、名言しておくよ。それにしても、断っておかなければならないが、かりに神が存在し、神がこの地球を創ったとすれば、われわれが十分承知しているとおり、神はユークリッド幾何学によって地球を創造し、三次元の空間についてしか概念を持たぬ人間の頭脳を創ったことになる。にもかかわらず、宇宙全体が、いや、もっと広範に言うなら、全実在がユークリッド幾何学にのみもとづいて創られたということに疑念を持つ幾何学者や哲学者はいくらもあったし、現在でさえいるんだ。きわめて著名な学者の中にさえな。そういう学者たちは大胆にも、ユークリッドによればこの地上では絶対に交わることのありえぬ二本の平行線も、ひょっとすると、どこか無限の世界で交わるかもしれない、などと空想しているほどなんだ。そこでね、そんなことすら俺には理解できぬ以上、神について理解できるはずがない、と決めたんだよ。そういう問題を解く能力が俺にまるきりないことは、素直に認める。俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。

まだ、「イワン」の発言の途中です。

「イワン」は一体何でしょうか、彼は言うことがいろいろ変わるので私には彼が神を信じているのか、信じていないのかわかりません。

それとも、「イワン」も自分が神を信じているのか、信じていないのかわからないのでしょうか。

(221)にあるように、昨日「イワン」は長老の庵室で「ミウーソフ」が「イワン」の発言として言ったことですが、「たとえば現在のわれわれのように、神も不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律はただちに従来の宗教的なものと正反対に変わるべきであり、悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える必然的な帰結として認められるべき」と言っており、「ゾシマ長老」は「もし、そう信じておられるのなら、あなたはこの上なく幸せか、さもなければ非常に不幸なお人ですの!」と言っています、そして、「なぜ不幸なのです!」との「イワン」の質問に対して「なぜなら、あなたは十中八、九まで、ご自分の不死も、さらには教会や教会の問題についてのご自分の書かれたものさえも、信じておられぬらしいからです」と言われています。

それは、ともかくとして、「ユークリッド幾何学」が出てきましたので、ネットで調べて見ました。

説明の優劣がわかりませんので、任意に取り上げてみたのが以下の説明です。

「幾何学の源流はユークリッドによる 原論(Elements)である.漢訳名は幾何原本(前半6巻は1607年にマテオ・リッチと徐光啓により漢訳された)であるがここでは日本語版([6])に従って原論ということにする.原論には序文,前書きのようなものは一切存在しない.また,動機や計算例も書かれていない.ただ,定義,公理,定理,証明が続くのみである.全体は13巻で構成されているが,各巻の構成は以下の通りである.最初の6巻は初等平面幾何,次の3巻は数論,X巻は無理数論,最後の3巻は立体幾何学である.」

そして二本の平行線の交差については、命題[I-29]に「平行線の2つの錯角は等しい.」とあり、その証明としてⅠ巻の公準の5に「直線が2直線と交わるとき,同じ側の内角の和が2直角より小さいなら,この2直線は限りなく延長されたとき,内角の和が2直角より小さい側において交わる.」そうです。

なんだか、よくわかりませんが、凡人から見れば当たり前の事を書いているようです。

そして、「イワン」が自分の頭脳は地上的なユークリッド幾何学であるので、理解できないと言っている非ユークリッド幾何学とは次にように説明されていました。

「非ユークリッド幾何学は、ユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとして成立する幾何学の総称。非ユークリッドな幾何学の公理系を満たすモデルは様々に構成されるが、計量をもつ幾何学モデルの曲率を一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ双曲幾何学と至る所で正の曲率を持つ楕円幾何学(殊に球面幾何学)が知られている。ユークリッドの幾何学は、至る所曲率0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して放物幾何学と呼ぶことがある。大雑把に言えば「平面上の幾何学」であるユークリッド幾何学に対して、「曲面上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。」

この非ユークリッドは数学的には証明されているのでしょうが、観念的には全くわかりません、だから「イワン」は神の存在については「お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ」と「アリョーシャ」に言うのです。


2017年8月21日月曜日

508

「つまり、何のためか自分でもわかっているんじゃないか。ほかの連中はともかく、俺たち、嘴の黄色い若者は別なんだよ、俺たちは何よりもまず有史以前からの永遠の問題を解決しなければならない、それこそ俺たちが心を砕くべき問題なんだ。今や若いロシア全体が論じているのも、もっぱら有史以前からの永遠の問題だけだよ。まさしく今や、老人たちがふいに実際的な問題にかかずらいはじめたからなんだ。お前だって、それだからこそ、三ヶ月もの間、期待の目で俺を見つめつづけていたんだろう? 『汝はいかなる信仰をしているか、それともまったく信仰しておらぬか?』と、俺に問いただすためだろう、三ヶ月のあの目つきはまさにそこに帰結するってわけだ。そうじゃござんせんかね、アレクセイさん?」

実際にこの発言、つまり「アリョーシャ」が三ヶ月の間、「イワン」と話をしたそうにしていたのは、永遠の問題、つまり神の問題などを話し合いたいと思っていたからだろうと言うんですが、「イワン」が明日どこかへ去って行くとしても、これは今この状況で話す必然性はないのではないかと思います。

この部分については、たとえこのあとの展開に必要だとしもそのためにとってつけたような感があります。

「そうかもしれません」

「アリョーシャ」は微笑しました。

「まさか兄さんは今、僕をからかってるんじゃないでしょうね?」

ここでは、さすがにとってつけた感を打ち消そうとして「アリョーシャ」に「僕をからかってるんじゃないでしょうね?」と言わせて読者の心理の操作をしています。

「俺がからかってるって? いくら俺だって、三ヶ月もの間あんなに期待をこめて俺を見つめていたかわいい弟を嘆かせるつもりはないよ。アリョーシャ、まっすぐ俺を見てごらん、俺自身だってお前とそっくり同じような、ちっぽけな小僧っ子なんだよ。見習い僧でないだけでさ。ところで、ロシアの小僧っ子たちが今までどんな活動をしてきていると思う? つまり、一部の連中だがね? 早い話、この悪臭芬々たる飲屋にしても、そういう連中がここに落ち合って、片隅に陣どったとする。それまでは互いにまったく相手を知らず、いったん飲屋を出てしまえば、向う四十年くらいはまた互いに相手を忘れていまうような連中なのに、それがどうだい、飲屋でのわずかな時間をとらえて、いったい何を論じ合うと思う? ほかでもない、神はあるかとか、不死は存するかといった、世界的な問題なのさ。神を信じない連中にしたって、社会主義だの、アナーキズムだの、新しい構成による全人類の改造だのを論ずるんだから、しょせんは同じことで、相も変らぬ同じ問題を論じているわけだ、ただ反対側から論じているだけの話でね。つまり、数知れぬほど多くの、独創的なロシアの小僧っ子たちのやっていることと言や、現代のわが国では、もっぱら永遠の問題を論ずることだけなんだよ。そうじゃないかね?」

「ええ、本当のロシア人にとって、神はあるか、不死は存するのかという問題や、あるいは兄さんが今言ったように、反対側から見たそれらの問題は、もちろん、あらゆるものに先立つ第一の問題ですし、またそうでなければいけないんです」

相変らず例の静かな、探るような微笑をうかべて兄を見つめながら、「アリョーシャ」が言いました。

「そこなんだよ、アリョーシャ。ロシア人であることが、時にはまるきり賢明でない場合もあるけど、やはりロシアの小僧っ子たちが現在やっていることくらい愚劣なものは、考えもつかないな。しかし俺は、アリョーシャというロシアの小僧っ子だけは、おそろしく好きだけどね」

「うまくオチをつけましたね」

突然「アリョーシャ」が笑いだしました。

ロシアの思想史のようなものを脇に置いていなければ、このころのロシアのことがわかりませんので、「イワン」の話も十分にわかりません。

この小説は、いつのことが書かれているのか私の判断ではありますが、1866年ごろではないかと思っています。

翌1867年にはマルクスの『資本論』第1巻が出版されています。

この時代はヨーロッパにおいては観念論から唯物論への移行期にあたり、さまざまな思想が百花繚乱のように現われ出た時代です。

ロシアでもその影響は多大なものがありました。

ネットで調べるとこの頃の思想状況についてさまざまの出版物があり、記事がありますが、どれを選択していいのかもよくわかりませんので、不本意ではありますが目についたものを以下に紹介します。

「解放思想家たち:1861年に農奴が解放され、ロシアはようやく近代化の道を歩みだした。1860年代のチェルヌィシェフスキー、ドブロリューボフ、ピーサレフら急進的なニヒリスト(虚無主義者)たちは、既存の権威をいっさい否定したが、彼らもまた、インテリゲンチャと民衆、個人と社会、ヨーロッパ化と土着という伝統的な問題を追究したのだった。1870~1880年代には、ラブロフ、ミハイロフスキー、トカチョフらのナロードニキが、ヨーロッパの資本主義を回避するため、ロシア独自の道を求めた。そして、農村共同体に基づくロシア的社会主義の理論を打ち立てた。ナロードニキ出身のクロポトキンは、バクーニンのアナキズムを発展させた。しかし、プレハーノフ、レーニンらマルクス主義者は彼らを厳しく批判した。1917年、レーニンの指導のもとに革命が起き、レーニンの思想は、ソビエト・ロシアにおける思想の唯一の規範となった。

宗教思想家たち:一方、ロシア哲学の流れには、ホミャコーフ、キレーエフスキーらのスラブ派や、彼の文学そのものが近代ヨーロッパ文明に対するもっとも根本的な告発であったドストエフスキーを受け継ぐ、K・N・レオンチエフ、K・F・フョードロフ、V・S・ソロビヨフ、ローザノフ、ベルジャーエフ、フロレーンスキーら、ギリシア正教の立場にたつ宗教思想家の系譜がある。彼らは、反ヨーロッパ、反近代、反合理主義で共通している。いずれもソビエト時代には厳しく禁止された。」


2017年8月20日日曜日

507

「そう言いたければ、恋と言ってもいい。そう、俺はあのお嬢さんに、女学生にすっかり惚れこんだ。彼女のことで苦しんだし、彼女は俺を苦しめた。俺は彼女にうつつをぬかしていたもんだが・・・・ふいにすべてがけしとんだんだよ。さっき俺は意気ごんでしゃべっていたけど、外へ出てから大笑いしたよ、信じられるかい? そう、俺は掛値なしに言ってるんだぜ」

「今だってとても楽しそうに話してますよ」

事実ふいに快活になった兄の顔を見つめながら、「アリョーシャ」は指摘しました。

「それというのも、彼女を少しも愛していないってことが、わかったからさ! へ、へ! 蓋を開けてみたら、大違いだったってわけだ。しかし、とても好きだったんだがね! さっき演説をぶったときでさえ、好きだったよ。そう、今だってひどく好きだ、にもかかわらず彼女から離れ去るのが、実にせいせいした気持なんだ。俺が虚勢を張ってると思うかい?」

「いいえ。ただ、それは恋じゃなかったのかもしれませんね」

「アリョーシャ」

「イワン」が笑い出しました。

「恋の論議に深入りするのはやめとけよ! お前としちゃ不謹慎だぞ。さっきだって、さっきだって、あれは跳ね上がりだぜ、ええ! あの褒美に接吻してやるのを忘れていたよ・・・・それにしても彼女にはさんざ苦しめられたもんさ! 実際、病的な興奮なんぞに付き合っていたんだからな。ああ、彼女は俺が愛してるってことを承知していたんだよ。彼女が愛していたのも、ドミートリイじゃなく、この俺さ」

「イワン」が楽しげに言い張りました。

「ドミートリイは、病的な興奮にすぎないからな。さっき彼女に俺が言ったことは、全部まったくの真実だよ。しかし、問題は、いちばん肝心な問題は、自分がドミートリイなぞ全然愛してやせず、いつも苦しめてきたこの俺だけを愛しているってことに彼女が思いいたるのに、おそらく十五年か二十年はかかるだろう、という点なんだ。そう、今日の教訓にもかかわらず、たぶん彼女はいつになっても思いいたらないだろうな。まあ、そのほうがいいだろう。俺はぷいと立って、永久に去ってしますわけだ。ついでだからきくけど、
彼女は今どうしてる? 俺が出たあと、どうなったんだね?」

(461)で「イワン」が「カテリーナ」に「病的な興奮」で「ドミートリイ」を愛していると言っていましたね。

「イワン」は、振られたのだと思いますが、なぜかそんなふうに思っておらず、自分が振ったと思いたがっているようです。

そして、「カテリーナ」が本当は自分を好きだったんだと気づくまでに「十五年か二十年」かかるだろうと、負け惜しみを言っています。

「アリョーシャ」はヒステリーの話をして、たぶん彼女は今も意識不明でうわごとを言いつづけているはずです、と語りました。

「ホフラコワ夫人が嘘をついてるんじゃないのか?」

「イワン」は負け惜しみが強いばかりでなく、自尊心も強く、猜疑心も強いですね。

「どうもそうじゃないようです」

「確かめてみる必要があるな。もっとも、いまだかつてヒステリーで死んだ人間は一人もいないからね。それにヒステリーなら、いっこうかまわんよ。神さまは愛すればこそ女性にヒステリーを授けたんだからな。俺はあそこへは今後いっさい行かんよ。いまさらのこのこ出かけて行って、何になるというんだ」

「それにしても兄さんはさっき、あの人が一度も兄さんを愛したことがないなんて、言ってましたね」

「あれはわざと言ったのさ。アリョーシャ、シャンパンを注文しようか、俺の自由を祝って飲もうじゃないか。そうなんだ、どんなに俺が喜んでいるか、わかってもらえたらな!」

「いえ、兄さん、飲まないほうがいいですよ」

「アリョーシャ」がふいに言いました。

「おまけに僕はなんだか気持が沈んでいるし」

「うん、だいぶ前から沈んだ様子をしているな、俺はさっきから気づいていたよ」

「それじゃ、どうしても明日の朝、行ってしまうんですか?」

「朝? 朝なんて言ったおぼえはないぜ・・・・もっとも、朝かもしらんがね。実を言うと、今日ここで食事をしたのは、もっぱら親父といっしょに食事したくなかったからなんだ、それほど親父には愛想がつきたのさ。あの親父から逃げるためだけでも、とっくに出発しているべきだったよ。しかし、俺が行ってしまうのを、どうしてそんなに心配するんだい? 俺たちには出発まで、まだどのくらい時間があるかわからないぜ。まさに永遠の時間が、不死がさ!」

まさに、相手の都合を全く考慮しない勝手な話ぶりですね。

「明日行ってしまうのに、何が永遠なもんですか?」

「そんなこと、俺たちに何の関係がある?」

「イワン」が笑いだしました。

「だって自分たちの問題なら、まだ十分話し合えるじゃないか、自分たちの問題なら。何のために俺たちはここへ来たんだい? どうして、そんなにおどろいたように見ている? 答えてみな、何のために俺たちはここで会ったんだい? カテリーナに対する恋とか、親父とドミートリイのこととかを話すためにかね? 外国の話をするためか? ロシアの宿命的な状況についてか? ナポレオン皇帝の話かね? そうなのかい、そんなことのためにか?」

「いいえ、そのためじゃありません」


「イワン」は「どうして、そんなにおどろいたように見ている?」と「アリョーシャ」に聞き返しましたが、「アリョーシャ」としては、今この店に二人でいるのは、「イワン」が「ドミートリイ」と待ち合わせしているから偶然を装って来たまでだし、「イワン」とそんな話をするためではないのであって、彼の白々しさにあきれているのだと思います。


2017年8月19日土曜日

506

「イワン」は眉をひそめ、考えこみました。

「兄さんはスメルジャコフのことで眉をひそめたの?」

「アリョーシャ」はたずねました。

「うん、あの男のことでだ。しかし、あんなやつ、くそくらえだ。ドミートリイには本当に会いたかったんだけど、今となってはもうその必要もないよ・・・・」

「イワン」はきっと「スメルジャコフ」のことを信用できない奴だと思い頭にきたのでしょう、ここで「ドミートリイ」を待っていることもバラされたのですから。

「イワン」は気乗りせぬ口調でつぶやきました。

「兄さんは本当にそんなに早急に行ってしまうんですか?」

「うん」

「じゃ、ドミートリイ兄さんとお父さんはどうなるの? どういう結果に終るの?」

「アリョーシャ」は不安そうに言いました。

「またお得意の念仏がはじまったな! 俺に何の関係があるって言うんだい? 俺がドミートリイの番人だとでも言うのかい?」

「イワン」は苛立たしげに話を断ち切ろうとしかけましたが、ふいに何やら苦々しげに笑いました。

「これは殺した弟のことを神さまにきかれて、カインのした返事だったな(訳注 創世記第四章。弟アベルを殺したカインは、主に弟の行方をきかれて「知りません。私が弟の番人でしょうか」と答えた)、ええ? たぶん、今の瞬間そう思ったんだろう? しかしな、冗談じゃないよ、本当に俺がここに残ってあの二人の番人なんぞしていられるかね?用事は終ったんだから、俺はもう行くよ。お前まさか、俺がドミートリイに嫉妬しているだの、思ってるんじゃあるまいな? ええ、いまいましい、こっちには自分の用事があったんだ。その用事を終えたから、俺はもう行くのさ。用事はさっき片づけた、お前もちゃんと見ていただろうに」

「さっきって、カテリーナ・イワーノヴナのところで?」

「そう、あそこでさ。そしたらいっぺんに解放されたよ。それなのに、いったい何だい? 俺がドミートリイに何の用があるっているんだ? ドミートリイなんぞ関係ないよ。俺にはカテリーナに自分の用事があっただけさ。むしろ反対で、お前も知ってるとおり、ドミートリイのほうがさも俺と示し合わせているように振舞っていたんだぜ。こっちは全然頼みもしないのに、兄貴はまじめくさって彼女を俺に譲って、祝福するんだからな。何もかもお笑いぐさみたいなもんさ。そうさ、アリョーシャ、そうだとも、俺が今どんなに肩の荷をおろした気分でいるか、わかってもらいたいな! ここに坐って、食事をしていても、本当の話、自由の最初のひとときを祝うために、シャンパンでも注文したくなったほどだよ。ちぇっ、ほとんど半年近くだものな、それをふいに何もかもいっぺんにひっぺがしてやった。つい昨日でさえ、その気にさえなりゃ、こんなにあっさり片づけられるなんて、考えてもみなかったからな!」

「兄さんの言ってるのは、自分の恋のことでしょう?」

たしかに、「イワン」は気が動転しているのか、感情むきだしでとんでもない話をしていますね。

そもそも「イワン」は「カテリーナ」に今日振られたばかりであり、正常でいられるはずはないのですが、自己本位の性格が言動にあらわれています。


すぐにでもこの場から立ち去りたいという気持ちで頭の中がいっぱいで「フョードル」や「ドミートリイ」などのことを考える余裕もないようですね。


2017年8月18日金曜日

505

「わかりすぎるほどですよ、兄さん。本心から、腹の底から愛したいなんて、実にすばらしい言葉じゃありませんか。兄さんがそれほど生きていたいと思うなんて、僕はとても嬉しいな」

「アリョーシャ」は叫びました。

「この世のだれもが、何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」

「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」

「リア充」のすすめという訳ですね。

「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理より先に愛することです。絶対に論理より先でなけりゃ。そうしてこそはじめて、僕は意味も理解できるでしょうね。僕はもうずっと以前からそういう気がしてならないんですよ。兄さんの仕事の半分はできあがって、自分のものになっているんです。だって、兄さんは生きることを愛しているんですもの。今度は後半のことを努力しなけりゃ。そうすれば兄さんは救われますよ」

弟ですが、完全に「上から目線」ですね、そしてあきらかに何かキリスト教でしょうが教義的な信念のもとに発言しているようです。

「お前はもう救う気になっているけど、もしかしたら、俺はまだ破壊していないかもしれないんだぜ! ところで、お前の言う後半とはいったい何だ?」

「兄さんの死者たちをよみがえらせることです。ことによると、その人たちはまったく死んでいなかったかもしれませんしね。さ、お茶をいただきましょうか。僕はこうやって話をしているのが、とても嬉しいな」

「兄さんの死者たち」とは何のことでしょう、「アリョーシャ」はここでかなり意味深なことを言っているように思います、親鸞的な言い方だと「還相廻向」ということでしょうか、しかし、ここでそのことは説明を避けるように話題を変えました。

「見たところ、どうやらお前は何か霊感に打たれているようだな。俺はお前みたいな・・・・見習い僧から信仰の告白をきくのが、ひどく好きなんだ。お前はしっかりした人間だな、アレクセイ。お前が修道院を出るつもりだってのは、本当かい?」

「本当です。長老さまが僕を俗界に送りだしてくださるんですよ」

「と、つまり、俗界でまた会えるわけだ。俺が大杯から口を離す三十くらいまでに、会おうじゃないか。親父なんざ、七十まで杯を離そうとしないさ、八十までもと夢見てさえいるんだからな、自分でそう言ってたよ。あんな道化ではあるけど、こればかりはひどく真剣でな。親父は色情を拠りどころにして、岩でも踏まえているようなつもりだからな・・・・もっとも三十過ぎたら、たしかに、それ以外には拠りどころがないだろうしな・・・・それにしても、七十までとは卑しいよ、いっそ、三十までのほうがいい。自分を欺きながら、《上品というニュアンス》を保っていられるからな。ところで今日ドミートリイを見かけなかったかい?」

(436)で「フョードル」は「アリョーシャ」にこう言っていました。

「現在のところ俺はとにかく男で通用する。まだ、やっと五十五でしかないからな。だが、俺はあと二十年くらいは男として通用したいんだ。そうなると、年をとるにつれて、汚らしくなるから、女たちは自分から進んでなんぞ寄りつきゃしなくなるだろう、そこで金が必要になるというわけさ。だからこそ俺は今、自分だけのために少しでも多く貯めこんでいるんだよ、アレクセイ、わかっといてもらいたいね。なぜって俺は最後まで淫蕩にひたって生きつづけたいからさ、これも承知しておいてもらいたいな。淫蕩にひたっているほうが楽しくていい。みんなはそれを悪しざまに言うけれど、だれだってその中で生きているのさ、ただ、みんなはこっそりやるのに、俺はおおっぴらにやるだけだよ。この正直さのおかげで、世間の醜悪な連中に攻撃されるけどな。アレクセイ、俺はお前の天国なんぞ行きたくないね、これは承知しといてもらいたいが、かりに天国があるとしたって、まともな人間なら天国とやらへ行くのは作法にはずれとるよ。俺の考えでは、寝入ったきり、もう二度と目をさまさない、それで何もかもパアさ。供養したけりゃ、するがいいし、したくなけりゃ、勝手にしろだ。これが俺の哲学だよ。昨日イワンがここでたいそう弁じたてたぜ、もっとも二人とも酔払ってたけど。イワンはほら吹きだな、何の学もありゃせん・・・それに格別の教養もないし。むっつり黙って、無言のまませせら笑ってやがる・・・それがあいつの手なんだ」

以上ですが、これは「アリョーシャ」に言った言葉です。

ということは、昨日「フョードル」は「イワン」にも同じようなことを言ったのだ思います。

それにしても、「イワン」の「七十までとは卑しいよ、いっそ、三十までのほうがいい。自分を欺きながら、《上品というニュアンス》を保っていられるからな」と言うのは、俗っぽい発言ですね。

そして、「イワン」は「イワン」で話題を肝心の「ドミートリイ」のことに変えています。

「いいえ、会いませんでした。スメルジャコフには会ったけど」

そして「アリョーシャ」は「スメルジャコフ」との出会いの模様を手短かに、しかしくわしく兄に話しました。

「イワン」はふいに気がかりそうな顔になって話をきき、いくつか問い返しさえしました。

「ただあの男は、自分の話したことはドミートリイ兄さんには言わないでほしいと、頼んでましたっけ」

「アリョーシャ」は付け加えました。

「スメルジャコフ」が「裏切らないでくださいまし」と言っているのに対し(501)で「アリョーシャ」は「ああ、しないとも。飲屋へは偶然寄ったようなふりをするから、安心していていいよ」と言っていました。


ということは、「スメルジャコフ」の話は「ドミートリイ」だけでなく「イワン」にも内緒でということだと思いますが、「アリョーシャ」はさりげなく裏切っています。


2017年8月17日木曜日

504

「それどころか、偶然の一致にびっくりさせられたよ!」

快活に、熱をこめて「イワン」が叫びました。

「実を言うと、さっき彼女のところでお前に会ったあと、ひとりでそのことばかりを考えていたんだよ。その二十三歳の黄色い嘴ってことをさ、ところが今だしぬけにお前がそれを見破ったみたいに、その話をはじめるんだからな。俺が今ここに坐って、自分に何と言っていたか、わかるかい。かりに俺が人生を信じないで、愛する女性にも幻滅し、世の中の秩序に幻滅し、それどころか、すべては無秩序な呪わしい、おそらくは悪魔的な混沌(カオス)なのだと確信して、たとえ人間的な幻滅のあらゆる恐ろしさに打ちのめされたとしても、それでもやはり生きていきたいし、いったんこの大杯に口をつけた以上、すっかり飲み干すまでは口を離すものか! こう言いきかせていたのさ。もっとも、三十までには、たとえすっかり飲み干さぬうちでも、きっと大杯を放りだして、立ち去るだろうよ・・・・どこへかは、わからないがね。でも、ちゃんとわかっているんだ、三十までは、どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪にも、俺の若さが打ち克つだろうよ。俺は自分に何度も問いかけてみた。俺の内部のこの狂おしい、不謹慎とさえ言えるかもしれぬような人生への渇望を打ち負かすほどの絶望が、はたしてこの世界にあるだろうか。そして、どうやらそんなものはないらしいと、結論したのさ。つまり、これもやっぱり三十までだよ。三十にもなりゃ、こっちで嫌気がさすだろうからね、そんな気がするんだ。こういう人生への渇望を、往々にしてそこらの肺病やみで洟ったらしのモラリストたちは、卑しいものと名づけでいる。特に詩人なんて連中がな。こいつはある意味でカラマーゾフ的な一面なんだよ。それは確かだ。この人生への渇望ってやつはな。だれが何と言おうと、そいつはお前の内部にも必ず巣食っているにちがいないんだ。しかし、なぜそれが卑しいものなんだい? このわれわれの惑星の上には、求心力はまだまだ恐ろしくたくさんあるんだものな、アリョーシャ。生きていたいよ、だから俺は論理に反してでも生きているのさ。たとえこの世の秩序を信じないにせよ、俺にとっちゃ、《春先に萌え出る粘っこい若葉》(訳注 プーシキンの詩『まだ冷たい風が吹く』から)が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。そうなんだ、ときにはどこがいいのかわからずに好きになってしまう、そんな相手が大切なんだよ。ことによると、そうの昔にそんなものは信じなくなっているのに、それでもやはり昔からの記憶どおりに感情で敬っているような、人類の偉業が貴重なんだ。さあ、魚スープがきた。大いにやってくれ。うまいスープだぜ、なかなかイケるよ。俺はヨーロッパへ行ってきたいんだ、アリョーシャ。ここから出かけるよ。しょせん行きつく先は墓場だってことはわかっているけど、しかし何よりいちばん貴重な墓場だからね、そうなんだよ! そこには貴重な人たちが眠っているし、墓石の一つ一つが、過ぎ去った熱烈な人生だの、自分の偉業や、自己の真理や、自分の闘争や、自己の学問などへの情熱的な信念だのを伝えてくれるから、俺は、今からわかっているけど、地面に倒れ伏して、その墓石に接吻し、涙を流すことだろう。そのくせ一方では、それらすべてがもはやずっと以前から墓になってしまっていて、それ以上の何物でもないってことを、心から確信しているくせにさ。俺が泣くのは絶望からじゃなく、自分の流した涙によって幸福になるからにすぎないんだよ。自分の感情に酔うわけだ。春先の粘っこい若葉や、青い空を、俺は愛してるんだよ、そうなんだ! この場合、知性も論理もありゃしない。本心から、腹の底から愛しちまうんだな、若い最初の自分の力を愛しちまうんだよ・・・・こんな愚にもつかない話でも、何かしらわかるかい、アリョーシャ、わからないか?」

ふいに「イワン」が笑いだしました。

プーシキンの詩『まだ冷たい風が吹く』はネットで調べましたわかりませんでした。

「イワン」の話の内容はすんなりとはわからないのですが、彼の言いたいことは何となくわかります。

彼は今二十三歳ですが、自分で三十歳と言う区切りを設けて、それまでは、「生きていきたい」ということですね、そして「大杯に口をつけた以上、すっかり飲み干すまでは口を離すものか!」と。

つまり彼は客観的視点にたって自己分析をしているのですが、まるで年寄りが目の前の若者を冷めた目で分析しているようでもあります。

それは、行きつく先は墓場であるが、三十歳までは割り切って若さを楽しもうということだと思います。

それにしても「このわれわれの惑星の上には、求心力はまだまだ恐ろしくたくさんあるんだものな」などという大げさな表現は「おもしろいことはたくさんあるからな」と主観的な表現をすればいいと思いますが、このずっと遠方からの客観的な視点こそ「イワン」たる由縁ということでしょう。


彼のこういった考え方自体が正しいとは思えませんが、年齢の割には冷静に人生を考えているとは思います。