本当のやきもち焼きはこんなものではありません。
やきもち焼きが、なんらの良心の呵責もなしに、どんな恥辱や精神的堕落と折り合って行かれるものかは、想像することさえできぬほどです。
しかもそれがみな、俗悪な汚れた魂というわけではありません。
それどころか、高邁な心をいだき、自己犠牲にみちた清い愛情の持主でも、同時にテーブルの下に身をひそめたり、卑しい人々を買収したりして、スパイだの盗み聞きだのというもっとも醜悪な不潔さと折り合うことができるのです。
オセロには不貞と妥協することなぞ絶対にできなかったにちがいない–たとえ彼の心が幼な子の心のように柔和で純真であったにせよ、赦せないというより、妥協できなかったにちがいません。
本当のやきもち焼きの場合は、そうではありません。
ある種のやきもち焼きが、どんなものと折り合い、妥協し、どんなことまで赦すものか、想像するのもむずかしいほどです。
やきもち焼きは赦すのもだれより早いし、女はみなそれを知っています。
やきもち焼きは、たとえば、もうほとんど証拠のあがった不貞とか、自分自身の目撃した抱擁やキスとかでも、その一方でたとえば、それが《最後の一度》だったのだとか、ライバルがそのときかぎり姿を消して地の果てに行ってしまうとか、あるいは彼自身がどこかもう二度と恐ろしいそのライバルがやってこぬような場所へ女を連れて行ってしまうとかいう確信がなんとかつきさえすれば、きわめて早く(と言ってももちろん、最初に恐ろしい一幕を演じたあとでだが)赦すことができるし、その能力もあるのです。
もちろん、そんな和解が生れるのは、ほんのいっときの間にすぎません。」
なぜなら、たとえ本当のライバルが姿を消したとしても、明日になれば彼はまた別の新しいライバルを考えだして、その新しい相手に嫉妬するからです。
それほど監視せねばならぬ愛にいったい何の価値があるのか、そんなに熱心に見張っていなければならぬ愛に、どれほどの値打ちがあるのか、という気がしそうなものだが、本当のやきもち焼きはそんなことを決して理解できないのです。
この(699)の中で「やきもち焼き」という言葉がなんと7回も出て来ていますが、いくらなんでもこれはちょっと異常な事態ではないでしょうか、あまり本筋とは関係がないと思われる「やきもち焼き」のためにこれだけの文章が書かれていることは作者はよほど「やきもち焼き」に思い入れがあったのでしょう。
「嫉妬」という言葉も多く使われています。
「やきもち焼き」=「嫉妬深い人」でいいのでしょうか。
が、それにもかかわらず、本当の話、彼らの中には高邁な心をもった人々さえ、まま存するのです。
さらに注目すべきことは、そうした高邁な心の持主が、どこかの小部屋に隠れて盗み聞きしたり、スパイをしたりしているとき、みずからすすんではまりこんだその恥辱のすべてを《おのれの高邁な心》によってはっきり理解しているくせに、少なくとも小部屋にひそんでいるその瞬間には、決して良心の苛責を感じないという点です。
「ミーチャ」も、「グルーシェニカ」の姿を見ると嫉妬が消え、一瞬の間は、信じやすい高潔な人間になって、いまわしい感情をいだいた自分をみずから軽蔑さえしました。
しかしそれは、この女性に対する彼の愛情の中に、単なる情欲や、彼が「アリョーシャ」に説いてきかせた《曲線美》だけではなく、彼自身が予想していたよりはるかに高邁な何かが含まれていることを、意味しているのほかなりませんでした。
だが、その代り、「グルーシェニカ」が姿を消すと、「ミーチャ」はとたんにまた彼女の卑劣な狡猾な裏切りを疑いはじめるのでした。
その際にも良心の苛責はまったく感じなかったのです。