2018年9月30日日曜日

913

「まあ、でももしあの人が殺したんだとしたら、それが真実だわ!」

「グルーシェニカ」は叫びました。

「あのとき、気がふれていたのよ、すっかり錯乱していたんだわ、それもみんな、卑劣なこのあたしがわるいのよ! ただ、やっぱりあの人じゃない、あの人は殺してないわ! それなのに、だれもかれも、あの人が殺したなんて言うのよ、町じゅうして、うちのフェーニャまで、あの人が殺したことになるような証言をしたくらいですもの。あの店の人たちも、あのお役人もそうだし、飲屋でも前にきいたことがあるなんて言って! みんながあの人の敵にまわって、わめきたてるんだわ」

これで、ほぼ全員が「ドミートリイ」が犯人だと思っていることがわかりますね、「グルーシェニカ」は「あの人」と言って言って弁護していますが、彼女が「あの人」というのは正常な時の「ドミートリイ」のことですね。

「ええ、証言はおそろしく増えましたね」

「アリョーシャ」が沈鬱に言いました。

「それにあのグリゴーリイがね、召使のグリゴーリイがドアは開いていたなんて言い張って、たしかに見たと意地になってるんで、とても話にならないわ。あたし、とんで行って、じかに話してみたんだけど、かえって悪態をつく始末ですもの!」

「グルーシェニカ」はさすがですね、疑問と思ったことはすぐに行動に移す。

「そう、ことによると、あれが兄に不利ないちばん有力な証拠かもしれませんね」

「アリョーシャ」がつぶやきました。

「それと、ミーチャが気違いだということだけど、あの人今でもなんだかそうみたい」

突然、なにやら特に気がかりそうな、秘密めかしい様子で、「グルーシェニカ」が言いだしました。

「ねえ、アリョーシャ、あたしだいぶ前からこのことをあなたに言おうと思っていたの。毎日、面会に行ってるけど、ふしぎでならないのよ。ねえ、教えて、あなたはどう思うの。あの人がこのごろしきりに言いはじめたのは、何のことかしら? すぐにその話をはじめるんだけど、あたしにはさっぱりわからないわ。何かむずかしい話をしてるんだろうけど、あたしは頭がわるいから、わかるはずないと、そう思っているのよ。ただ、だしぬけに、童(わらし)のことを、つまり、どこか田舎の子供のことを話すようになって、『なぜ童はみじめなんだ?』だとか、『俺は今、童のためにシベリヤへ行くんだ。殺しなんぞしていないけど、俺はシベリヤへ行かなければいけないんだ』だとかって言うのよ。これは何のこと、どこの童のこと、あたしには全然わからなかったわ。ただ、あの人がその話をしたとき、あたし泣いていまったわ。だって、とっても上手に話して、自分から泣くんですもの、あたしまで泣けちゃった。そしたらあの人、突然あたしにキスして、片手で十字を切ってくれたわ。これはどういうこと、アリョーシャ、《童》って何のことか教えて」

「それは、どういうわけかラキーチンがしきりに面会に行くようになったんで・・・・」

「アリョーシャ」は微笑しました。

「もっとも・・・・その話はラキーチンのせいじゃないな、僕は昨日、面会に行かなかったから、今日行ってみましょう」

「いいえ、これはラキートカじゃないわ、弟のイワン・ヒョードロウィチがあの人の心を掻き乱すのよ、よくあそこに来ているから、そうだわ・・・・」

「グルーシェニカ」は口走り、突然はっと口をつぐみました。

「アリョーシャ」はびっくりしたように彼女を見つめました。


「よく来てる? ほんとに来たことがあるんですか? ミーチャ自身は僕に、イワンは一度も来たことがないって言ってたけど」


2018年9月29日土曜日

912

「兄はカテリーナ・イワーノヴナを愛してなんかいませんよ」

「アリョーシャ」がきっぱりと言いました。

「なに、愛してるかいないか、すぐにあたしが自分で突きとめてみせるわ」

目からハンカチを離しながら、「グルーシェニカ」はどす(二字の上に傍点)のきいた声で言い放ちました。

顔がゆがみました。

彼女の顔がふいに、それまでの柔和な、静かな明るさをたたえたものから、気むずかしい険悪なものに一変するのを、「アリョーシャ」は痛々しい思いで見ました。

「こんなばかな話はもうたくさんだわ!」

彼女は突然ぴしりと言いました。

「あなたをよんだのは、こんな用事でじゃないんですもの。アリョーシャ、ねえ、明日のことよ。明日どうなるのかしら? それがあたしには苦しくて。苦しんでるのは、あたし一人なんですもの! みんなを見ても、だれもそんなことなぞ考えてないし、だれも知ったこっちゃないって顔をしているわ。せめて、あなたくらいは考えているんでしょう? だって明日は公判じゃないの! どんな裁きがつくか、教えてちょうだい! だって、あれは召使が、召使が殺ったのよ、召使が! ああ! ほんとにあの人、召使の身代りに裁かれるのかしら、だれもあの人をかばってくれないの? だって、あの召使は全然お咎めなしなんでしょう、ねえ?」

「きびしい取調べをしたんですが」

「アリョーシャ」が考えこむように言いました。

「みんながあの男じゃないと結論したんです。今あの男は重病で寝ています。あのときの癲癇以来、病気なんですよ。本当にわるいようです」

「アリョーシャ」は言い添えました。

「ああ、あなたがご自分でその弁護士のところへ行って、差向いで一部始終を話してらっしゃればいいのに。だって、三千ルーブルも払ってペテルブルグから招いたというんでしょう」

「あの三千ルーブルは、僕と、イワン兄さんと、カテリーナ・イワーノヴナの三人で出したんですが、モスクワの医者はあの人お一人で二千ルーブル出してよんでくれたんです。弁護士のフェチュコーウィチも、もっと多く取りたいところでしょうが、この事件はロシア全土に反響をよんで、どの新聞や雑誌でも書きたてているもんだから、フェチュコーウィチもむしろ名声のために弁護を承諾したんですよ、なにしろあまりにも有名な事件ですからね。僕は昨日会ってきました」

「で、どうでした? 話してみたんでしょう?」

「グルーシェニカ」がせきこんで叫びました。

「話は全部きいてくれましたが、べつに何も言いませんでしたよ! もうはっきりした見解ができているって言ってました。でも、僕の言葉は考慮に入れるって約束してくれましたけどね」

「考慮に入れるですって! ああ、みんな詐欺師よ! あの人を破滅させちゃうわ! それに、お医者なんか、あの女はなぜお医者をよんだんですの?」

わたしとおんなじ疑問ですね。

「鑑定人としてですよ。兄が精神異常で、錯乱状態におちいって、われを忘れて殺した、という結論を出すつもりなんです」

やっぱり医者を呼ぶということは精神鑑定しかないでしょう。

「アリョーシャ」は静かに微笑しました。


「ただ、兄はそれには同意しないでしょうけど」


2018年9月28日金曜日

911

「あたしってばかね、あの以前の男も病気になったというから、ミーチャに面会に行くとき、ほんのちょっとの間、あの男のところにも寄ってみたの」

「グルーシェニカ」がそわそわと落ちつかぬ様子で、また話しはじめました。

「あたし、それを笑いながら、ミーチャに話してきかせたの。あのねえ、あのポーランド人たらギターをとって昔の歌をうたいはじめるのよ、あたしがほろりとして舞い戻るとでも思ってるのかしらね、って。ところが、ミーチャったら、いきなり跳ね起きて悪態をならべるんだもの・・・・いいわ、あのポーランド人にピロシキを届けてやるから! フェーニャ、いつもの女の子がお使いにきたの? それじゃ、その子に三ルーブルと、ピロシキを十ばかり紙にくるんで、先方へ持たせてやって。それから、アリョーシャ、あたしがピロシキを届けてやったことを、あなたの口から必ずミーシャに話してね」

(909)で「グルーシェニカ」は「・・・・あたしが出てきたのと入れ違いに、ラキートカが来たわ。ひょっとすると、ラキートカがたきつけているのかもね?」と言っていましたが、自分で話しているんですね。

「決して話すもんですか」

苦笑して、「アリョーシャ」が言いました。

「あら、あの人が憎むとでも思ってるのね。だってあの人、わざと妬いてみせたのよ、あの人自身にしてみればどうだっていいことなんですもの」

「グルーシェニカ」が悲痛に言いました。

「わざとですって?」

「アリョーシャ」がたずねました。

「あなたって鈍い人ね、アリョーシェニカ、そうよ、そんなに頭がいいのに、こういうことになると何もわからないんだから、ほんと。あの人があたしみたいな女に妬いたからって、腹立たしくもないのよ、かりに全然妬いてくれなかったら、腹も立つでしょうけどね。あたしってそういう女なの。妬かれても腹は立たないの。あたし自身、気性がはげしいから、あたしのほうが妬くんだわ。あたしが癪にさわるのは、あの人があたしなんか全然愛してもいないのに、今になってわざと(三字の上に傍点)妬いたりしてることだわ、そうよ。あたしが盲で、何も見えないとでも思ってるのかしら? 今になっていきなり、あたしにあの女のことを、カーチカのことを話すなんて。あれはこういう立派な女性で、俺のためにモスクワの名医を裁判によんでくれた、俺を救うためによんでくれたんだ、弁護士もいちばん腕ききの、いちばん学識のあるのを付けてくれたんだぞ、ですって。あたしに面と向ってほめるからには、つまり、あの女を愛してるんだわ、恥知らずよ! 自分こそあたしに顔向けならない身のくせに、あたしに言いがかりをつけるなんて。自分より先にあたしを悪者にして、あたし一人にすべてを押っかぶせるためなんだわ。『お前は俺より前にポーランド人とできてたんだから、俺とカーチカがそうなってもむりはないぜ』なによ、この言いぐさ! あたし一人に罪を全部かぶせる気なのね。わざと言いがかりをつけたんだわ、わだとよ、こうなったらあたしはもう・・・・」

三角関係のごたごたですね、それはそうと「モスクワの名医」というのは、(880)で「いずれあとでしかるべき場所で述べる別の目的のために」と謎を残して書かれている「カテリーナ」が大金を投じてわざわざモスクワからよびよせて招いた医者のことでしょうか、この医者なら彼女がついでにと依頼して「イリューシャ」も診察を受けた医者です、しかし弁護士はともかく医者は「ドミートリイ」の精神鑑定のためでしょうか。


「グルーシェニカ」は、自分が何をするつもりかを、みなまで言わずに、ハンカチで目を覆い、よよと泣きくずれました。


2018年9月27日木曜日

910

事実「パン・ムッシャローウィチ」は非常に長い、例によってきざったらしい手紙をよこし、その中で三ルーブルの借金を申し入れてきたのでした。

三ルーブルですから、わずか三千円くらいですね。

手紙には三カ月以内に必ず返済のことという借用証が添えてありました。

借用証には「パン・ヴルブレフスキー」も連署していました。

この種の、しかもどれも同じような借用証を添えた手紙を、「グルーシェニカ」は《前の男》からすでにたくさん受けとっていました。

最初は二週間ほど前、「グルーシェニカ」が全快したころでした。

もっとも、病気の間ポーランド人が二人して容態を訪ねに何度か来てくれたことは、彼女も知っていました。

「グルーシェニカ」のもらった最初の手紙は、大判の便箋にしたため、大きな紋章で封をした長文のもので、ひどくわかりにくい、きざな文章でしたので、「グルーシェニカ」は半分だけは読んだものの、さっぱり何のことかわからずに、放りだしてしまいました。

それに、そのころは手紙どころではありませんでした。

この最初の手紙のあと、次の日には二通目が舞いこみ、その中で「ムッシャローウィチ」はごく短期間だけ二千ルーブル貸してほしいと頼んできました。

「グルーシェニカ」はこの手紙も、返事をせず放っておきました。

その後、今度はもうたてつづけに、毎日一通ずつ、同じようにもったいぶったきざったらしい手紙が届くようになりましたが、申し込む借金の額はしだいに減ってゆき、やがて百ルーブル、二十五ルーブル、十ルーブルにまで落ち、最後に突然、ポーランド人が二人してたった一ルーブルの無心をし、しかも二人連署の借用証まで添えた手紙を、「グルーシェニカ」は受けとりました。

このポーランド人の気持ちがわかりません、その日の食べ物にも困っているようですが、どうするつもりなのでしょうか。

こうなると「グルーシェニカ」はふいに哀れになり、ある夕方、みずから一走りしてポーランド人のところに行ってみました。

彼女は、ポーランド人が二人とも乞食同然のひどい貧乏暮しで、食べ物も、薪も、煙草もなく、下宿のおかみにまで借金しているのを見いだしました。

モークロエで「ミーチャ」から巻きあげた二百ルーブルは、とっくにどこかへ消えてしまったのです。

しかし、「グルーシェニカ」がおどろいたのは、ポーランド人が二人とも、だれに世話にもならぬと言わんばかりの、尊大なもったいぶった態度で彼女を迎え、最上級のエチケットをふりまわして、大ぼらを吹いてみせたことでした。

「グルーシェニカ」は一笑に付して、《前の男》に十ルーブルを与えました。

このことはそのときすぐ、笑いながら、「ミーチャ」に話したし、「ミーチャ」も全然妬きませんでした。

だが、それ以来、二人のポーランド人は「グルーシェニカ」にとりつき、連日、金の無心の手紙で絨毯爆弾を浴びせるようになり、彼女もそのたびに少しずつ送っていました。

「絨毯爆弾」の意味は知っていますが、なぜそう言うのか疑問に思って調べました、英語でも 「Carpet bombing」と言うのですね、「地域一帯に対して無差別に行う爆撃。無差別爆撃、都市爆撃、地域爆撃、恐怖爆撃とも呼ばれ、住宅地や商業地を破壊して敵国民の士気の喪失を目的とした戦略爆撃である。これに対して、工場や港・油田などの施設の破壊を目的にした爆撃は「精密爆撃」に分けられる。絨毯爆撃という表現は、床に敷かれた絨毯のように、爆弾が一面を覆う印象から想起されたものである。」とのことでした。


それなのに突然今日、「ミーチャ」がはげしい嫉妬心を燃やしたのでした。


2018年9月26日水曜日

909

「だって《前の人》のことは、兄も知ってたじゃありませんか?」

「そうなのよ。そもそもの馴れそめから、今日にいたるまでのことを全部知っているくせに、いきなり今日立ちあがって、どなりだすのよ。口にするのも恥ずかしいようなことを言い散らして。ばかな人! あたしが出てきたのと入れ違いに、ラキートカが来たわ。ひょっとすると、ラキートカがたきつけているのかもね? どう思って?」

なにか放心したように彼女は付け加えました。

「兄はあなたを愛してます。そうですとも。とても愛してますよ。今日はちょうど気分が苛立ってたんですよ」

「苛立つのもむりはないわね、明日が公判ですもの。あたしが面会に行ったのも、明日のことで一言話しておくためだったのよ。だって、アリョーシャ、明日どうなるかと考えるのさえ恐ろしくって! あの人が苛立ってたなんて、あなたは言うけど、あたしのほうこそ苛立っているわ。それなのにあの人ったら、あんなポーランド人のことなんぞ! なんてばかな人かしら! マクシームシカのことは、妬かないらしいけど」

わたしが思っていたとおり「マクシーモフ」のことが出てきました、ということはやはり彼女は「ドミートリイ」に全部話しているのですね、そうでなくとも誰かから「マクシーモフ」のことは伝わるでしょうが。

「うちの家内もひどく妬いたもんでした」

「マクシーモフ」が口をはさみました。

「へえ、あんたにね」

「グルーシェニカ」は思わず笑いました。

「だれのことで妬くの?」

「小間使の娘たちのことですよ」

前にもそうでしたが、「マクシーモフ」は場の空気を読むことが苦手のようで、ちょっとピントがはずれているようです。

「ねえ、黙っててよ、マクシームシカ、こっちは今冗談どころじゃないんだから。それどころか腹の中が煮えくり返るくらいだわ。ピロシキをじろじろ眺めてもだめよ、あんたにはあげないから。身体にわるいもの。バリザム(訳注 ラトヴィアの薬酒)もだめ。ほんとにこの人にも手がかかるし。まるでうちは養老院みたい、ほんとに」

まず「ラトヴィア」から調べてみると、「ラトビア共和国(ラトビアきょうわこく、ラトビア語: Latvijas Republika)、通称ラトビアは、冷戦時代に旧ソ連に属した北ヨーロッパの共和制国家(1990年に独立)。EU、NATO、OECDの加盟国。通貨はユーロ、人口は201.5万人、首都はリガである。」とのこと、しかしこの訳注では「バリザム」が「ラトヴィア」の薬酒となっていますが、「バリザム」は「ラトヴィア」以外のもあるようで、原文ではどうなっているか知りたいところです。

次に「バリザム」は、「バリザム(балъзам)というのはロシア語で薬草酒のこと。地方によって色々な薬草酒があるようですが、私はあまり多くの種類のロシア産バリザムを飲んだことはなくて、留学時から愛飲していたのはチェコ産のベヘロフカでした。ベヘロフカは、日本でもちょっとマニアックなソムリエの勉強会なら出たことがあるから、割と日本でも知名度あるのかも知れません。30種類以上のハーブが使われていて、その原材料を知る人は世界で2人しかいないんだそう。養命酒が14種類の生薬、イェーガーマイスターが56種類のハーブを使用しているとのことなのでその中間くらいですかね。風邪をひいたとき、熱い紅茶に入れて飲んだりしてました。熱が出ると今でも反射的にベヘロフカが欲しくなります。」と、これはある人のブログを勝手に引用しました。

彼女は笑いだしました。

「わたしはあなたのご親戚に値しない人間です。役立たずで」

「マクシーモフ」が涙声で口走りました。

「わたしなぞよりもっと必要な人間に、ご親切を施すほうがよろしゅうございますよ」

「あら人間はだれだって必要なのよ、マクシームシカ、それに、どっちの人がより必要かなんて、どうして見分けられるの。せめてあのポーランド人がすっかりいなくなってくれればね、アリョーシャ、あの男まで今日は一匹前に病気になったりするんだもの。今日はあの男のところにも寄ってみたのよ。そうだわ、いやがらせにあの男にもピロシキを届けてやろう。あたしが届けもしないのに、ミーチャったら、あたしが貢いでるなんて責めるんだもの。こうなったら、いやがらせに届けてやるわ、いやがらせに! ほら、フェーニャが手紙を持ってきたわ! ほらね、案の定、またポーランド人からよ。またお金の無心だわ!」


この発言でいろいろな疑問が解けましたね、やはりポーランド人は、まだ立ち去っておらず、近くにいるのですね、そしてお金の無心までしているのですね、「グルーシェニカ」は、口は悪いのですが、優しい性格なので放っておけないようです。


2018年9月25日火曜日

908

老人も時によると話の一つや二つできることがわかりましたので、しまいには彼女にとって必要な存在にさえなりました。

どうもこの素行の悪そうな「マクシーモフ」を同居させている意味がわかりませんね、(761)で例のモークロエのドタバタ騒ぎの時に「マクシーモフ」は「ちょいとお話が!」と「ドミートリイ」に言って「実は、ほらあの娘、マリューシカでございますがね、ひ、ひ、できればなんとか、仲よくなりたいもんだと思いまして、ご親切に甘えて・・・・」と金の無心をしていましたね。

こまめに寄ってくれる「アリョーシャ」のほかには、といっても毎日ではなく、しかもいつもほんのしばらく寄るだけでしたが、「グルーシェニカ」は、ほとんどだれとも会おうとしませんでした。

パトロンだった老商人は、この当時すでに重い病で寝ており、《臨終も近い》と町では噂していましたし、事実「ミーチャ」の裁判のわずか一週間後にこの世を去りました。

死の三週間前、間近な最期を感じとって、彼はついに二人の息子とその妻子を二階の自室によび、今後はもう自分のそばを離れぬよう命じました。

そのときから「グルーシェニカ」のことは家にまったく入れぬよう召使たちにきびしく申し渡し、もし来たら、「末永く楽しく暮して、旦那さまのことはさっぱり忘れるように、とのお言葉でございました」と伝えるよう、命じました。

この「サムソーノフ」の言ったことは、つまり「グルーシェニカ」を家に入れるなということは、どういうことでしょうか、彼は物事がわかるなかなかの好人物の印象がありましたので、彼の意図というか、真意がわかりかねます。

それでも「グルーシェニカ」は、ほとんど毎日のように使いを出して、容態をきかせていました。

「やっと来てくださったのね!」

カードを放りだし、嬉しそうに「アリョーシャ」と挨拶を交わしながら、彼女は叫びました。

「このマクシームシカったら、もうお見えにならないだろうなんて、そりゃ脅かすんですもの。ああ、ぜひお会いしたかったの! お掛けになって。何になさる、コーヒー?」

「そうですね」

テーブルの前に座りながら、「アリョーシャ」は言いました。

「お腹がぺこぺこなんです」

「あらあら。フェーニャ、フェーニャ、コーヒーをね!」

「グルーシェニカ」が叫びました。

「もうさっきからコーヒーが煮立って、あなたを待ってますわ。ピロシキもちょうだい、熱いのをね。ねえ、ちょっと、アリョーシャ。今日はこのピロシキのことで雷を落されたのよ。刑務所にピロシキを差入れに行ったら、どうでしょう、あの人はそれを突き返して、結局食べないんですもの。ピロシキを一つそれこそ床にたたきつけて、踏みつぶしたりして。だからあたし、『看守さんに預けていくわ。晩までに食べなければ、執念深い憎しみがあんたを養ってるってことね』って言って、そのまま帰ってきちゃったわ。また、喧嘩しちゃった、本当の話。いつ行っても、必ず喧嘩になってしまうの」

「グルーシェニカ」は興奮して、これらすべてをひと息にまくしたてました。

「マクシーモフ」はとたんにおどおどして、薄笑いをうかべ、目を伏せました。

「今度は喧嘩の原因は何ですか?」

「アリョーシャ」はきいてみました。

「それが全然思いもかけないことなの! 考えてもみてちょうだい、あの人《前の男》に嫉妬してね。『なぜあんなやつを食わせてやってるんだ。お前、あの男に貢ぎはじめたろう?』なんて言うのよ。いつも妬いているの、のべつ妬いてばかりだわ! 寝てるときも、食べてるときも、妬いてるんだもの。先週なんぞサムソーノフのことまで妬く始末だったわ」


《前の男》は立ち去ったはずですが、まだ「グルーシェニカ」の周りにいて、彼女はお金を渡しているのでしょうか、それともそれは「ドミートリイ」の幻想でしょうか、嫉妬の苦しみはたいへんなものでしょうが、彼は「マクシーモフ」が同居していることは知っているのでしょうか、「グルーシェニカ」は隠し事などしない性格ですので、全部話していると思うのですが。


2018年9月24日月曜日

907

彼は気がかりそうな様子で、彼女の住居(すまい)に入りました。

彼女はもう家に帰っていました。

三十分ほど前に「ミーチャ」のところから帰ってきたのですが、テーブルの前の肘掛椅子から出迎えに跳ね起きた彼女のすばやい動作を見て、「アリョーシャ」は、彼女が待ちきれぬ思いで待っていたのだと推察しました。

テーブルの上にカードがのっており、《薄のろ》のゲームがやりかけになっていました。

この《薄のろ》というトランプのゲームは本当にあるのですね、調べますと、「うすのろ」とは、複数人で遊ぶトランプゲームの一つ。地域によっては「マサオくん」や「オガワくん」など語呂がいい別の名前や、カードの渡し方から「ぶたのしっぽ」の名で呼んでいる場合もあり、「うすのろまぬけ」「うすのろのばか」「うすのろばかまぬけ」といったバリエーションがあるとのこと、遊び方は、「プレイヤーは3人~13人とする。使用するトランプは、例えば、4人で遊ぶなら各スーツのエース4枚1組、ジャック4枚1組、クイーン4枚1組、キング4枚1組など、(プレイヤーの人数分×各スーツ同じ数字のカード4枚1組)である。また、プレイヤーの人数より1つ少ない数の「駒」を用意する(ケガを防ぐため、突起物が無く手でつかみやすい物が望ましい。例:おはじき、碁石、マッチ、飴 など)。場の中央に駒を固めて置いておき、各プレイヤーにカードを4枚ずつ配る。不要なカードを1枚選択し、「いっせいのー」「1、2の、3」「ぶたのしっぽ」など掛け声に合わせて右隣のプレイヤーにそのカードを裏返しにして渡す。同時に左隣のプレイヤーからカードを受け取る。この操作を繰り返す。手元に同じ数字が4枚揃った場合に、そのプレイヤーは場の中央に置いてある駒を取る。その際、ほかのプレイヤーは、手元のカードの数字が揃っていなくても場の中央に置いてある駒をすばやく取る。当然、駒はプレイヤーの人数よりも1個少ないので、1人だけ駒を取ることが出来ない。駒を取れなかったプレイヤーや、数字が揃っていないのに誤って最初に駒を取ったプレイヤーにはその都度、ポイントが与えられる。そのポイントを「う」「す」「の」「ろ」の順に4ポイントまで数え、「ろ」に最初に到達したプレイヤーが「うすのろ」となり敗者となる。」とのことですが、これは「グルーシェニカ」たちがやっていたゲームと同じでしょうか、「マクシーモフ」とふたりだけではできないと思いますので、「フェーニャ」も加わっていたのでしょうか。

テーブルの向う側の革張りのソファに、寝床が敷かれ、ガウン姿で紙の三角帽子(訳注 トランプの罰)をかぶった「マクシーモフ」が、甘たるい微笑こそうかべてはいたものの、見るからに病気でめっきり弱った様子で、半ば横たわっていました。

この宿なしの老人は、二カ月前のあのとき、「グルーシェニカ」といっしょにモークロエから戻って、そのまま彼女の家に居すわり、それ以来そばを離れないのでした。

あの日、みぞれまじりの雨の中を彼女といっしょに帰りつくと、ずぶぬれになって怯えきった老人は、ソファに坐りこみ、おずおずと乞うような微笑をうかべながら、黙って彼女を見つめていました。

恐ろしい悲しみにとざされ、しかもすでに熱病のはじまりかけていた「グルーシェニカ」は、着いた当初の三十分ほどいろいろな雑事にまぎれて、老人のことなどほとんど忘れかけていましたが、突然何かのはずみにまじまじと老人を見つめました。

老人は彼女の目に哀れっぽく、途方にくれたようなお追従笑いを送りました。

彼女は「フェーニャ」をよび、老人に食事を与えるように言いつけました。

昼のうちずっと、老人はほとんど身じろぎ一つせずに自分の席に座りとおしていました。

暗くなって、鎧戸を閉めにかかったとき、「フェーニャ」が奥さまにたずねました。

「あの、奥さま、あの方はお泊りになるんでしょうか?」

「そうね、ソファに寝床を敷いておあげ」

「グルーシェニカ」は答えました。

さらにくわしく問いただしてみて、「グルーシェニカ」は、本当に老人がまさしく今まるきり行く先のない身であることや、「恩人のカルガーノフさまが、これ以上お前の相手はしてられぬと、はっきり申し渡して、五ルーブル恵んでくださった」ことなどを、知りました。

「じゃ、仕方がないわね、このままいなさい」

同情の微笑をうかべて、「グルーシェニカ」はふさいだ様子で結論を下しました。

たいして面識のない老人を自分の家に住まわせるなんていうことは、私から見れば驚くべきことだと思いますが、当時のロシアでもなかなかあることではないでしょう、こういうところは「グルーシェニカ」のおおらかで優しいところですね。

彼女のその微笑に老人は顔をひきつらせ、感謝の涙に唇をふるわせました。

こうしてそれ以来、この放浪の居候は彼女の家に腰を落ちつけたのでした。

彼女の病気のときでさえ、家を出ていきませんでした。

ところで「マクシーモフ」は六十歳くらいの地主ですが、自分の家がないのでしょうか。

「フェーニャ」も、「グルーシェニカ」の料理女をしている彼女の母(訳注 中巻では祖母)も、老人を追いだしたりせず、相変わらず食事を与え、ソファに寝床を敷きつづけてやりました。

(710)で、「『フェーニャ』が祖母にあたる料理女『マトリョーナ』と台所に坐っていたところへ、突然《大尉》がとびこんできました。」と書かれていました。


そのうち、「グルーシェニカ」は彼に慣れてさえきたので、「ミーチャ」のところから戻ると(彼女は少し快方に向うと、すっかり本復しきらぬうちに、すぐさま面会に通いはじめたのである)、憂さを晴らすつもりで腰をおろし、ただ悲しみを考えずにいられさえすればという気持から、《マクシームシカ》相手に、いろいろ他愛のないことを話すようになりました。


2018年9月23日日曜日

906

第十一編 兄イワン

一 グルーシェニカの家で

「アリョーシャ」は、商家の未亡人「モロゾワ」の家に住む「グルーシェニカ」を訪ねるため、ソボールナヤ広場に向いました。

今朝早く彼女が「フェーニャ」をよこして、ぜひ寄ってほしいと折り入って頼んできたからです。

「フェーニャ」を問いつめて「アリョーシャ」は、奥さまが昨日からなにか特にひどく心配そうにしていることを、ききだしました。

「ミーチャ」が逮捕されて以来、この二ヶ月の間に「アリョーシャ」は、自分から思いたったり、「ミーチャ」に頼まれたりして、しばしば「モロゾワ」の家に立ち寄っていました。

「ドミートリイ」が逮捕されてから、もう二ヶ月もたったのですね、長い間「アリョーシャ」と子供たちのことが書かれていたので、彼らのことは忘れそうです。

「ミーチャ」の逮捕後、三日ばかりのちに、「グルーシェニカ」は重い病気に倒れて、ほとんど五週間近く病んでいました。

そのうちの一週間は、意識不明で寝たきりでした。

外出できるようになってから、もうほとんど二週間近くになるとはいえ、彼女はめっきり顔だちが変り、やつれて、黄ばんだ顔になりました。

しかし、「アリョーシャ」の目には、彼女の顔がいっそう魅力的になったように見え、彼女の部屋に入るときにその眼差しを迎えるのが好きでした。

彼女の眼差しには何か毅然とした、聡明な色が定着した感がありました。

ある精神的な転換がうかがわれ、何か二度と変らぬ、つつましい、しかし幸せそうな、揺らぐことのない決意があらわれていました。

眉間にきざまれた小さな縦皺が、一見けわしいとさえ見える思いつめた色を、愛くるしい顔に与えていました。

たとえば、かつての軽薄さは跡も残っていませんでした。

婚約したほとんどそのとたんに、いいなずけが恐ろしい犯罪によって逮捕されるという、この気の毒な女性を見舞ったあらゆる不幸にもかかわらず、あるいはまた、その後の長患いや、今度ほとんど避けられぬと思われる恐ろしい判決などにもかかわらず、「グルーシェニカ」がやはり以前の若々しい快活さを失くしていないことも、「アリョーシャ」にとってはふしぎでした。

かつて傲慢だった彼女の目に、今では、なにか柔和な色がかがやいていました。

だがしかし、そうは言うものの、すっかり消えてしまわぬばかりか、むしろ心の中でつのってさえいる従来どおりのある心配が見舞ったりすると、その目がときおり、またもや一種の険悪な炎に燃えあがるのでした。

この心配の種は、相も変らず、「カテリーナ」であり、病床に伏していたときも、「グルーシェニカ」はうわごとにまで彼女を思いだしたほどでした。

いつでも面会に行けるはずの「カテリーナ」が、まだ一度も拘置中の「ミーチャ」を訪ねたことがなかったにもかかわらず、「グルーシェニカ」が逮捕された「ミーチャ」のことで彼女にひどく嫉妬していることは、「アリョーシャ」も知っていました。

これらすべてが「アリョーシャ」にとっては、ある種の困難な課題となっていました。


なぜなら、「グルーシェニカ」はただ一人彼だけに自分の心を打ち明け、のべつ助言を求めるのでしたが、彼とて時には何一つ言うことができぬ場合もあったからです。



2018年9月22日土曜日

905

こう言うと彼は玄関に走りでました。

泣いたりしたりなかったのですが、玄関でやはり泣きだしてしまいました。

そうしているところを、「アリョーシャ」が見つけました。

「コーリャ、必ず約束を守って、来てあげなさいよ、でないとひどく悲しむから」

「アリョーシャ」が念を押すように言いました。

「きっと来ます! ああ、どうしてもっと早く来なかったんだろう、僕は自分が呪わしくて!」

泣きながら、そしてもはや泣いていることを恥じずに、「コーリャ」がつぶやきました。

この瞬間、突然、部屋からはじけでるように二等大尉がとびだしてきて、すぐうしろ手にドアを閉めました。

顔がもの狂おしく、唇がふるえていました。

二人の若者の前に立ちどまると、彼は両手を上にあげました。

「いい子なんか要るもんか! ほかの子なんか要るもんか!」

歯ぎしりしながら、彼は異様なささやき声で言いました。

「エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を・・・・(訳注 旧約聖書、詩篇第一三七編)」

彼は涙にむせんだかのように、しまいまで言えず、木のベンチの前に力なくひざまずきました。

両の拳で頭をしめつけ、なにかぶざまな声を張りあげて、それでも小屋の中にその声がきこえぬよう必死にこらえながら、泣きだしました。

「コーリャ」は通りに走りでました。

「さよなら、カラマーゾフさん! あなたも来るでしょう?」

彼は怒ったように、語気鋭く「アリョーシャ」に叫びました。

「晩に必ず来ます」

「エルサレムとかって、何のことですか・・・・あれは何のことです?」

「あれは聖書の言葉で、『エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば』というんです、つまり自分のいちばん大切なものを忘れたり、ほかのものに見変えたりしたら、わたしを罰してください、という意味ですよ・・・・」

旧約聖書の詩篇第一三七編は次のようなものです。

第137篇
われらバビロンの河(かは)のほとりにすわり シオンをおもひいでて涙(なみだ)をながしぬ
われらそのあたりの柳(やなぎ)にわが琴(こと)をかけたり
そはわれらを虜(とりこ)にせしものわれらに歌をもとめたり 我儕(われら)をくるしむる者われらにおのれを歓(よろこ)ばせんとて シオンのうた一つうたへといへり
われら外邦(とつくに)にありていかでヱホバの歌をうたはんや
エルサレムよもし我なんぢをわすれなば わが右の手にその巧(たくみ)をわすれしめたまへ
もしわれ汝(なんぢ)を思ひいでず もしわれヱルサレムをわがすべての歓喜(よろこび)の極(きはみ)となさずばわが舌をわが[あぎ]につかしめたまヘ
ヱホバよねがはくはヱルサレムの日に エドムの子輩(こら)がこれを掃除(はらひのぞ)け その基(もとゐ)までもはらひのぞけといへるを聖意(みこゝろ)にとめたまへ
ほろぼさるべきバビロンの女(むすめ)よ なんぢがわれらに作(なし)しごとく汝(なんぢ)にむくゆる人はさいはひなるべし
なんぢの嬰兒(みどりご)をとりて岩のうへになげうつものは福(さいは)ひなるべし

文語では分かりにくいです、口語訳ではこうなります。

われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。
もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。
主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と言ったことを覚えてください。
破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。
あなたのみどりごを取って岩になげうつ者はさいわいである。

これでしたら意味が分かりますが、この一部分だけでなく全体を把握していないと分かったとは言えませんね。

「わかりました、もう結構です! あなたも来てくださいね! こい、ペレズヴォン!」


もはやまったく荒々しい声で犬に叫ぶと、彼は大股の早足でわが家に向かいました。


2018年9月21日金曜日

904

彼はつとその場を離れ、ドアを開けるなり、足早に部屋に入って行きました。

「ペレズヴォン」がそのあとについて走りました。

医者は「アリョーシャ」を見つめたまま、呆然としたように、さらに五秒ほど立ちつくしていましたが、やがてふいに唾を吐きすて、「なんてやつだ、まったく、なんてやつだ!」と大声でくりかえしながら、急いで馬車に向かいました。

二等大尉がとんで行って、馬車に乗るのを助けました。

「アリョーシャ」は「コーリャ」のあとを追って部屋に入りました。

相手はもう「イリューシャ」のベッドのわきに立っていました。

「イリューシャ」はその手を握り、父親をよんでいました。

しばらくして二等大尉も戻ってきました。

「パパ、パパ、ここへ来て・・・・僕たち・・・・」

「イリューシャ」が極度に興奮してもつれる舌で言いかけましたが、どうやらあとをつづける気力がないらしく、いきなり痩せ細った両手を前に投げて、「コーリャ」と父の二人を精いっぱいの力でぎゅっといっぺんに抱きかかえ、二人を一つの輪の中にかかえこんで、自分も顔をおしつけました。

二等大尉は突然、声を殺した嗚咽に全身をふるわせはじめ、「コーリャ」も唇と下顎をふるわせていました。

「パパ、パパ! パパがかわいそうだ、パパ!」

「イリューシャ」が悲痛に呻きました。

「イリューシャ・・・坊や・・・・先生が言ってたぞ・・・・快くなるって・・・・みんな幸せになるって・・・・先生が・・・・」

二等大尉が言いかけました。

「ああ、パパ! 僕知ってるよ、新しいお医者さんが僕のことを何て言ってたか・・・・僕見たんだもの!」

世の中にはこんな無神経な医者がたくさんいて多くの人がそのために傷ついていますと言いたいところですが、今は教育のおかげなのか、そういうことは少なくなっていると思います、しかし、相手の心を感じない医者の所作は患者の方ですぐに感じとりますので同じことです。

「イリューシャ」は叫ぶと、また力の限りぎゅっと二人を抱きよせ、父の肩に顔を埋めました。

「パパ、泣かないでよ・・・・僕が死んだら、ほかのいい子をもらってね・・・・みんなの中から自分でいい子を選んで、イリューシャって名前をつけて、僕の代りにかわいがってね・・・・」

「よさないか、爺さん、快くなるって!」

まるで怒ったみたいに、突然「コーリャ」が叫びました。

「僕のことを、パパ、僕のことを決して忘れないでね」

「イリューシャ」がつづけました。

「僕のお墓におまいりして・・・・あのね、パパ、よくパパといっしょに散歩に行った、あの大きな石のわきに僕を埋めてね。そして夕方になったら、クラソートキンといっしょに、おまいりに来て・・・・ペレズヴォンも・・・・僕待ってるよ・・・・パパ、パパ!」

声がとぎれ、三人は抱き合ったまま、もはや黙っていました。

「ニーノチカ」も肘掛椅子でひっそり泣いていましたし、みんなが泣いているのを見ると、突然、かあちゃんも涙にむせびはじめました。

「イリューシェチカ! イリューシェチカ!」

彼女は叫びました。

「コーリャ」が突然「イリューシャ」の腕からすりぬけました。

「さよなら、爺さん、お母さんが昼ご飯に待ってるからね」

彼は早口に言いました。

「お母さんに断わってこなくて、残念だよ! 心配させちゃうからな・・・・でも、昼ご飯をすませたら、すぐに来るよ。一日じゅう、一晩じゅうここにいて、いろんな話をしてあげる、いろいろ話があるんだ! ペレズヴォンも連れてくるさ。でも今は連れて帰るよ、僕がいないと鳴きはじめて、君の邪魔になるからね。じゃ、あとでまた!」


この辺の「コーリャ」の言動の描写はリアリティがありますね。


2018年9月20日木曜日

903

「先生、先生! なにせごらんのとおりの有様でして!」

二等大尉はふいにまた両手をふりまわし、絶望にかられて丸太組みの玄関の裸壁をさし示しました。

「ああ、それはわたしの存ぜぬことです」

割り切った考え方ですね、現在の医者はほとんどこのようなタイプになってきました。

医者は苦笑しました。

「わたしはただ、最後の手段についてのご質問に対して、科学の語りうることを申しあげたまでです。それ以外のことは・・・・残念ですが・・・・」

「心配ないですよ、お医者さん、僕の犬は噛みつかないから」

敷居の上に立ちはがかっている「ペレズヴォン」に向けた、医者のいささか不安そうな眼差しに気づいて、「コーリャ」が大声でずけりと言いました。

「コーリャ」の声には憤りの調子がひびいていました。

先生という代りに、彼は《お医者さん》という言葉をわざと(三字の上に傍点)使ったのであり、あとで当人が説明したとおり、《侮辱するために言った》のでした。

「何ですと?」

医者はびっくりしたように「コーリャ」を見つめて、顎をしゃくりました。

「何者です、これは?」

突然彼は、釈明でも求めるかのように「アリョーシャ」に顔を向けました。

「ペレズヴォンの飼い主ですよ、お医者さん。僕の人柄に関してはご心配なく」

「コーリャ」はまた歯切れよく言いました。

「ズヴォン?」

「ペレズヴォン」とは何のことかわからずに、医者がきき返しました。

「自分がどこにいるのか、わかっちゃいないんだな。さよなら、お医者さん、シラクサで会いましょう」

「何だ、そいつは? 何者だ、だれなんだ?」

医者は突然ひどくいきりたちました。

「これはこの町の中学生です、先生、腕白者なんですよ、気になさらないでください」

「アリョーシャ」が眉をひそめて、早口に言いました。

「コーリャ、黙りなさい!」

彼は「コーリャ」に叫びました。

「気になさる必要はございません、先生」

今度はもういくらか苛立たしげに、彼はくりかえしました。

「鞭でたたいてやるといいんだ、鞭で!」

なぜかもうあまりにもかっとなりすぎて、医者はじだんだを踏みかねぬ勢いでした。

「でもね、お医者さん、ペレズヴォンだって相手によっちゃ噛みつくかもしれませんよ!」

「コーリャ」は青ざめ、目を光らせて、ふるえ声で言い放ちました。

「こい、ペレズヴォン!」

「コーリャ、あと一言でも口にしたら、君とは永久に絶交だよ!」

「アリョーシャ」が威圧的に叫びました。

「あのね、お医者さん、このニコライ・クラソートキンに命令できる存在は、全世界に一人きりしかいないんです、それがこの人ですよ」

「コーリャ」は「アリョーシャ」を指さしました。


「この人には服従するんです、じゃあね!」