2018年5月31日木曜日

791

こう言い終ると、「ミーチャ」はふいにひどく沈んだ顔になりました。

もうだいぶ前から、予審調査官の質問に答えるたびに、しだいに、顔が暗い表情を深めてきていました。

と、ちょうどその瞬間、突然また思いがけない一幕が展開しました。

ほかでもない、「グルーシェニカ」は先ほど連れ去られて行きはしたものの、それほど遠くへ連れて行かれたわけではなく、いま尋問の行われている青い部屋から三つ目の部屋でした。

それは、ゆうべ踊ったり、盛大に酒盛りをやったりした広い部屋のすぐ裏にある、窓の一つしかない小部屋でした。

その部屋に彼女は坐っていましたが、付き添っているのは今のところ、ひどく肝をつぶしてすっかり臆しきり、彼女の近辺に救いを求めるかのようにへばりついている、地主の「マクシーモフ」一人きりでした。

戸口には胸にバッジをつけたどこかの百姓が頑張っていました。

「グルーシェニカ」は泣いていました。

ふいに、悲しみがあまりにも胸に迫ったため、彼女は立ちあがり、両手を打ち鳴らして、「悲しい、悲しいのよ!」と大声で泣き叫ぶなり、彼のところへ、愛する「ミーチャ」のところへ行こうと、部屋をとびだしました。

だれ一人とめる暇もないほど、ふいの出来事でした。

一方「ミーチャ」は、彼女の泣き声をきくと、身ぶるいして跳ね起き、叫けびだし、われを忘れたように、まっしぐらに彼女の方に突っ走りました。

だが二人は、もう互いに相手の姿を目にしながら、またしても抱き合うことを許されませんでした。

彼は両手をしっかり押さえられました。

もがき、あばれまわるので、彼を取りしずめるには三、四人の力が必要でした。

彼女も抱きとめられました。

連れ去られていく彼女が、叫びながら両手をさしのべるのが目に入りました。

この一幕が終り、われに返るとまたテーブルの前の先ほどと同じ場所に、予審調査官と向い合いに坐らされていたため、彼は一同に向ってどなりました。

「彼女に何の用があるんです? なぜ彼女を苦しめるんですか? 彼女は無実だ、何の罪もないんです!」

検事と予審調査官が彼を説き伏せにかかりました。

こうして十分ばかりたちました。

やがて、中座していた警察署長の「マカーロフ」があわただしく部屋に入ってきて、興奮した様子で検事に大声で言いました。

「女は連れて行きました。下にいます。みなさん、わたしにもその不幸な男にほんの一言だけ話させてくれませんか? あなた方の前で、みなさん、あなたの立会いのもとで!」

「結構ですとも、ミハイル・マカーロウィチ」

予審調査官が答えました。

「今度はべつに反対しませんから」

「ドミートリイ・フョードロウィチ、まあ聞きたまえ」

「ミーチャ」に向って、「マカーロフ」は口を開きました。

興奮したこの顔全体が、不幸な相手に対するほとんど父親のような、熱烈な同情をあらわしていました。

「君のアグラフェーナ・アレクサンドロヴナは、わたしが自分で下にお連れして、この宿の娘さんたちに預けてきたし、今は例のマクシーモフ老人がずっと付き添っている。わたしは彼女によく言いきかせてきたよ、わかるかね? よく言いきかせて、気持を鎮めてあげた。君は無実を証明せねばならんのだから、邪魔をしてはいけない、君を悲しませたりしちゃいけない、さもないと頭が混乱して、間違った供述をするかもしれないから、と教えさとしておいたよ。わかるね? まあ、一言で言うと、わたしが話してあげたら、あの人はわかってくれたというわけだ。あの人は、君、利口な女性だね、気立てのやさしい人だ、わたしのような老人の手に接吻しようとまでして、君のことを頼んでいたよ。自分からすすんでわたしをここへよこして、自分のことは安心していてくれるようにと君に言伝てを頼むんだからね。だからわたしはまた行って、君が冷静なことや、あの人のことで安心したのを伝えてあげなければならないんだよ。そういうわけだから、安心しなさい、わかるね。わたしはあの人にすまないことをした。あの人はキリスト教徒の心を持っている。そうですよ、みなさん、あの人はやさしい心の持主で、何の罪もない人です。ところで、あの人にどう言おうかね、ドミートリイ・フョードロウィチ、君は冷静に坐っていられるかね、どうだね?」

(785)で「マカーロフ」は「グルーシェニカ」に対して「そうよ、お前がわるいんだ! お前がいちばんの犯人だ! お前は半気違いの、淫蕩な女だ。お前がいちばんわるいんだぞ」とわめき、検事に両手で取り押えられたりしていたのですが、それが一変して彼女のことを「キリスト教徒の心を持っているやさしい心の持主」と話していますが、いったい短い間に何があったのでしょう。


2018年5月30日水曜日

790

「われわれが発見したときには、書斎の床の上に仰向けに倒れていました。頭を打ち割られてね」

検事が言いました。

検事の「イッポリート・キリーロウィチ」は被害者の状況を容疑者に簡単に教えてしまいましたね、しかしこれは「ドミートリイ」が犯人だとすれば彼しか知っていないことを引きださせるためなのでしょうか、それにしても「ドミートリイ」は父親が死んだことを悲しんでいる様子はないですね。

恐ろしい話だ、ねえ!」

突然「ミーチャ」はびくりとふるえ、テーブルに肘をつくと、右手で顔を覆いました。

「それじゃ、つづけましょう」

「ネリュードフ」がさえぎりました。

「ところで、そのときあなたに憎悪の気持をいだかせたのは、いったい何ですか? あなたは、たしか、嫉妬の感情だとおおっぴらに言っておられましたね?」

「ええ、嫉妬です。でも、嫉妬だけじゃありませんがね」

「金銭上の争いですか?」

「そう、金のこともあります」

「たしか、その争いは遺産の未払い分とかいう三千ルーブルのことでしたね?」

検事と予審調査官はよく知っていますがいったい誰に聞いたのでしょうか。

「三千なんてとんでもない! もっとです、もっとですよ」

「ミーチャ」はどなりました。

「六千以上、おそらく一万以上でしょうね。僕はみんなに言ったし、みんなに叫びまわりました! でも、仕方がないから、三千で折り合うことに決めたんです。僕にはその三千がどうしても必要だったもんで・・・・だから、三千ルーブル入ったあの封筒が、グルーシェニカのために用意されて、親父の枕の下にあることも知ってましたが、僕は自分の金が盗まれたように思っていたんです。そうなんですよ、みなさん。僕の金も同然だ、自分の金だと、見なしていたんです・・・・」

検事が意味ありげに予審調査官と顔を見合せ、気づかれぬようにすばやく目くばせしました。

三千ルーブル入った封筒の場所を具体的に知っていたということ、またそれを自分のものと思っていたということは決定的だと思ったのでしょう

「その問題にはいずれまた戻りますが」

すぐに予審調査官が言いました。

「今は、あなたが封筒に入ったその金をご自分のものと同様に見なしておられたという、まさにその点を指摘して、記録にとどめさせてもらいます」

「どうぞ記録してください、みなさん、これもやはり僕に不利な証拠であることくらい、わかっていますが、僕は証拠なんぞ恐れやしないし、自分に不利なことでもすすんで話しますよ。いいですか、すすんでですよ! あのね、みなさん、どうやらあなた方は僕という男を、実際の僕とはまるきり違う人間に受けとっておられるようですな」

ふいに彼は暗い沈んだ口調で付け加えました。

「あなた方と今話しているのは、高潔な人間なんですよ。この上なく高潔な人間なんだ。何より大切なのは-この点を見落さないでくださいよ-数限りない卑劣な行為をやりながら、常に高潔きわまる存在でありつづけた人間だってことです。人間として、心の内で、心の奥底で、つまり一口で言えば、いや、僕にはうまく表現できないけど・・・・僕は高潔さを渇望し、ほかならぬそのことによってこれまでの生涯苦しみつづけてきた。僕は、いわば、高潔さの受難者でした。提灯をさげた、ディオゲネス(訳注 古代ギリシャの哲学者)の提灯をさげた探求者でした。ところが、それにもかかわらず、これまでの人生でやってきたことといえば卑怯なことばかりなんだ、われわれはみんなそうですがね、みなさん・・・・いや、つまり、みんなじゃなく、僕だけです。間違いました、僕だけです、僕だけです! どうも頭痛がするもんで」

 「ディオゲネス」とは「前4世紀、ギリシアの哲学者。アレクサンドロス大王との逸話で知られる。犬儒派の一人で、ヘレニズム時代のコスモポリタニズムの先駆ともされる。前4世紀のギリシアの犬儒派(キュニコス派)の代表的な哲学者。ソクラテスの流れをくむアンティステネスに学び、プラトンのアカデメイア学派を批判して、自由で自足的な生活を求め、敢えて犬のような生活を理想としたので、犬儒派と言われた。彼のポリス社会の理念を否定する思想は、後のコスモポリタニズムの先駆となった。ディオゲネスは、あなたはどこの国の人かと尋ねられると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と答えたという。ポリスという国家社会に依存しない生き方を理想とする、ヘレニズム時代のコスモポリタニズムの先駆者と言える。ディオゲネスには逸話に事欠かない。彼は地位を求めず、家を捨てて樽にすみ、不用のものの全てを虚飾として身につけず「犬のような生活」をした。彼の「シンプル・ライフ」を追求する言動は、貴族的なプラトンへの当てつけであった。ディオゲネスが昼間、ランプを灯して町中を歩き回り「わしは人間をさがしているのじゃ」と言ったという。 」とのこと、また、ある時、ディオゲネスは、「人の姿を見て犬と呼ぶ人がいる。では、人間はどこにいるのだろう?」と言って、昼間にランプの火をつけて人間探しをした。その後、「ここには人はいない」と言ったとも。今では、アテネなどで『ディオゲネスのランプ』といえば、賢者の象徴とされているとのこと。

彼はくるしそうに眉をひそめました。

「実は、みなさん、僕は親父の顔が気に食わなかったんです。何かこう破廉恥で、高慢で、あらゆる神聖なものを踏みにじるような、嘲笑と不信のあの顔が。醜悪だ、実に醜悪なんだ! でも、親父が死んだ今となると、僕の考えも変わりましたけどね」

ここで「顔」のことが書かれています、「フョードル」の顔については(82)で自分でその崩れかけた容貌を冗談のたねにして「これが本当のローマ式の鼻だよ。これと咽喉仏が相まって、正真正銘の退廃期の古代ローマ貴族の風貌といえるんだ」とよく自慢していたといいます、また喋ると、真っ黒な虫歯の欠け残りが見え隠れする口元から、唾が飛びでたとも書かれています、そんな「フョードル」の顔を「ドミートリイ」は(343)で「でも、わからんよ、わからんさ・・・ひょっとしたら、殺さんかもしらんし、あるいは殺すかもしれない。心配なのは、まさにその瞬間になって、ふいに親父の顔が憎くらしくなりそうなことさ。俺はあの咽喉仏や、鼻や、眼や、恥知らずな薄笑いが、憎くてならないんだ。個人的な嫌悪を感ずるんだよ。そいつが心配なのさ。どうにも我慢できそうもないからな・・・」と「アリョーシャ」に喋っています、さらにその顔は(434)で「ドミートリイ」の暴力により「一晩のうちに大きな紫色の痣のできた額は、赤い布で繃帯されており、鼻も一晩でひどく脹れあがり、さほど大きくはないのですが、いくつかの痣がしみのようにひろがり、それが顔全体になにか一種特別な意地わるい、苛立たしげな表情を与えていました、そしてついに「ドミートリイ」が家に侵入したときに見た「フョードル」の顔は、(713)で書かれていますが、「あれほど不快な老人の横顔、たれさがった咽喉仏、甘い期待にやにさがる鉤鼻、唇、これらすべてが部屋の左手からさすランプの斜光で明るく照らしだされました。おそろしい、もの狂おしい憎悪が、突然「ミーチャ」の胸にたぎり返りました。『こいつだ、こいつが俺のライバルなんだ、俺を苦しめ、俺の生活を苦しめる男なのだ!』これこそ、四日前にあずまやで「アリョーシャ」と話したとき、「どうしてお父さんを殺すなんてことを、口にできるんです?」という「アリョーシャ」の問いに対して、さながら予感していたかのように答えた、ほかならぬあの突発的な、復讐心にみちた、もの狂おしい憎悪でした。」とのことです。

「どう変ったんです?」

「変ったわけじゃないけど、親父をあんなに憎んだことを残念に思うんです」

「後悔を感じておられるわけですね?」

「いや、後悔というんじゃない、これは書かないでくださいよ。僕自身だって、美男子ってわけじゃない、そうでしょう、じぶんだってたいして男前でもないんだから、親父を醜いと思う資格なんどなかったんですよ、そうなんです! これは書いてもかわいませんよ」


「フョードル」の顔について、あれほどまでに散々に書いてきた作者なんですが、ここでは一変してそれを否定するような表現を「ドミートリイ」の口から言わせています、この辺が作者の力量なのでしょう。


2018年5月29日火曜日

789

「落ちついてくださいよ、ドミートリイ・フョードロウィチ」

どうやら、夢中になっている相手を自分の冷静さで征服するつもりらしく、予審調査官が注意しました。

「尋問をつづける前に、もしあなたが返事をなさることを承知してくださりさえするなら、たしか、あなたは亡くなったフョードル・パーヴロウィチをきらいで、いつも何か喧嘩をしていらしたということなので、その事実の裏付けを伺いたいと思うのですが・・・・少なくとも、十五分ほど前にここであなたは、たしか、お父上を殺したいと思ったことはあるとおっしゃいましたね。『殺しはしなかったが、殺したいと思ったことはある!』と叫んでおられましたよ」

これは(785)ので「ドミートリイ」が突然立ちあがり両手をかざして、「無実だ! その血なら無実だ! 親父の血に関しては、僕は無実です・・・・殺したいと思ったことはあったけれど、無実です。僕じゃない!」と大声で叫んだことを言っています。

「僕がそんなことを叫びましたか? そう、ありうることですね、みなさん! そう、不幸なことに、僕は父を殺したいと思ったことがあるんです、何度もそう思いましたよ・・・・不幸な話だ、不幸な話ですよ!」

「思ったことがあるんですね。お父上の人柄に対してそれほどの憎しみをいだかれたのは、いったい、どういう信念によるものなのか、ご説明ねがえませんか?」

「何を説明しろというんです、みなさん!」

「ミーチャ」は目を伏せて、不機嫌に肩をそびやかしました。

「僕は自分の感情を隠したりしませんでしたから、そのことなら町じゅうが知ってますよ。飲屋に行きゃ、だれだって知ってます。ついこの間も、修道院のゾシマ長老の庵室ではっきり言ったばかりですしね・・・・あの日の夕方、僕は親父を殴り倒して、ほとんど半殺しの目に会わせたあげく、あらためて出直して殺してやると言いきったんです、何人も証人もいる前でね・・・・そう、証人なら千人も集められますよ! まるひと月どなりつづけていたんだから、みんなが証人です! 事実は目の前にある、事実は語り、叫んでいる、しかし感情は、みなさん、感情は別問題ですよ。そうでしょう、みなさん」

「ミーチャ」は眉をひそめました。

「感情のことまでたずねる権利なぞ、あなた方にはないと思いますがね。たとえ、権利を与えられているにせよ、僕だってそれはわかるけど、しかしこれは僕の問題ですからね、僕の内心の問題じゃりませんか、プライヴェートな・・・・でも、これまで僕は自分の感情を隠してきませんでしたから・・・・たとえば飲屋などで、だれかれかまわず一人ひとりに話してきたもんです、だから・・・・だから今もべつに秘密は作らないことにしましょう。そりゃね、みなさん、この場合僕に対して恐ろしい証拠がいくつもあることくらい、僕だってわかっています。親父を殺してやると、みんなに言っていたら、突然その親父が殺されたんですからね。この場合、僕じゃなくてどうします? は、は! 僕はあなた方を赦してあげますよ、みなさん、大目に見てあげます。僕自身、度肝をぬかれたほどですから。だって、僕でないとすると、その場合、結局誰が親父を殺したんです? そうじゃありませんか? 僕でなければ、だれです、だれなんですか? みなさん」

ふいに彼は叫びました。

「僕は知りたいんだ、いや、むしろ要求します。親父はどこで殺されていたんですか? 何で、どうやって? 教えてください」

検事と予審調査官を見くらべながら、彼は早口にたずねました。

まだこのあたりでは「ドミートリイ」には絶対の自信がありますね、いくら心の中で殺したいと思っていても自分は犯人ではないのだから当然そのことはいずれわかると思っているのです。


そして、彼は「感情」のことについてふれています、つまり「感情」は「内心の問題」で個人の自由であるということを言いたいのでしょう、しかしよくわからないのですが、刑法は犯罪の動機を求めるために個人の内心についても踏み込んできますよね、そして「内心」と「感情」の関係も複雑だと思います。


2018年5月28日月曜日

788

「ニコライ・パルフェーヌイチ、お見受けしたところ、あなたは練達の調査官さんのようですな」

だしぬけに「ミーチャ」は楽しそうに笑いだしました。

「しかし今度は僕のほうがお手伝いしますよ。ああ、みなさん、生き返りましたよ・・・・僕があなた方にこんな無遠慮な、ざっくばらんな態度をとるからといって、怒らないでください。おまけに、僕はいささか酔ってるんです。正直に申しあげますがね。あなたとは、ニコライ・パルフェーヌイチ、たしか僕の親戚のミウーソフの家でお目にかかる機会を・・・・いや、拝顔の栄と喜びに浴したのでしたね・・・・ねえ、みなさん、僕はなにも対等の権利を要求しているわけじゃないんです。僕だって、自分が今あなた方の目にどういう人間として坐っているか、よくわかっていますからね。僕には・・・・もしグリゴーリイが僕に関して証言したとすれば・・・・僕には、そう、もちろん恐ろしい嫌疑がかかっているはずだ! おそろしい、おそろしいことです、それは僕だってわかっています! しかし、本題に入りましょうや、みなさん、僕はそのつもりですよ。そして今度はあっという間にけりをつけようじゃありませんか、だってそうでしょう、きいてくださいよ、みなさん。無実であることを僕が知っている以上、もちろん、あっという間に片づきますとも! そうでしょう? そうじゃありませんか?」

「ミーチャ」は、聞き手たちをまるでいちばん親しい友人と頭から決めてかかってでもいうように、感情をそのまま表に出し、神経質な早口で、大いにしゃべりまくりました。

「それじゃ、とりあえず、あなたがご自分にかけられた容疑を根本的に否定なさっておられることを記録しておきましょう」

ぎくりとするような口調で「ネリュードフ」は言うと、書記をかえりみて、記録すべきことを小声で口述しました。

「記録するんですか? そんなことを記録なさるおつもりですか? いいでしょう、記録してください、僕も同意します、全面的に同意しますよ、みなさん・・・・ただ、いいですか・・・・待ってください、ちょっと待ってください、こういうふうに書いてくれませんか。『暴行については有罪、気の毒な老人に加えた手ひどい殴打に関しては有罪』とね。さらに、内心ひそかに、心の奥底では有罪と認めています。しかし、こんなことは書かなくたっていいんだぜ」

「・・・・内心ひそかに、心の奥底では有罪と認めています・・・・」とは、「ドミートリイ」が「フョードル」を殺したのではないが、心の奥底では殺すことを望んでいたということでしょうか、これは言わない方がいいと思いますが。

突然彼は書記をかえりみました。


「これはもう僕の私生活になりますからね、みなさん、これはもうあなた方には関係ないことです、つまり、これは心の奥底の問題ですから・・・・しかし、年とった父親が殺された件に関しては、僕は無実です! そんなのは野蛮な発想ですよ! まったく野蛮な発想だ! 僕は証明してみせます、そうすればあなた方だってすぐに納得するでしょうからね。きっと笑いだすでしょうよ、みなさん、こんな嫌疑をかけたことを、あなた方自身が大笑いすることでしょうよ!」


2018年5月27日日曜日

787

「みなさん、実に残念です! ほんのちょっとだけ、彼女のところへ行ってきたかったのに・・・・一晩じゅう僕の心を苦しめつづけていたあの血が、洗い流され、消え去って、僕はもう人殺しじゃないんだってことを、彼女に教えてやりたかったんです。だって、みなさん、彼女は僕のいいなずけなんですからね!」

みなを見まわしながら、彼は突然、感激しきった、うやうやしい口調で言い放ちました。

「ああ、本当に感謝します、みなさん! ああ、あなた方は一瞬のうちに僕を生き返らせ、よみがえらせてくださったんだ! なにしろあの老人は、三つの子供のときにみんなに見すてられた僕を、抱いてあやしたり、たらいで行水を使わせてくれたりして、実の父親も同然だったんですものね!」

「それじゃあなたは・・・・」

予審調査官が切りだしかけました。

「すみませんけど、みなさん、あと一分だけ待ってください」

両肘をテーブルにつき、両の掌で顔を覆って、「ミーチャ」が相手の言葉をさえぎりました。

「ちょっと考えさせてください、ひと息つかせてくださいよ、みなさん。今の話がすごいショックだったんです、すごく。人間は太鼓の皮とは違いますからね、みなさん!」

「人間は太鼓の皮とは違いますからね」とは、張り替えることができないということでしょうか。

「じゃ、また水でも・・・・」

「ネリュードフ」が歯切れわるく言いました。

「ミーチャ」は顔から両手を離し、朗らかに笑いました。

眼差しが溌剌とし、わずか一瞬のうちに人がすっかり変ったみたいでした。

全体の調子まで変りました。

それはもはや、以前からの知合いであるこれらすべての人たちと、ふたたび対等になった人間として同席している感じで、かりに昨日、まだ何も起らなかったころに社交界のどこかで、みなが顔を合わせたら、ちょうどこんなふうだったにちがいありませんでした。

作者は「グリゴーリイ」が一命をとりとめたことを知った「ドミートリイ」の態度の変わり方をこれでもかこれでもかと書いています、このことは作者が読者と駆け引きをしているのでもなく、伏線などの創作上の技術的なことでもなく、単に「ドミートリイ」の性格が現れる描写を繰り返すことによって読者に肝心なことを知らせているのだと思います、仮にこれで「ドミートリイ」が父親殺しの犯人ということになるとすると、ある意味で読者は作者の不実を見ることになり、そのようなことはありえないことでしょう。

もっとも、ついでに言っておくと、「ミーチャ」はこの町に来た当座は、署長の家に喜んで迎えられたものの、その後、特にこのひと月ばかりは「ミーチャ」もほとんど訪ねませんでしたし、署長もたとえば道で彼に出会ったりすると、ひどく眉をひそめ、もっぱら儀礼的に会釈するだけで、そのことは「ミーチャ」もちゃんと気づいていました。

これは「ドミートリイ」の素行の悪さを署長が嫌がっているからだと思いますが、ということは社交界でも彼の悪い噂は広がっているのでしょう。

検事とはもっと遠い付き合いでしたが、神経質な空想家の女性である検事夫人のところへは、それでもときおりきわめて折目正しく顔を出し、自分でも何のために訪問するのか、さっぱりわからぬほどだったのですが、夫人のほうはごく最近までなぜか彼に関心を示して、いつも愛想よく迎えてくれました。

町の女性の中にはそんな「ドミートリイ」に好意を持つ女性もいるということであり、不思議なことです。


予審調査官とはまだ親しくなる暇がありませんでしたが、しかし、よく顔を合わせる機会がありましたし、一度か二度、話をしたことさえあって、二度とも女の話でした。


2018年5月26日土曜日

786

「ミーチャ」から見て左側の、ゆうべ最初のうち「マクシーモフ」が坐っていた席に、今は検事が坐り、「ミーチャ」の右側の、あのとき「グルーシェニカ」のいた席に、ひどく着古した、何やら狩猟服のような背広を着た、赫ら顔の青年が陣取り、インクと壜と紙がその前に置かれていました。

これは、予審調査官がいっしょに連れてきた書記であることがわかりました。

警察署長は今では、部屋の向う端の窓ぎわに、これもやはり同じ窓ぎわの椅子に腰をおろしている「カルガーノフ」と並んで、立っていました。

「水をお飲みください!」

これでもう十遍めですが、予審調査官が穏やかにくりかえしました。

「飲みました、みなさん、飲みましたよ・・・・ところで・・・・どうです、みなさん、わたしをもみつぶしちまっては。処刑してください、運命を決めてくださいよ!」

「ミーチャ」は不気味なほど動かぬ目をむきだして予審調査官を見つめながら、叫びました。

「それでは、あなたはご尊父フョードル・パーヴロウィチの死に関しては無実だと、あくまでも主張なさるんですね?」

穏やかではあるが、執拗な口調で予審調査官がたずねました。

「無実です! 罪があるのは、ほかの血、つまりもう一人の老人の血に関してで、親父のじゃありません。そして死を悼んでいます! 僕は殺した、あの老人を殺してしまった、殴り殺しちまったんです・・・・しかし、その血のために、もう一つの、僕に何の罪もない恐ろしい血の責任までとらされるのは、やりきれませんよ・・・・恐ろしい濡衣だ、みなさん、まるで脳天をがんとやられたみたいですよ! それにしても、だれが殺したんだろう、殺したのはだれです? 僕でないとすると、殺すことのできたのはだれでしょうね? ふしぎだ、ばかげている、とても考えられない話だ!」

この発言からも「ドミートリイ」が嘘を言っているようには見えませんが。

「そう、殺すことのできた人間は・・・・」

予審調査官が言おうとしかけましたが、検事の「イッポリート・キリーロウィチ」が(本当は検事補なのだが、簡単にするため検事とよぶことにします)、予審調査官を目くばせを交わし、「ミーチャ」に向って言いました。

「あなたは老僕グリゴーリイのことで無用の心配をなさってますよ。お教えしましょう、彼は生きています、意識を取り戻したのです。彼と、それからあなたが今なさった証言のとおり、あなたが加えた手ひどい打撲にもかかわらず、少なくとも医者の見立てでは、たぶん、確実に生命をとりとめるはずです」

「生きている? それじゃ、生きているんですか!」

突然「ミーチャ」は両手を打ち合せて、叫びました。

顔がすっかり晴れ渡りました。

「神さま、わたしの祈りをききとどけて、罪深い悪党であるわたしのために偉大な奇蹟を行ってくださっとことを、感謝いたします! そう、そうだ、これはお祈りのおかげです、わたしは夜どおし祈っていたんですよ!」

彼は十字を三度切りました。

ほとんど息を切らさんばかりでした。

何度も繰り返しますが「ドミートリイ」のこれらの反応は父親殺しをした人間の反応ではないと思います。

「ところで、ほかならぬそのグリゴーリイから、われわれは、あなたに関するきわめて重大な証言を得たのですが」

検事がつづけようとしかけましたが、「ミーチャ」はだしぬけに椅子からとび起きました。

「ちょっと待ってください、みなさん、おねがいですから、ほんの一分だけ。大急ぎで彼女のところへ行ってきます・・・・」

この「ドミートリイ」の反応は自分の立場をまだよくわかっていない彼としては納得できる正直な行動だと思います。

「とんでもない! 今は絶対にだめです!」

「ネリュードフ」がほとんど悲鳴に近い声をあげて、これも立ちあがりました。

胸にバッジをつけた人たちが「ミーチャ」を取り押さえました。


もっとも彼は自分から椅子に腰をおろしました・・・・


2018年5月25日金曜日

785

三 魂の苦難の遍歴-第一の苦難

さて、「ミーチャ」は何を言われているのか理解できずに、坐ったまま、ふしぎそうな眼差しでそこにいる人々を見まわしていました。

突然、彼は立ちあがり、両手をかざして、大声で叫びました。

「無実だ! その血なら無実だ! 親父の血に関しては、僕は無実です・・・・殺したいと思ったことはあったけれど、無実です。僕じゃない!」

わたしはこの「ドミートリイ」の言葉は真実だと思いました、彼は(721)で「これはね、広場で今、婆さんを轢いちまったんです」、(722)で「さる貴婦人が即座に三千ルーブルくれますよ。僕ももらったんだけど、その人はそりゃ大の金鉱好きでね!」とか嘘をついてはいるのですが、基本的には真実の人間だと思います。

しかし、彼がこう叫ぶか叫ばぬうちに、カーテンの奥から「グルーシェニカ」がとびだしてきて、そのまま署長の足もとに突っ伏しました。

この自分の心と直結した行動力が「グルーシェニカ」のいいところだと思います。

「それはあたしです。罪深いあたしです、あたしがわるいんです!」

顔じゅう涙にし、一同に向って両手をさしのべながら、心の張り裂けるような声で彼女は叫びました。

「あたしのために、人殺しまでしたんです! あたしがその人を苦しめて、こんなことにまでしてしまったんです! 死んだかわいそうなあのお年寄りのことも、あたしは意地わるして苦しめてきたので、こんなことになってしまったんです! あたしがいけないんです、あたしが火付け役です、主犯です、あたしがわるいんです!」

「そうよ、お前がわるいんだ! お前がいちばんの犯人だ! お前は半気違いの、淫蕩な女だ。お前がいちばんわるいんだぞ」

片手で脅しながら、署長がわめきだしましたが、ただちに断固として押えられました。

検事なぞ、両手で署長を取り押えたほどでした。

どうも郡署長「ミハイル・マカーロウィチ」は感情的すぎますね、自分が捉えられていてはどうしようもありませんね。

「これじゃ、まるきり滅茶苦茶になっちまいますよ、ミハイル・マカーロウィチ」

彼は叫びました。

「審理をすっかり妨害しているじゃありませんか・・・・ぶちこわしだ・・・・」

彼は息を切らさんばかりでした。

「処置を講じましょう、きびしい処置を」

「ネリュードフ」もひどく激昂しました。

「でなけりゃ、まるきりでませんよ!」

「二人いっしょに裁いてください!」

なおもひざまずいたまま、「グルーシェニカ」が狂ったように叫びつづけました。

「二人いっしょに罰してください、今この人といっしょになら、たとえ死刑でも喜んで受けます!」

「グルーシェニカ、僕の生命、僕の血潮、僕の神聖な宝!」

「ミーチャ」も彼女の隣にひざまずき、固く彼女を抱きしめました。

「彼女の言葉を本気にしないでください」

彼は叫びました。

「彼女には何の罪もありません、だれの血に関しても、何事に関しても!」

あとになって思いだしたのですが、彼は数人の男に力ずくで彼女から引き離され、彼女はふいに連れ去られてしまい、気がつくと自分はもうテーブルの前に坐らされていました。

横にもうしろにもバッジをつけた人々がいました。

テーブルをへだてた向い側のソファに、予審調査官の「ネリュードフ」が坐っており、テーブルの上のコップの水を少し飲むように、しきりにすすめていました。

「気分がすっきりして、落ちつきますよ。ご心配なく。ご安心なさい」

たいそういんぎんに彼は言い添えました。

「ミーチャ」は突然、彼の大きな指輪にひどく興味をそそられたことをおぼえています。

一つは紫水晶で、もう一つは何やら鮮やかな黄色の、透明な、実に美しいかがやきの宝石でした。

その後も永いこと彼は、あの恐ろしい尋問の間でさえずっと、指輪が強い力で眼差しをひきつけ、そのためになぜか目を離すことができず、自分の置かれた立場にまるきりそぐわぬ品物として忘れることでもできなかったのを、ふしぎな気持で思いだしました。


どうすることもできないような恐怖の場面に置かれた時、人間は本能的に恐怖から逃れ出るために何かそういうものを無意識に探し出さざるを得ないのかもしれません、卑近な例では小学生が先生に叱られている時に叱られている内容はそっちのけで先生の洋服のボタンが取れかけているのを夢中になって観察しているようなことと同じかもしれません、しかしこの場合、「紫水晶」と「鮮やかな黄色の、透明な、実に美しいかがやきの宝石」つまり「イエローサファイア」かもしれませんが、この二つの宝石はそれぞれに意味を持たせているのかもしれません。→(815)でこれは「煙色トパーズ」であると「ネリュードフ」自身が言っています。


2018年5月24日木曜日

784

これらすべてに時間がとられるので、たまたま前日の朝、俸給を取りに町へ来ていた分署長の「マヴリーキイ・マヴリーキエウィチ・シメルツォフ」を、自分たちより二時間ほど先にモークロエに派遣することにしました。

分署長の「マヴリーキイ・マヴリーキエウィチ・シメルツォフ」は「ドミートリイ」と懇意の「マヴリーキイ・マヴリーキチ」ですね。

「シメルツォフ」は、モークロエについても決して騒ぎを起さず、当局が乗りこむまで《犯人》から目を離さぬようにし、同時に証人や村の警吏たちを集めておくようにという指令を受けました。

(769)で「ドミートリイ」が「しかし、あのバッジをつけた連中は、あの連中は何のためにいるのだろう?」と思ったのは、「シメルツォフ」が集めた「村の警吏」たちなのですね、(769)の「二人、どこかの百姓たち」とは「証人」として集めたのでしょう。

「シメルツォフ」はそのとおり行動して、お忍びで通し、古い知人である「トリフォン」にだけ、仕事の秘密をある程度打ち明けました。

「ミーチャ」が回廊の暗がりで自分を探していた宿の主人に出会い、その際「トリフォン」の顔や話し方にふいに何か変化が生じたことに気づいたのは、まさしくこの時刻に当っていました。

(762)の「トリフォンはなんとなく暗い、気がかりそうな様子に見えましたし、どうやら彼を探しに来たらしいのです。」のとろこですね。

というわけで、「ミーチャ」も、ほかのだれも、自分たちが監視されていることなど、まったく知らずにいました。

ピストルのケースはずっと以前に「トリフォン」が運びだし、目立たぬ場所に隠していました。

そしてもう朝の四時すぎ、ほとんど夜明け近くになってやっと、郡署長や検事、予審調査官などのお偉方が、二台の箱馬車と、二台のトロイカで到着しました。

郡会医は、その朝、死体の解剖を行う考えで、「フョードル」の家に残りましたが、何よりも彼の興味をひいたのは、病気の召使「スメルジャコフ」の容態にほかなりませんでした。

「二昼夜もぶっつづけにくりかえされる、こんなはげしい、こんな長い癲癇の発作なんて、めったにお目にかかれませんからね。これも研究の対象ですよ」

出発してゆく仲間たちに彼は興奮した様子で口走ったので、仲間たちは笑いながら、この新発見を祝いました。

その際、検事と予審調査官は、「スメルジャコフ」は朝までもつまいと医者がきわめて断定的な口調で付け加えたのを、非常によく記憶していました。

これは、作者の意図が何であるか、非常にわかりにくい部分です、普通に読むと「スメルジャコフ」が犯罪の容疑者から外れるということを印象付けているのではないかと思われるのですが、彼を犯人だとすれば、ありえないほどの癲癇の発作はそれ自体犯行を隠すための仮病ではないかとも思えます。

さて、長い、しかし必要と思われる説明も終りましたので、前編で中断していた物語の個所に戻ったというわけです。


「前編で中断していた物語の個所」とは第八編の「八 悪夢」の最後、予審調査官が「ドミートリイ」にカラマーゾフ殺害事件の容疑者と申し渡し、「彼はふしぎそうな眼差しでみなを見まわしていました・・・・」のところです。


2018年5月23日水曜日

783

精力的な活動を展開することに決まりました。

四人の証人の事情聴取はただちに市の副署長に一任し、ここではもうくだくだしく記さぬことにしますが、型どおりの手続きをふんで、「フョードル」の家に立ち入り、現場検証が行われました。

「郡の警察署長」は「ミハイル・マカーロフ」ですが、「市の副署長」とは誰でしょうか、それに事情聴取を受けた「四人の証人」とは「ペルホーチン」と「マリヤ・コンドラーチエヴナ」と「マルファ」と「ホフラコワ夫人」でしょうか。

まだ新顔で仕事熱心な郡会医は、自分のほうから頼みこむようにして、署長と検事と予審調査官とに同行しました。

「郡会医」は「ワルヴィンスキー」ですね、「署長」は「マヴリーキイ・マヴリーキチ」、「検事」というのは検事補の「イッポリート・キリーロウィチ」、「予審調査官」は「ニコライ・パルフェーノウィチ・ネリュードフ」ですね。

あとはごく簡単に記しましょう。

「フョードル」は頭を打ち割られ、完全に死亡していることがわかったのですが、凶器は?

まず確実なのは、のちに「グリゴーリイ」が傷を負わされたのと同一の武器にちがいありませんでした。

できるかぎりの手当を受けた「グリゴーリイ」から、弱々しいとぎれがちの声で語られたとはいえ、負傷したときの模様に関する、かなり筋道の通った話をきくことができて、その凶器もぴたりと探しだされました。

角燈をさげて塀のあたりを探しにかかり、庭の小道のいちばん目立つ場所へ無造作に放りだされてある銅の杵が発見されたのです。

「フョードル」の倒れていた部屋には、べつにとりたてて乱雑さは見られませんでしたが、ベッドのわきにある屏風のかげの床の上から、《わが天使グルーシェニカへの贈り物三千ルーブル、もし来る気になってくれたら》と上書きした、厚い紙の、事務用の大判の封筒が拾いあげられました。

封筒の下の方には、おそらくその後「フョードル」自身が書き加えたのだろうが、《ひよこ(三字の上に傍点)ちゃんへ》と記されていました。

こんな緊迫した状態の時に《ひよこちゃんへ》というのは何だか間が抜けていておかしいですね。

封筒には赤い封蠟で大きな印が三つおしてありましたが、封筒はもはや破られて、空っぽでした。

金は持ち去られていました。

封筒をゆわえてあった細いバラ色のリボンも、床の上で発見されました。

「ペルホーチン」の証言の中で、検事と予審調査官に特別の印象を与えた状況が一つありました。

ほかでもない、「ドミートリイ」が夜明けまでには必ずピストル自殺するだろう、本人もそう決心して、「ペルホーチン」にそんなことを話していましたし、目の前でピストルを装填し、遺言を書いてポケットにしまっていたから、という推測でした。

なおも信ずる気になれなかった「ペルホーチン」が、それなら自殺を阻止するために、行ってだれかに話してくると脅したところ、当の「ミーチャ」はせせら笑って、「間に合うもんか」と答えたといいます。

これは(724)で出てきました、「ペルホーチン」が「ほんとに、だれかに言おう。今すぐ行って、話してこよう」と言ったのにたいして、「ドミートリイ」が「間に合わないよ、君、さ、行って一杯やろうや、進軍だ!」と言ったのでした。

とすれば、本当にピストル自殺をする気など起こす前に犯人を捕えるため、モークロエの現場に急行する必要がありました。

「それははっきりしています。はっきりしてますとも!」

極度に興奮して検事がくりかえしました。

「この種のならず者には、そっくり同じケースが見られるもんですよ。明日はどうせ自殺するんだから、死ぬ前に豪遊しようってわけでね」

酒や食料品を店でしこたま買いこんだ話も、いっそう検事を興奮させるばかりでした。

「ほら、みなさん、商人オルスーフィエフを殺した若者をおぼえているでしょうが。あの男も千五百ルーブルを奪うと、その足で床屋へ行って髪を縮らせてから、金をろくに隠そうともせず、やはり両手にわしづかみ同然にして、女たちのところにしけこんだじゃありませんか」


しかし、現場検証や、「フョードル」の家の捜索、さまざまの手続きなどが、一同を手間どらせました。


2018年5月22日火曜日

782

明るい色のガウンと白いシャツの胸が血に染まっていました。

テーブルの上の蝋燭が、血と、動きのとまった「フョードル」の死顔とを明るく照らしていました。

ここにいたって、恐怖の限界に追いこまれた「マルファ」は窓からとび離れ、庭を走りでて、門のかんぬきをはずし、まっしぐらに裏隣の「マリヤ・コンドラーチエヴナ」のところに駆けつけました。

隣の母と娘はどちらもこのときすでに眠っていましたが、鎧戸を気違いのように力まかせにたたく音と「マルファ」の叫び声とに目をさまし、窓のところへとんできました。

「マルファ」は悲鳴や泣き声をまじえて、しどろもどろながら、それでも要点を伝え、助けを求めました。

たまたまこの夜は、放浪癖のある「フォマー」も泊っていました。

「フォマー」は(341)で出てきており「ドミートリイ」のセリフに「そうさ。ここの持主の、あの売女どもの小部屋を、フォマーという男が借りている。フォマーはこの土地の出の、兵卒上がりでな。ここに奉公して、夜は番人をしているんだが、昼間は山鳥を射ちに行って、それで暮しをたてているんだ。俺はそいつの部屋にしけこんでるんだけど、やつにも、ここの主人たちにも秘密は、つまり俺がここで見張りをしてるってことは、ばれていないんだよ」というものがありました。

すぐに彼を起し、三人で犯行現場へ駆けつけました。

「マリヤ」の母親の「いざりの老婆」は留守番なのですね。

道々「マリヤ」は、さっき九時近くに、隣の庭から台所一帯にひびくほどのけたたましい、恐ろしい叫び声がきこえたことを思いだしました-もちろんこれは、「グリゴーリイ」がすでに塀にまたがった「ドミートリイ」の片足に両手でしがみつき、「親殺し!」とわめいたときの、あの叫び声にちがいありません。

「だれか一人がわめきはじめたのに、突然その声がやんでしまったんですよ」

走りながら、「マリヤ」が言いました。

「グリゴーリイ」の倒れている場所に駆けつけると、女二人は「フォマー」の助けをかりて、彼を離れにかつぎこみました。

灯をつけて見ると、「スメルジャコフ」はいっこうに発作の鎮まる様子もなく、自分の小部屋でもがいており、目をひきつらせ、唇から泡が流れていました。

わたしは「スメルジャコフ」が犯人かも知れないと思っているのですが、この様子では別段仮病を使っているというわけではないのですね。

酢を水で薄めて「グリゴーリイ」の頭を洗ってやると、彼はこの水のおかげで今度はもうすっかり意識を取り戻し、すぐさま「旦那さまは殺されたか?」とだずねました。

そこで女二人と「フォマー」とが旦那のところへ行ったのですが、庭に入るなり、今度は窓だけではなく、家の中から庭へ出るドアも開け放しになっていることに気づきました。

ところがこのドアは、すでにまる一週間というもの、毎晩、旦那が宵のうちから自分で錠をおろし、「グリゴーリイ」にさえどんな理由があってもノックすることを許さなかったのす。

開け放されたままのこのドアを見て、女二人と「フォマー」は、三人ともとたんに『あとで何か面倒が起っては』と、旦那の部屋に入るのがこわくなりました。

三人が引き返してくると、「グリゴーリイ」はすぐに警察署長のところに走るよう命じました。

そこで「マリヤ」が一走りし、署長の家でみんなの度肝をぬいたのでした。

これが「ペルホーチン」の到着するわずか五分前のことでしたので、もはや彼は単に自分の推測や結論だけをもって出頭したのではなく、明白な証人として、犯人はだれかというみなの推理を自分の話によっていっそう強力に裏付けることになりました(もっとも心の奥底で彼は、最後の瞬間まで、その推測を信じることを拒みつづけていました)。


なぜわざわざこのカッコ書きを挿入したのでしょうか、このカッコ書きは作者が後から加えたものだとわたしは思うのですが、「ペルホーチン」は「ドミートリイ」とは短い付き合いながらも相手を見抜く力を持っており、その人物がそのように思うということはどういうことなのか、作者は読者に謎をかけているように思います。


2018年5月21日月曜日

781

「ペルホーチン」は、署長の家に入るなり、とたんに呆然としました。

そこではすでに何もかもわかっていることに、突然気づいたからです。

事実、カードは放りだされ、みんなが総立ちになって論議しているところで、「ネリュードフ」まで令嬢たちのところから駆けつけ、この上なくファイトあふれる、ひたむきな顔つきをしていました。

「ペルホーチン」を出迎えたのは、本当に「フョードル」老人がこの夜自宅で殺され、殺されたうえに金まで奪われたという、おどろくべき知らせでした。

これはつい今しがた、次のようにして判明したのです。

塀のわきに倒れた「グリゴーリイ」の妻「マルファ」は、寝床で深い眠りに沈み、そのまま朝まで眠りつづけたかもしれなかったのに、突然ふっと目をさましました。

目ざめを促したのは、隣の小部屋に意識不明のまま寝ている「スメルジャコフ」の、恐ろしい癲癇の悲鳴でした。

「フョードル」を殺した犯人は「ドミートリイ」ということでこの物語は進行しています、作者は「ドミートリイ」犯人説をいたるところで明確に仄めかしてはいるのですが、はっきりと彼が犯人だとは最後まで言っておらず、ずっと後の方では「スメルジャコフ」も容疑者としてあらわれてきます、わたしが読んだときは結局「スメルジャコフ」が犯人じゃないかと思ったのですが、この殺害の時間に「スメルジャコフ」は癲癇の悲鳴をあげているのですね、もし彼が犯人だとするとこれは嘘の悲鳴ということになるのですが、人間はそんなことができるものでしょうか、彼が犯人だと仮定すればの話ですが、殺害した興奮状態のままに癲癇の悲鳴のような声を発したのかもしれないと思いました、そして別段その悲鳴の声で「マルファ」を起こそうとしていなくても。

この悲鳴はいつも癲癇の発作の起る前ぶれでしたし、これまでの一生を通じていつも「マルファ」をひどく怯えさせ、病的に作用してきたものでした。

彼女はどうしてもこの悲鳴に慣れることができませんでした。

寝ぼけまなこで跳ね起きると、彼女はほとんど夢中で「スメルジャコフ」の小部屋にとんで行きました。

だが、そこは真っ暗で、病人が恐ろしいいびきを立ててもがきはじめる気配がきこえるだけでした。

「恐ろしいいびきを立ててもがきはじめる気配」とはどういうことでしょうか。

それをきくなり、「マルファ」は自分も悲鳴をあげ、夫をよぼうとしかけましたが、突然、自分が起きたとき「グリゴーリイ」の姿がベッドになかったようだったことに思い当りました。

ベッドに走りよって、あらためて手探りしてみましたが、ベッドは本当に空でした。

とすると、夫は出て行ったわけですが、どこへ行ったのだろう?

普通に考えると夜中にトイレに行ったと思うのではないでしょうか、彼女はそう思わなかったのでしょうか。

彼女は表階段に走りでて、表階段の上からおっかなびっくり夫をよんでみました。

もちろん返事はありませんでしたが、その代り、夜のしじまの中で、どこか庭の遠くから、何やら呻き声がきこえました。

彼女は耳をすましました。

呻き声がまたくりかえされ、たしかに庭からであることがはっきりしました。

『たいへんだ、まるでリザヴェータ・スメルジャーシチャヤのときみたいだわ!』

混乱した頭をちらとこんな思いがかすめました。

彼女はおそるおそる階段をおり、庭へ行く木戸が開け放されているのを見きわめました。

このことは、「ドミートリイ」が鍵をかけるのを忘れたか、塀を乗り越えて侵入してきた犯人が鍵を開けて出て行ったか、もしくは「スメルジャコフ」が細工したかですね。

『きっと、うちの人はあそこにいるんだ』

彼女は思い、木戸に歩みよりました。

と、ふいに「グリゴーリイ」が彼女をよび、弱々しい、呻くような、不気味な声で「マルファ、マルファ!」と名前をよんでいるのがはっきりきこえました。

『神さま、わたしどもを災厄からお守りくださいまし』

「マルファ」はつぶやいて、声のする方にとんでゆき、こうして「グリゴーリイ」を発見したのでした。

しかし、発見したのは、塀のわきで彼が倒れた場所ではなく、塀からすでに二十歩ほど離れたところでした。

「二十歩」というのは、(123)の計算によれば7~8メートルになりますね。

あとでわかったのですが、意識を取り戻すと、老人はそこまで這ってきたのでした。

おそらく何度か意識を失い、また人事不消におちいりながら、永い時間をかけて這ったのでしょう。

彼女はすぐに、夫が全身血まみれなのに気づき、とたんに声を限りに叫びたてました。

「グリゴーリイ」は低い声で、とりとめのないことをつぶやいていました。

「殺した・・・・父親を殺したんだ・・・・何をわめいている、ばか者・・・・走って、よんでこい」

しかし「マルファ」はいっこうに鎮まらず、なおも叫びたてていましたが、ふと、主人の部屋の窓が開け放されたままで、窓に灯りがともっているのを見ると、その方に走って、「フョードル」をよびはじめました。

しかし、窓からちらと中をのぞいて、彼女は恐ろしい光景を見ました。


主人が床の上に仰向けに倒れ、身動き一つせずにいるのです。