2018年10月31日水曜日

944

「もし俺と何か話をしたいんだったら、話題を変えてくれ、いいね」

突然彼は言いました。

「そうそう、忘れないうちに。兄さんに手紙です」

「アリョーシャ」はおずおずと言い、ポケットから「リーザ」の手紙をぬいて、さしだしました。

ちょうど街燈に近づいたところでした。

作者はこんなところにも気配りが。

「イワン」はすぐに筆跡を見分けました。

「ああ、あの小悪魔からだな!」

意地わるく笑うと、彼は封も切らずに、いきなり手紙をいくつかに引き裂き、風に向って放り投げました。

紙片がちりぢりに飛びました。

「イワン」の態度は良くないですね、頭はいいのでしょうが、態度は最悪です、いいように解釈すれば、
「アリョーシャ」と「リーザ」の仲を「イワン」は知っているので、彼女が自分に好意的であることを見せたくないために、そして自分は彼女のことを何とも思っていないことを「アリョーシャ」に示すために手紙を引き裂いたのかもしれません。

「まだ十六にもならないんだろうが、もう媚びを売ってやがる!」

また通りを歩きだして、彼はさげすむように言い放ちました。

「媚びを売るですって?」

「アリョーシャ」は叫びました。

「きまってるじゃないか、淫らな女がやるのと同じさ」

「何を言うんです、兄さん、何てことを?」

悲しげに、むきになって「アリョーシャ」は弁護しました。

「相手は子供ですよ。あんな子供を侮辱するなんて! あの子は病気なんです。あの子自身も、とても病気が重いんです。もしかしたら、あの子も気が変になりかけているのかもしれない・・・・僕はあの手紙を兄さんに渡さずにいられなかったんです・・・・それどころか、兄さんから何かきけるだろうと思っていたのに・・・・あの子を救ってやるような言葉を」

「俺からきくことなんて何もないさ。あれが子供だとしても、俺は乳母じゃないからな。もう黙れよ、アレクセイ、それ以上言うな。そんなことは考えてもいないんだから」

ところで、「アリョーシャ」は「リーザ」に手紙のことを何て説明するのか心配になります。

二人はまた一分ほど沈黙しました。

「彼女は今日は夜どおし聖母マリヤにお祈りすることだろうよ。明日の法廷でどう振舞えばいいか、教えてもらうためにな」

突然彼はまた憎しみをこめて語気鋭く言いました。

「それは・・・・カテリーナ・イワーノヴナのこと?」

「そうさ。ミーチェニカの救世主になるか、それとも破滅者になるべきか? そのことをお祈りして、心の闇を照らしてもらおうというわけさ。見てのとおり、当人もまだ心の準備ができていないんだ。あれも俺を乳母ととり違えて、子守り唄でもうたわせる気でいるのさ!」

「カテリーナ・イワーノヴナは兄さんを愛しているんですよ」

悲痛な思いをこめて「アリョーシャ」は言いました。

「かもしらんな。ただ、俺は彼女に関心がないのさ」

「あの人は悩んでいるんです。それじゃ兄さんはなぜときおり・・・・気を持たせるようなことを言うんですか?」

おずおずと非難をこめて「アリョーシャ」はつづけました。

「兄さんがあの人に望みを持たせてきたのを、僕は知ってます。こんなことを言って、ごめんなさい」

彼は言い添えました。

「俺はここで必要な態度をとることができないんだ。きっぱり縁を切って、ずばりと言ってやることがさ!」

「イワン」が苛立たしげに言いました。

「あの人殺しに判決が下るまで、待たなけりゃならないんだ。もし今俺が手を切れば、彼女は俺への腹癒せに明日の法廷であの無頼漢を破滅させることだろう、なぜって彼女はあいつを憎んでいるし、自分が憎んでいることを承知しているからな。すべて嘘ばかりさ、嘘の積み重ねだよ! ところが今、俺がまだ手を切らずにいるうちは、彼女もいまだに望みを持っているし、俺があの無頼漢を災難から救いだしたいと思っているのを知っているから、あいつを破滅させるような真似はしないだろう。しかし、いまいましい判決が下った、そのとたんに終りさ!」

「イワン」の気持ちがわかりません、三人で脱走の話を進めていると「ドミートリイ」は言っていましたので、ここでの「イワン」の発言は、その秘密を「アリョーシャ」に気づかせないようにカムフラージュしているのでしょうか、つまり「カテリーナ」と別れたいということも含めて、そうでなければ、《人殺し》とか《無頼漢》とか言ったりしている人間を助けるわけはないですね。

《人殺し》とか《無頼漢》という言葉が、「アリョーシャ」の心に痛くこたえました。

「それにしても、あの人は何によって兄さんを破滅させることができるんですか?」

「イワン」の言葉に思いをこらしながら、彼はたずねました。


「ミーチャをもろに破滅させうるような証言が、あの人にはできるんですか?」


2018年10月30日火曜日

943

「そうですの」

なにか怒ったように彼女は歯切れよく言うと、ふいに赤くなりました。

「あなたはまだ、あたくしという人間をご存じないわ、アレクセイ・フョードロウィチ」

彼女は脅すように言いました。

「それにあたくしもまだ自分がわからないんです。もしかすると、明日の尋問のあとで、あなたはあたくしを踏みにじりたくなるかもしれませんわ」

「あなたは正直に証言なさるでしょうよ」

「アリョーシャ」は言いました。

「それだけが必要なんですから」

「女は不正直になることが多いものですわ」

彼女は歯がみして言いました。

「あたくし、つい一時間ほど前までは、あんな悪党にかかり合うのが恐ろしいと思っていたんです・・・・毒蛇にさわるみたいで・・・・でも、そうじゃないんです。あの人はあたくしにとって、いまだにやはり人間なんです! あの人が殺したのかしら? あの人が殺したの?」

すばやく「イワン」をかえりみて、彼女は突然ヒステリックに叫びました。

「アリョーシャ」は一瞬のうちに、この同じ質問を彼女がすでに「イワン」に、おそらく自分の来る一分ほど前に発したことや、しかもそれがはじめてではなく、百遍目の質問であり、口論に終ったことを、さとりました。

「あたし、スメルジャコフのところに自分で行ってみたわ・・・・あの男が父親殺しだなんて、あんたが言い張るんだもの、あんたがそう言ったのよ。あたしが信じたのはあんたの言葉だけよ!」

「グルーシェニカ」は(913)で「それにあのグリゴーリイがね、召使のグリゴーリイがドアは開いていたなんて言い張って、たしかに見たと意地になってるんで、とても話にならないわ。あたし、とんで行って、じかに話してみたんだけど、かえって悪態をつく始末ですもの!」と、「グリゴーリイ」に会っています、「カテリーナ」は「スメルジャコフ」に会ってどういう話をしたのでしょうか、彼女の言葉から考えると「ドミートリイ」が犯人だと言っているようです、そして「イワン」は「スメルジャコフ」が犯人だと言っているのですね。

なおも「イワン」をかえりみながら、彼女はつづけました。

「イワン」はむりをしたように、薄笑いをうかべました。

「アリョーシャ」はこの言葉づかいをきいて、ぎくりとしました。

それほどの間柄とは想像もできなかったのです。

二人はもう親しくなっているのですね。

「それにしても、もういいでしょうに」

「イワン」がぴしりと言いました。

「帰ります。明日来ますよ」

そして、すぐに背を向けて、部屋を出ると、まっすぐ階段に向いました。

「カテリーナ・イワーノヴナ」が突然なにか高飛車なしぐさで、「アリョーシャ」の両手をつかみました。

「あの人について行ってください! 追いかけてちょうだい! 片時もあの人を一人きりにしてはいけませんわ」

彼女は早口にささやきました。

「あの人、気が変になってるんです。気が変になってることを、ご存じないんですの? あの人、熱病なんです。神経性の熱病ですわ! お医者さまがあたくしにそうおっしゃいましたもの、さ、早くいらして、あとを追ってください・・・・」

「アリョーシャ」は跳ね起きて、「イワン」のあとを追いました。

兄はまだ五十歩と離れ去っていませんでした。

「何の用だ?」

「アリョーシャ」が追いかけてくるのに気づいて、彼はだしぬけにふりかえりました。

「俺は気違いだから、あとを追うようにって、彼女に言われたな。きかなくともわかるさ」

苛立たしげに彼は付け加えました。

「もちろんあの人は誤解してますけど、兄さんが病気だってことは、あの人の言うとおりですよ」

「アリョーシャ」は言いました。

「僕は今あそこで兄さんの顔を見ていたんです。ひどく病人らしい顔をしてますよ、ひどく、兄さん!」

「イワン」は立ちどまらずに歩きつづけました。

「アリョーシャ」はあとにつづきました。

「おい、アレクセイ、人間がどんなふうに発狂してゆくか、知ってるか?」

まったく突然に「イワン」が、もはやすっかり苛立たしさの消えた低い声でたずねました。

その声には思いがけなく、きわめて素朴な好奇心がひびいていました。

「いいえ、知りません。狂気にもいろいろな種類ががたくさんあると思うけど」

「じゃ、自分が発狂してゆくのを、観察できると思うか?」

「そんな場合には自分をはっきり観察することはできないと思いますね」

「アリョーシャ」はおどろいて答えました。


「イワン」は三十秒ほど黙りこみました。


2018年10月29日月曜日

942

五 違う、あなたじゃない!

「イワン」のところへ行く途中、「カテリーナ・イワーノヴナ」の借りている家のわきを通らねばなりませんでした。

窓に灯りがついていました。

彼はふいに立ちどまり、入ることに決めました。

「カテリーナ・イワーノヴナ」にはもう一週間以上会っていませんでした。

しかし、今ふと、「イワン」が来ているかもしれない、特にこういう日の前夜だから、という考えが頭にうかんだのです。

ベルを鳴らし、支那提灯に仄暗く照らされた階段に入ると、上から人が降りてくるのが見えましたが、すれ違うときになって、兄であることがわかりました。

してみると、兄はもう「カテリーナ・イワーノヴナ」のところから出てきたのだろう。

「ああ、お前か」

「イワン」は素っ気なく言いました。

「じゃ、失敬。彼女のところへか?」

「ええ」

「やめとけよ。《気が立ってる》から。お前はいっそう気持をかき乱すだけだよ」

「いいえ、そんなことはありません!」

突然、さっと開かれた二階のドアから声が叫びました。

「アレクセイ・フョードロウィチ、お兄さまのところから?」

「ええ、今行ってきたんです」

「あたくしに何か言伝てがございまして? どうぞお入りになって、アリョーシャ。それからあなたも、イワン・フョードロウィチ、ぜひお戻りになって、ぜひ。ようごさいますわね!」

「カーチャ」の声にきわめて命令的な調子がひびいていたため、「イワン」は一瞬ためらったのち、それでも「アリョーシャ」といっしょに二階に上がることに決めました。

「立ち聞きしてたんだな!」

苛立たしげに彼はひとりごとをつぶやいたが、「アリョーシャ」にはよくきこえました。

「外套のままで失礼しますよ」

広間に入りながら、「イワン」は言い放ちました。

「腰もおろしませんから。一分以上は長居しませんよ」

「お掛けなさいな、アレクセイ・フョードロウィチ」

自分は立ったまま、「カテリーナ・イワーノヴナ」が言いました。

彼女はこの間を通じて変っていませんでしたが、暗い目は険しい炎にかがやいていました。

「アリョーシャ」は、この瞬間の彼女がきわめて美しく見えたのを、のちのちまでおぼえていました。

作者はどうしてわざわざ「のちのちまでおぼえて」いたと書いたのか、それは、「カテリーナ」にとって重要な変化があったからでしょう、つまり彼女が意図することがあり、その心情がクライマックスに達しているからでしょう。

「どんな言伝てでしたの?」

「一つだけです」

まっすぐ彼女の顔を見つめながら、「アリョーシャ」は言いました。

「自分を大切にして、法廷では例の件については何も証言しないようにって・・・・」

彼はいくらか口ごもりました。

「つまり、あなた方の間にあったことです・・・・まだ知合いになったばかりのころ・・・・あの町で・・・・」

「ああ、あのお金に対して最敬礼したことね!」

苦々しく笑って、彼女は先取りしました。

「どうなんでしょう、あの人が心配しているのは自分のため、それともあたくしのためかしら、ね? 大切にするようにと言ったのは、だれのことですの? あの人のこと、それともあたくし自身のこと? 教えてくださいな、アレクセイ・フョードロウィチ」

「アリョーシャ」は彼女の真意を理解しようと努めながら、まじまじと見つめました。

「あなたご自身のことでもあり、兄のことでもありますね」


彼は低い声で言いました。


2018年10月28日日曜日

941

もう一度あわただしく接吻を交わし、「アリョーシャ」がもう出ようとしかけたとき、突然「ミーチャ」がまたよびとめました。

「俺の前に立ってくれ、こうやって」

そして彼はまた「アリョーシャ」の肩を両手でしっかりつかみました。

その顔が突然まったく蒼白になったため、ほとんど闇にひとしい中でも不気味なくらい目につきました。

唇がゆがみ、眼差しが「アリョーシャ」にひたと注がれました。

「アリョーシャ、神さまの前に立ったつもりで、掛値なしに本当のことを言ってくれ。お前は俺が殺したと信じているのか、それとも信じていないのか? お前は、お前自身は、そう信じているのか、どうなんだ? 本当のことを言ってくれ、嘘をつかずに!」

彼は狂おしく叫びました。

「アリョーシャ」は全身を揺すぶられたような気がしました。

心の中を何か鋭いものが通りすぎたみたいで、彼にはその気配さえきこえました。

「ドミートリイ」の質問に対して「アリョーシャ」は「全身を揺すぶられたような気」がして、「心の中を何か鋭いものが通りすぎたみたいで、彼にはその気配さえきこえ」たということですが、この大げさな表現はどういうことでしょうか、この後の「アリョーシャ」の発言は当然、彼が殺人など犯していないということなのですが、この一瞬の「アリョーシャ」の態度を考えると、彼の心の中にも「ドミートリイ」が実行犯であるという考えも少しはあったのかもしれないと私は思います。

「いい加減にしてくださいよ、何を言うんです・・・・」

途方にくれたように彼はつぶやきかけました。

「本当のことを言ってくれ、隠さずにな。嘘をつくなよ!」

「ミーチャ」がくりかえしました。

「兄さんが人殺しだなんて、ただの一瞬も信じたことはありません」

突然「アリョーシャ」の胸からふるえ声がほとばしりでて、彼はさながら自分の言葉の証人に神を招くかのように、右手をあげました。

この「アリョーシャ」の態度は、彼が殺人犯でないということを当然のように信じているということなのでしょうか、「兄さんが人殺しだなんて、ただの一瞬も信じたことはありません」とも言っているので、それは嘘ではないとも思いますが、私はどうも疑ってしまうのです。

とたんに「ミーチャ」の顔全体を幸福の色がかがやかしました。

ここでの「顔全体を幸福の色がかがやかし」たという表現もおかしいですね、翻訳のせいかもしれませんが、私としては、「アリョーシャ」が「ドミートリイ」の顔を輝かせるために神の許しを得て、この「兄さんが人殺しだなんて、ただの一瞬も信じたことはありません」という表現をしたのではないかと思うのですが。

「ありがとう!」

気絶のあと息を吹き返すときのように、彼は長く語尾をひいて言いました。

「お前は今、俺を生き返らせてくれたよ・・・・本当の話、今までお前にきくのがこわかったんだ。なにしろ相手がお前だからな! さ、もう行くがいい、行きなさい! お前は俺に明日のために力をつけてくれたよ、お前に神の祝福があるように祈ってるぜ! それじゃ、行きなさい、イワンを愛してやってくれ!」

最後の言葉は「ミーチャ」の口からほとばしりでました。

ここでわざわざ、「口からほとばしりで」たと書いてありますね、なんだかここで書かれている多くの言葉が、いろいろな意味にとれてしまいます、たんにこれは「ドミートリイ」の気配りや優しさを表しているともとれますし、この後すぐ書かれているのですが、「アリョーシャ」はこれから「イワン」を訪ねようとしているのですから、この「ドミートリイ」の言葉はその暗示のようにも思われますし、「ほとばしりでた」というのは彼が意図せず、神の意志がそう言わせたというようにも読めます。

「アリョーシャ」は顔じゅう涙に濡らして外に出ました。

「ミーチャ」のこれほどの猜疑心、「アリョーシャ」にさえいだいているこれほどの不信感-これらすべてが、不幸な兄の心にある、これまで考えてもみなかったような、やり場のない悲しみと絶望との深淵を、突然、「アリョーシャ」の前に開いてみせたのでした。

深い限りない同情が、ふいに一瞬、彼を捉え、苦しめました。

刺し貫かれた心がはげしく痛みました。

『イワンを愛してやってくれ!』

突然、「ミーチャ」の今の言葉が思いだされました。

それに彼はこれから「イワン」のところへ行こうとしていました。

「イワン」はこの町のどこに居るのでしたっけ。

今朝からどうしてもイワンに会う必要があったのです。


「ミーチャ」に劣らず、「イワン」も彼を悩ませる存在でしたが、今、「ミーチャ」に会ったあとでは、それが今まで以上でした。


2018年10月27日土曜日

940

「ミーチャ」は狂ったように語り終えました。

「アリョーシャ」の肩を両手で押え、渇えたような熱っぽい眼差しをひたと「アリョーシャ」の目に注ぎました。

「流刑囚でも結婚させてくれるだろうか?」

祈るような声で彼は三度目のこの言葉をくりかえしました。

「ドミートリイ」は流刑地で結婚さえできれば、脱走などする必要はないと考えているんですね。

「アリョーシャ」は極度のおどろきとともに話をきき、深刻なショックを受けました。

「ひとつだけ教えてください」

彼は言いました。

「イワンは強く言い張ってるんですか、それから最初にそれを思いついたのは、だれなんです?」

「彼さ、彼が思いついたんだ、そして彼が言い張っているんだよ! ずっとここに来なかったのに、一週間前に突然やってきて、いきなりこの話からはじめたんだよ。ひどくこだわっているぜ。すすめるんじゃなく、命令するんだからな。俺は今お前にしたのと同じように、イワンにも心をすっかりさらけだして、讃歌の話までしたというのに、あいつは俺が言うことをきくと決めてかかっているんだよ。どういうお膳立てをするかも話してくれたし、情報もすべて集めてくれたけど、その話はあとにしよう。ヒステリーに近いくらい、あいつは望んでいるんだよ。肝心なのは金だけど、イワンのやつは、脱走の資金に一万、アメリカ行きには二万ルーブル出すし、一万ルーブルで立派に脱走の手筈をととのえてやる、と言ってるよ」

高額なお金の話が出てくると現実味を帯びますね、関係者を買収するのですね、それにしても「イワン」が「ドミートリイ」のためになぜそこまで危険を犯すのか不自然な気がするのですが、もしこの企てが漏れれば、「カテリーナ」はじめみんなが犯罪者として拘束されると思いますが。

「で、僕には絶対に話すな、と言ったんですね?」

「アリョーシャ」はまた問い返しました。

「決してだれにも言うなってさ。何よりお前にはな。お前には絶対言うなとさ! きっと、お前が俺の前に良心として立ちはだかるのがこわいんだろう。俺が話したってこと、彼には言うなよ。え、言うんじゃないぞ!」

口の軽い人間が念押しする約束とはどうなんでしょうかと思いますね。

「兄さんの言うとおりです」

「アリョーシャ」が結論を下しました。

「判決前には決められませんよ。裁判のあと、自分で決めるんですね。そのときには兄さん自身の内に新しい人間を見いだせるでしょうし、その人間が決めてくれますよ」

「新しい人間が見つかるか、ベルナールが見つかるかわからないけど、そいつがベルナール流に決めてくれることだろうさ! なぜって、俺自身も軽蔑すべきベルナールのような気がするんでな!」

「ミーチャ」は沈痛に笑いました。

「でも、本当に、本当に兄さんはもう無罪になることを全然期待していないの?」

「ミーチャ」はひきつったように肩をすくめ、首を横にふりました。

「アリョーシャ、おい、そろそろ時間だぞ!」

ふいに彼はせきたてました。

「中庭で看守がどなりはじめたから、すぐにここへやってくるだろう。もう遅いから、規則違反なんだ。早く俺を抱いて、接吻してくれ、俺に十字を切ってくれ。明日の十字架のために十字を切ってくれ・・・・」

二人は抱きあい、接吻を交わしました。

「イワンのやつはな」

だしねけに「ミーチャ」が口走りました。

「脱走をすすめときながら、内心では俺が殺したと信じてるんだぜ!」

「イワン」は「ドミートリイ」が犯人だと思っていること、これは大きなことですね。

悲しそうな薄笑いがその口もとににじみでました。

「兄さんはきいてみたの、信じているのかどうかって?」

「アリョーシャ」はたずねました。


「いや、きかなかったよ。きこうと思ったけど、きけなかったんだ。勇気が足りなくてさ。でも、どうせ同じことだよ、目を見りゃわかるもの。じゃ、さよなら!」


2018年10月26日金曜日

939

「ミーチャ」は眉をくもらせて部屋の中を歩きまわりました。

部屋の中はほとんど暗くなっていました。

彼は突然ひどく心配そうな様子になりました。

「それじゃ、秘密と言ってたんだな、秘密と? 俺たちが三人ぐるになって彼女に陰謀を企てている、そして《カーチカ》も一枚かんでると、そう言ってたんだね? いや、グルーシェニカ、それは違う。それは思い違いだ、女らしい愚かな間違いだ! アリョーシャ、もうかまやしない! 俺たちの秘密をお前に打ち明けよう!」

「ドミートリイ」と「グルーシェニカ」は基本的に口が軽いですね。

年寄りの看守は片隅のベンチで居眠りしていたし、番兵のところまでは一言も届きませんでしたから、実際にはだれも二人の話をきくはずはないというのに、彼はあたりを見まわし、前に立っているアリョーシャのそばへ足早に歩みよると、秘密めかしい顔つきでささやきはじめました。

「俺たちの秘密をすっかり打ち明けるよ!」

「ミーチャ」は急いでささやきはじめました。

「あとで打ち明けるつもりだったんだ。だって、お前に相談せずに何か決められると思う? 俺にとってはお前がすべてだからな。俺はよく、イワンは俺たちより偉いなんて言うけれど、お前は俺の守護天使だよ。お前の決定だけがすべてを決するんだ。もしかすると、いちばん偉いのはイワンじゃなく、お前かもしれないな。実はね、これは良心の問題なんだよ、最高の良心の問題なんだ。あまり重大な秘密なんで、俺は自分ひとりで解決できずに、お前に話すまで一寸延ばしに延ばしてきたほどだよ。それでもやはり、今決定するのはまだ早い。判決を待つ必要があるからな。判決が出たら、そのうえでお前が運命を決めてくれ。今は決めずにな。今話すけど、お前はきくだけにして、結論を出すなよ。そのまま黙っていてくれ。お前に打ち明けるのは全部じゃない。細部は省いて、アイデアだけ言うから、黙っていてくれ。質問も、行動も厳禁だぜ、いいね? もっとも、お前のその目をどこへ向ければいいんだろう? いくらお前が黙っていたとしても、お前の目が結論を語りそうで、心配だよ。ああ、それがこわいんだ! アリョーシャ、きいてくれ。実はイワンが脱走(二字の上に傍点)をすすめているんだ。詳細は言わない。万事、手筈がついて、すべてうまく運ぶことになっている。黙って、結論を言うなよ。グルーシェニカを連れてアメリカへさ。だって、グルーシェニカなしに、俺は生きていかれないからな! それに流刑地で彼女がどうやって俺に近づけてもらえるだろう? 流刑地でも結婚させてくれるだろうか? イワンはだめだと言うんだ。でも、グルーシェニカがいなけりゃ、俺はつるはしを持って地の底で何をすりゃいい? そのつるはしで自分の頭を打ち割るくらいが関の山じゃないか! だが一方、良心はどうなる? なにしろ苦しみから逃げだすわけだからな! せっかく神のお告げがあったのに、神のお告げを斥けることになるんだ。せっかく浄化の道があったのに、まわれ右しちまうんだからな。アメリカに行っても《善良な傾向さえ保っていれば》、地底にいるより、ずっと益をもたらすことができる、とイワンは言うんだ。でも、あの地底の讃歌はどこに生まれるんだ? アメリカが何だい、アメリカだってやっぱり浮世じゃないか! それに、アメリカにだって、まやかしはたくさんあると思うよ。とにかく、はりつけの十字架から逃げだすんだからな! お前にこんな話をするのは、アリョーシャ、これをわかってくれるのはお前だけだからなんだ、ほかにはだれもいやしない。ほかのやつらにとっちゃ、こんなことはすべて愚にもつかぬたわごとなのさ。讃歌に関してお前に話したようなことはな。あいつは気がふれたとか、ばかだとか言うだろうさ。でも、俺は気がふれたのでもないし、ばかでもない。イワンも讃歌のことは理解してくれるんだ、わかっているとも。ただ、それには返事をせずに、黙っているだけさ。讃歌なんぞ信じていないんだ。何も言わないでくれ、言うなよ。お前の目つきを見れば、俺にはわかる。お前はもう結論を出したんだな! 決めないでくれ、俺に手加減してくれよ、俺はグルーシェニカなしには生きていけないんだ、裁判を待っててくれ!」


この「実はイワンが脱走(二字の上に傍点)をすすめているんだ。」というのは衝撃的ですね、私は以前に読んでいましたから、このことは知っていましたが、それにしても突然で予想外な驚くべき発言です、また、「讃歌」というのは(935)の「・・・・俺たちは鎖につながれ、自由はなくなる。だが、深い悲しみにとざされたそのときこそ、俺たちはまた喜びの中に復活するんだ。その喜びなしに人間は生きていかれないし、神は存在していかれない。なぜって、神がその喜びを与えてくれるんだからな、これは神の偉大な特権なんだ・・・・ああ、人間は祈りの中で溶けてしまうがいい! あの地底で、神なしに俺はどうしていけるというんだ? ラキーチンのやつはでたらめばかりぬかしやがる。もしこの地上から神を追い払ったら、俺たちが地底でその神にめぐりあうさ! 流刑囚は神なしには生きていかれないからな、流刑囚じゃない人間より、いっそう不可能だよ! そしてそのときこそ、俺たち地底の人間は、喜びをつかさどる神への悲劇的な讃歌を、大地の底からうたうんだ! 神とその喜びよ、万歳! 俺は神を愛してるんだ!」です。


2018年10月25日木曜日

938

「あの人からききましたよ。今日は兄さんのためにとても悲しい思いをしたんですってね」

「知っている。俺のこの性格はどうしようもないな。焼餅をやいたりしてさ。別れぎわに後悔して、キスしてやったけど。あやまりはしなかったよ」

「なぜあやまらなかったの?」

「アリョーシャ」は叫びました。

「ミーチャ」はだしぬけに、ほとんど楽しそうとさえ言える笑い声をたてました。

「冗談じゃないよ、坊や。自分がわるくたって、好きな女には決してあやまったりするもんじゃない! 好きな女には特にな。たとえどんなにこっちがわるくてもだ! なぜって女ってやつは、これはとんでもない代物だからな。女にかけちゃ、少なくとも俺はわけ知りなんだ! まあ、ためしに自分の非を認めて、『僕がわるかった、ごめんよ、赦しておくれ』なんて言ってみな。とたんに非難が雨あられと浴びせられるから! 決して素直にあっさり赦してくれやしないんだ。ぼろくそにお前をこきおろして、ありもしないことまで数えたて、何から何まで取りだしてきて、何一つ忘れずに、おまけまで付けて、そのうえでやっと赦してくれるだろうよ。おまけに、これならまだいちばんいいほうだ! 最後の残り滓まで掻き集めて、そいつを全部お前の頭にぶちまけるだろうさ。言っとくけど、女にはこういう残忍性があるんだよ。いなけりゃ俺たちが生きていかれない、あの天使のような女たちにも、一人残らず、それがあるのさ! あのね、ざっくばらんに率直に言うけれど、まともな男ならだれだって、たとえ相手がどんな女でも、尻に敷かれているべきなんだよ。それが俺の信念だ。いや、信念というより、感情だな。男は寛大でなけりゃいけない。それは男の恥にはならないんだ。英雄だって恥じゃない、シーザーだって恥にはならんよ! そう、とにかくあやまったりするなよ、どんなことがあっても絶対にな。この原則をおぼえておくといい。これは女のために身を滅ぼした兄貴のミーチャが教えてやったんだからな。いや、俺はあやまったりせずに、何かでグルーシェニカにつくしてやるよ。俺は彼女を敬ってるんだ、アリョーシャ、敬ってるんだよ! ただ、彼女にはそれがわからないだけさ、そう、彼女はまだ俺の愛し方じゃ足りないんだ。そして俺を悩ませるのさ、愛情で悩ませるんだ。これが以前ならどうだい! 以前はあの悪魔的な曲線美が俺を通して自分まで真人間になったんだからな! 俺たちは結婚させてもらえるだろうか? さもないと俺は嫉妬で死んじまうよ。毎日何かそんな夢を見るんだ・・・・彼女は俺のことをどう言ってた?」

「男は寛大」であれというのが、「女のために身を滅ぼした兄貴」の貴重な教えなのですね。

「アリョーシャ」は先ほどの「グルーシェニカ」の言葉を全部くりかえしました。

「ミーチャ」は事こまかくきき、いろいろ問い返して、満足した様子でした。

「それじゃ、俺が妬いたのを怒っていないんだな」

彼は叫びました。

「それでこそ女だ! 『あたし自身だって、残酷な心を持っているもの』か。うん、そういう残酷な女が俺は好きだよ。もっとも、こっちが妬かれる段になると、やりきれないがね、そりゃかなわんよ! 喧嘩になるもの。しかし、愛するとなったら、俺はとめどなく彼女を愛しつづけるよ。俺たちは結婚させてもらえるだろうか? 流刑囚でも結婚させてくれるかな? 問題だぞ。でも彼女なしに俺は生きていかれないんだ・・・・」


「アリョーシャ」によれば「グルーシェニカ」が語ったという『あたし自身だって、残酷な心を持っているもの』というのは、どこに出ているのかわかりませんでした。


2018年10月24日水曜日

937

「何て言いました?」

「アリョーシャ」は急いで水を向けました。

「俺がこう言ってやったのさ。つまり、そうなると、すべてが許されるってわけかって。あいつは眉をひそめて、『うちの親父はだらしない子豚同然だったけど、考え方は正しかったよ』と、こうだぜ。言ったのはそれだけだよ。これはもうラキーチンより純粋だな」

「イワン」が「フョードル」の考え方を正しいというなんて驚きましたね、一体どういう考えに賛同したのでしょうか。

「ええ」

「アリョーシャ」は沈痛に相槌を打ちました。

「いつここへ来たんですか?」

「その話はあとだ。今は別のことを話そう。イワンのことは今までお前にほとんど何も話さなかったな。最後まで延ばしてきたのさ。俺のこの一件が片づいて、判決が言い渡されたら、そのときにいろいろ話してやるよ。何もかも話すさ。一つ恐ろしい問題があるんだ・・・・その問題に関しては、お前に裁判官になってもらうよ。だけど今はその話をはじめないでくれ、今は何も言うな。お前は明日の公判のことを話してるけど、本当のことを言って、俺は何も知らないんだよ」

「あの弁護士と話してみましたか?」

「弁護士なんぞ何だい! 俺は一部始終を話してやったんだぜ。もの柔らかな悪党だよ、都会的な。あれもベルナールさ! 俺の話をこれっぱかりも信じてやしないんだ。俺が殺したと本気で思ってるんだからな、どうだい。俺にはちゃんとわかるさ。『それなら、なぜ俺の弁護を引き受けたんだ?』って、きいてやったよ。あんなやつら、くそくらえだ。それから医者までよんで、俺を気違いに見せようとしてやがる。そうはさせんぞ! カテリーナ・イワーノヴナは最後まで《自分の義務》をはたす気でいるんだ。むりするなって!」

「ミーチャ」は苦々しく笑いました。

「猫め! 冷酷な心の持主だよ! あのとき俺がモークロエで、あれは《深い憤りに燃えた》女だと言ったのを、ちゃんと知ってるんだよ。伝えたやつがいるのさ。そう、証言は海岸の砂ほどたくさん集まったしな! グリゴーリイは自説を言い張ってるし。グリゴーリイは正直だけど、ばかだよ。ばかがいるおかげで、正直者がたくさんできらあね。これはラキーチンの考えだよ。グリゴーリイは俺にとっては敵だ。なかには、友達にしとくより敵にまわすほうが有利な人間もいるけどな。これはカテリーナ・イワーノヴナのことを言ってるのさ。俺は心配だよ、そう、彼女が法廷で、例の四千五百ルーブルを受けとったあとで最敬礼した話をするんじゃないかと、心配でならないんだ。彼女は最後の最後まで借りを返すだろうよ。俺は彼女の犠牲なんぞ望んでやしないのに! あの連中は法廷で俺に恥をかかしてくれるだろうよ! なんとか辛抱するさ。なあ、アリョーシャ、彼女のところへ行って、法廷であの話をしないように頼んでくれよ。それともだめか? えい畜生、どうだっていいや、辛抱するよ! それに彼女なんぞ気の毒じゃないし。自分で望んだんだからな。自業自得さ。アレクセイ、俺は一席ぶってやるぜ」

(827)で「ドミートリイ」は「ネリュードフ」の質問に答えて「・・・・あの人なら僕にその金をくれたはずです。そう、くれるでしょう、きっとくれたにちがいないんだ。僕を見返すためにくれたはずです。復讐の喜びと、僕に対する軽蔑からくれたにちがいない。なぜってあの人もやはり悪魔的な心の持主だし、深い怒りに燃えた女性ですからね!・・・・」と言っていましたね、そして「、例の四千五百ルーブルを受けとったあとで最敬礼した話」と言っていますが、「四千五百ルーブル」ではなく、「五千ルーブル」ですね、(328)で「ドミートリイ」は「・・・・心配するな、俺は長いこと引きとめたりはしなかったよ。ふりかえって、テーブルのところに行くと、引出しを開けて、五千ルーブルの五分利つき無記名債権をとりだした(フランス語辞典の間にしまっておいたんだ)。それから無言のまま彼女にそれを見せて、二つ折りにし、手渡すと、玄関へ通ずるドアを自分で開けてやって、一歩しりぞき、この上なく丁寧な、まごころのこもった最敬礼をしてやった。・・・・」と言っていますので。

彼はまた苦い笑いをうかべました。

「ただ・・・・ただ、グルーシェニカがな、グルーシェニカだよ、問題は! 何のために彼女はこの先こんな苦しみをひっかぶろうとするんだ!」

ふいに涙をこめて彼は叫びました。


「グルーシェニカが俺を悲しませるんだ、彼女のことを思うと悲しみでやりきれなくなるんだよ、悲しみで! さっきもここへ来たんだけど・・・・」


2018年10月23日火曜日

936

この奇怪な演説をしながら、「ミーチャ」はほとんど息をあえがせていました。

顔色は青ざめ、唇はふるえ、目からは大粒の涙がこぼれていました。

「いや、生活は充実している。地底にも生活はあるんだ!」

彼はふたたび語りはじめました。

「アリョーシャ、俺が今どんなに生きたいと望んでいるか、お前には信じられんだろう。生存し、認識したいというどんなに熱烈な欲求が、ほかならぬ漆喰の剥げたこの壁の中で、俺の心に生まれたことだろう! ラキーチンにはこんなことはわかりゃしない。あいつはアパートでも建てて、間借り人を入れさえすりゃいいんだからな。だけど俺はお前を待っていたんだ。それに、苦しみとはいったい何だい? 俺は、たとえ苦しみが数限りなくあったとしても、そんなものは恐れないよ。以前はこわかったけど、今ならこわくない。あのな、ひょっとすると、俺は法廷で何も答えないかもしれないぜ・・・・今や俺の内にはそうした力が十分にあるような気がするんだ。だから、たえず『俺は存在している!』と自分自身に言い、語れさえするなら、俺はどんなことにでも、どんな苦しみにでも打ち克ってみせるよ。数知れぬ苦痛を受けても、俺は存在する。拷問にのたうちまわっても、俺は存在する! 柱にくくられてさらしものになっても、俺は存在するし、太陽を見ているんだ。太陽が見えなくたって、太陽の存在することは知っている、太陽の存在を知っているってことは、それだけでもう全生命なんだよ。アリョーシャ、俺の天使、俺はもういろいろな哲学に殺されそうだよ、畜生! イワンのやつが・・・・」

「ドミートリイ」のこの発言は大変なことを話していると私は思います、つまり、自分はどんなにひどい苦痛を受けたとしても、それを受け入れるという覚悟です、しかも彼は明日からの裁判で自分が父を殺していないと主張するか、もしくは殺意を否定することによって無罪になるかもしれないという可能性があるにもかかわらず、それをしないで、自ら有罪の道を選ぼうとしているのです、彼自ら苦役の道を選び、それに耐え抜く覚悟をすることが、自分の存在の証であり、それは「全生命である太陽」があるからだと言っています、このようなある覚悟の状態は「さもありなん」と、恐らく一般的には観念上のものとして浅く理解されがちなことだと思いますが、ある極限的な状況に置かれた一部の人間にとっては、これに類することは身をもって経験しているのではないかと思います、これは普通の生活の延長上では理解しがたいことではありますが、経験すると自分でも自分に驚かされるようなことです。

「イワン兄さんが何ですって?」

「アリョーシャ」は口をはさみかけましたが、「ミーチャ」の耳には入りませんでした。

「いや、俺は今までこういう疑念は全然持たなかったんだけど、すべて俺の内部にひそんでいたんだな。きっと、さまざまの未知の思想が俺の内部で荒れ狂っていたために、俺は飲んだくれたり、喧嘩をしたり、気違い沙汰をやらかしたりしていたんだよ。自分の内部のそういう思想を鎮めるために、俺は喧嘩をしたんだ。そいつを鎮め、押さえつけるためにさ。イワンはラキーチンとは違う。あいつは思想を隠しているからな。イワンはスフィンクスだよ、むっつり黙っているんだ。ところで、俺を苦しめるのは神だよ。それだけが俺を苦しめるんだ。神がなかったら、どうだろう? そんなものは人間が作った人工的な観念だなんていうラキーチンの説が正しかったら、どうなるだろう? もし神がいなければ、そのときはこの地上の、この宇宙のボスは人間じゃないか。結構なこった! ただ、神がいないと、どうやって人間は善人になれるんだい? そこが問題だよ! 俺はいつもこのことばかり考えているのさ。だって、そうなったら、人間はだれを愛するようになるんだい? だれに感謝し、だれに讃歌をうたえばいいんだい? ラキーチンは笑いやがるんだ。ラキーチンは、神がいなくたって人類を愛することはできる、なんて言うんだ。しかし、そんなことを言い張れるのは洟たれ小僧だけで、俺は理解できんね。ラキーチンなら、生きてゆくのはたやすいことさ。今日だって俺にこう言いやがったぜ。『そんなことより、市民権の拡張のために奔走するほうが利口だぜ、さもなけりゃ、せめて牛肉の値段が上がらないようにでもな。哲学なんぞより、そのほうが手っ取り早く簡単に人類に愛情を示せるからね』だから俺もお返しにこう言ってやったよ。『神がいなけりゃ、そういう自分がまず手当りしだい牛肉の値をつりあげて、一カペイカ分で一ルーブルも儲けるくせに』あいつ怒ったぜ。だって、善行とはいったい何だい? 教えてくれよ、アレクセイ。俺には俺の善行があるし、支那人にはまた別の善行がある。とすれば、つまり、相対的なものなんだな。違うかい? 相対的じゃないのかね? ややこしい問題だぜ! この問題で俺がふた晩眠れなかったと言っても、笑わないでくれよ。今の俺には、世間の連中が平気で生きていて、この問題を何一つ考えないのが、ふしぎでならないんだよ。むなしいもんさ! イワンには神がない。あいつには思想があるからな。それも俺なんかとは規模が違うやつさ。それでも黙っているんだ。あいつはフリーメイソンだと思うよ。きいてみたんだけど、何も言いやしない。あいつの知恵の泉の水を飲んでみたかったんだが、何も言わないんだ。たった一度、一言だけ言ってたがね」


(550)で「イワン」は「アリョーシャ」に「フリーメイソン」のことを話しています、ここで「ドミートリイ」は「神」存在のことを話していますが、私にはよくわかりません、「善」については、現実的には彼が言うように相対的なものでもありますね、「神」がなければ「善悪」もないのですから、「善悪」が相対的なものだとすると「神」も相対的なものになり、一神教がなくなりますね、それぞれの民族にそれぞれの神がいることになり、さらに自分には自分だけの「神」がいるのではないかということになります。


2018年10月22日月曜日

935

「ラキーチンにはこんなことわかりゃしないが」

まるで何かに感激したように、彼は話しだしました。

「しかし、お前ならすっかりわかってくれるはずだ。だからこそ、お前を待ちわびていたんだよ。実はな、俺はずっと前から、漆喰の剥げたこの壁の中でお前にいろいろ話したいと思っていながら、いちばん肝心なことは黙っていたんだ。まだその時期じゃないような気がしたもんだからね。でもとうとう、お前に真情を吐露するぎりぎりのときになってしまった。あのな、俺はこのふた月の間に、自分の中に新しい人間を感じとったんだよ。新しい人間が俺の内部によみがえったんだ! 俺の内部にもともと閉じこめられていたんだけど、今度の打撃がなかったら、決して姿を現わさなかっただろうよ。恐ろしいことだ! だから、鉱山で二十年間つるはしをふるって鉱石を掘るなんてことは、今の俺にとっては何でもない。そんなことは全然恐れていないよ。今の俺にとって恐ろしいのは別のことだ。つまり、せっかくよみがえった人間が俺から離れて行きゃしないかってことさ! 向うに行っても、鉱山の地底でだって自分の隣にいる、同じような人殺しの流刑囚の中に人間らしい心を見つけて、仲良くしてくことはできる。なぜって、向うでだって生活することもできるし、愛することも、悩むこともできるんだからな! そんな流刑囚の内に凍てついた心を生き返らせ、よみがえらせることもできるし、何年もの間その心を大切に育てて、最後に高潔な心を、殉教者の自覚を洞穴の奥から明るみにひきだして、天使を生き返らせ、英雄をよみがえらせることもできるんだ! そういう人たちは大勢いる、何百人もいる、そして俺たちはみんな、その人たちに対して罪があるんだよ! なぜあのとき、あんな瞬間に、俺が《童(わらし)》の夢を見たんだ? 『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ! 俺は《童》のために行くのさ。なぜって、われわれはみんな、すべての人に対して罪があるんだからな。すべての《童》に対してな。なぜって、小さい子供もあれば、大きな子供もいるからさ。人間はみな、《童》なんだよ。俺はみんなの代りに行くんだ。だって、だれかがみんなの代りに行かなけりゃならないじゃないか。俺は親父を殺しやしないけど、それでも俺は行かねばならないんだ。引き受けるとも! この考えはみな、ここで生まれたんだよ・・・・漆喰の剥げたこの壁の中でさ。しかも、そういう人間は大勢いる。つるはしを手にした地底の人間は、何百人もいるんだ。そう、俺たちは鎖につながれ、自由はなくなる。だが、深い悲しみにとざされたそのときこそ、俺たちはまた喜びの中に復活するんだ。その喜びなしに人間は生きていかれないし、神は存在していかれない。なぜって、神がその喜びを与えてくれるんだからな、これは神の偉大な特権なんだ・・・・ああ、人間は祈りの中で溶けてしまうがいい! あの地底で、神なしに俺はどうしていけるというんだ? ラキーチンのやつはでたらめばかりぬかしやがる。もしこの地上から神を追い払ったら、俺たちが地底でその神にめぐりあうさ! 流刑囚は神なしには生きていかれないからな、流刑囚じゃない人間より、いっそう不可能だよ! そしてそのときこそ、俺たち地底の人間は、喜びをつかさどる神への悲劇的な讃歌を、大地の底からうたうんだ! 神とその喜びよ、万歳! 俺は神を愛してるんだ!」


これはまだ「ドミートリイ」の発言の途中ではありますが、前にモークロエでの尋問の途中で、「ドミートリイ」が奇妙な夢を見たことが(841)で書かれています、その夢は、「彼は何やら奇妙な夢を見ました。この場所にも今の場合にもまったくそぐわぬ夢でした。彼はどこか曠野を馬車で走っています。ずっと以前に勤務していた土地です。みぞれの降る中を、二頭立ての荷馬車で百姓が彼を運んでゆきます。十一月初め、「ミーチャ」は寒いような気がします。びしょびしょした大粒の雪が降っており、地面に落ちると、すぐに融けます。百姓は鞭さばきも鮮やかに、威勢よく走らせます。栗色の長い顎ひげをたくわえていますが、老人というわけではなく、五十くらいでしょうか、灰色の百姓用の皮外套を着ています。と、近くに部落があり、黒い、ひどく真っ黒けな百姓家が何軒も見えます。ところが、それらの百姓家の半分くらいは焼失して、黒焦げの柱だけが突っ立っているのです。部落の入口の道ばたに女たちが、大勢の百姓女たちがずっと一列にならんでおり、どれもみな痩せおとろえて、何やら土気色の顔ばかりです。特に、いちばん端にいる背の高い、骨張った女は、四十くらいに見えるが、あるいはやっと二十歳くらいかもしれません。痩せた長い顔の女で、腕の中で赤ん坊が泣き叫んでいます。おそらく彼女の乳房はすっかりしなびて、一滴の乳も出さないのでしょう。赤ん坊はむずかり、泣き叫んで、寒さのためにすっかり紫色になった小さな手を、固く握りしめてさしのべています。「何を泣いているんだい? どうして泣いているんだ?」彼らのわきを勢いよく走りぬけながら、「ミーチャ」はたずねます。「童でさ」馭者が答えます。「童が泣いてますんで」馭者がお国訛りの百姓言葉で、子供と言わずに《童》と言ったことが、「ミーチャ」を感動させます。百姓が童と言ったのが彼の気に入ります。いっそう哀れを催すような気がするのです。「でも、どうして泣いているんだい?」「ミーチャ」はばかみたいに、しつこくだずねます。「なぜ手をむきだしにしているんだ、どうしてくるんでやらないんだい?」「童は凍えちまったんでさ、着物が凍っちまいましてね、暖まらねえんですよ」「どうしてそんなことが? なぜだい?」愚かな「ミーチャ」はそれでも引き下がりません。「貧乏なうえに、焼けだされましてね、一片のパンもないんでさ。ああしてお恵みを乞うてますんで」「いや、そのことじゃないんだ」「ミーチャ」はそれでもまだ納得できぬかのようです。「教えてくれよ。なぜ焼けだされた母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ?」そして彼は、たしかにこれは気違いじみた、わけのわからぬきき方にはちがいないが、自分はぜひともこういうきき方をしたい、ぜひこうきかねばならないのだと、ひそかに感じています。さらにまた、いまだかつてなかったようなある種の感動が心に湧き起り、泣きたくなるのを感じます。もう二度と童が泣いたりせぬよう、乳房のしなびた真っ黒けな童の母親が泣かなくてもすむよう、今この瞬間からもはやだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに、みんなのために何かしてやりたくてなりません。「あたしもいっしょよ。これからはあなたを見棄てはしない。一生あなたといっしょに行くわ」感情のこもったやさしい「グルーシェニカ」の言葉が、すぐ耳もとできこえます。とたんに心が燃えあがり、何かの光をめざして突きすすみます。生きていたい、生きていたい、よび招くその新しい光に向って、何らかの道をどこまでも歩きつづけて行きたい、それもなるべく早く、一刻も早く、今すぐに、たった今からだ!」と、そして(913)で《童》ことが再び出てきました、「グルーシェニカ」が「アリョーシャ」に話したのでした、つまり「「ねえ、アリョーシャ、あたしだいぶ前からこのことをあなたに言おうと思っていたの。毎日、面会に行ってるけど、ふしぎでならないのよ。ねえ、教えて、あなたはどう思うの。あの人がこのごろしきりに言いはじめたのは、何のことかしら? すぐにその話をはじめるんだけど、あたしにはさっぱりわからないわ。何かむずかしい話をしてるんだろうけど、あたしは頭がわるいから、わかるはずないと、そう思っているのよ。ただ、だしぬけに、童(わらし)のことを、つまり、どこか田舎の子供のことを話すようになって、『なぜ童はみじめなんだ?』だとか、『俺は今、童のためにシベリヤへ行くんだ。殺しなんぞしていないけど、俺はシベリヤへ行かなければいけないんだ』だとかって言うのよ。これは何のこと、どこの童のこと、あたしには全然わからなかったわ。ただ、あの人がその話をしたとき、あたし泣いていまったわ。だって、とっても上手に話して、自分から泣くんですもの、あたしまで泣けちゃった。そしたらあの人、突然あたしにキスして、片手で十字を切ってくれたわ。これはどういうこと、アリョーシャ、《童》って何のことか教えて」と、しかし「アリョーシャ」はそれに答えてはいません、これは「ドミートリイ」が「いちばん肝心なこと」でぜひとも「アリョーシャ」に伝えたかったと言っていますが、どういうことなのでしょうか、私なりにまとめてみると、「われわれはみんな、すべての人に対して罪がある」ということであり、そして肝心なのは、神とともに苦役を受けつるはしをふるっている人間は大勢いるということを理解したということではないかと思います、しかしここで神性に目覚めたような「ドミートリイ」の心情について、私はまだ残念ながら理解することができません。


2018年10月21日日曜日

934

「まあ、それもいいことですよ」

「アリョーシャ」は言いました。

神さまに近い位置にいる「アリョーシャ」がそう言うとは、その真意は何でしょうか。

「神さまが気の毒ってことがか? 化学だよ、お前、化学さ! 仕方がないよ、神父さん、少々おつめをねがいます、化学さまのお通りですから、ってわけだ! ところでラキーチンは神さまぎらいだな、大きらいなんだぜ! これがあいつらみんなの弱い点だよ! でも、隠してやがるんだ。嘘をついてやがる。芝居してやがるのさ。『どうなんだい、評論の分野でもこれを貫く気かい?』って俺がきいたら、『そりゃ、露骨には出さないさ』なんて言って、笑ってやがるんだ。『ただ、そうなったら、人間はどうなるんだい? 神さまも来世もなけりゃさ? とすると、今度はすべて許されるんだな、何をしてもいいってわけか?』と俺はきいてみた。するとあいつは、『君は知らなかったのか?』なんて笑うじゃねえか。『利口な人間は何でもできるさ、利口な人間は抜目なく立ちまわるからな。ところが君なんざ、人を殺して、パクられて、牢屋の中で朽ち果てるんだ!』この俺にこんなことを言いやがるんだぜ。まったくの豚野郎さ! 昔だったらあんな野郎はつまみだしてやるんだが、今だからおとなしくきいてやってるんだ。いろいろ役に立つことをしゃべるからな。書くものだって、気がきいてるぜ。一週間ほど前に、ある評論を読みはじめたから、そのときわざわざ三行ばかり書きぬいておいたよ。待ってくれよ、ほら、これだ」

「ドミートリイ」の言っていることは、わかりやすいですね、ここで「ラキーチン」が「利口な人間は何でもできるさ、利口な人間は抜目なく立ちまわるからな。・・・・」と言っていますが、これは前に(932)で「・・・・しかし、利口な男さ、頭はいいよ。」と(933)の「・・・・どいつもこいつも卑劣漢ばかりさ。しかし、ラキーチンなら、すりぬけるだろうよ。ラキーチンはどんな隙間でもくぐりぬけるからな。」と言っていたことに対応しますね。

「ミーチャ」はそそくさとチョッキのポケットから紙片を取りだし、読みました。

「『この問題を解決するには、何よりもまず自己の人格を自己の現実と真向から対決させることが必要である』だとさ。わかるかい、え?」

「いいえ、わかりませんね」

「アリョーシャ」は言いました。

彼は好奇心をみせて「ミーチャ」の手もとをのぞきこみ、話をきいていました。

「俺にもわからないんだ。漠然としていてはっきりしないけど、その代り利口そうじゃないか。『今はだれもがこういうふうに書くんだよ、そういう環境だからね』だとさ・・・・あいつらは環境がこわいんだな。詩も書くんだぜ、あの卑劣漢め。ホフラコワの足をたたえてやがったっけ、は、は、は!」

「漠然としていてはっきりしないけど、その代り利口そうじゃないか。」というのは面白いです。

「僕もききましたよ」

「アリョーシャ」は言いました。

「聞いた? じゃ、詩もきいたか?」

「いいえ」

(920)で「ホフラコワ夫人」はうろ覚えで詩の内容を「小さな足よ、かわいい足よ、わずかに腫れて痛みだす・・・・」と話していました、そして「アリョーシャ」に後で全部を見せると言っていましたがそれはそのままになっています、しかし、この後「ドミートリイ」が「アリョーシャ」に読んで聞かせた詩の本文と「ホフラコワ夫人」の記憶とはかなり違いますが。

「俺のところにあるから、読んでやるよ。お前には話さなかったから、知らないだろうけど、ここには一編の物語があるんだよ。あの悪党め! 三週間ばかり前に、あいつは俺をからかおうと思ってさ、『君は三千ルーブルのために、ばかみたいにパクられたけど、僕は十五万ルーブルをがっぽりいただくつもりだよ。さる未亡人と結婚して、ペテルブルグに石造のアパートでも買うさ』なんて言うんだ。そして、ホフラコワ夫人に取り入ってる話をするんだよ。あの女は若いころから利口なほうじゃなかったけれど、四十に近くなったら、すっかり頭がいかれたからな。『ひどくセンチだからな、そこをねらって射止めるさ。結婚したら、ペテルブルグに連れて行って、向うで新聞を出すんだ』こう言いながら、実にいやらしい、助平たらしいよだれを垂らすじゃないか。それもホフラコワ夫人に対するよだれじゃなく、十五万ルーブルが目当てなんだからな。そして、毎日のようにここへ来ては、もうなびきそうだなんて言い張ってたもんさ。喜びに顔をかがやかせてな。それが突然、おはらい箱だ。あのペルホーチンが勝負をいただきたってわけだ、あっぱれなやつだよ! つまり、あいつをおはらい箱にしてくれた褒美に、あのばか女にたっぷりキスをしてやってもいい、ってわけさ。あいつがここへせっせと来てた当時、この詩を作ったんだよ。『はじめて手を汚して、詩なんぞ書くんだ。それも女を口説きおとすためにね、つまり、有益な仕事のためだよ。あのばか女から元手をかっさらたら、今度は市民的利益をもたらすことができるからね』なんて言ってな。あいつらには、どんな汚ない行為にも、市民的弁解とやらがあるんだからな! 『とにかく君の好きなプーシキンより上手に書いだぜ、だっておどけた詩に市民的な哀感をもりこむことができたからね』だとさ。そりゃ、プーシキンに関して言ったことは、俺にもわかるよ。だってさ、本当に才能のある人間なら、女の足のことばかり書くはずがないものな! それにしても、たいそうこの詩を自慢しやがったぜ! たいしたうぬぼれだよ、うぬぼれさ! 『わが思う人の痛む足の回復をねがって』こんな表題を思いつきやがったもんだ。とっぽい野郎さ!

小さな足よ、気の毒に、
わずかに腫れたあの足よ、
医者が治療に通いつめ、
繃帯ぶざまに巻きつける。

僕の嘆きは足じゃない、
足を詠むのはプーシキン、
僕の嘆きはあの頭、
思想を解さぬあの頭。

少しわかろうとしかけたに
小さな足が邪魔をした!
癒っておくれ、小さな足よ、
頭が思想を解するように。

豚野郎め、まったくの豚さ。それでも、あの下種(げす)にしちゃ、ひょうきんな出来ばえだよ! それに事実《市民的悲哀》とやらも、もりこんであるしな。しかし、おはらい箱にされたときには、すごく怒ったようだぜ。歯ぎしりしたとよ!」

長い「ドミートリイ」の会話ですが、いろいろなことが盛り込まれています、特に「ラキーチン」の俗物ぶりは見事に描かれていますね。

「もう仕返しをしましたよ」

「アリョーシャ」は言いました。

「ホフラコワ夫人のことを記事に書きましたからね」

そして「アリョーシャ」は、『人の噂』紙の記事のことを、手短かに話しました。

「それはあいつさ、あいつだよ!」

「ミーチャ」は眉をひそめて相槌を打ちました。

「それはあいつだ! そういう記事はな・・・・俺だって知ってるさ・・・・つまり、そういう下品な記事がこれまでにもう、どれほど書かれたかわからないからな、たとえばグルーシェニカのことにしてもさ! それから、あの人、つまりカーチャのこともさ・・・・ふむ!」

考えてみれば「ドミートリイ」は自分の公判があしたに控えているというのに、こんなことで「ふむ!」なんて言っている場合じゃないと思いますが。

彼は気がかりそうな様子で部屋の中を歩きまわりました。

「兄さん、僕はゆっくりしてられないんです」

ちょっと沈黙したあとで、「アリョーシャ」が言いました。

「明日は兄さんにとって恐ろしいたいへんな日なんですよ。神の裁きが兄さんに下るんです・・・・それなのに、兄さんときたら、やたらに歩きまわったり、用件そっちのけで下らない話をしたり、まったく呆れちまうな」

よく言ってくれましたという気持です、さっき私が思ったことと同じことを「アリョーシャ」が言ってくれました。

「いや、呆れることはないさ」

「ミーチャ」がむきになってさえぎりました。

「それじゃ、あのいやなにおいをさせる犬畜生のことでも話せというのかい? あの人殺しのことでも? そのことなら、もうさんざ話したじゃないか。これ以上、あんないやなにおいをさせるスメルジャーシチャヤの忰(せがれ)の話なんぞ、ごめんだね。あんなやつは神さまが殺してくれるさ、今に見てろ。もう何も言うな!」

彼は興奮して「アリョーシャ」に歩みよると、いきなり接吻しました。


その目が燃えはじめました。