2017年11月30日木曜日

609

「ほら、あなたは信じてらっしゃらないんだ。みずから説いていながら、自分でも信じていないんですね。いいですか、あなたの言われるその夢は必ず実現します。それだけは信じていらっしゃい。でも、今じゃありません。どんな出来事にもそれなりの法則がありますからね。これは精神的、心理的な問題です。世界を新しい流儀で改造するには、人々自身が心理的に別の道に方向転換することが必要なんです。あらゆる人が本当に兄弟にならぬうちは、兄弟愛の世界は訪れません。人間はどんな学問やどんな利益によっても、財産や権利を恨みつらみなく分け合うことができないのです。各人が自分の分け前を少ないと思い、のべつ不平を言ったり、妬んだり、互いに殺し合ったりすることでしょう。あなたは今、いつそれが実現するかと、おたずねでしたね。必ず実現します、しかし最初にまず人間の孤立の時代が終らなければならないのです」

若き「ゾシマ長老」は、罪の意識を認識すれば楽園がくるということは理解していますが、みんながそうなることについては、懐疑的です。

そして、この神秘的な男は、将来的な人類の楽園を信じています。

つまり、彼の考えは、いずれ世界中の人々の考え方が変わり、そして世界が変わるという理解です。

「孤立とはどう言うことです?」

わたしはたずねた。

「現在、それも特に今世紀になって、いたるところに君臨している孤立ですよ。でも、その時代は終っていませんし、終るべき時期も来ていません。なぜなら今はあらゆる人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるからです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生ずるのは、人生の充実の代りに、完全な自殺にすぎません。それというのも、自己の存在規定を完全なものにする代りに、完全な孤立におちこんでしまうからなのです。なぜなら、現代においては何もかもが個々の単位に分れてしまい、あらゆる人が自分の穴倉に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々に背を向け、自分から人々を突き放すようになるからです。一人でこっそり富を貯えて、今や俺はこんなに有力でこんなに安定したと考えているのですが、あさはかにも、富を貯えれば貯えるほど、ますます自殺的な無力におちこんでゆくことを知らないのです。なぜなら、自分一人を頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類も信じないように自分の心を教えこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね。個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しかし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終りがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。もはや時代の思潮がそうなって、みながこんなに永いこと闇の中に引きこもって光を見ずにいたことをおどろくようになるでしょう。そのときこそ天上に人の子の旗印が現われるのです・・・・しかし、そのときまではやはりこの旗印を大切にしまっておき、ときおり一人でもよいからだれかがふいに手本を示して、たとえ神がかり行者と見なされようと、魂を孤独の世界から兄弟愛の好感という偉業へひきだしてやらねばならないのです。それこそ偉大な思想を死なせないために・・・・」

ここで切ります。


この男は、「しかし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終りがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ」と言うように観念的で楽観的に見えますが、その当時の「時代の思潮」を肌身で感じている人間にとっては、そう思うのも無理はないのかもしれません。


2017年11月29日水曜日

608

彼がこう話している間ずっと、わたしはまっすぐその顔を見つめていたが、ふいにこの男に対してきわめて強い信頼感と、そのうえさらに並みはずれた好奇心とをおぼえた。

男の心の奥に何か特別な秘密が存するのを感じたからだ。

「敵に赦しを乞うた瞬間、いったい何を感じたかというおたずねですけれど」

わたしは答えた。

「むしろ、そもそもの発端からお話しするほうがいいでしょう、これはまだほかの人たちには話していないのですが」

そしてわたしは、アファナーシイとの一件や、地べたに額をつけて従卒にあやまったことを、すっかり話してきかせた。

「これでおわかりになるでしょうが」

わたしは話を結んだ。

「決闘のときはもう気持が楽だったのです。なぜって、発端はわが家で起ったのですからね。いったんこの道に踏みこみさえすれば、あとはすべて、むずかしくないばかりか、むしろ嬉しく楽しいくらいでした」

きき終ると、彼はとても嬉しそうにわたしを見つめて、言った。

「今のお話は何もかも実に興味深うこざいました。これからもまた伺わせていただきます」

そして、それ以来ほとんど毎晩のようにやってくるようになった。

だから、もし彼が自分についても語ってくれたら、わたしたちは非常に親しくなれたはずだった。

だが、自分に関する話はほとんど一言もせず、いつもわたしのことばかりくわしくたずねるのだった。

にもかかわらず、わたしは彼をすっかり好きになり、どんな感情も包み隠さぬほど信頼した。

この人の秘密を知って何になろう、そんなものを知らなくとも、真正直な人であることはわかるではないか、と考えたからである。

そのうえ、きわめてまじめな人で、年齢もかけ離れているのに、若僧のわたしのところに通ってきてくれ、いやな顔も見せないのだ。

それに、知性の高い人だったから、わたしはいろいろと有益なことを彼から学びとった。

「人生が楽園であるということは」

だしぬけに彼は言った。

「わたしももうずっと以前から考えているんです」

そしてふいに、「そのことばかり考えているんです」と付け加え、わたしを見つめて微笑した。

「その点はあなた以上に確信しているんですよ、理由はいずれおわかりになるでしょうが」

わたしはそれをきいて、心ひそかに思った。

「この人はきっとわたしに何かを打ち明けたいのだ」

彼は言った。

「楽園はわたしたち一人ひとりの内に秘められているのです。今わたしの内にもそれは隠れていて、わたしさえその気になれば、明日にもわたしにとって現実に楽園が訪れ、もはや一生つづくんですよ」

見ると、彼は感動をこめて語り、まるで問いかけるように、秘密めかしくわたしを見つめている。

彼はつづけた。

「人はだれでも自分の罪業にほかに、あらゆる人あらゆる物に対して罪があるということですが、これはまったくあなたのお考えが正しいので、そうしてあなたが突然この考えをこれほど完璧にいだかれたのか、ふしぎなくらいです。人々がこの考えを理解したとき、天の王国がもはや空想の中でではなく、現実に訪れるというのは、間違いなく本当ですよ」

「でも、いったいいつ」

ここでわたしは愁いをこめて叫んだ。

「それは実現するのでしょう、それにいつかは実現するものでしょうか? 単に夢にすぎないのじゃありませんか?」

ここで切りますが、この神秘的な男は、罪の意識を自覚したときに楽園が訪れるということを信じています。

「ゾシマ長老」はその壁を乗り越えたようなのですが、まだ楽園の確信はなく自信なさそうです。


しかし、彼は頭ではわかっていてもまだそこまで到達しておらず、一歩手前にいるのですね。


2017年11月28日火曜日

607

(D)神秘的な客

それはすでに永年この町で奉職し、有力な地位を占めて、みなに尊敬されている裕福な人物で、慈善家としてきこえ、養老院や孤児院に巨額の寄付をし、そのほかにも、数々の善行を匿名でひそかにしていたことが、死後すべて明らかにされた。

年は五十くらいで、きびしいと言ってよいほどの顔つきをし、いたって無口だった。

結婚して十年たらずで、まだ若い夫人との間に幼い子供が三人あった。

翌晩、わたしが家にこもっていると、ふいにドアが開いて、ほかならぬその紳士が入っていたのである。

断わっておかねばならないが、そのころわたしが暮していたのは、もう以前の下宿ではなく、辞表を出すとすぐ、ほかに移って、官吏の未亡人である老婦人のところに、身のまわりの世話もしてもらう条件で部屋を借りていた。

この下宿への引っ越しも、あの日、決闘から帰るとすぐアファナーシイを中隊に送りかえしてしまったからにすぎず、それというのも、前夜のあんな仕打ちのあとで彼の目を見るのが恥ずかしくてならなかったのである-それくらい、心の未熟な俗世の人間は自分の正しい行いさえ恥ずかしく思いがちなのだ。

言いたいことはわかりますが、なんだかよくわからない文章ですね。

「わたしは」

入ってきた紳士が言った。

「もう何日もいろいろなお宅であなたのお話をたいへん興味深くうかがってきたのですが、とうとう、もっとくわしくあなたとお話しするために、直接お近づきになりたいという気を起したのです。こんな厚かましい頼みをきいていただけるでしょうか?」

「ええ、喜んで。たいへんな名誉と思います」と言ったものの、内心はほとんど怯えていた。

それほど、そのときの彼は一目見るなりわたしをおどろかせたのである。

なぜなら、わたしの話をきいて興味を示す人はあっても、こんなに真剣な、きびしい内面的な様子を見せてわたしに近づいた人は、これまで一人もいなかったからだ。

そのうえこの人は自分からわたしの下宿にやってきたのである。

彼は腰をおろした。

「わたしはあなたの中に」

彼はつづけた。

「偉大な性格の力を見るのです。なぜなら、あなたが自己の真実のために、みんなから一様に軽蔑される危険をおかすような問題で、真理に奉仕することを恐れなかったからです」

「そのおほめの言葉はあまり大仰にすぎるかもしれませんね」

わたしは言った。

「いえ、大仰なもんですか」

彼は答えた。

「本当の話、ああいいう行為をなさるのは、あなたが考えておられるより、はるかにむずかしいものですよ。実はわたしは」と彼はつづけた。

「まさにその点に心を打たれてのですし、こちらへ伺ったのもそのためなんです。ことによると無作法すぎるかもしれぬ、わたしの好奇心にお腹立ちでなかったら、決闘の場で赦しを乞おうと決心なさった瞬間、いったいどんな感じだったか、もし覚えていらしたら、お話しいただけませんでしょうか? こんな質問を軽薄とおとりくださいませんように。それどころか、こんな質問をいたしますには、自分なりのひそかな目的があるのです。それは後日、神さまの思召しでわたしたちがもっと親しくなれましたら、きっと説明いたします」


ここで切ります。


2017年11月27日月曜日

606

町の社交界でも、ほとんど同じことが起こった。

以前は特に目立つ存在でもなく、ただ歓迎されるだけだったのに、今や突然だれもが先を争ってわたしと知合いになりたがり、自分の家に招くようになった。

わたしという人間を笑いながらも、愛してくれるのだった。

ここで断わっておくが、決闘の一件は当時だれもがおおっぴらに話していたものの、当局はこの事件を伏せてしまった。

それというのも、わたしの相手がわれわれの将軍の近い親戚だったし、事件が流血沙汰にならず、いわば冗談のような形ですんだうえ、わたしも辞表を出したため、本当に冗談ということにされたのである。

そこでわたしも、笑われるのもかまわず、何の心配もなくおおっぴらに話すようになった。

やはり悪意のある笑いではなく、好意的なものだった。

こうした会話はたいてい夜会の、婦人たちの席で交わされた。

そのころはむしろ女性のほうが好んでわたしの話をきき、男たちにもきかせようとしたのである。

「でも、すべての人に対してわたしが罪を犯しているなんて、そんなことがありうるでしょうか?」

だれもが面と向ってわたしをからかった。

「たとえば、あなたに対してわたしが罪を犯しているなんてことが、はたしてあるんでしょうか?」

「あなた方にどうしてわかるものですか」

わたしは答えた。

「なにしろ全世界がもう久しい以前から違う道に踏みこんでしまって、真っ赤な嘘を真実と思いこみ、ほかの人たちにもそういう嘘を求めているんですから。現にわたしが一生に一遍、ふいに思い立って誠実な行為をしたというのに、どうです。あなた方みんなにとって、わたしはまるで神がかり行者にひとしくなったじゃありませんか。わたしに好意をいだいてくださりはしても、やはりわたしを笑っているじゃありませんか」

彼と彼のまわりとの関係は、完全な尊敬の心ではなく、どこかで笑い者にしており微妙ですね。

そうでなければ、笑うということはあり得ません。

彼が「わたしはまるで神がかり行者にひとしくなったじゃありませんか」というように、ある意味で喜劇役者のように周囲から一定の距離感を置いて見られています。

「でも、あなたのような方を愛さずににはいられますかしら?」

女主人が声をあげて笑った。

その夜会は人が大勢だった。

ふと見ると、婦人たちの中から一人に若い女性が立ちあがった。

その女性こそ、あのときわたしが決闘を申し込んだ原因であり、ついこの間まで未来の花嫁に予定していた人であったのに、わたしは彼女がこの夜会に来たことに気づきもしなかったのだ。

彼女は席を立って、わたしに歩みより、片手をさしのべて言った。

「失礼ではございますが、わたしく、あなたを笑ったりしない最初の人間であることを申しあげます。それどころか、あのときのあなたの行為に、わたくし涙ながらに感謝して、敬意を捧げておりますの」

そこへ彼女の夫もやってきた。

さらにみんなが突然わたしのほうに殺到し、キスせんばかりだった。

わたしはとても嬉しくなったが、そのとき突然、やはりわたしのほうに歩みよってきた、もうかなり年輩の、一人の紳士に、だれよりも注意をひかれた。

それまでにも名前は知っていたけれど、近づきになったことはなく、この晩まで言葉を交わしたことさえない人だった。

ここで切ります。

「ゾシマ長老」の話したこととされて「アリョーシャ」が書いた文章ですが、文章の進め方がこの小説の他の部分に比べると荒いように思います。


これは「アリョーシャ」が自分の記憶用に書いた文章だから作者が意図的にそうしたのかもしれませんね。


2017年11月26日日曜日

605

わたしたちは家に向った。

わたしの介添人は途中ずっと罵りつづけたが、わたしは接吻を返すばかりだった。

その日のうちにさっそく、同僚たちが話をききつけて、わたしを裁くために集まった。

「軍服の名折れだ。辞表を書かせろ」と言うのだ。

弁護する者も現われた。

「とにかく敵の弾丸には堪えぬいたんだからな」

「それはそうだが、次の弾丸がこわくなったんで、決闘の場で詫びを入れたんだ」

「もし次の弾丸がこわくなったんだとしたら」と弁護側が反論する。

「赦しを乞う前に、まず自分のピストルを発射したにちがいない。ところが彼は装塡したままのピストルを森に投げ棄てたんだからな。違うな、ここには何かほかの特殊な事情があったんだ」

わたしは聞き役だった。

みなを眺めているのが楽しかった。

「ねえ、みんな」

わたしは言った。

「同僚諸君、辞表のことならご心配なく。なぜって、もう出してきたんだよ、今朝、事務室に出してきた。退役許可がおりたら、すぐ修道院に入るよ。辞表を出したのもそのためだからね」

ここではじめて修道院に入るということが、彼の口から出たのですがこれは以前から考えていたことでしょうか、それとも今日の朝方に思い浮かんだのでしょうか。

わたしがこう言ったとたん、みなが一人残らず笑いころげた。

「それなら最初からそう言やいいのに。坊さんを裁くわけにゃいかんからな」

みなは大笑いして、いっかな静まろうとしなかったが、それもまったく嘲笑ではなく、やさしい、楽しげな笑いだった。

いちばん手きびしい弾劾者たちにいたるまで、みながいっぺんでわたしに好意をいたき、そのあと退役許可が出るまでのまる一ヶ月というもの、わたしを両手にかかえて歩かんばかりだった。

「よう、坊さん」と言うのだ。

だれもがやさしい言葉をかけてくれ、思いとどまらせようとしたり、「君は自分をどうしちまう気だ?」などと同情さえしはじめた。

「いや、彼はわれわれ仲間の勇者だよ」という者もいた。

「相手の射撃にびくともしなかったし、自分のピストルで射つこともできたのだ。ところが、前の晩に坊主になる夢を見たってわけさ。だからなんだよ」


ここで切ります。


2017年11月25日土曜日

604

もう笑わなかった。

「みなさん、自分の愚かさを後悔して、自分のわるかった点を公に謝罪する人間を見るのが、現代ではそんなにふしぎなことなんですか?」

「しかし、なにも決闘の場ですることはあるまい」

わたしの介添人がまた叫ぶ。

「そこなんですよ、問題は」とわたしは答えた。

「そこがふしぎなところなんです。なぜなら、当然わたしはここへついたとたん、まだ相手が射つ前に謝罪して、償うことのできぬ大きな罪にこの方を引き入れぬようにすべきだったのです。ところが、われわれはみずからあまりにも醜悪に社交界に安住しすぎたため、そんな行為はほとんど不可能でした。なぜなら、わたしがこの方の射撃に堪えぬいたあとでこそ、はじめてわたしの言葉が何らかの意味をもちうるのですけれど、もしここについてすぐ、射撃の前にそうしたりすれば、臆病者、ピストルがこわくなったな、聞く耳を持たんわ、とあっさり片づけられたにちがいないからです。みなさん」

ふいにわたしは心の底から叫んだ。

みんなが頭にきている状態の中で、これだけの理屈を話すということ自体が相当に勇気がいることと思います。

いくら正しい理由でもその場では理解してもらえないと思うのが普通でしょうから。

「周囲を見まわして神の恵みを見てごらんなさい。澄んだ空、清らかな空気、柔らかい草、小鳥、汚れのない美しい自然、それなのにわれわれは、われわれだけが神を知らぬ愚かな存在で、人生が楽園であることを理解していないのです。理解しようという気を起しさえすれば、すぐに楽園が美しい装いをこらして現われ、わたしたちは抱擁し合って、感涙にむせぶのですよ・・・・」

わたしはさらにつづけようとしたが、できなかった。

息がつまり、若々しい甘美な気持で、心の中にはこれまで一度も感じたことのないような幸せが充ちていた。

「おっしゃることはすべて、理にかなった敬虔なことばかりです」

敵が言った。

「いずれにしても、あなたは変ったお方だ」

「どうぞ笑ってください」

わたしも笑いながら言った。

「そのうち、ほめていただけるでしょうから」

「いえ、今だって賞賛したい気持ですよ。ひとつ和解の手をさしのべさせてください。あなたは本当に誠実なお方のようだ」

「いえ、今はいけません。そのうち、わたしがもっと立派な人間になって、あなたの尊敬に値するようになったら、そのこきこそ握手してください、あなたにとってもそのほうがいいでしょう」


ここで切ります。


2017年11月24日金曜日

603

こうして約束の場所に到着すると、先方はもう来ていて、われわれを待っていた。

二人は十二歩の距離に分けられ、最初に射つ権利は彼に与えられた。

(123)の計算によると、十二歩というのは9.45mくらいですね。

これほどの距離があると思うところにはなかなか当たりませんね。

わたしは彼の前に面と向い合って快活な様子で立ち、まばたき一つせず、愛情をこめて彼を見つめた。

これから自分のすることを承知していたからだ。

彼が射った。

関係ないのですが、「射」つという漢字は、言偏をつけると全く反対の意味の「謝」るという感じになりますね。

弾丸はわずかに頬をかすめ、耳にかすり傷を負わせただけだった。

「よかった、あなたが人殺しをせずにすんで!」

わたしは叫んで、自分のピストルをひっつかみ、うしろに向き直るなり、高く森の中へ放り棄てた。

「お前の行く場所はそこだ!」

わたしは叫んで、敵の方に向き直った。

「おねがいです、愚かな青二才のわたしを赦してください、自分がわるいのにあなたをさんざ侮辱したうえ、今は人を射つようなことをさせたりして。わたし自身はあなたの十倍もわるい人間です、いや、おそらくもっとわるいでしょう。このことを、あなたがこの世でだれよりも大切にしていらっしゃるあの方に伝えてください」

わたしがこう言い終るやいなや、三人の男がいっせいに叫びだした。

「冗談じゃないですよ」

わたしの敵が言った。

腹を立ててさえいた。

「決闘する気がないんだったら、何のために人騒がせな真似をしたんです?」

「昨日のわたしはまだ愚かでした。でも今日はいくらか利口になったのです」とわたしは快活に答えた。

「そりゃ昨日のことは信じますけれど、今日のことに関してあなたの意見どおりに結論を出すのはむりですな」

「そうですとも」

わたしは叫んで、手をたたいた。

「その点でもわたしは同感です。自業自得ですから」

「で、あなたは射つんですか、それともやめるんですか?」

「射ちません。なんでしたら、あなたはもう一度射ってください。ただ、射たぬほうが賢明でしょうけど」

介添人たちもわめいた。

特にわたしの介添人が息まいた。

「決闘の場に臨んで詫びを入れるとは、なんたる連隊の恥辱だ、そうとわかってさえいれば!」

そこでわたしは彼ら全員の前に立った。


映画のワンシーンのような光景ですがここで切ります。


2017年11月23日木曜日

602

わたしは何をしに行こうとしているのか?

わたしに対して何の罪も犯していない、善良な、聡明な、立派な人を殺しに行こうとしている、しかもそれによって彼の妻から幸せを永久に奪い、苦しめ、絶望のどん底に突き落とそうとしているのだ。

わたしはベッドに突っ伏し、顔を枕に埋めたまま、時間のたったのにもまったく気づかなかった。

ふいに友人の中尉がピストルを持って迎えにきた。

「ああ、もう起きていたんなら結構だ。時間だぜ、出かけよう」

このときになってわたしはうろたえだし、途方にくれたが、それでも馬車に乗るため外に出た。

「ここでちょっと待っててくれないか」

わたしは友人に言った。

「急いで行ってくるから。財布を忘れたんだ」

そして一人で家に駆け戻ると、まっすぐアファナーシイの小さな部屋に行った。

「アファナーシイ、僕はゆうべお前の顔を二度も殴った。赦しておくれ」

わたしは言った。

彼はおびえたようにびくりとして、眺めている。

わたしはこれでもまだ足りないのだと気づいて、いきなり肩章をつけた服装のまま、彼の足もとの地べたに額をすりつけ、「赦しておくれ!」と言った。

頭で思うことはできても、それを実行するのは別物と言っていいくらいたいへんなことですが、彼はそこまで一気にやってしまったわけですね。

やはりこれには重大な意味があったのでしょう。

ここにいたって彼はすっかり呆然とした。

「中尉殿、旦那さま、どうしてそんな・・・・わたしごとき者に・・・・」

そして突然、先ほどのわたしと同じように自分も泣きだし、両手で顔を覆って、窓の方に向くと、涙に全身をふるわせた。

わたしは友人のところへ駆け戻り、馬車にとびのると、「やってくれ」と叫んだ。

「見たかい、勝利者を」

わたしは友人に叫んだ。

「ほら、君の前にいるじゃないか!」

あまり嬉しかったので、わたしは声をあげて笑い、道々ずっとしゃべりつづけたが、何を話したのやら、おぼえていない。

友人はわたしを見つめて「いや、君はたいした男だな、これなら軍服の名誉を保てるな」と感嘆した。


ここで切ります。


2017年11月22日水曜日

601

太陽がかがやき、木の葉はよろこびきらめき、小鳥は神をたたえている・・・・わたしは両手で顔を覆うなり、ベッドに倒れ伏し、声をあげて泣きだした。

(587)でも書いたように、窓を開け、外の「小鳥だの、木々だの、草原だの、大空」などの自然を見て神に気づくというのは、兄「マイケル」もそうでしたね。

そしてそのとき、兄マイケルを、そして死ぬ前に召使たちに言った兄の言葉を思いだしたのだった。

「お前たちはやさしくて親切だね。どうして僕に仕えてくれるんだい? 仕えてもらうような値打ちが僕にあるだろうか?」–「そうだ、俺にそんな値打ちがあるだろうか?」

ここで思い出したのは十七歳の「マイケル」の死ぬ前の言葉で、(586)で書きましたが、「お前たちはやさしくて親切だね。どうして僕に仕えてくれるんだい? 仕えてもらうような値打ちが僕にあるだろうか? もし神さまのお恵みがあって、生きていられたら、今度は僕がお前たちに仕えるよ。だって人間はみな互いに奉仕し合わなけりゃいけないものね」というものでした。

突然わたしの頭にひらめいた。

実際、何の値打ちがあってわたしは、ほかの人間に、わたしと同じように神がおのれに似せて創った人に、仕えてもらっているのだろう?

生まれてはじめてこのとき、こんな疑問がわたしの頭に突き刺さった。

「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ、知りさえすれば、すぐにも楽園が生れるにちがいないんです!」

ああ、はたしてこれが誤りであろうか、わたしは泣きながら思った。

ことによると本当に、わたしはすべての人に対して世界じゅうのだれよりも罪深く、いちばんわるい人間かもしれない!

こう思うと突然、いっさいの真実が、理性の光に照らされて目の前にあらわれた。

「ゾシマ長老」の神への目覚めについて書かれているのですが、もともと彼の内面にあったものが、あるきっかけによって突然目覚めたということでしょう。


ここで切ります。



2017年11月21日火曜日

600

わたしは寝床に入り、三時間ほど寝入って、起きてみるともう夜が明けかかっている。

ひと思いに起きだし、もう寝る気にもなれないので、窓に歩みより、開けた。

窓は庭に面しており、見ると、まさに太陽がのぼるところで、暖かく、すばらしく、小鳥たちもさえずりだした。

心の中に何か恥ずべき卑しいことがあるように感ずるが、これはどういうわけだろう、とわたしは思った。

これから血を流しに行くせいだろうか?

いや、どうもそのせいではないようだ。

死がこわいからでは、殺されるのが恐ろしいからではあるまいか?

いや、全然違う、まったくそんなことではない・・・・と、そのとたんふいに、何が原因か、思い当った。

夜会帰りの勢いでアファナーシイを殴りつけたからなのだ!

突然、まるでそっくり再現するかのように、すべてがまた思い描かれた。

従卒がわたしの前に立っており、わたしは力いっぱいまともに顔を殴りつける、相手はまるで隊列にいるときのように直立不動の姿勢をとり、首をまっすぐ起し、目を大きく見はって、殴られるたびに身をふるわせはするものの、手をあげて防ごうとさえしない–人間はここまで堕ちてしまったのだろうか、人間が人間を殴るとは!

なんという犯罪だろう!

鋭い針がわたしの心を刺し貫いたかのようであった。

わたしは呆然と立ちつくしていた。

ここで切ります。

ある時点で気づく人と気づかない人がいるのはなぜなのでしょうか、それが問題である気がします。

それは神のみぞ知ることで、気づいた人は、まだ気づかない人を気づかせる使命があるのでしょう。


そして、「ゾシマ長老」の場合は、あとで書かれているように兄「マイケル」ということですね。


2017年11月20日月曜日

599

わたしはすぐに介添人を見つけた。

同じ連隊の中尉で、友人だった。

当時も決闘はきびしく処罰されることになっていたが、軍人仲間では流行にさえなっていた。

時によると、偏見というものはそれほどまで野蛮に成長し、こりかたまってしまうのである。

六月も終りに近いころで、決闘は翌朝七時、郊外でときまった。

ところが、まさにここにいたって、わたしの心に宿命的とも言えることが起ったのである。

キリスト教では、ほかの宗教でもそうですが、常識では考えられないような奇跡物語が宗教に入るきっかけとなることが多いのですが、この話もそのようなものでしょうか。

「ゾシマ長老」は、普通に考えると長い生涯の中でこの重要な入信の契機について、多くの人に質問され、またこのことは隠すようなことではないので自ら進んで話してきたのではないかと思います。

ですから、この部分の話も「アリョーシャ」が今まで繰り返し聞いてきたことを書き留めているのかもしれませんね。

凶暴なおそろしい剣幕で夜会から家に帰ると、わたしは従卒のアファナーシイにむかっ腹を立て、力まかせに二度も顔を殴りつけたため、顔を血だらけにしてしまった。

彼はわたしのところに勤務してからまだ日が浅く、それまでにも殴ったことはあったけれど、こんな野獣のような残忍さで殴ったことは一度もなかった。

正直のところ、あれから四十年たった今も、このことを思いだすと羞恥と苦痛を禁じえない。


ここで切ります。


2017年11月19日日曜日

598

わたしは時機を待ち受け、あるとき、大勢の集まった席で、さもまったく無関係な理由からと見せかけて、突然まんまと《恋がたき》を侮辱し、当時の、あれは一八二六年だったが、さる重大な事件(訳注 前年のデカブリストの乱をさす)に関する彼の意見を笑いものにしてやった。

デカブリストの乱とは「1825年12月14日(グレゴリオ暦12月26日)にロシア帝国で起きた反乱事件。
デカブリストとは、武装蜂起の中心となった貴族の将校たちを指し、反乱が12月(ロシア語でデカーブリ、 Декабрь)に起こされたことからデカブリスト(十二月党員)の名で呼ばれた。デカブリストの乱は、ロシア史上初のツァーリズム(皇帝専制)打破と農奴解放を要求した闘争と位置づけられ、以後のロシアにおける革命運動に大きな影響を与えた。」とのこと。

「デカブリストの乱は、ロシアにおける自由主義的革命運動の第一歩として、その後の革命運動の契機とされている。」そうです。

この嘲笑は辛辣でみごとな出来ばえと、もっぱらの評判だった。

この時の二人の具体的な見解は、本筋とは関係ないので書かれていませんが、軍人であった時の若き「ゾシマ長老」の政治的見解はどのようなものだったのでしょうか。

そのあと彼に釈明を強要し、その釈明をききながら今度は実に無礼な態度をとったため、相手は身分上の大きな相違にもかかわらず、というのはわたしのほうが年も若ければ官位も低く、取るに足らぬ存在だったからだが、ついにわたしの挑戦を受けることになった。

あとになってはっきりわかったのであるが、わたしの挑戦に彼が応じたのは、やはり嫉妬心かららしい。

彼は以前、妻がまだ婚約者だった当時から、わたしにいくらか嫉妬していたのだ。

だから今、わたしの侮辱を堪え忍んで、決闘を申し込まなかったと妻が知れば、心ならずも軽蔑するようになり、愛もゆらぐのではないか、と考えたのである。

このあたりまでの「ゾシマ長老」の生い立ちを聞くと、ごく普通の人物だということがわかります。

彼の行動や考え方をみると、今や多くの人から尊敬されている人物とは思えませんが、こうした普通の人間だったからこそ、年老いて人間というものがどういうものであるかがよくわかるのかもしれません。

やはり、そういった経験というのは、人間の成長にとって必要なのでしょうか。

しかし、すべてがそのように経験によって影響されると考えるのは、経験さえできない者にとっては納得がいかないですね。


結果からある程度は原因を分析することはできても、それは大概の場合都合のいい解釈にすぎず、人間のすることは奥深すぎて、何だからこうだと言いきれないところがありますので、むずかしいです。


2017年11月18日土曜日

597

そこへ、いっさいの発端となったある事態が生じたのだった。

わたしがさる若い美しい令嬢に思いを寄せたのである。

聡明な立派な娘で、気性も明るく上品だし、両親も尊敬すべき人たちだった。

地位も低くなく、財産も勢力も実力もある一家だったが、わたしを愛想よく喜んで迎えてくれていた。

やがて、令嬢がひそかに好意をいだいているらしいという気がして、そう思うとわたしの心は一気に燃えあがった。

あとになって自分でもさとり、完全に思い当ったのだが、おそらくわたしは彼女をそれほど、熱烈に愛していたわけではなく、きわめて当然のことながら、彼女の知性と高潔な性格を尊敬していただけかもしれなかった。

負け惜しみのように聞こえますが、あとになってそういうふうに思うのはなぜなんでしょう、これは「ドミートリイ」と「カテリーナ」の関係と似ていると思いますし、「イワン」と「カテリーナ」の場合もそうでした。

それはともかく、当時のわたしは利己心に邪魔されて、結婚を申し込むことができなかった。

そんな若さで、おまけに金もあるというのに、ひとり者の気ままな放埓な生活の誘惑と別れるのが、つらく、恐ろしく思われたのである。

それでも、それとなく匂わせはしておいた。

いずれにせよ、いっさいの決定的な言動は、しばらくお預けにしたのだった。

ところが、ふいにほかの郡へ二ヶ月の予定で出張ということになった。

ふた月後に帰ってきて、突然、令嬢がもう結婚したことを知った。

相手は郊外に住む裕福な地主で、わたしよりいくつか年上とはいえ、まだ若く、わたしなどには縁のない首都の上流社会にも顔が広く、きわめて愛想がよいうえ、教養のある人物だった。

ところが、教養となると、こちらはまるきりなかった。

わたしは思いもかけぬこの事態にショックを受け、頭がぼんやりしたほどだった。

何よりいけないのは、そのときはじめて知ったのだが、その青年地主がもうだいぶ以前から彼女の婚約者であり、わたし自身も彼女の家でいくたびとなく顔を合わせていながら、うぬぼれに目がくらんで、何一つ気づかずにいたことだった。

これが特にわたしには腹立たしかった。

どうして、みんなが承知していたのに、わたしだけが何も知らずにいたのだろう?

そして、ふいに抑えきれぬ憎悪をおぼえた。

顔を赤らめながら、わたしは、いくとびとなく彼女に愛を打ち明けたにもひとしいことを思いだしにかかった。

このへんの表現は利己的でうぬぼれの強い人ならではの自己弁護的な考え方をうまく表していると思います。

つまり、ぼんやりしていて気づかなかったのですが、その原因はうぬぼれでいたからです。

だが、彼女はそれをやめさせもしなければ、釘をさそうともしなかったのだから、要するに、こちらをからかっていたのだ、とわたしは結論を下した。

もちろん、あとになって考え合せると、彼女は少しもからかったわけではなく、むしろ反対にそうした話を冗談めかして打ち切ったり、ほかの話に変えたりしたことを思い出したのだが、そのときはそこまで思いめぐらすことができず、復讐の炎を燃えあがらせたのだった。

今思いだしてもふしぎでならないが、この復讐心と憤りとはわたし自身にとっても極度に苦しく、やりきれなかった。

それというのも、元来が気さくな性格で、だれに対しても永いこと腹を立てていられなかったからで、そのためことさら自分で炎を煽る感じになり、ついには見苦しい愚かな人間になってしまった。

たいへん、するどくて厳しい自己分析ですね。


ここで一旦切ります。