2017年12月31日日曜日

640

故人のお気に入りだった図書係の柔和な司祭修道士「イォシフ神父」は、悪態屋の何人かに向って「必ずしもそうとは限らない」と反駁しかけました。

行い正しき人の遺体が腐敗せぬ必然性とは、べつに正教の教義ではなくて、一つの見解にすぎないのだし、たとえばアトスのようにきわめて正教のさかんな地方でも、遺体の腐臭にこれほど動揺したりしないし、救済された者をたたえる主要な徴候は遺体が腐敗しないことではなく、遺体がすでに永年にわたって地中に眠ってすっかり腐ったときの骨の色であって、「もし骨が蠟のように黄色くなっていれば、つまり神がその者に栄光を与えなかったということである。昔から正教がもっとも明るい純粋さで揺るぎなく保ちつづけられている偉大な地、アトスではこうなのだ」と、「イォシフ神父」はしめくくりました。

このアトスのことは、「アトス自治修道士共和国」のことで「Wikipedia」の情報に基づき(100)で書きました。

さらに、(128)で「フョードル」の会話にも出てきてます。

しかし、つつましい神父の言葉はどこ吹く風ときき流され、嘲笑的な反抗さえひき起しました。

「あんなのは物知りぶった新説だ。きくにはあたらない」

修道僧たちは心ひそかに決めてかかりました。

「こっちは昔流儀なんだ。このごろはいろいろな新説が出てくるけど、いちいち真似していられるかい?」

ほかの連中が付け加えました。

「ロシアだって、連中に劣らないくらい聖者は大勢いるんだ。連中はトルコの尻にしかれているうちに、すっかり忘れちまったのさ。あっちじゃ正教までとうの昔に濁っちまったんだし、連中には鐘もないんだからな」

いちばん嘲笑的な連中が尻馬にのって言いました。

トルコとの関係については、「コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が滅亡したのち、オスマン帝国の支配下にあってもそれぞれの修道院はよく正教の伝統を守り、16世紀ころには、生計の糧としてイコンやフレスコ画などがつくられた。トルコのスルタンたちは、「昼夜を分かたず神の名が称えられる」アトスに、絶大な自治権を認めた。17世紀から18世紀にかけてのアトスは、ギリシャ人の民族心の砦のような役割を果たし、多くのすぐれた教育者を生み、また数多くの識者を育てた。1829年のギリシャ王国のトルコからの独立後はギリシャ政府の保護下に置かれ、治外法権を認められた独立の共和国として今日にいたっている。」とのことですが、「鐘」がないということまでは書かれていません。

この「いちばん嘲笑的な連中」が言った内容については、修道院の中では多くの修道僧が知っていることなのでしょうか。

「イォシフ神父」は悲しい気持ちでその場を離れました。

まして自分でも今の意見をさほど確信をもって口にしたわけではなく、あまり信じていなかっただけに、なおさらのことでした。


図書係の司祭修道士として威厳をもって発言したように見えるのですが、実際はそうではなかったというのはおもしろいですね。


2017年12月30日土曜日

639

腐敗が明らかになりはじめるや、故人の庵室に入ってくる修道僧たちの顔つきを見ただけでもう、その用向きを推察できるようになりました。

彼らは部屋に入ってきて、しばらくたたずんでから、外に群がって待っているほかの連中に一刻も早くニュースを裏付けてやろうと出てゆきます。

待っている人々の中には、悲しそうに首を振る者もありましたが、その他の者は底意地のわるい眼差しに露骨にかがやく喜びの色を、もはや隠そうとすらしませんでした。

そして今やだれひとり彼らを非難する者もなければ、弁護の声をあげる者もなく、これはむしろふしぎでさえありました。

なぜなら、故長老の心服者は修道院内では依然として多数派だったからです。

しかし、きっと神みずからが、今回は少数派が一時的に勝ちを制するように計らったのでしょう。

間もなく、俗世の人々も同じように様子を探りに庵室に立ち現れるようになりましたが、たいていは教養のある客たちでした。

平民階級の者は、僧庵の門のあたりに大勢ひしめいてはいたものの、中に入ってくるのは少数でした。

三時を過ぎると俗界の弔問客の波がにわかに増え、それが例の誘惑的なニュースのせいであることは、疑いもありませんでした。

この日まったく来るはずのなかった人々や、来るつもりのなかった人たちが、今やわざわざ駆けつけてきましたし、その中には何人かの高官の顔も見えました。

しかし、一応の秩序は表面的にはまだ破られておらず、「パイーシイ神父」も、すでにたいぶ前から何やら異常な空気に気づいてはいたものの、そんな事態は気にもとめぬかのように、厳粛な面持で、しっかりと歯切れよく、大声で福音書を朗読しつづけていました。

だが、そのうちに、最初はきわめて小さく、しだいに勇気を得て張りを帯びてきた人声が、彼の耳にも達するようになってきました。

「つまり、神さまのお裁きは人間の裁きとはわけが違うのだ」

突然、「パイーシイ神父」はこんな言葉を耳にしました。

いちばん先にそれを口に出したのは、俗界の人で、すでにかなりな年配の、町の官吏であり、きわめて信仰の篤い人物として知られていましたが、彼が口に出してこう言ったのも、だいぶ以前から修道僧たちがお互いの間で何度も耳打ちし合っていたことを、くりかえしたにすぎませんでした。

修道僧たちはもうずっと前からこの絶望的な言葉を口にしていたのであり、何よりわるいのは一種の勝利感が、この言葉を口にするたびにほとんど刻一刻と露骨になり、増大してきたことでした。

しかし、ほどなく、秩序そのものさえ破られるようになり、まるでだれもがそれを破る当然の権利を持っていると感じているかのようでした。

「それにしても、なぜこんなことが起りうるのだろう?」

修道僧たちの中には、最初のうち、さも同情するかのように、こう言う者もありました。

「あんな小柄な、枯れきったお身体で、骨と皮だけだったのに、どうしてこんなにおいが生ずるんだろう?」

「つまり、神さまがわざわざお示しくださろうとなさったわけだ」

他の連中が急いで付け加え、この意見は文句なしにすぐ受け入れられました。

なぜなら、かりにすべての罪深い死者の場合と同じように、腐臭の生ずるのが当然であるとしても、なにもこんな露骨なほど早くではなく、もっと遅く、少なくとも一昼夜だってから生ずるはずであり、つまるところこれは神とその賢い御手のなせるわざにちがいないという点が、またしても指摘されたからです。

神は教示なさろうとしたのです。

この意見は反駁の余地なく人々の心を打ちました。

「ゾシマ長老」は修道院の多数派であったにもかかわらず、今やこのような悪意が修道院内で支配的になっているということは、どういうことなのでしょうか。

本当に「ゾシマ長老」を信頼している修道僧ならばそのような発言や行動はとらないでしょう。

詳しいことはよくわかりませんが、「ゾシマ長老」派と反「ゾシマ長老」派の間に中間層が大勢いたことになるのではないでしょうか。

つまりちょっと不自然だとは思いますが「ゾシマ長老」死後の力関係により中間層が寝返ったのでしょう。


しかし、もしそうであればこの修道院の中も一般的な組織と少しも変わらないということですが作者はそういうことを言いたいために、はじめから修道院の中の反「ゾシマ長老」派の存在を書いたのでしょうか。



2017年12月29日金曜日

638

それらの中でも特に思い出が保たれているのは、百五歳まで生き永らえた「イオヴ長老」で、これはすでにずっと昔、今世紀の十年代に物故した有名な苦行僧であり、斎戒と沈黙の偉大な行者であったため、はじめてこの修道院を訪れる信者たちはみな、一種特別な並みはずれた尊敬をこめてこの人の墓を示され、なにやら偉大な希望に関して神秘的な口調で説ききかされることになっていました(これは今朝パイーシイ神父がアリョーシャを見いだしたとき、アリョーシャの腰かけていたあの墓である)。

ずっと昔に亡くなったこの長老以外に、比較的近年に物故した偉大なスヒマ僧、「ワルソノーフィイ長老」についても、同じような記憶が今も生きつづけています。

「ゾシマ長老」が長老の位を引き継いだのもこの人からですが、生前この人は修道院を訪れるすべての信者たちから、それこそ神がかりの行者と見なされていたものでした。

この二人の長老に関しては、どちらもさながら生ある人のように柩に横たわり、埋葬されたときにもまったく腐敗していなかったばかりか、柩の中で顔色さえ明るくなったかのようだった、という語り伝えが残っています。

なかには、どちらの遺体からも芳香がはっきり感じとれたなどと、執拗に回想する者さえありました。

不信心者のひねくれ者の私としては、誰かが隠れて芳香剤を塗ったのではと思ってしまいますが。

だが、これほど教訓的ないくつかの思い出にもかかわらず、なぜ「ゾシマ長老」の柩のわきであんな不謹慎な、愚かしい、悪意にみちた事態が生じえたのか、その直接の原因を説明するのは、やはりむずかしいことでしょう。

わたし個人の考えを言うなら、この場合はほかの多くのことや、数多くのさまざまな原因が一度に重なり合って、それが同時に影響を与えたのだと思います。

また出てきました「わたし」です。

それらの中には、たとえば、修道院でいまだに多くの僧たちの心の奥深くに秘められている、有害な新制度たる長老制度に対するきわめて根強い反感さえあったはずです。

さらに、これが肝心な点でもありますが、生前からあまりにも強固に確立したため、反駁することも許されぬかのような感さえあった故人の神聖さに対する妬みも、もちろんあったにちがいありません。

なぜなら、亡くなった長老は多くの人々を、奇蹟よりはむしろ愛によって惹きつけ、自分の周囲に傾倒者の一世界を築いた感はあったものの、それにもかかわらず、いや、それだけにいっそう、ほかならぬそのことによって羨望者をも、さらにつづいて公然、隠然のはげしい敵までも生みだし、しかもそれが修道院の内部だけではなく、俗世の人々の間にさえ見いだされたからです。

「ゾシマ長老」は「奇跡よりはむしろ愛」ですから、不信心者からみればインチキ臭さはないのです。

あくまで不信心者の意見ですが、そのインチキさがないからこそ、自分の死後の身の回りのことについてもあるがままにまかせたのではないでしょうか。

聖者の遺体に香料を塗ることをインチキと言っていいのかどうかわかりませんが、そういうことはしきたりとして当たり前にできたはずで、「ゾシマ長老」はそれを避けたのではないかと思います。

以上は「腐臭」の話ですが、ここではそれによる「騒ぎ」の原因のことが語られています。

早い話、長老はだれにも迷惑をかけたりしませんでしたが、それでも『なぜあの人はあんなに聖人扱いされるのだろう?』という疑問が生じ、この疑問一つだけでも、しだいに反覆されてゆくうちに、ついには飽くことを知らぬ憎悪の深淵を生みだしたわけです。

この一見うまく行っていそうな修道院の中にも「憎悪の深淵」があったと言うのです。

今までも長老制度について賛否があったことが書かれていましたが、それはそうとう根深いものだというのです。

だからこそ、多くの人が長老の遺体から腐臭を、それもこんなに早く(なにしろ、死後まだ一日も経過しなかったのだから)嗅ぎつけて、度はずれに喜んだのだと、わたしは思う。

またまた「わたし」です。

「わたし」の言うこの騒ぎの原因は複合的なもので、それらが同時に影響を与えたというのはなかなか合理的な理由だと思います。

まさに、そういうこともありえるのではないかと思います。

長老に心服し、これまで尊敬してきた人々の中からも同様に、この出来事によって自分が侮辱され、傷つけられたにひとしいと感ずる者も、さっそくあらわれました。


事件の推移は次のようなものでした。


2017年12月28日木曜日

637

というわけで、話に戻ります。

これは、語り手が「話に戻ろう」と書いているのです。

あまり、語り手が表に出てくると、私の文章との区別がつかなくなってきますね。

続けます。(←これはわたし)

まだ夜の明けぬうち、埋葬の支度のととのった長老の遺体を柩に納め、かつて接客用だったとっつきの部屋に運びだしたとき、柩に付き添っていた人々の間に、部屋の窓を開けなくてよいだろうかという疑問が、ふと生じかけました。

しかし、だれかが何の気なしにふと口に出したこの疑問は、返事もないまま、ほとんど気にもかけずにききすてられました。

ききとがめた者があったとしても、そこに居合わせた者のうち何人かが、心の内でそう思ったにすぎなかったし、それも、そんな疑問を口に出した人間の信仰不足と不謹慎さたるや、嘲笑とまでゆかなくとも同情に値するほどだ、といった意味でしかありませんでした。

その疑問というのは、実際に口に出されたのですね、そして、無視されたということですが、この辺の微妙な感情をちきんと描写していますね。

それというのも、人々が期待していたのは、正反対のことだったからです。

ところが午後に入るとすぐ、ある事態が生じはじめました。

出入りする人々は最初のうちもっぱら無言で心ひそかにそれを受けとめ、だれもが心に生れかけた考えを人に告げることを明らかに恐れてさえいる様子でしたが、午後三時ころまでには事態はもはや否定しえぬほど明白なものとなったため、この知らせはたちまち僧庵全体や、僧庵を訪れたすべての信者たちの間に広まり、時を移さず修道院にも伝わって、修道院の人々みんなを仰天させ、ついには、ごく短い時間のうちに町にまで達して、信者たると不信者たるを問わず、町じゅうの人間を興奮させるにいたりました。

不信者は大喜びしましたが、信者たちはどうかと言うと、彼らのうちにも不信者以上に喜んだ連中もいました。

それというのも、物故した当の長老がかつてある説教で述べたとおり、『人々は心正しき者の堕落と恥辱を好む』からにほかならない。

その事態とは、ほかでもない、柩から少しずつではあるが、時間がたつにつれてますます顕著に腐臭が立ちのぼりはじめ、午後三時ころまでにはそれがもはやあまりにも明らかになって、しだいに強烈さを増してきたことです。

この出来事の直後に修道僧たちの間にさえ見られた、ほかの場合には決してありえぬような、はしたないほど慎みを忘れた罪深い騒ぎは、たえて久しくなかったものでしたし、修道院の過去の歴史をふりかえっても思い起すことさえできぬくらいでした。

後日、それもすでに何年もたってから、分別をそなえた一部の修道僧たちが、この一日のことを詳細に回顧して、いったいどうしてこのときの罪深い騒ぎがこんなにまでなったのかと、ふしぎがり、慄然としたものです。

なぜなら、以前にも、きわめて正しい生活を送り、その正しさをあらゆる人に認められていたような修道僧や、敬神の念あつい長老たちが死んだとき、そのつつましい柩から、ごく当然のことながらすべての死者の場合と同じように腐臭が発したことはあったのですが、こんな罪深い騒ぎはおろか、些細な動揺さえひき起さなかったからです。

ここでは、腐臭が発生したということではなく、そのことによる修道僧たちの騒ぎが未だかつてなかったこととして焦点があてられていますね。

どうしてそのような騒ぎになったのかはよくわかりませんが、その時の時代の空気や町の空気や修道院内の空気の中に騒ぎを生じさせる何かがあったのでしょう、つまりタガが外れてしまったのですね。


もちろん、この修道院にも、ずっと昔に亡くなった修道僧たちの中には、いまだに修道院じゅうに生きいきと思い出が保たれており、しかも語り伝えによれば、遺体が腐臭を示さなかった人も何人かあって、そのことは修道僧たちに感動にみちた神秘的な影響を与え、なにか荘厳な奇蹟的なこととして、さらにはまた、いったん神の意志によってその時が訪れたなら、将来いっそう大きな栄誉がその墓所から現われるという聖なる約束として、人々の記憶に保たれつづけてきました。


2017年12月27日水曜日

636

その間にも時がたち、故人をしのぶ修道院の勤行と追善ミサは順序正しく行われていました。

「パイーシイ神父」は柩のわきの「イォシフ神父」とふたたび交替し、また福音書の朗読を受けつぎました。

しかし、まだ午後三時もまわらぬうちに、わたしがすでに前の編の終りで触れておいた事態が生じたのでした。

ここで久しぶりに語り手が「わたし」という言葉を使ってあからさまに文章の上に登場してきました。

この「わたし」の出現は突然ですのでかなりのインパクトがありますが、さらに「前の編の終り」という小説の体裁上の具体的な指示までしていますので、これはたいへんなことだろうというふうに読者は思いますね。

それはだれ一人予想もせぬ事態で、みなの期待に真向から反したため、くりかえして言うが、この出来事をめぐる詳細なむなしい話が、この町や近郷一帯でいまだにきわめて生きいきと思いだされるほどなのです。

ここでもう一度、わたしの個人的な意見を付け加えておきましょう。

さらにまた、「わたし」が顔を出しましたね、一体どうしたというのでしょう。

さらっと書き流すことはできると思いますが、こうして「わたし」が出てくるのはどうしてでしょう、ひっかかります。

人を惑わせるようなむなしい、そして本質的にはごく当り前の下らぬ、こんな出来事を思いだすのは、わたしにとっては不快と言ってもよいくらいなので、もしこの事件がわたしの物語の、たとえ未来の(五字の上に傍点)とはいえ、主人公である「アリョーシャ」の魂と心に、ある強烈な影響を与え、心の内にいわば一大転換と変革を起させて、理性を揺すぶり、それでいながら彼の理性を、生涯、一定の目的に向けて、もはや最終的に固めた、ということさえなかったら、もちろんこの物語の中でこんな事件には全然触れずにすましたいところなのです。

ここでさらに二度も「わたし」が登場し、著者はさらに決定的なことを言っていると思います。

むなしくて下らぬ出来事というのは、小見出しにあったように「ゾシマ長老」の腐臭のことだと思いますが、著者の「わたし」は本当はこんなことを実際に書きたくなかったのでしょう。

著者つまり「わたし」は読者がこれを読んで不快感を抱くことを知っており、しかし書いた以上はそのことに意味をもたせるためにこの文章を加えたのではないでしょうか。

この書き方は、小説のはじめに触れられていた「もうひとつの小説」、つまり十三年後の後編と言える「もっと重要な小説」の種明かしにもなっているのではないかと思います。

それは、主人公が「アリョーシャ」であること、そして彼がこの腐臭の件で何らかの影響を受けて、一定の目的に向けて心の内にいわば一大転換と変革を起こしたということです。

これを勝手に予想し拡大解釈すれば、「アリョーシャ」が唯物論的なことに目覚め、革命を目指したということなのかもしれません。


しかし、ここでそんな将来の小説の構想を読者にばらすくらいなら、この腐臭の一件は書かなければいいと思うのですが、もしかしてもう書いてしまって書き直すことができなかったのかもしれないとも考えられますね。


2017年12月26日火曜日

635

一方「ラキーチン」はと言えば、あとでわかったことですが、彼がこんなに早々と僧庵に姿を現わしたのは、「ホフラコワ夫人」の特別の頼みによってでした。

この善良だが定見のない女性は、自分が僧庵に入れてもらうわけにゆかぬため、朝起きて、長老の死を知るやいなや、矢も楯もたまらぬほどの好奇心に突然つらぬかれ、ただちに自分の代りに「ラキーチン」を僧庵に送りこんで、彼にすべてを観察させ、そこで起るあらゆること(十一字の上に傍点)をほぼ三十分ごとに、手紙ですぐに報告させることにしたのです。

(634)で「ラキーチン」の好奇心と書きましたが、そうではなくて「ホフラコワ夫人」の好奇心なのですね。

三十分ごととは、おどろきますが、別に誰かを通信役として雇っていたのでしょうか。

そんなに頻繁に連絡を取り、情報を早く知る必要があるのかと思いますが。

彼女は「ラキーチン」をきわめて敬虔な、信心深い青年と見なしていました–それくらいこの青年は、あらゆる人とうまく付き合って、少しでも自分の利益になる相手と見れば、その人の望みどおりの人間になってみせるすべを心得ていたのです。

晴れわたった明るい日だったので、つめかけた信者たちの多くは、僧庵じゅうに散在している墓のまわりにも、また会堂の周囲にいちばん数多く集まっている墓のあたりにも、群がっていました。

僧庵の中をまわっているうちに、「パイーシイ神父」ふいに「アリョーシャ」のことを、もう永いこと、ほとんど昨夜以来ずっと彼の姿を見ていないことを、思いだしました。

思いだしたとたん、その「アリョーシャ」が僧庵のいちばんはずれの一隅の、塀のわきにある、数々の偉業で有名な、昔死んださる修道僧の墓石に腰かけているのを見つけました。

「アリョーシャ」は僧庵に背を向け、塀の方を向いて、石碑のかげに隠れるように坐っていました。

そばまで行って、「パイーシイ神父」は、彼が両手で顔を覆い、声こそたてぬが、嗚咽に全身をふるわせながら悲痛に泣いているのに気づきました。

「パイーシイ神父」はのぞきこむような姿勢でしばらくたたずんでいました。

「もうよい、忰や、もうよい」

万感をこめてやっと神父は言いました。

「どうした? 泣いたりせず、喜ぶがよい。それとも、今日があのお方のもっとも偉大な日であることが、わからぬのか? 今この瞬間、あのお方がどこにおられるか、それを思いだすがよい!」

「アリョーシャ」は幼い子供のように泣きはらした顔から手をどけて神父を見ようとしかけましたが、すぐにまた一言もしゃべらずに、両手で顔を覆いました。

「いや、それでよいのかもしれぬ」

考えこむように「パイーシイ神父」は言いました。

「泣くのもよいだろう。その涙はキリストがお遣わしになったのだよ。『万感あふれるお前の涙は魂の休息にすぎぬが、お前のやさしい心を晴らすには役立つだろうからな』」

「アリョーシャ」をいとおしく思い、そばを離れながら、これはもはや心の中で彼は言い添えました。

そのくせ、彼はなるべく急いでそばを離れました。

それというのも、「アリョーシャ」を見ているうちに、自分まで泣きだしそうなのを感じたからです。


「パイーシイ神父」は(634)で書かれていたように「心の奥底ではひそかに、興奮している人々とほとんど同じことを期待していた」り、泣いている「アリョーシャ」を見て泣きそうになったりと、聖職にありながらも人間的なところがある人物というふうに描かれていますね。


2017年12月25日月曜日

634

すっかり夜が明けてしまうと、町からはもう病人や特に子供を連れたような人たちまで、つめかけてくるようになりました–まるで、自分たちの信仰から言っても、すみやかな治癒の力が即刻あらわれぬはずはないと期待しているらしく、そのためにわざわざこの瞬間を待ち受けていたかのようでした。

ここにいたってはじめて、この町のだれもが今はなき長老を、生前からどれほど疑いもなく偉大な聖者と見なすことに慣れていたかが明らかになったのです。

それに、押しかけてきた人々の間には、決して無知な民衆とばかり言えぬような人たちの姿も見られました。

これほど性急に、露骨に示された信者たちの大きな期待は、苛立たしさと、要求に近い気持さえ、そこにこめられていたため、「パイーシイ神父」には、たとえずっと以前から予感していたとはいえ、実際には予想を上まわるほどの、明らかな罪への誘惑と思われました。

これはどういうことなのでしょうか、つまり「パイーシイ神父」は信者たちのこれらの期待や要求を罪だと思っているということですね。

つまり、こうした期待や要求はしてはならいことだと。

興奮した修道僧と顔を合わせるたびに、「パイーシイ神父」は小言さえ言うようになりました。

「偉大なことをそのように、あまり性急に期待するのは、俗世の人々にのみ許される軽率な振舞いで、われわれにはあるまじきことですぞ」

しかし、そんな言葉などほとんど耳をかしてもらえなかったし、「パイーシイ神父」も不安な気持でそれに気づきました。

とはいうものの、彼自身でさえ(正直に思いだしてみれば)、あまりにも性急な期待に憤慨し、そこに軽率さとむなしさを見たとはいえ、心の奥底ではひそかに、興奮している人々とほとんど同じことを期待していたのであり、それは自分でも認めざるをえませんでした。

にもかかわらず、一種の予感から大きな疑念を心にひき起すような出会いもいくつかあり、それが特に不快でした。

故人の庵室につめかけた群衆の中に見いだして、彼が精神的な嫌悪をおぼえたのは(そんな自分をすぐに非難はしたけれど)、たとえば「ラキーチン」とか、あるいは遠来の客で相変わらず修道院に逗留しているオブドールスクの修道僧とかいう存在で、二人とも「パイーシイ神父」はなぜか突然うさんくさい人物と見なしたのです。

なぜ、「ラキーチン」とオブドールスクの修道僧の二人が名指しされたのでしょうか、それは彼らのひとくせありそうな好奇心ではないでしょうか。

もっとも、その意味で目をつけるべき人物は、この二人に限らなかったのですが。

オブドールスクの修道僧は興奮した人々の中でもいちばんそわそわした姿が目立ち、いたることろ、あらゆる場所でその姿が目につきました。

行く先々で彼は根掘り葉掘りだずね、行く先々できき耳をたて、行く先々でなにやら特に秘密めかしい様子でささやき合っていました。

その表情はこの上なく苛立たしげで、これほど期待しているものがなかなか実現せぬことに苛立っているかのようでした。


さらっと書いていますが、こんな見過ごしてしまいそうな、つまり書かないで飛ばしてしまいそうなことに何となく読者が納得できるような意味付けをほどこしているのはお見事ですね。


2017年12月24日日曜日

633

第三部

第七編 アリョーシャ

一 腐臭

永眠したスマヒ僧ゾシマ長老の遺体は、定められた儀式にのっとって埋葬の準備がすすめられました。

周知のように、修道僧やスマヒ僧が死んでも、湯灌はしないことになっています。

『修道僧たる者が主の身許に召されたときは(と大式典礼文に記されている)、役にある修道僧(つまり指名された者)が、まず唇で(つまり海綿で)、故人の額、胸、両手、両足、両膝に十字を切りながら、遺体を温湯でぬぐい、それ以上何もしてはならない』

長老に対しては「パイーシイ神父」がみずから、これらすべてを行いました。

湯でぬぐったあと、修道僧の礼服を着せ、長いマントで包みました。

十字の形にマントを巻きつけるため、規則どおり、マントに鋏を少し入れました。

頭にはギリシャ十字架(訳注 ギリシャ正教で一般に用いられるもので、『横三本のうち一番下が右下がりの十字架』の形。上の横線はキリストが磔になったときにつけれれた罪状の札、下の斜線はキリストの足台を意味する)のついた頭巾をかぶせたが、頭巾は前を開けたままにして、個人の顔は黒い聖餐布で覆われました。

両手には救世主の聖像を抱かせました。

こういう姿のまま、朝方近く遺体は、すでにだいぶ前から用意されていた柩に移されました。

作者が何らかの文献を見て記述しているのでしょうが、ここまで遺体の処理について微細に描写しなければならないものでしょうかと少し不思議に思います。

柩はまる一日、庵室に(今は亡き長老が修道僧や俗界の人々と面会した、例のとっつきの広い部屋である)、安置されることになっていました。

故人の僧位がスマヒ僧だったため、司祭修道士や補祭たちは詩篇ではなく、福音書を読まねばなりませんでした。

追善ミサがすむと、すぐに「イォシフ神父」が朗読をはじめました。

「パイーシイ神父」も、あとでみずから終日終夜、朗読するつもりでいましたが、さしあたり僧庵の司祭主任とともにひどく忙しく、それに気がかりでもありました。

それというのも、修道僧たちの間にも、修道院の宿坊や町からどっと押しかけた俗界の人々の間にも、何やら異常な、前代未聞の《不謹慎》とさえ言える動揺と、性急な期待とが突然あらわれて、時を追うごとにますますいちじるしくなってきたからでした。

司祭主任も「パイーシイ神父」も、ひどくざわざわと動揺している人々を鎮めるのに、精いっぱいの努力を傾けました。

「何やら異常な、前代未聞の《不謹慎》とさえ言える動揺と、性急な期待」というのはこれから起こるかもしれない奇跡の到来なのでしょうが、詳しいことはこれからわかります。


そういうこともあり町の人にとっては、そして修道院の中にも、まるで「ゾシマ長老」の死が喜ばしいことのように思われるような風潮があったように思えます。



2017年12月23日土曜日

632

アレクセイ・カラマーゾフの手記はここで終っています。

くりかえして言うが、これは完全なものではなく、断片的なものです。

たとえば、伝記的資料にしても、長老の青春時代のごく初期を含むにすぎません。

また長老の説教や見解から、明らかにさまざまな時期に、いろいろな動機から語られたと見られるものが、一つのまとまったもののように集められています。

いずれにせよ、長老が生涯の最後の数時間に語ったことは、正確に指定されておらず、アレクセイ・カラマーゾフが以前の説教から手記に収めた部分と対比すれば、その法話の性格や真髄について概念が得られるというにすぎません。

ところで長老の死は、まったくふいに訪れました。

なぜなら、この最後の晩、長老のもとに集まった人はすべて、長老の死が間近であることを承知してはいたものの、まさかこんなに突然それが訪れようなどと予想もできなかったからです。

むしろ反対に、すでに述べたとおり、友人たちは、その晩の長老がきわめて元気で雄弁そうなのを見て、たとえしばらくの間にすぎぬとはいえ、病状が見に見えて好転したと思いこんだほどでした。

あとでふしぎそうに伝えられた話によると、死の五分前でさえ、何一つまだ予想できなかったといいます。

長老は突然はげしい痛みを胸に感じた様子で、蒼白になり、両手をぎゅっと胸にあてました。

それを見てみなが席を立ち、長老のそばに駆けよりました。

しかし、長老は苦しみながら、なおも微笑をうかべて一同を眺めやり、静かに肘掛椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、大地にひれ伏し、両手をひろげ、喜ばしい歓喜に包まれたかのように大地に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引きとったのでした。

長老逝去の知らせはただちに僧庵にひろまり、修道院にも達しました。

故人と親しかった人々や、役職からみてふさわしい人々が古式にのっとって遺体に装束を着せにかかり、修道僧はみな会堂に集まりました。

のちに噂できいた話ですが、逝去の報は夜明け前にすでに町に達していたといいます。

朝までにはほとんど全市がこの出来事を話題にし、大勢の市民が修道院につめかけてきました。

しかし、その話は次の編で語ることにして、今はただ、ほんの一日とたたぬうちに、だれにとっても思いがけぬ事態が生じたことだけを言い添えておきましょう。

それは、修道院の内部や町じゅうにもたらした印象から言っても、きわめて異様な、不安な、辻褄の合わぬ事態だったため、何年もたった現在でも、多くの人々にとって実に不安だったその一日の思い出が、この町に生きいきと残っているほどなのです・・・・

「ゾシマ長老」は亡くなりました。

理想的な死というものがあるとすれば、彼の死はそうであったと思います。


しかしこの語り手は読者の注意を最大限に集めたうえ、次の第三部に引き連れていくのですね。



2017年12月22日金曜日

631

しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶことだろう。

なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。

それに、この精神的苦痛というやつは取り除くこともできない。

なぜなら、この苦痛は外的なものではなく、内部に存するからである。

また、かりに取り除くことができたとしても、そのためにいっそう不幸になると思う。

なぜなら、たとえ天国にいる行い正しい人々が、彼らの苦しみを見て、赦してくれ、限りない愛情によって招いてくれたとしても、ほかならぬそのことで彼らの苦しみはいっそう増すにちがいないからだ。

なぜなら、それに報いうる実行的な、感謝の愛を渇望する炎が彼らの胸にかきたてられても、その愛はもはや不可能だからである。

それにしても、臆病な心でわたしは思うのだが、不可能であるというこの自覚こそ、最後には、苦痛の軽減に役立つはずである。

なぜなら、返すことはできぬと知りながら、正しい人の愛を受け入れてこそ、その従順さと謙虚な行為の内に、地上にいたときには軽蔑していたあの実行的な愛の面影ともいうべきものや、それに似た行為らしきものを、ついに見いだすはずだからである・・・・諸兄よ、わたしはこれを明確に言えないのが残念だ。

だが、地上でわれとわが身を滅ぼした者は嘆かわしい。

自殺者は嘆かわしい!

これ以上に不幸な者はもはやありえないと思う。

彼らのことを神に祈るのは罪悪であると人は言うし、教会も表向きは彼らをしりぞけているかのようであるが、わたしは心ひそかに、彼らのために祈ることも差支えあるまいと思っている。

愛に対してキリストもまさか怒りはせぬだろう。

このような人々のことを、わたしは一生を通じて心ひそかに祈ってきた。

神父諸師よ、わたしはそれを告白する、そして今でも毎日祈っているのだ。

ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明確に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。

サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。

こういう人にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。

なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。

ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。

それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らによびかける神を呪う。

生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。

そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。

しかし、死はえられないだろう。

突然ですが、ここまでで「アレクセイ」が書いた「ゾシマ長老」の手記は終わりです。

今までもそうでしたが、「なぜなら」という言葉がより頻繁に出てきて説明しようとしていますが、わたしにはいまひとつ理解できないです。

まず、精神的な苦痛の方が肉体的な苦痛より大きいと言っています。

そして、それは後戻りできない、取り返しのつかないとこだと言うのですが、「ゾシマ長老」は独自の解釈をして、ちょっと曖昧な表現ですが後からでもそうした方が苦痛は軽減されると言っています。

彼は「臆病な心でわたしは思うのだが」とか「わたしはこれを明確に言えないのが残念だ」とか言って、教義に反するように自分の考えを述べています。

そしてさらに彼は、自殺者やサタンの精神に共鳴した人々のためにも「今でも毎日祈っている」と言っています。

これらはキリスト教からはみ出る行為ではないでしょうか。

おそらくそういうことが「ゾシマ長老」のすばらしいところかもしれません。


この手記も変なところで急に終わっていますが「アレクセイ」はこれ以上のことをあえて書かなかったのかもしれませんね。



2017年12月21日木曜日

630

(I)地獄と地獄の火について。神秘的な考察

神父諸師よ、『地獄とは何か?』とわたしは考え、『もはや二度と愛することができぬという苦しみ』であると判断する。

かつて、時間によっても空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的存在が、地上へ出現したことによって『われ存す、ゆえに愛す』と自分自身に言う能力を与えられた。

そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。

地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた。

それなのに、どうだろう、この幸福な存在は限りなく貴いその贈り物をしりぞけ、ありがたいとも思わず、好きにもならずに、嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった。

このような者でも、すでにこの地上から去ってしまえば金持とラザロの寓話(訳注 ルカによる福音書第十六章)に示されているように、アブラハムの懐も拝めるし、アブラハムと話もする。

『ルカによる福音書』の第十六章の後半部分です。

「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

これを読んでも、一部分ですのでわかりにくいです。

「ゾシマ長老」の話は、聖書に関する一般的な知識がなければわかりませんね。

天国も観察し、主の御許にのぼることもできる。

しかし、愛したことのない自分が主の御許にのぼり、愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接触するという、まさにそのことで彼は苦しむのである。

なぜなら、このときには開眼して、もはや自分自身にこう言えるからだ。

『今こそ思い知った。たとえ愛そうと望んでも、もはやわたしの愛には功績もないし、犠牲もないだろう。地上の生活が終ったからだ。地上にいたときにはばかにしていた、精神的な愛を渇望する炎が、今この胸に燃えさかっているというのに、たとえ一滴の生ある水によってでも(つまり、かつての実行的な地上生活の贈り物によってでも)、それを消しとめるためにアブラハムは来てはくれない。もはや生活はないのだし、時間も二度と訪れないだろう! 他人のために自分の生命を喜んで捧げたいところなのに、もはやそれもできないのだ。なぜなら、愛の犠牲に捧げることのできたあの生活は、すでに過ぎ去ってしまい、今やあの生活とこの暮しの間には深淵が横たわっているからだ』

地獄の物質的な火を云々する人がいるがわたしはその神秘を究めるつもりもないし、また恐ろしくもある。


ここで切ります。


2017年12月20日水曜日

629

もし自分が罪を犯し、おのれの罪業や、ふと思いがけず犯した罪のことで死ぬまで悲しむようであれば、他の人のために喜ぶがよい。

正しい人のために喜び、たとえお前が罪を犯したにせよ、その人が代りに行いを正しくし、罪を犯さずにいてくれたことを喜ぶがよい。

ここもわからないのですが、行いが正しく、罪を犯さない「他の人」とは誰のことでしょうか。

やはり、キリストのことでしょうか。

もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったなら、何よりもその感情を恐れるがよい。

そのときは、他人のその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。

苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪のあることがわかるだろう。

なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ。

光を与えてさえいれば、他の人々にもその光で道を照らしてやれたはずだし、悪行をした者もお前の光の下でなら、悪行を働かずにすんだかもしれない。

また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。

かりに今救われぬとしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。

あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。

なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。

行い正しき人が世を去っても、光はあとに残るのである。

人々が救われるのは、常に救い主の死後である。

人類は預言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。

お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。

決して褒美を求めてはならない。

なぜなら、それでなくてさえお前にはこの地上ですでに褒美が与えられているからだ。

行い正しき人のみが獲得しうる、精神的な喜びがそれである。

地位高き者をも、力強き者をも恐れてはならぬ、だが賢明で、常に心美しくあらねばならぬ。

節度を知り、時期を知ること、それを学ぶがよい。

孤独におかれたならば、祈ることだ。

大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。

大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい、あらゆる人を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。

喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。

その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。

なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にではなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。

「選ばれた者」という言葉が出て来ましたが、キリスト教とは「選ばれた者」という意識なのですね。

もともと選ばれなかった者との意識上の違いがすでにここにあるのです。


ここで区切りなので切ります。