2018年1月31日水曜日

671

最後の言葉を彼女はヒステリックに叫びましたが、ふたたびこらえきれなくなり、両手で顔を覆って、枕に突っ伏すと、またしても嗚咽に身をふるわせました。

「ラキーチン」が席を立ちました。

「そろそろ時間だぜ」

彼は言いました。

「もう遅いよ、修道院に入れてもらえなくなるぞ」

「グルーシェニカ」ははじかれたように起き上がりました。

「ほんとに帰ってしまうつもり、アリョーシャ!」

彼女は悲痛なおどろきにかられて叫びました。

「今になってあたしになんてことをしてくれるの。あたしの心によびかけ、悩み苦しめたあげく、今またあんな夜がくるなんて、また一人ぼっちにされるなんて!」

この時、「グルーシェニカ」は、男のところへは行かないという決心をしていたようですね、またはモークロエからの使いが来ないかもしれないと思っていたのでしょう。

「だって、こいつが君のとこに泊るわけにもゆくまい! ま、本人が望むんなら、かまわんけど! 俺は一人で帰るよ!」

「ラキーチン」が毒のある冗談を言いました。

「黙りなさいよ、意地わる!」

「グルーシェニカ」が激怒してどなりつけました。

「あんたなんか、この人がわざわざ言いに来てくれたような言葉を、一度だって口にしたことがないじゃないの」

「こいつが何を言ってくれたんだい?」

「ラキーチン」は苛立たしげにつぶやきました。

「知らない、わからないわ、この人が何を言ってくれたか、あたしには何もわからない。でも、心で感じたのよ、この人はあたしの心をひっくり返してしまったの・・・・この人はあたしを憐れんでくれた最初の人よ、たった一人の人、そうなのよ! なぜ今まで来てくれなかったの、あたしの天使」

ふいに彼女はわれを失ったかのように、彼の前にひざまずきました。

「あたし、これまでずっと、あなたのような人を待っていたのよ。だれかそういう人が来て、あたしを赦してくれるって、知っていたわ。あたしみたいな汚れた女でも、きっとだれかが愛してくれるって、信じていたのよ、淫らな目的だけじゃなしに!」

「僕が何をしてあげたというんです?」

感動の微笑をうかべながら、「アリョーシャ」は彼女のほうに身をかがめ、やさしく両手をとって答えました。

「僕はあなたに一本の葱をあげただけですよ、ごく小さな葱をね、それだけ、それだけですよ!」

葱とはここでは愛のことですが、愛は葱のように見回せばその辺にあるということなのかもしれません。


こう言い終ると、彼自身も泣きだしました。


2018年1月30日火曜日

670

「まだ心が赦すつもりになっているだけかもしれないわ。これからその心と戦うのよ。あのね、アリョーシャ、あたしは五年前の涙をとても好きになったわ・・・・ことによると、あたしが好きになったのは、自分の受けた侮辱だけで、あの男なんぞじゃ全然ないかもしれないわね」

「グルーシェニカ」は、赦すつもりになっているらしい自分の心とこれから戦うというのですが、戦うのは自分の中にある絶対に赦さないという意志とか精神とかであり、それらが心と区別されているのがおもしろいですね。

そして、「ことによると、あたしが好きになったのは、自分の受けた侮辱だけ・・・・」というのは、複雑な自己愛のあり方ですね。

人間の内面は複雑で言葉で表すのは限界がありますし、しかも一箇所にとどまらずたえず変化しますのでなおさらです。

「俺ならそんな男の役割はごめんこうむりたいね!」

「ラキーチン」がうそぶきました。

「心配ご無用よ、ラキートカ、あんたがそんな役割をすることなんか決してないから。あんたはあたしの靴でも縫うんだわね、ラキートカ、そういう仕事になら使ってあげるわ。あたしみたいな女を、あんたなんぞ、決して拝めやしないんだから・・・・あの男だって、ことによると、拝めないかもしれないんだし・・・・」

「あの男もかい? それじゃ、そのおめかしは何のためだい?」

「ラキーチン」が嫌味たっぷりにからかいました。

「服装のことをとやかく言わないでよ、ラキートカ、あんたなんか、まだあたしの心をすっかりわかってないんだから! その気になれば、こんな服なんぞ破いてしまうわ、今すぐ、たた今だって引き裂いてみせる」

彼女は甲高い声で叫びました。

「このおめかしが何のためか、あんたにはわからないのよ、ラキートカ! もしかすると、あたし彼の前に出て、こう言うかもしれなくってよ。『こんなあたしを見たことがあった、ないでしょう?』だってあの男が棄てたときのあたしは十七で、細っぴいで腺病質の泣き虫だったんだもの。そうよ、あたしあの男のそばに坐って、せいぜい魅力をふりまいて、気持をあおりたててから、『今のあたしがどんな女か、わかったでしょう、でもそれでおしまいよ、お気の毒さま。ご馳走は匂いだけで、口には入りませんからね』と言ってやるわ。このおめかしは、そのためかもしれないじゃないの、ラキートカ」

この彼女の発言もはっきりとそうすると言い切っているのではなく、自分がまだどうすればいいのか決まってないので、疑問形になっていますね。

しかし、表と裏の両方の場合を想定していますからたいしたものです。

「グルーシェニカ」は憎しみのこもった笑いとともに言い終えました。

「あたしって気違いじみているわね、アリョーシャ、気性のはげしい女ね。こんな服は引き裂いて、自分を、この美しさを片輪にして、顔を焼くなり、ナイフで傷つけるなりして、乞食になってやるわ。その気になれば、今からだってあたし、どこへも、だれのところへも行かないし、その気にさえなれば、サムソーノフのくれたものやお金を全部、明日にでも送り返して、一生雇い女になってみせるわ? あたしがそんなことするはずないと思っているのね、ラキートカ、そんなことをする勇気がないと? するわよ、やってみせるわ、今すぐだってやれるのよ、ただあたしを苛立たせないで・・・・あんな男、追い返してやる、赤んべをしてやるわ、あんな男に会ってやるもんですか!」


ここまで言うとは彼女の激しさも極まっていますね。


2018年1月29日月曜日

669

「ラキーチン」は憎しみに燃えていたにもかかわらず、びっくりして眺めました。

もの静かな「アリョーシャ」にこんな弁舌は、ついぞ予期していませんでした。

「たいした弁護士が現れたもんだ! 君は彼女に惚れたな、え? アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ、苦行僧さんが本当に君に惚れちまったぜ、君の勝ちだよ!」

厚かましい笑い声をたてて彼は叫んだ。

「グルーシェニカ」は枕から頭を起すと、今しがたの涙でなにかふいに腫れぼったくなった顔に感動の微笑をかがやかせて、「アリョーシャ」を見つめました。

「アリョーシャ、あたしの天使、そんな男は放っときなさいよ。ほんとになんて人かしら、こともあろうに、あなたにあんなことを言うなんて。あたしはね、ミハイル・オーシポウィチ(訳注 他人行儀になった感じ)」

彼女は「ラキーチン」に向き直りました。

「あんたに悪口を言ったのをあやまるつもりになりかけていたけど、これじゃまたいやだわ。アリョーシャ、あたしのそばに来て。ここにおかけなさいよ」

嬉しそうな笑顔で、彼女は「アリョーシャ」を招きました。

「そう、ここにお坐りなさいな、そしてあたしに教えて(彼女はアリョーシャの手をとり、ほほえみながら、顔をのぞきこんだ)。あたしに教えてちょうだい、あたしはあの男を愛しているのかしら? あたしを棄てた男を愛しているのかしら、いないのかしら? あなたたちの来る前、あたしはここの暗闇に横になって、ずっとこの心にたずねていたのよ。あの男を愛しているかどうかって。あなたがこの迷いを解いて、アリョーシャ。とうとうその時がやってきたのよ。あなたの決めたとおりにするわ。彼を赦すべきかしら、どうかしら?」

「だってもう赦してるじゃありませんか」

にっこりして「アリョーシャ」が言いました。

「じゃ、本当に赦してしまったのね」

「グルーシェニカ」は考えこむように言いました。

「なんて卑屈な心なんだろう! あたしの卑屈な心に乾杯!」

彼女は突然テーブルの上のグラスをつかんで、一気に飲み干すと、グラスをふりあげて、力まかせに床にたたきつけました。

グラスは粉々に割れて、派手な音をたてました。

彼女は泣いたり笑ったりと激しい気性ではありますがここまでやるとは思ってもみませんでした、テレビや映画ではよくあるのですが、現実にはまだお目にかかったことのないシーンです。

彼女の微笑に何か冷酷な影がちらとよぎりました。

「でも、もしかしたら、まだ赦していないかもしれなくてよ」


まるで自分と対話するかのように、目を地面におとしたまま、彼女は何か凄味のある口調でつぶやきました。


2018年1月28日日曜日

668

「アリョーシャ」は席を立って、「ラキーチン」に歩みよりました。

「ミーシャ」彼は言いました。

「怒らないでね。君はこの人に侮辱されたけど、怒らないでほしい。今の話をきいただろう? 人間の魂にそれほど多くのことを求めてはいけないよ、もっと寛容にならなければ・・・・」

「アリョーシャ」は抑えきれぬ心の衝動にかられて、こう口走りました。

自分の考えを述べずにはいられなかったので「ラキーチン」に話しかけたのでした。

この補足的な一文がなければ、「アリョーシャ」が「・・・・ふいにこらえきれなくなって、しまいまで言い終えずに、両手で顔を覆い、ソファの上の枕に身を投げだして、幼い子供のように泣きだし」た「グルーシェニカ」の方に行かずに、「ラキーチン」の方に歩み寄って言葉を発した彼の行動が不可解になりますね。

もし「ラキーチン」がいなければ、一人ででも叫んだにちがいありません。

しかし、「ラキーチン」が嘲るように見つめたので、「アリョーシャ」はふいに絶句しました。

「君はさっき長老という弾丸をこめてもらったんで、今度はそいつを俺に発射したってわけか、アリョーシャ、君は神の人だよ」

憎さげな笑いをうかべて、「ラキーチン」が言い放ちました。

「笑わないでくれ、ラキーチン、嘲笑うのはよせよ、故人のことなぞ言わないでほしいね。あの人はこの世のだれよりも偉い人だったんだから!」

声に涙を含ませて「アリョーシャ」は叫びました。

「僕は裁き手として君に話をするために立ったわけじゃないんだ。僕自身、裁かれる者の中で最低の人間だもの。この人にくらべたら、僕なぞ何者だろう? 僕がここへ来たのは、堕落してそれでも『かまうもんか、かまうもんか!』と言うためだったんだ。それも僕の浅はかさからだ。ところがこの人は、五年間の苦しみをへながら、だれかがはじめて訪ねてきて誠実な言葉を言ってくれたというだけで、すべてを赦し、すべてを忘れて、泣いているんだよ! この人を棄てた男が戻ってきて、よびかけると、この人はその男のすべてを赦してやり、喜んでその男のもとへ急ぐんだ、ナイフなんぞ持って行きっこないさ、持って行くもんか! そう、僕にはとてもできないことだ。君がそういう人間かどうか、僕にはわからないけどね、ミーシャ、僕はとてもだめだよ! 僕は今日、たった今その教訓を得たよ・・・・この人の愛は、僕らなんぞより、すっと高潔なんだよ・・・・君だってこれまでにこの人から、今話してくれたようなことをきいたことがあるかい? ないだろう、きいてないさ・・・・きいたことがあるんだったら、とうに何もかも理解してたはずだもの・・・・それに、おととい侮辱を受けたもう一人の人にだって、この人を赦してもらうよ! 話を知れば、赦してくれるとも・・・・そしてこの話は知ってもらわなけりゃ・・・・この人の魂はまだ、なだめられていないんだから、いたわってあげなければいけないよ・・・・」

息が切れたため、「アリョーシャ」は口をつぐみました。

普通人間は行動する前に逡巡することが多く、それは失敗しないための智恵のようなものだと思いますが、何かが咄嗟に起こった時に躊躇しないで反応する人間もいます、「グルーシェニカ」はまさにその後者であって「アリョーシャ」はそのことに人間の愛の根源を見出しています。


一般に知識人は行動より頭で考えるのですが、おそらくそれはダメで精神的なものがどんどん身体化していかなければならないというのが、知識人の課題でもあるでしょう。


2018年1月27日土曜日

667

「黙りなさいよ、ラキートカ、あんたになんぞ、あたしたちのことがわかってたまるもんですか。それに、今後は気安く君(一字の上に傍点)よばわりしないでちょうだい、冗談じゃないわよ、どうしてそんなにずうずうしくなれるもんかしら、ほんとに! 召使みたいに隅に坐って、黙っているといいわ。さあ、アリョーシャ、あたしがどんな人でなしか、わかってもらうために、あなたにだけは包み隠さず本当のことを話すわ。ラキートカじゃなく、あなたに話すのよ。あたしね、アリョーシャ、あなたを破滅させる気でいたの。これは本当よ、すっかりそう決めていたわ。そうしたい一心から、あなたを連れてくるようラキートカにお金をつかませたくらいですもの。あたしがそんなに望んだ理由が、いったい何かわかって? あなたはね、アリョーシャ、何も知らなかったから、あたしに会っても顔をそむけ、目を伏せて通りすぎていたけれど、こっちはそれまでに百遍もあなたを眺めて、あなたのことをみんなからききだしにかかっていたのよ。あなたの顔が心に焼きついてしまったのね。『あの人はあたしを軽蔑して、見ようとさえしないんだ』と思ったの。しまいにはすっかりそんな感情のとりこになって、われながらおどろくほどだったわ。どうしてあんな坊やがこわいんだろう? いっそ人呑みにして、笑ってやろう、と思ったもの。すっかり腹を立てたのね。本当のことを言うと、この町ではもうだれ一人として、例のいやらしい目的であたしに近づこうなんて考えたり、言ったりする勇気はないのよ。あたしには、あのお爺さんがいるだけ。あのお爺さんとは、悪魔の取持ちで、お金で結ばれた縁だもの。その代り、ほかの男はだれも。でも、あなたを見て、あたし思ったの。食べちゃおうって。一呑みにして、笑ってやろうって。ね、あたしがどんなに性悪な犬か、わかったでしょう、そんなあたしをあなたは姉とよんでくれたんだわ! ところが今度、あたしを棄てた男が舞い戻ってきたというんで、こうして今、知らせを待っているところよ。その男があたしにとってどんな存在だったか、わかるかしら? 五年前サムソーノフにここへ連れてこられたとき、あたしはよく、こうして坐って、人に見られたり聞かれたりしないように、世間から隠れていたものだったわ。細っぴいの愚かな小娘が、坐って泣きじゃくりながら、幾夜も眠らずに考えていたものだわ。『あたしを棄てたあの男は、今どこにいるんだろう? きっと、ほかの女と二人であたしを笑いものにしてるにちがいない。そのうちいつか見つけだしたら、出会ったら、仕返ししてやる。きっと仕返ししてやるんだ!』夜中、闇の中で枕に顔をうずめて泣きながら、そればかり考え、わざと自分の心をかきむしって、憎しみで心をまぎらしていたわ。『きっと、きっと仕返ししてやる!』闇の中でそう叫びだすこともあったくらい。でも、そのうちに突然、しょせんあたしには何一つできっこない、あの男は今ごろあたしを笑っているんだ、ひょっとしたらもうすっかり忘れて覚えていないかもしれない、と思いいたると、ベッドから床に身を投げだして、無力な涙を流しながら、夜明けまでふるえていたものよ。そして朝起きるときには、犬よりもとげとげしい気持で、世界じゅうを一呑みにできたら嬉しいと思ったわ。それからどうなったと思って? あたしはお金をためはじめて、情け知らずの女になって、すっかり肥って–だから少しは利口になったと、そう思うでしょう、え? ところがそうじゃないのよ、世界じゅうでだれ一人見た人も知ってる者もいないけれど、今でもあたしは五年前の小娘のころと同じように、夜の闇がおとずれると、ときおり横になってから、歯がみをして夜どおし泣いていることがあるわ。『きっと、きっと仕返ししてやる!』と思うの。こんな話、きいたことがあった? それじゃ、今度はあたしをどう理解するかしら。実はね、ひと月前に突然あの手紙が届いたの。あの男が来るというのよ、奥さんに死なれたので、ぜひあたしに会いたいんですって。それを読んだとき、あたしは息がとまるほどだったわ。でも、ふいにこう思ったの。あの男がきて、口笛を吹いてよんだら、あたしは叱られた子犬みたいに、しおらしい様子で這いずり寄っていくんじゃないだろうかって。そう考えて、自分で自分が信じられなかったわ。『あたしは卑劣な女だろうか、卑屈じゃないだろうか、あの男のところへとんで行くだろうか、行かないだろうか?』そしたら今度は、このまるひと月というもの、自分自身に腹が立って、五年前よりももっとひどいくらいなのよ。あたしがどんなに気違いじみてるか、どれほどはげしい気性か、これでわかったでしょう、アリョーシャ、あなたには本当のことをすっかり話したのよ! ミーチャをからかったのも、あの男のところへとんで行かないためだったの。黙ってよ、ラキートカ、あんたなんぞ、あたしを裁く柄じゃないし、あんたに話したんじゃないもの。今あなたたちが来るまで、あたしはここに横になって、待ちながら考え、自分の運命を決めようとしていたのよ。あたしがどんな思いを心にいだいていたか、あなたたちには決してわかりっこない。そう、アリョーシャ、あのお嬢さんにおとといのことを怒らないでほしいって、伝えてね! 今のあたしがどんな気持か、世界じゅうのだれも知らないのよ。それにわかるはずもないし・・・・だってあたし、ことによると、今日そこへナイフを持って行くかもしれないもの、まだその決心はついていないけど・・・・」

この《いじらしい》言葉を口に出すと、「グルーシェニカ」はふいにこらえきれなくなって、しまいまで言い終えずに、両手で顔を覆い、ソファの上の枕に身を投げだして、幼い子供のように泣きだしました。

「グルーシェニカ」の率直で素直な告白をまとめれば、次のようになります。

①五年前に自分を捨てた男に仕返ししようと思って夜通し泣いていた。
②その反動で世界じゅうを笑いものにしようとお金を貯めることに執着した。
③お金は貯まったが、それでも男に仕返ししようと思いは消えなかった。
④しかし突然、男から好意的な手紙を受け取って今までの自分の心が揺らいでどうしたらいいかわからなくなった。

また、「アリョーシャ」については、自分のことを軽蔑していると思って仕返しのために呼び寄せたと。

たいへんわかりやすい心の動き、というかわかりやすく書かれていますね。


それに、おとといのことを「カテリーナ」に弁明するよう「アリョーシャ」に頼んでもいますから行き届いていますね。


2018年1月26日金曜日

666

「もちろん断わりゃせんさ」

「ラキーチン」は明らかにうろたえたものの、強がって羞恥を隠しながら、太い声で言いました。

「これでお互いにきわめて好都合ってわけだ。この世にばかが存在するのは、利口な人間を儲けさせるためだからな」

「ラキーチン」は「グルーシェニカ」のことを「ばか」とまで言ってしまいましたね。

「これで黙るのよ、ラキートカ、これからあたしの話すことはすべて、あんたにきかせるためじゃないんだから。ここの隅に坐って、黙ってなさいよ。あんたはあたしたちを愛してないんだもの、黙ってるがいいわ」

「どうして君らを愛するいわれがあるんだい?」

もはや敵意を隠そうともせず、「ラキーチン」が食ってかかりました。

二十五ルーブル紙幣はポケットに突っ込んだが、「アリョーシャ」の手前まったく恥かしく思いました。

「アリョーシャ」に知られぬよう、あとで報酬をもらうことを期待していたので、今や羞恥のあまり腹を立てていました。

今の今まで彼は、どんなに侮辱されても、あまり「グルーシェニカ」に逆らわぬほうが得策と考えていました。

というのも、彼女が自分に対して何らかの権力を持っていることが明らかだったからです。

しかし今やその彼も怒ってしまいました。

「愛するには何か理由があるものさ、ところが君ら二人が何をしてくれたって言うんだい?」

「理由がなくたって愛しなさいよ、アリョーシャの愛はそうよ」

「そいつが君を愛しているなんて、どこでわかる? 君が得意顔にひけらかすような、そんな態度でも示したのかい?」

「グルーシェニカ」は部屋の真ん中に立ち、むきになって話していました。

その声にヒステリックなひびきが感じられました。


「ラキーチン」が二十五ルーブルを受け取ったのも驚きますが、「アリョーシャ」に知られぬようにあとで報酬をもらうことを期待していたとは卑劣な行為で、こんなことを内緒にしておくなんてことはもはや友人とさえ言えないですね。


2018年1月25日木曜日

665

「あたし、ラキートカには葱をあげたことがあるなんて威張ってみせたけど、あなたには自慢しない。あなたには別の目的で話すんだわ。これはただの寓話なの、でもとてもいい寓話よ。まだ子供のころにあたし、今うちで料理人をしているマトリョーナからきいたの。あのね、こういう話。『昔むかし、一人の根性曲がりの女がいて、死んだのね。そして死んだあと、一つの善行も残らなかったので、悪魔たちはその女をつかまえて、火の池に放りこんだんですって。その女の守護天使はじっと立って、何か神さまに報告できるような善行を思いだそうと考えているうちに、やっと思いだして、神さまにこう言ったのね。あの女は野菜畑で葱を一本ぬいて、乞食にやったことがありますって。すると神さまはこう答えたんだわ。それなら、その葱をとってきて、火の池にいる女にさしのべてやるがよい。それにつかまらせて、ひっぱるのだ。もし池から女を引きだせたら、天国に入れてやるがいいし、もし葱がちぎれたら、女は今いる場所にそのまま留まらせるのだ。天使は女のところに走って、葱をさしのべてやったのね。さ、女よ、これにつかまって、ぬけでるがいい。そして天使はそろそろとひっぱりはじめたの。ところがすっかり引きあげそうになったとき、池にいたほかの罪びとたちが、女が引き上げられているのを見て、いっしょに引きだしてもらおうと、みんなして女にしがみついたんですって。ところがその女は根性曲がりなんで、足で蹴落としにかかったんだわ。「わたしが引き上げてもらってるんだよ、あんたたちじゃないんだ。これはわたしの葱だ、あんたたちのじゃないよ」女がこう言い終ったとたん、葱はぷつんとちぎれてしまったの。そして女は火の池に落ちて、いまだに燃えつづけているのよ。天使は泣きだして、立ち去ったんですって』これがその寓話よ、アリョーシャ、そらで覚えているわ、だってあたし自身が根性曲がりのその女なんですもの。ラキートカには、葱をあげたことがあるなんて威張ってみせたけど、あなたには別の言い方をするわ。あたしは一生を通じて、あとにも先にも(七字の上に傍点)その辺の葱を与えただけなの、あたしの善行はたったそれだけなのよ。だから、これからはあたしを褒めたりしないで、アリョーシャ、あたしをいい人間だなんておだてないでね。あたしは根性曲がりの、いけない女。褒めたりすれば、あたしに恥をかかせることになるわ。ああ、もうすっかり白状するわね。あのね、アリョーシャ、あたし、どうしてもあなたをここへおびき寄せたかったものだから、ラキートカにしつこく頼んで、もしあなたを連れてきたら二十五ルーブルあげるって約束したのよ。待って、ラキートカ、待ちなさいよ!」

この葱の話は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出しますね。

さっそくネットで調べて見ると、いろいろなことが書かれていました。

その中のひとつにいい説明があったので以下に紹介します。

「アメリカでオープンコートという哲学・宗教・科学の雑誌や出版物をだしている会社の主筆に、ポール・ケイラスという思想家・文筆家がいました。この人が『カルマ』という疑似インド物語を英語でかきました。この書はトルストイにもおおきな影響を与え、同じ年にトルストイはそれをロシア語訳したほどです。この中の一部に蜘蛛の糸に相当する教訓話が語られています。日本語訳は若き日の鈴木大拙がいたしました。芥川は横須賀の古本屋でその本をみて、それをもとに「蜘蛛の糸」を執筆しました。『カラマーゾフの兄弟』にも一本の葱の寓話が差し込まれていますが、ドストエフスキーは農民から聞いた民話だといっています。高年ポール・ケイラス自身も雑誌に、ドストエフスキーも同じ寓話を利用したことを書いています。このロシアの民話を、ケイラスも運営を手伝ったシカゴ世界宗教者会議で、ボルコンスキーが講演で紹介しました。この小話は、ヨーロッパ昔話のタイプ目録を検索すると、あちこちで語られていたことがわかります。世界の各地で好まれて語られていたものです。『ニルスのふしぎな旅』で有名な、レーゲリョーヴも『キリスト教伝説集』の中の一話にとりいれています。こうした世界的な視野をもってこの物語を眺めると、芥川の業績も、こうした世界各地の営みに呼応したひとつであることがわかります。だからばれるとかばれないとかの問題ではありません。」

以上です。

「グルーシェニカ」は自分は、その寓話の「根性曲がりの女」と同じで何ひとつ善行は行わなかったけれど、「あとにも先にも(七字の上に傍点)その辺の葱を与えただけなの、あたしの善行はたったそれだけなのよ。」と言っています。

この中の「その辺の葱」というのは、説明されていませんが何のことでしょうか。

「グルーシェニカ」のいいところは、「ラキートカには、葱をあげたことがあるなんて威張ってみせたけど」自分は一生を通じてあとにも先にもその辺の葱を与えただけと、葱にも優劣をつけて謙遜していることろです。

しかし、それにしても「ラキーチン」はこんなことに二十五ルーブルの賭けをしていたんですね。

またまた、評価が下がります。

彼女は足早にテーブルに歩みより、引出しを開けると、財布を取りだし、二十五ルーブル紙幣をぬきだしました。

「なんてばかな! ばかなことを言うなよ!」

面くらって「ラキーチン」が叫びました。

「受けとりなさいよ、ラキートカ。借り分だわ、まさか断わりはしないわね、自分で申し出たんだから」


こう言って彼に紙幣を放りつけました。


2018年1月24日水曜日

664

「まるで彼女が君を救ったみたいだな!」

「ラキーチン」が憎々しげに笑いだしました。

「ところが、彼女は君を一呑みにしちまうつもりだったんだぜ、そのことを知ってるのか?」

ここで使われている「一呑み」は少し後でも出てきますが実際はどういう意味なんでしょう、幅広い意味がありそうですので他の翻訳も参考にしたいものです。

「やめてよ、ラキートカ!」

ふいに「グルーシェニカ」が跳ね起きました。

「二人とも黙ってちょうだい。今こそあたし何もかも言うわ。アリョーシャ、黙って。だって、あなたのそんな言葉をきくと、あたし恥ずかしくなるもの。それというのも、あたしはいい人間じゃなく、よこしまな女だからよ、あたしはそういう人間。ラキートカ、あんたも黙って。なぜって、あんたは嘘を言ってるからよ。そりゃ、この人を一呑みにしちまおうという卑しい考えはあったけれど、今あんたの言ってることは嘘だわ。今は全然違うもの・・・・あんたの声なんぞこれ以上まるきりききたくないわ、ラキートカ!」

「グルーシェニカ」は「一呑み」にしようと思っていたけど今は違う、だから「ラキーチン」のいうことは嘘だと言っているのでしょうが、妙な理屈があったものですね。

これらすべてを「グルーシェニカ」は、異常なほど興奮して言い放ちました。

「まったく二人とも気違いだな!」

びっくりして二人を見くらべながら、「ラキーチン」がつぶやきました。

「まるで気違いだ。精神病院へ舞いこんだみたいだぜ。二人ともしおらしくなっちまって、今にも泣きだしそうじゃないか!」

「あたし泣きだすわ、本当に泣きだしそう!」

「グルーシェニカ」が口走りました。

「この人はあたしを、姉とよんでくれたのよ、あたしこのことは一生忘れない! ただ、いいこと、ラキーチン、あたしはよこしまな女ではあるけど、これでもやはり葱をあげたことがあるのよ」

「葱って、何のことだい? ふん、畜生、本当に気がふれちまったな!」

人生にめったに起らぬくらい強烈な魂を揺り動かしうることがすべて、たまたま二人の心に生じたのだと思い当ってもいいはずなのに、「ラキーチン」は二人の感激ぶりにおどろき、すっかり気をわるくしました。

普通はこのタイミングでは出てこないと思いますが、ここで語り手が出てきて、今起きていることは「人生にめったに起らぬくらい強烈な魂を揺り動かしうることがすべて、たまたま二人の心に生じた」とまで言っています。

だが、自分に関係のあることなら何でもいたって敏感に理解できる「ラキーチン」も、ある程度は若くて経験が浅いせいもあり、ある程度はたいそうなエゴイズムのせいもあって、身近な人間の感情や感覚の理解にかけてはきわめて雑でした。

ここにきて語り手は「ラキーチン」の無神経に見える態度を、若さと経験のなさということで少し弁護しているのですね。

「あのね、アリョーシャ」


突然「グルーシェニカ」が、「アリョーシャ」の方に向き直りながら、神経質な笑い声を立てました。


2018年1月23日火曜日

663

彼はテーブルに近づき、グラスをとって、一息に干すと、勝手に二杯目をつぎました。

「シャンパンとなると、そうざらにはいただけないからな」

舌なめずりしながら、彼はつぶやきました。

ここでも「ラキーチン」はかなり否定的に描かれていますね。

「さあ、アリョーシャ、グラスをとって、飲みっぷりを拝ませてくれ。何のために乾杯しようか? 天国の扉のためにするかな? グルーシェニカ、グラスをとって、君も天国の扉のために飲めよ」

「何よ、その天国の扉って?」

彼女はグラスをとりました。

アリョーシャも自分のグラスをとり、ちょっと口をつけたが、またグラスを戻しました。

「いや、やめとくほうがようさそうだ!」

彼は静かに微笑しました。

今日「ゾシマ長老」が亡くなった訳ですから、いくら平常心を失ったといってもそんなことをしちゃあダメですね。

「さんざ威張ってたくせに!」

「ラキーチン」が叫びました。

「だったら、あたしもやめるわ」

「グルーシェニカ」が調子を合わせました。

「それにほしくもないし。ラキートカ、一人で全部飲みなさいよ。アリョーシャが飲んだら、あたしも飲むわ」

「いやにやさしくなったもんだな!」

「ラキーチン」がからかいました。

「自分は膝の上にのっててさ! そいつは悲しいことがあるとしても、君はどうしたっていうんだい? そいつは神さまに謀叛を起して、ソーセージを食おうとしたんだぜ・・・・」

まだ「グルーシェニカ」は膝の上にいたのですね。

「どうしてそんなことを?」

「長老が今日死んだのさ、神聖なゾシマ長老がね」

「ゾシマ長老が亡くなったの!」

「グルーシェニカ」が叫びました。

「まあ、それなのにあたしはなんてことを。今この人の膝にのったりして!」

ふいに怯えたように叫ぶと、急いで膝からおり、ソファに坐り直しました。

「アリョーシャ」はおどろきをこめて永いこと彼女を見つめていました。

ここで、つまり「グルーシェニカ」が膝から降りたときに「アリョーシャ」の心の中で何らかの変化が起こったのですね。

この「グルーシェニカ」の瞬時の嘘偽りない行動にその誠実さを見たのでしょう。

その顔が明るくかがやきはじめたかのようでした。

「ラキーチン」

突然彼がりんとした大声で言いました。

「僕が神さまに謀叛を起したなんて、からかわないでほしいな。君に恨みをいだきたくはないから、君も好意的になってくれたまえよ。僕は、君なぞ一度も持ったことのないような宝を失ったんだから、君だって今僕を裁いたりできないはずだ。この人をもっとよく見てごらん。この人がどんなに僕を憐れんでくれたか、君も見ただろう? 僕はよこしまな魂を見いだそうとしてここへやってきたんだ。僕が卑劣な、よこしまな人間だったから、そういうものに強く惹かれたんだね、ところが僕は誠実な姉を見いだした。宝を、愛にみちた魂を見いだしたんだよ・・・・この人はたった今、僕を憐れんでくれた・・・・僕はあなたのことを言ってるんですよ、グルーシェニカ。あなたは今、僕の魂をよみがえらせてくれたんです」

ここでは「アリョーシャ」は自分自身のことを「卑劣な、よこしまな人間だった」と過去形で言っており、だからここに来たということですが、「グルーシェニカ」を見て、彼女が魂をよみがえらせてくれたと。

これはどういうことでしょう、自分の中には「卑劣な、よこしまな」部分があり、それは事実だということですね、そしてそれが愛によって払拭させることも事実としてあるということですね。

「アリョーシャ」の唇がふるえ、涙がこみあげてきました。


彼は絶句しました。


2018年1月22日月曜日

662

「これは本音だぞ」

ふいに「ラキーチン」が真顔でおどろいて口をはさみました。

「おい、アリョーシャ、彼女は本当に君を恐れてるぜ、こんな雛っ子をさ」

「そりゃ、あんたにとってこの人が雛っ子にすぎないだけよ、ラキートカ、そういうこと・・・・だって、あんたには良心てものがないもの、そうなのよ! あたしは、あたしは心底からこの人が好きだわ、そうなの! アリョーシャ、あたしは心からあなたを愛しているわ、信じてくれる?」

「おい、よせよ、恥知らずな! アレクセイ、彼女は君に恋を打ち明けてるんだぜ!」

「それがどうしたの、あたし愛しているわ」

「じゃ、将校さんは? モークロエからの嬉しい知らせは?」

「それとこれは別よ」

「女の理屈だとそういうことになるのかね!」

「あたしを怒らせないで、ラキートカ」

「グルーシェニカ」がむきになって言葉尻をとらえました。

「それとこれとは別なのよ。あたしはアリョーシャを別の意味で愛しているんだわ。アリョーシャ、たしかに今まではあたし、あなたに対してずるい考えを持っていたわ。だってあたしは卑劣な女ですもの、気違いみたいな女ですもの。でも、別の瞬間にはあなたを、あたしの良心として見ることがよくあったわ、アリョーシャ。いつも考えるのよ。『こんなふうにしていちゃ、これからはこんな汚れたあたしを軽蔑するにちがいない』って。おととい、あのお嬢さんの家から走って帰ったときも、そう思ったわ。ずっと、以前から、あたしそんなふうに、あなたに目をつけていたのよ、アリョーシャ。ミーチャも知っているわ、あの人には話したことがあるから。ミーチャはちゃんとわかってくれているわ。本当を言うとね、アリョーシャ、時には本当に、あなたを見て、あたし、自分が恥ずかしくなるの、自分の何もかもが恥ずかしくなるのよ・・・・どうしてあなたのことをそんなふうに考えるようになったのか、いつからそうなのか、自分でもわからないし、おぼえていないけれど・・・・」

素直なんでしょうか、自分のことを卑劣で気違いみたいな女ですものと卑下して、こんなふうにしていては自分が恥ずかしくなると言っています。

ここまで、自分の心を率直に語られると相手は何も言えなくなってしまいますね。

フェーニャが入ってきて、テーブルにお盆を置きました。

お盆には栓をぬいた壜と、シャンパンを充したグラスが三つのっていました。

「シャンパンが来たぞ!」

「ラキーチン」が叫びました。

「君は興奮のあまり、どうかしてるんだよ、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ。一杯やれば、踊りたくなるさ。えい、こんなことも、ろくにできないんだな」

シャンパンを眺めながら、彼は付け加えました。


「婆さんが台所でついだもんだから持ってきたのは栓をぬいた壜だぜ、しかも生温かいときた。ま、これでもいいさ」


2018年1月21日日曜日

661

「さあ、下らんおしゃべりはもうたくさんだ」

「ラキーチン」が叫びました。

「それよりシャンパンでも出しなよ、君には貸しがあるんだぜ、自分でもわかってるくせに!」

「本当、借りがあったわね。あのね、アリョーシャ、あなたを連れてきたら、いっさいのお礼のほかにシャンパンを一本おごるって、この人に約束したのよ。シャンパンをぬいてちょうだい、あたしも飲むわ! フェーニャ、フェーニャ、シャンパンを持ってきて。ミーチャが置いていったあの壜よ、早くしてちょうだい。あたしはけち(二字の上に傍点)だけど、一本振舞うわ、でもあんたにじゃなくってよ、ラキートカ。あんたなんか、きのこみたいな存在だけれど、この人は公爵さまだわ! 今のあたしの心を占めているのはほかのことだけれど、そんなことかまわない、あたしもいっしょに飲むわ、どんちゃん騒ぎがしたいのよ!」

「ラキーチン」は「きのこみたいな存在」だって言われていますがおもしろい比喩ですね。

「ドミートリイ」が「グルーシェニカ」の家にシャンパン一本置いているのはさすがですね。

「グルーシェニカ」も大事なことを待っている最中なのに、シャンパンを飲んで「どんちゃん騒ぎがしたいのよ!」というのは、ある意味さすがです、彼女はまだ「アリョーシャ」の膝の上にいるのでしょうか。

「それにしても、その大切な瞬間とやらって、いったい何のことだい、どんな《知らせ》を待っているの、きいてもいいだろう、それとも秘密かい?」

自分めがけてひっきりなしに飛んでくる侮辱なぞ、気にもとめぬというふりを精いっぱいしながら、ラキーチンが好奇心をまるだしにして、また話を戻しました。

「あら、秘密じゃないわ、あんただって知っているじゃないの」

ふいに「グルーシェニカ」が、「ラキーチン」に顔をふりむけ、相変らず「アリョーシャ」の膝に坐って片手で首を抱いてはいたものの、いくらか身を離しながら言いました。

「将校さんが来るのよ、ラキーチン、あたしの将校さんがやってくるの!」

「来るって話はきいてたけど、こんなに間近にだったのかい?」

「今モークロエにいるわ、あそこから使いをよこすの。自分でそう書いてきたわ。さっき手紙をもらったのよ。だからこうして坐って、使いを待ってるってわけ」

「そうだったのか! なぜモークロエなんぞに?」

「話せば長いわ。それに、あんたの相手はもうたくさん」

「それじゃ今やミーチャは–やれやれ! 彼は知ってるの、それとも知らないのかい?」

「知るわけがないでしょうに! 全然知らないわ! 知ったら、あたしを殺すにちがいないわ! でも今ではあたし、そんなこと全然こわくないの、今ではあの人のナイフもこわくないわ。もう黙ってよ、ラキートカ、あの人のことなんか思いださせないで。あの人は、あたしの心を粉々に砕いたのよ。それに今この瞬間、あたしはそんなこと何一つ考えたくもないの。アリョーシャのことなら考えられるわ。あたし、アリョーシャを眺めてるわ・・・・ねえ、あたしを笑って。陽気になってよ、あたしの愚かさを、あたしの喜びを笑ってちょうだい・・・・あ、笑った、笑った! なんてやさしい目をしているの。あたしね、アリョーシャ、あなたがおとといのことで、あのお嬢さんのことで、あたしに怒っているだろうって、ずっと思っていたのよ。あたしは犬も同然だったわ、そうよ・・・・ただ、あんなことになって、やっぱりよかったわ。いけないことだったけど、あれでよかったのよ」

ふいに「グルーシェニカ」は考えこむように薄笑いをうかべましたが、突然その笑いによって何か冷酷な影がちらとのぞきました。

「ミーチャが言ってたけど、あの女は『鞭でひっぱたく』って叫んだそうね。あのとき、あの女をすっかり怒らせてしまったんだもの。あたしをよびつけて、甘い餌で釣って勝とうと思ったんだわ・・・・そう、ああいう結果になって、よかったのよ」

これは(403)の場面ですが、「グルーシェニカ」が「カテリーナ」の家を出ていった後で、彼女が「あんな女、鞭でひっぱたいてやるといいのよ、断頭台で、刑吏の手で、みんなの見世物にして!」と叫んだことですね、このことはどうやって「グルーシェニカ」の耳に入ったのでしょうか。

それを聞いたのは「カテリーナ」の家にいる「上の叔母」と「アリョーシャ」だけですので、彼が「ドミートリイ」に話したのですね。

そして、「ドミートリイ」が「グルーシェニカ」に伝えたのでしょう。

彼女はまた薄笑いをうかべました。


「でも、あなたが腹を立てただろうと、そればかり心配だったわ・・・・」


2018年1月20日土曜日

660

「そいつは悲しいことがあるのさ。位を授からなかったんでね」

「ラキーチン」がどら声で言いました。

「何の位を?」

「長老がいやなにおいをさせたのさ」

「いやなにおいって? また何か下らないことを言っているのね、何かいやらしいことを言うつもりなんだわ。黙りなさいよ、ばかね。ねえ、アリョーシャ、あたしを膝にのせてくれる、こうやって!」

「ラキーチン」のくだらない軽口を簡単にいなしているのはいいとしても、「膝にのせてくれる」とは大胆ですね。

そして突然、すばやく腰をうかせると、じゃれつく子猫のように、笑いながら彼の膝にひょいと坐って、右手でやさしく首を抱きました。

冗談ではなく、「グルーシェニカ」は「アリョーシャ」の膝の上に本当に乗ってしまいました、これはどんな情景でしょうか、こんなことはロシアのではありうることでしょうか、日本ではこの関係でこの状態はありえませんが。

「あたしが楽しくさせてあげるわ、信心深い坊や! ううん、本当に膝の上に坐っていてもいい、怒らない? 命令すれば、すぐにおりるわ」

「アリョーシャ」は黙っていました。

身動きするのも恐れて、じっと坐っていました。

「命令すれば、すぐにおりるわ」という彼女の言葉はきこえましたが、しびれてしまったかのように、返事をしませんでした。

しかし、彼の心の内にあったのは、たとえば、自席から淫らそうに観察している「ラキーチン」が今期待し、想像しているにちがいないようなことではありませんでした。

魂の深い悲しみが、彼の心に生まれかねなかったいっさいの感覚を呑みつくしていたので、もしこの瞬間彼がはっきり意識しえたとすれば、今の自分があらゆる誘惑や挑発に対してきわめて堅固な鎧を着ていることに思い当ったはずです。

非常に難しい場面の描写だということはわかりますが、しかし作者が登場人物の内面に入り込んでこんなことまで書くのかと思いますし、さらに入り込んでいるだけではなく、さらにそこから別の状態を仮定までしているのは驚きます。

だが一方では、混濁して制御のきかぬ精神状態や、自分を打ちのめした悲しみにもかかわらず、やはり彼は心の内に生じたある新しい奇妙な感覚に、われ知らずおどろいていました。

この女が、この《恐ろしい》女が、今やこれまでのような恐怖、女性に関するあらゆる夢想が心にちらとうかぶたびに生じていた恐怖によって彼を怯えさせなかったばかりか、むしろ反対に、だれよりもこわかったこの女が、膝の上にのって抱きついているこの女が、今やふいにまったく別の、思いもかけぬ一種特別の感情を–彼女に対する度はずれに大きい純真な好奇の感情を、かき立てました。

しかも、それらすべてがもはや、何の不安も、ごく些細な今までの恐怖もともなっておらず、それがいちばん肝心な点であり、思わず彼をおどろかせた点でした。

これは、頭の中で考えていたことが、現実に接して一瞬に壊れたということですね、作者は「心の内に生じたある新しい奇妙な感覚」と書いているのですが、確かにそんなことは、たまに経験することであり当たり前のことかもしれませんが、普通忘れているというか、全く意識していないことが多いですね。

レンガを一つずつ丁寧に積み重ねるようにして作り上げてきた自分の考えであっても、一瞬の経験によっていっぺんに崩れ去ることがあり、つまり経験しなければわからないことがあるということで、そのようなものとして自分を認識しておくべきだということかもしれません。


それは内部的に自己完結されていたものが外部との接触によって開かれたというこです。


2018年1月19日金曜日

659

彼女は機敏に「アリョーシャ」とならんでソファに近々と腰をおろし、手放しに感嘆の色を示して彼を見つめました。

そして本当に彼女は喜んでおり、そう言ったのも嘘ではありませんでした。

目が燃え、唇は笑っていましたが、善良そうな快活な笑いでした。

「アリョーシャ」は彼女の顔にこんな善良な表情を予期してすらいませんでした・・・・つい昨日までほとんど会ったことがなく、恐ろしい女という概念を作りあげていましたし、「カテリーナ」に対する昨日の敵意にみちた悪賢い振舞いにはひどくショックを受けもしましたので、今ふいに彼女の内にまったく思いもかけぬ別の存在を見いだして、実におどろきました。

いかに彼が自分自身の悲しみに打ちのめされていたとはいえ、その目は思わず彼女の上に注意深く注がれました。

こういう微妙な「アリョーシャ」の感情も省略することなく、すべて拾い上げています、ここで省略するのと書くのとは大違いです。

彼女の物腰も昨日からがらりと良いほうに変ったかのようでした。

話し方にも昨日のあの甘たるさがほとんど全然ありませんでしたし、けだるそうな気どった動作もなく、すべてが簡潔で素朴で、動作もすばやく、直線的で、信頼にみちていましたが、それでも彼女は非常に興奮していました。

「ああ、ほんとに今日は何もかも思いどおりになるわ」

彼女はまたしゃべりだしました。

「それにしても、あなたが来てなぜこんなに嬉しいのか、自分でもわからないのよ、アリョーシャ。きいてごらんなさい、あたしわからないから」

「どうして嬉しいか、わからないって?」

「ラキーチン」が苦笑しました。

「前にはどういうわけか、連れてきて連れてきてって、しつこく頼んで、ちゃんと目的があったくせに」

「前には別の目的があったけど、今はなくなってしまったわ、そんな場合じゃなもの。あなた方にご馳走するわね、それがいいわ。あたし今ではいい人間になったのよ、ラキートカ。あんたも坐ったら、ラキートカ、どうして立っているの? あら、もう坐ってるのね? そりゃ、ラキートカが自分のことを忘れるはずがないわ。ねえ、アリョーシャ、あの人は今あたしたちの向い側に坐って、気をわるくしているのよ。それというのも、あなたより先に椅子をすすめなかったからなの。うちのラキートカは、そりゃ怒りっぽいんだから。すぐに気をわるくするのよ」

「グルーシェニカ」は笑いだしました。

「怒らないでね、ラキートカ、今ではあたしいい人間なんだから。それにしても、どうしてそんなに沈んでいるの、アリョーシェチカ、それともあたしがこわい?」

彼女はからかい顔の陽気な笑いをうかべて、アリョーシャの目をのぞきこみました。


この「グルーシェニカ」の心理状態は男にはわからないです。