2019年2月28日木曜日

1064

「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・『きっとあの瞬間、母が僕のために祈ってくれたんでしょう』と予審で被告はこう供述しています。だから、父の家にスヴェトロワがいないことを確かめるやいなや、逃げだしたのです。『しかし、窓ごしに確かめられるはずがない』と検事は反駁するにちがいない。なぜ、できないのでしょう? 被告の行なった合図で、窓は開けられたではありませんか。その際、フョードルが何かそういう言葉を口にし、そのような叫び声を口走ったかもしれないのです。そして被告がスヴェトロワのいないことを、すぐに納得したかもしれません。いったいどういうわけで、われわれは必ず、自分の想像どおりに仮定し、仮定したとおりに想像しなければいけないのでしょう? 現実には、きわめて緻密な小説家の観察からさえ見落されるような、数知れぬ事柄が起りうるのです。『なるほど、しかしドアが開いていたのをグリゴーリイは見ている、とすれば被告はきっと家の中に入ったはずだし、したがって殺したにちがいない』と言うかもしれません。このドアのことですが、陪審員のみなさん・・・・いいですか、ドアが開いていたと証言したのはたった一人だけで、しかもその人はあのときあんな状態にあったのですから・・・・が、まあいいでしょう、ドアが開いていたとしてもいい、被告が彼の立場としてはきわめてもっともな自己防衛の気持から自供を拒み、嘘をついたとしてもいいでしょう、かまいません、被告が家に忍び入り、家に入ったとしてもかまいません、それがどうだというのでしょう、いったいなぜ家に入ったからには、必ず殺したということになるのでしょうか? 被告は家に押し入り、部屋から部屋を走りぬけたかもしれないし、父親を突き倒し、父親を殴りさえしたかもしれません。しかし、スヴェトロワが父のところにいないことを確かめると、彼女がいなかったことを、そして父親を殺さず逃げだしたことを喜びながら、逃走したのです。おそらく、一分後につい夢中で殴り倒したグリゴーリイのそばへ塀の上からとびおりたのも、同情と憐れみの純粋な感情をいだくことができる状態にあったからです。それというのも、父親を殺したいという誘惑から逃れたためであり、父を殺さずにすんだという潔白な心と喜びを感じていたからであります。検事は先ほどモークロエ村における被告の恐ろしい状態を、すなわち、恋がふたたび目の前にひらけ、新しい生活に招いているというのに、背後に父親の血まみれの死体があり、その死体の向うに刑罰があるために、もはや愛することができぬという恐ろしい状態を、ぞっとするくらい雄弁に描写しました。しかし、それでも検事はやはり恋を認め、それをお得意の心理学で、『酩酊状態や、罪人が刑場に曳かれながら、時間はまだたっぷりあると期待する心理、等々』と説明なさいました。だが、再度おたずねしますが、あなたが創造したのは別の人物ではないでしょうか、検事さん? もし本当に父の血に染まっているとしたら、そんな瞬間にもまだ恋だの、法廷に対する申し開きだのを考えることができるほど、被告は粗野な、冷酷な人間なのでしょうか? いいえ、決してそんなことはありません! 彼女が自分を愛してくれ、手をさしのべ、新しい幸福を約束していることが明らかになったとたん、そう、もし背後に父の死体が横たわっていたとしたら、誓って言いますが、被告は当然そこで自殺したいという二重、三重の欲求を感じたはずですし、必ず自殺したにちがいないのです! そう、ピストルの置き場所を忘れたりするはずがありません! わたしは被告の人柄を知っております。検事がそしったような、野蛮な、冷酷な非情さは、被告の性格と一致しないのです。彼なら自殺したにちがいない、これは確かです。彼が自殺しなかったのは、《母が祈ってくれた》からであり、父親の血に関しては心が清らかだったからであります。被告があの夜モークロエで悩み、悲しんでいたのは、殴り倒したグリゴーリイ老人のことだけで、老人に対する罪も免れるよう、ひそかに神に祈っていたのでした。なぜ事件のこういう解釈をしてはいけないのでしょう? いったいどんな確かな証拠があって、被告は嘘をついているなどと言うのでしょうか? 現に父親の死体があるじゃないか、被告は逃げだしたのだ、彼が殺さないとしたら、いったいだれが老人を殺したのだと、またしてもただちに指摘するにちがいありません。・・・・」

ここで切ります。

「フェチュコーウィチ」はとうとう「お得意の心理学」と言葉に出して「イッポリート」を小馬鹿にしていますね、しかし、彼の弁論は見事だと思います、特に「・・・・だが、再度おたずねしますが、あなたが創造したのは別の人物ではないでしょうか、検事さん? もし本当に父の血に染まっているとしたら、そんな瞬間にもまだ恋だの、法廷に対する申し開きだのを考えることができるほど、被告は粗野な、冷酷な人間なのでしょうか? いいえ、決してそんなことはありません!・・・・」、また、「・・・・わたしは被告の人柄を知っております。検事がそしったような、野蛮な、冷酷な非情さは、被告の性格と一致しないのです。彼なら自殺したにちがいない、これは確かです。・・・・」の部分です、カラマーゾフの二重性の良い面を「フェチュコーウィチ」は見ており、「イッポリート」は悪い面を見ています、この善悪の同居する二重性は人間一般に言えることかもしれません。


2019年2月27日水曜日

1063

十二 それに殺人もなかった

「失礼ですが、陪審員のみなさん、ここには人間の一生がかかっているのですから、もっと慎重でなければなりません。われわれは検事が、最後まで、つまり今日の公判の日まで、疑う余地のない完全な計画的殺人の罪を被告に負わせるのをためらっていた、すなわちあの宿命的な《酔余の》手紙が本日の法廷に提出されるまで、ためらっていたと、みずから証言したのをききました。『書かれてあるとおりに実行された!』と検事は言うのです。しかし、またしてもくりかえしになりますが、被告が駆けつけたのは彼女を探すためであり、もっぱら彼女の居場所を突きとめるためにすぎないのです。これは確固たる事実であります。彼女が家にいさえすれば、被告はどこへもとびださずに、彼女のそばにとどまっていたでしょうし、手紙で約束したことも実行しなかったにちがいありません。被告は突然、思わず駆けだしたのであり、ことによるとそのときには自分の《酔余の》手紙のことなぞ、全然おぼえていなかったかもしれないのです。『杵をひっつかんだではないか』と言われるかもしれません。しかし、この杵一つから、なぜ被告はこの杵を凶器と見なし、凶器としてひっつかむのが当然であるか、等々と、完全な心理分析が引きだされたことを思いだしていただきたい。この場合、わたしの頭にうかぶのは、きわめてありふれた考えです。もしこの杵が目立つところに、被告がひっつかんでいった棚の上などに置いてなく、戸棚にしまってあったとしたら、どうでしょうか? そうすれば杵は被告の目につくはずもなく、被告は凶器など持たずに素手でとびだしたはずであり、ことによると、だれも殺さずにすんだかもしれないのです。いったいどういうわけでこの杵を、凶器と計画性の証拠と推断できるのでしょう? なるほど、しかし被告は父親を殺してやると飲屋でわめきちらしていたし、事件の二日前、あの酔余の手紙を書いた晩にはおとなしくしており、飲屋でもさる商家の店員と口論しただけだった。『それというのも、カラマーゾフは喧嘩をせずにはいられない人間だからだ』と言うかもしれない。これに対してわたしはこう答えます。もし、このような殺人を、それも手紙に書かれた計画どおりにやろうとたくらんでいたとしたら、きっと店員と喧嘩などしないだろうし、それにおそらく、飲屋になぞ全然寄らなかったにちがいありません。なぜなら、そのようなことをたくらんだ魂は、静けさと物陰を求め、人に見られたりきかれたりせぬよう、姿をくらまそうとするものだからです。『できるなら、俺のことを忘れてくれ』という考えからですが、これは打算によるものではなく、本能によるのです。陪審員のみなさん、心理学は両刃の刀であり、われわれとて心理学を解する能力は持っているのです。まるひと月も飲屋でわめきちらしていた件に関して言うなら、子供だの、飲屋から出てきた酔払いなどは、よく喧嘩をして、『お前なんか殺してやる』とどなるものですが、その実、殺しはしないのです。それに、あの宿命的な手紙にしても、やはり酔払いの苛立ちではないでしょうか、殺してやる、お前らはみんな殺してやるとわめく、飲屋から出てきた酔漢の叫びと同じではないでしょうか! なぜ違うのです、なぜそうであってはいけないのでしょう? なぜあの手紙が宿命的であり、なぜむしろこっけいなものと思われないのでしょうか? ほかでもありません、殺された父親の死体が発見されたからです、凶器を持って逃げてゆく被告の姿を証人が目撃し、自分の殴り倒された以上、すべてが書かれたとおりに実行されたことになるからであります。だからこそ、この手紙もこっけいではなく、宿命的なものとされるのです。ありがたいことに、われわれはやっと『庭にいたからには、つまり彼が殺したのだ』という点にたどりつきました。いた(二字の上に傍点)からには、つまり(三字の上に傍点)必ず殺したという、この二つの言葉に、すべてが、いっさいの起訴理由、『いた、それならつまり(三字の上に傍点)』という論法が汲みつくされているのであります。しかし、たとえいたとしても、つまり(三字の上に傍点)でないとしたら? そう、数々の事実の総和や、事実の符号がたしかにかなり雄弁であることは、わたしも同意します。が、それでも、それらすべての事実を、総和によって暗示されることことなく、個々に検討してみてください。たとえば、父親の窓のそばから逃げだしたという被告の供述の真実性を、なぜ検事はどうしても認めようとしないのでしょうか? 犯人をふいにとらえたうやうやしい気持や敬虔な感情に関して、この法廷で検事が放った嫌味を思い起していただきたい。もし本当にあのとき、それに似たようなものが、つまり、うやうやしい気持とまで言わなくとも、敬虔な感情があったとしたら、どうなのでしょうか?・・・・」

ここで切ります。

「フェチュコーウィチ」の「・・・・もし、このような殺人を、それも手紙に書かれた計画どおりにやろうとたくらんでいたとしたら、きっと店員と喧嘩などしないだろうし、それにおそらく、飲屋になぞ全然寄らなかったにちがいありません。そのようなことをたくらんだ魂は、静けさと物陰を求め、人に見られたりきかれたりせぬよう、姿をくらまそうとするものだからです・・・・」という分析はすばらしいと思いました、そして彼は「・・・・事件の二日前、あの酔余の手紙を書いた晩にはおとなしくしており、飲屋でもさる商家の店員と口論しただけだった。・・・・」と言います、たしかに(1039)で「イッポリート」は「・・・・この手紙をかいた晩は、飲屋《都》でさんざ飲んだあと、日ごろの彼らしくもなくむっつりして、玉突きもせず、片隅に坐って、だれもと口をきかずにいたのです。ただ、この町のさる商店の店員を席から追い払ったことはありましたが、これはもうほとんど無意識にしたことで、飲屋に入ったら喧嘩をせずにはおさまらぬ日ごろの癖が出たにすぎません。・・・・」と言っています、これは「おとなしくしていた」のか「騒いだ」か微妙といえば微妙な判断ですね。


2019年2月26日火曜日

1062

「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・彼は父に三千ルーブルを頼むため、最後に末の弟を派遣するのですが、返事が待ちきれずに、自分からあばれこみ、あげくの果てにみなの見ている前で父親を殴り倒しました。こうなっては、もはやだれからももらえる当てはないし、殴られた父親がくれるはずはありません。その日の晩、被告は自分の胸を、まさにお守り袋のかかっている胸の上部をたたいて、弟に、自分には卑劣漢にならずにすむ手段があるのだが、自分はやはり卑劣漢でとどまるにちがいない、なぜならその手段に頼りそうもないことが今からわかっているし、それだけの精神力と根性が欠けているからだ、と誓って告白したのです。あれほど純真に、誠実に、何の作為もなく、真実そのままになされたアレクセイ・カラマーゾフの証言を、なぜ、なぜ検事は信じないのでしょうか? それどころか反対に、なぜその金がどこかの隙間に、ウドルフ城の地下室に隠されているなどと、信じさせようとするのでしょう? その晩、弟と話したあと、被告はあの宿命的な手紙を書きます。あの手紙こそ、被告の強奪行為のもっとも主要な、もっとも重大な証拠であります! 『だれかれかまわず頼んでみて、もしだれからも借りられない場合には、イワンが出かけさえしたら、親父を殺して、枕の下から、バラ色のリボンをかけた封筒に入っている金を奪ってやる』 -これは完全な殺人の計画書だ、犯人は彼にきまっている。『書かれたとおりに実行されたのだ!』と検事は叫ぶのです。しかし、まず第一に、この手紙は酔払って、ひどく苛立ったときに書かれたものであります。第二に、彼自身は封筒を見たことがないのですから、封筒のことはまたしてもスメルジャコフの言葉から書いたのであります。第三に、手紙が書かれたのは確かですが、そこに書かれたとおりに実行されたかどうかを、何によって証明するのでしょうか? 被告は枕の下から金を取りだしたのか、金を見つけたのか、金は本当に存在したのでしょうか? それに被告がとんで行ったのは、金目当てにだったでしょうか、この点をよく思い起していただきたい! 彼がまっしぐらに駆けつけたのは、金を奪うためではなく、彼を悲しみに突き落した女性が、彼女がどこにいるかを突きとめるためでした。とすれば、計画書のとおりに、筋書きどおりに、つまりかねて考えていた盗みのために走ったわけではなく、突然、嫉妬に気も狂わんばかりになって、思わず走りだしたのであります! 『なるほど、しかしそれでもやはり駆けつけたあと、殺して、金を奪ったではないか』と言うかもしれない。しかし結局のところ、彼は殺しをやったのでしょうか、それともやらないのでしょうか? 強盗容疑のほうは、わたしは憤りをこめて否定します。何が盗まれたかを正確に示しえずに、強盗の容疑をかけることはできないからです、これは自明の理です! だが、それなら彼は殺人を犯したのか、盗みはしなくとも殺人をしたのでしょうか? その点は証明されたでしょうか? これもまた小説ではないでしょうか?」


「フェチュコーウィチ」は何を言いたいかというと結局、三千ルーブル強奪にしても、殺人にしても直接的な証拠が何もないということです、ところで直接的な証拠とは何でしょうか、たとえば犯人しか知り得ない場所から凶器が発見されたとか、現場に犯人の遺留品があったとかの物的証拠でしょうか、指紋鑑定や血液鑑定のない時代ですのでこのような証拠を見つけるのはなかなか難しいと思います。


2019年2月25日月曜日

1061

「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・ところが検事は、被告がその日のうちに預かった金の半分を取り分けて、お守り袋に縫いこんだことを、どうしても認めようとしない。『被告の性質はそんなものじゃない。そんな気持をいだくはずがない』と言うのです。しかし、カラマーゾフは広大だと叫んだのは、あなた自身ではありませんか。カラマーゾフは二つの深淵を見つめることができると絶叫したのは、あなた自身だったではないでしょうか? カラマーゾフはまさしく二つの面を、二つの深淵をそなえた天性であるため、抑えきれぬ遊興の欲望にかられた際でも、もしもう一つの面から何かに心を打たれたならば、踏みとどまることができるのです。そのもう一つの面とは、愛です。まさにそのとき、火薬のように燃えあがった愛情であります。しかもその愛には金が必要だ、そう、当の恋人との遊興に使うより、はるかに切実に必要なのです。彼女が『あたしはあなたのものよ、フョードルなんかごめんだわ』と言ったら、彼女を引っさらって、連れださねばならない。連れ去るには費用が要るのです。これは遊興より大事であります。カラマーゾフがそれを理解できぬでしょうか? そう、彼が心を痛めていたのはまさにこの点であり、この心配だったのです。彼が万一のために金を二つに分けて、隠したのが、なぜ信じられぬ話なのでしょうか? ところが、時はどんどんたってゆくのに、フョードルは三千ルーブルを被告によこしそうもなく、それどころか、自分の恋人を誘惑するのにその金を当てるという噂まで耳に入ってくる。『親父が金をくれないと、俺はカテリーナ・イワーノヴナに対して泥棒になっちまう』と被告は考えます。こうして、お守り袋に入れて肌身につけているその千五百ルーブルを持っていって、ヴェルホフツェワ嬢の前に置き、『俺は卑劣漢ではあるけど、泥棒じゃない』と言おうという考えが、生れるのです。したがって、被告がその千五百ルーブルを虎の子のように大切にして、決してお守り袋を開けもしなければ、百ルーブルずつぬきだしたりもしなかったのには、もはや二重の理由ができたのであります。どうしてみなさんは、被告に名誉を重んずる感情があることを否定なさるのですか? とんでもない、彼には名誉を重んずる感情があるのです。かりに正しくない、そしてきわめてしばしば間違ったものであるにせよ、その感情はあるのですし、情熱にまでなっているのです。被告がそれを立証したではありませんか。ところが、事態がこじれてきて、嫉妬の苦しみが極限に達すると、またしても以前からの二つの問題が、被告の熱した頭の中でますます苦しくてやりきれぬほど浮彫りにされてきたのです。『カテリーナ・イワーノヴナに返すんだ。でも、そうしたらグルーシェニカを連れて逃げる金はどこにある?』彼がこのひと月の間ずっと、分別をなくして酒に溺れ、飲屋で荒れていたとすれば、それはおそらく、彼自身も悲しくて、堪えきれなかったためかもしれません。この二つの問題はついには極度に尖鋭化し、彼を絶望に導くほどになったのです。・・・・」

ここで切ります。

「フェチュコーウィチ」は「ドミートリイ」の性格をある種の典型にあてはめるように一面的にしか見ない「イッポリート」に向けて次のような言葉を発します、「しかし、カラマーゾフは広大だと叫んだのは、あなた自身ではありませんか。カラマーゾフは二つの深淵を見つめることができると絶叫したのは、あなた自身だったではないでしょうか?」、これは(1035)での「イッポリート」の論告の中で、「彼が広大なカラマーゾフ的天性の持主だからであり-わたしの言いたいのは、まさにこの点なのですが、ありとあらゆる矛盾を併呑して、頭上にひろがる高邁な理想の深淵と、眼下にひらけるきわめて低劣な悪臭ふんぷんたる堕落の深淵とを、両方いっぺんに見つめることでできるからであります。ここで、カラマーゾフ家の家族構成を間近で深く見つめてこられた若き観察者、ラキーチン氏が、先ほど述べられたあの卓抜な思想を思い起していただきたいのです。『あの放埓な奔放な気質にとっては、堕落の低劣さの感覚と、気高い高潔さの感覚とが、ともに同じくらい必要なのである』-まさにこれは真実であります。こうした気質にとっては、この不自然な混合が絶え間なく常に必要とされるのです。二つの深淵です、みなさん、二つの深淵を同時に見ること、これがなければ彼は不幸であり、満足できず、彼の存在は不十分なものとなるのです。彼は広大です、母なるロシアと同じように広大であり、すべてを収容し、すべてと仲よくやってゆけるのであります!」と言ったことを指しています。


2019年2月24日日曜日

1060

「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・『それでもやはり、被告は所持していた千五百ルーブルをどこで手に入れたか、説明できなかったし、そのうえ、その夜まで被告が文なしだったことは、みなが知っているのだ』と言う人もいるでしょう。では、だれがそれを知っていたのですか? ところが被告は、どこから金を手に入れたかという明快な、確固とした供述を行なっておりますし、もしお望みなら、陪審員のみなさん、お望みなら申しますが、この供述ほど確かな、それだけではなく被告の性格や精神に符号するものは、これまで何一つありえなかったし、あるはずもないのです。検事には自分の小説がとても気に入った。だから、あれほど屈辱的にいいなずけから突きつけられた三千ルーブルを、受けとることに決めたほど意志の弱い人間が、半分だけ取り分けてお守り袋に縫いこんだりするはずがない、それどころか、かりに縫いこんだとしても、一日おきに袋を開けて百ルーブルずつ取りだし、ひと月の間にその調子で全部使いはたしてしまうにちがいない、などど言うのです。これらすべてがいかなる反駁も許さぬ口調で述べられたことを、思い起していただきたい。だが、もし事態がまったくちがうふうに、そう、あなたの創った小説とは違う形で進行し、そこに登場するのが全然別の人間だとしたら、どうなるのです! あなたが別の人間を創りだしたことこそ、問題なのです! おそらく、こんな反駁も出るでしょう。『被告が惨劇の一カ月前にカテリーナ・ヴェルホフツェワ嬢から借りた三千ルーブルを、全部モークロエ村で、一カペイカの金でも棄てるようにいっぺん使ってしまった証人が何人もいる。とすれば、半分を取り分けておけるはずがない』と。しかし、その証人たちはどういう人間でしょうか? それらの証人の信憑性の度合いは、すでに法廷で暴露されたのです。そればかりではなく、他人の手にあるパンは大きく見えるものです。最後に、これらの証人のうちだれ一人、金を自分で数えたわけではなく、目分量で判断したにすぎません。現に証人のマクシーモフ氏は、被告が手にしていたのは二万ルーブルだったと証言しているほどではありませんか。どうです、陪審員のみなさん、心理学が両刃の刀であるため、わたしはここでもう一方の刃を当ててみたいと思います、同じ結論が出るかどうか、見ようではありませんか。事件の一カ月前、被告はヴェルホフツェワ嬢から三千ルーブルの金を郵送するよう預かったのですが、ここに一つ問題があります。その金が、先ほど叫ばれたような恥辱と屈辱をこめて預けられたというのは、はたして本当でありましょうか? この問題に関するヴェルホフツェワ嬢の最初の証言では、そうではなかった。まったく違っていたのです。ところが二度目の証言でわれわれが耳にしたのは、恨みと復讐の叫びであり、永い間秘められていた憎悪の叫びでありました。証人が最初の供述で正しくない証言をしたという一事だけでも、それなら二度目の証言も正しくないかもしれぬと推断する権利を、われわれに与えてくれるものです。検事はこのロマンスに言及することを《望まないし、その勇気もない》(これは本人の言葉であります)という。それも結構でしょう。わたしも言及せぬことにします。しかし、あえて一つだけ指摘しておきますが、かりに清純で高潔な女性が、そして尊敬すべきカテリーナ・ヴェルホフツェワ嬢はまさしくそうした女性なのでありますが、そういう女性が法廷で突然、被告を破滅させようという露骨な目的で、最初の証言を一挙にくつがえしたとすれば、その証言が公平かつ冷静になされたものでないことは、明白であります。復讐を誓った女性ならいろいろと誇張して言いかねないと推断する権利をも、われわれは奪われるのでしょうか? そう、まさしく金をさしだしたときの恥辱と不名誉とを誇張するのです。むしろ反対にあの金は、受けとりやすい形でさしだされたに違いありません、特に被告のような軽率な人間にとっては、なおさらのことであります。何より、被告はそのとき、計算からすれば当然自分のものとなるべき三千ルーブルを父親から近々受けとることを念頭においていたのです。これは軽率ではありますが、まさにこの軽率さゆえに被告は、父親がきっと支払うだろう、その金が入れば、つまりいつでもヴェルホフツェワ嬢から預かった金を郵送して、借りをなくせると、固く信じていたのでした。・・・・」

ここで切ります。


なるほど検事は「あれほど屈辱的にいいなずけから突きつけられた三千ルーブルを、受けとることに決めたほど意志の弱い人間」や「被告が惨劇の一カ月前にカテリーナ・ヴェルホフツェワ嬢から借りた三千ルーブル」などというように当時のお金を受け取り方の状況を判断しているようです、しかし実際には「フェチュコーウィチ」が言うように、というか私が思うにそれはそのままモスクワに送るためという単にそれだけのものだったのではないでしょうか、その時の「カテリーナ」にしても、その金を「ドミートリイ」が使い込むことをわかっていながら渡したのではないと思います、そういった意味では、つまり渡したお金は裏にいろいろなことを含んだお金ではなかったという意味ですが、彼女の一度目の証言も二度目の証言も実際とは違っているのではないでしょうか。


2019年2月23日土曜日

1059

「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・しかし、それならなぜ、たとえば、このような事態を仮定してはいけないでしょうか? つまり、フョードル・カラマーゾフ老人は家にこもりきりで、ヒステリックな待ち遠しい思いで恋人を待っているうちに、突然、退屈しのぎに封筒を取りだして、封を切ろうという気を起した。『封筒を見ただけじゃ、まだ信用しないかもしれない。百ルーブル札を三十枚一束にして見せれば、効目は強力で、よだれを流すことだろう』こう考えて彼は封筒を破って、金を取りだし、封筒は持主みずからの手で床に投げすてられたのです、もちろん証拠も何も心配せずにです。いかがですか、陪審員のみなさん、こうした仮定や事実以上に、可能性のあるものが存するでしょうか? なぜこうであってはいけないのでしょう? しかし、もしこれに類したことが起りえたとすれば、そのときは強盗容疑はひとりでに消滅するのです。金はなかったし、したがって盗みもなかったのです。封筒が床に落ちていたのが、それに金の入っていた証拠だとするなら、なぜわたしが正反対のことを、すなわち封筒が床にころがっていたのは、もはやそれに金が入っていなかったからであり、その金はあらかじめ持主自身が取りだしていたのだ、と主張してはいけないのでしょう? 『だが、フョードルが自分で封筒から金をぬきだしたとしたら、その金はいったいどこへ行ったのか、家宅捜索の際に発見できなかったではないか?』と言われるかもしれない。しかし第一に、金の一部は彼の手文庫から見つかりましたし、第二に彼は朝のうちなり、前の晩なりに金を取りだして、別のことに使い、支払いなり送金なりをしたかもしれませんし、最後に、自分の考えや行動計画を根本的に変更し、それを前もってスメルジャコフに知らせる必要をまったく見いださなかったかもしれないのです。こういう仮定がたとえ可能性だけでも存在するとしたら、いったいどうして、殺人は強盗を目的として行われ、実際に盗みがあったなどと、あれほど執拗に、あれほど断定的に被告を糾弾することができるのでしょうか? こんなふうにしてわれわれは、小説の領域に踏みこんでしまうのです。これこれの品物が盗まれたと主張するのであれば、その品物を示すなり、少なくともその品物が存在したことをたしかに証明する必要があります。ところが、それを見た者は一人もいないではありませんか。最近ペテルブルグで、十八歳の、ほとんど子供にひとしいような、零細な行商人の若者が、白昼、斧を持って両替屋に押し入り、度はずれな典型的な大胆不敵さで店の主人を殺し、千五百ルーブルを奪った事件があります。五時間後に若者は逮捕され、すでに使ってしまった十五ルーブル以外は、千五百ルーブルをそっくり身につけておりました。そればかりではなく、事件のあとで店に戻った番頭が、盗まれた金額だけではなく、その内訳を、つまり虹色の札が何枚、青いのが何枚、赤が何枚、金貨が何枚でその内訳はこれこれと、そこまで警察に届け出たのです。そして、逮捕された犯人はまさにそのとおりの紙幣と金貨を持っていたのであります。おまけに自分が殺してこの金を盗んだという、犯人の正直な完全な自供もとれました。陪審員のみなさん、わたしが証拠とよぶのはこういうものであります! この場合なら、金を知っているし、実際に見て、さわりもできるのですから、そんな金はないだの、なかっただのと言うことはできません。だが本事件の場合もそうでしょうか? しかも、これは生死の問題であり、人間の運命の問題なのであります。『なるほど。しかし、被告はその夜豪遊し、金をまき散らして、千五百ルーブルも持っていた。その金はどこで手に入れたのか?』と言うかもしれません。だが、わかったのが千五百ルーブルだけで、あとの半分はどんなことをしても見つけだし、発見することができなかったという、まさにそのことによって、その金がまったく別の、一度も封筒にしまわれたことのない金だったかもしれぬ点が証明されるのであります。時間的な(それもきわめて厳密な)計算によると、被告は女中たちのところから官吏ペルホーチン氏の家をさしてとびだし、家にもどこにも寄らず、その後ずっと人前に身をさらしており、したがって三千ルーブルのうち半分を取り分けて、町のどこかに隠したりできなかったことは、予審でも認められ、立証されております。そして、まさにこの事情こそ、金がモークロエ村のどこかの隙間に隠されているという、検事の推測の原因ともなっているのです。これではウドルフ城(訳注 イギリスの作家ラドクリフの小説にある城)の地下に隠されている、というのと同じではありませんか、みなさん? こうした推測はとっぴではないでしょうか、小説的ではないでしょうか? しかも、いいですか、この推測、つまり金がモークロエに隠されているという推測が消滅しただけで、いっさいの強盗容疑は宙に消えてしまうのです。なぜなら、そうなるとその千五百ルーブルはいったいどこに行ってしまったことになるのでしょう? 被告がどこにも寄らなかったことが立証されている以上、その金はいかなる奇蹟によって消えたしまったのでしょうか? しかもわれわれはこんなお話で一人の人間の一生を滅ぼそうとしているのであります!・・・・」

ここで切ります。

「フェチュコーウィチ」は「イッポリート」の想像した犯罪の仮定に対して、別の仮定を想像してみせます、そしてその仮定が成り立つ以上、「疑わしきは罰せず」という態度をとっています、この「疑わしきは罰せず」と言う言葉は「事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。」とのことです、その起源は「フランス人権宣言(1789年)第9条で『何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。』と規定されたのに始まり、現在では、市民的及び政治的権利に関する国際規約第14の2や、人権と基本的自由の保護のための条約第6条など各種の国際人権条約で明文化され、近代刑事訴訟の大原則となっている。」とのことです。


「ウドルフ城」は(訳注 イギリスの作家ラドクリフの小説にある城)ですが、「ラドクリフ」は「アン・ラドクリフ(Ann Radcliffe 1764年7月9日 - 1823年2月7日) はイギリスの女流小説家。ゴシック小説の大家として知られ、代表作は『ユードルフォの秘密』と『イタリアの惨劇』。」とのことです、「ウドルフ」というのは、「ユードルフォ」のことでしょうか、『ユードルフォの秘密』という長編小説は1794年に出版され、内容は「1584年のフランス、ガスコーニュ地方、ガロンヌを舞台に話は始まる。母親の死後にエミリーと父親は地中海へ向けて旅行する。彼女はそこでヴァランコートという若い男性と知り合い恋に落ちる。その後父親は死亡、孤児となったエミリーはおばの所に預けられるが、恋仲にあった二人の仲を義理のおじモントーニ伯爵が無理矢理引き裂いて、エミリーをユードルフォ城に監禁してしまった。そのカラクリ屋敷で彼女は様々な奇怪現象に襲われる。その後に逃亡してかつての恋人と再会し、結婚する。因みにジェーン・オースティンはこの作品を参考に『ノーサンガー僧院』を書いた。」とのことです。


2019年2月22日金曜日

1058

十一 金はなかった。盗みもなかった

弁護人の弁論の中に、すべての人をおどろかせた一つの点がありました。

ほかでもない、あの宿命的な三千ルーブルの存在の全面的な否定であり、したがって強奪の可能性を頭から否定したことでありました。

「陪審員のみなさん」

弁護人は弁論にとりかかりました。

「この事件には、何の先入観もなしにはじめてこの町に来た人間をおどろかす、一つのきわめて特徴的な点があります。それはすなわち、強盗の罪を責めながら、同時に、いったい何が盗まれたのかを実際に指摘することがまったく不可能な点であります。たしかに三千ルーブルの金が盗まれた、と言われながら、本当にその金が存在していたかどうか、だれも知らないのです。よく考えてみてください。だいいち、三千ルーブルがあったことを、どうしてわれわれは知ったのでしょうか、だれがそれを見たのですか? その金を見たことがあり、上書きのされた封筒に入っていたことを指摘したのは、召使のスメルジャコフただ一人なのです。彼はその情報を、まだ惨劇の起る前に被告と、被告の弟イワン・フョードロウィチに教えました。さらにスヴェトロワ嬢もそれを知らされました。しかし、この三人はいずれも自分ではその金を見ていません、見たことがあるのは、またしてもスメルジャコフだけなのです。だが、ここで、仮にその金が存在し、スメルジャコフがそれを見たのが本当だとしても、彼が最後にそれを見たのはいつか、という疑問がひとりでに生じます。もし主人が布団の下から金をぬいて、スメルジャコフに告げずにまた手文庫にしまったとしたら、どうなるでしょう? いいですか、スメルジャコフの言葉によると、金は寝床の下に、布団の下にあったそうです。被告は当然それを布団の下からぬきとったはずです。それなのに、寝床は少しも乱れていなかったし、そのことは調書に入念に記されてもいます。それなら被告はどうして寝床を少しも乱さずにすんだのでしょうか、おまけに、その晩のためにわざわざ敷いた、真新しい薄地のシーツを、まだ血まみれの手でどうやって汚さずにすんだのでしょうか? しかし、床に落ちていた封筒はどうしてくれる、と言う人がいるかもしれない。この封筒に関しても、話しておく価値があるのです。先ほどわたしはいささかおどろきさえしました。なぜなら、才能豊かな検事がこの封筒に言及した際、だしぬけに自分から-いいですか、みなさん、自分からです、その論告の中で、スメルジャコフが殺したという仮定の愚かさを指摘したまさにあの個所で、こう断言したからです。『もしこの封筒がなかったら、この封筒が証拠物件として床に置きすてられていずに、犯人が持ち去っていたとしたら、世界じゅうのだれ一人、こんな封筒があったことや、それに金が入っていとこと、したがってその金が被告によって奪われたことも、気づかなかったにちがいない』このように、検事自身の認めるところでも、もっぱら上書きのある引き裂かれたこの紙片だけが、被告の強盗容疑に役立っているにすぎないのです。『さもなければ、盗みが行われたことも、そしておそらく金のあったことも、だれ一人気づかかなったはず』だからであります。しかし、この紙片が床にころがっていたということだけで、それに金が入っていたことや、その金が奪われたことの証明になるでしょうか? 『でも、金が封筒に入っていたのは、スメルジャコフが見ているんだ』と答えるでしょうが、それならいつ、いったい彼はいつ、その金を最後に見たのでしょう、わたしはこの点をおたずねしているのです。わたしはスメルジャコフと話してみたのですが、彼はあの惨劇の二日前に見たと言ったのです!・・・・」

ここで一旦切ります。


「真新しい薄地のシーツを、まだ血まみれの手でどうやって汚さずにすんだのでしょうか?」なるほど、そう言われればそうですね、私は少しも気づきませんでしたが、「ドミートリイ」の手が血だらけだとしたら、彼の性格から言っても確実に布団に血はついていたでしょう、しかし、実際に彼に付着した血は「グリゴーリイ」のものです、それに「フョードル」の殺害現場の詳細な状況はどうだったのでしょうか。


2019年2月21日木曜日

1057

「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・しかし、同じこの心理学を用いて、ただし別の面から事件にあてはめてみると、まったくこれに劣らぬくらい真実らしい結果が生ずるのです。犯人は目撃者の生死を確かめるという警戒心からとびおりた。ところが一方でその犯人は、検事自身の証明によれば、三千ルーブル入っていると上書きされている、引き裂かれた封筒という重大な証拠物件を、自分が殺した父親の書斎に置きすててきたばかりなのです。『もし彼がこの封筒を持ち去っていれば、世界じゅうのだれ一人、そんな封筒が存在してそこに金が入っていたことなど、気づかなかったはずであり、したがって被告によってその金が奪われたことも気づかなかったにちがいない』これは検事自身の言葉であります。だとすると、一方では警戒心が足りずに、うろたえ、怯えて、証拠物件を床に置きすてたまま逃げだした人間が、ものの二分とたたぬうちに別の人間を殴りつけて殺し、今度は都合のいいことに、すぐさまきわめて冷酷で打算的な警戒の気持を起してくれたことになるのです。だが、それもいいでしょう。そうだったことにしましょう。こういう状況の下では、たった今コーカサスの鷲のように残忍で炯眼(けいがん)だった人間が、次の瞬間にはつまらないモグラのように盲目で臆病になるという、まさにその点にこそ、心理学の微妙さが存するからです。しかし、殺したあと、目撃者が生きているかどうかを確かめるためにだけ、庭へとびおりるほど残忍で、冷酷なまでに打算的な人間であるとしたら、いったい何のためにまる五分もの間、その新しい犠牲者にかかずり合って、さらに新しい目撃者を作るかもしれぬような真似をしたのだろう、という気がします。何のために被害者の頭の血をぬぐって、ハンカチを血でぐっしょりにし、そのハンカチがあとで不利な証拠になるようなことをしたのでしょう? そう、もしそれほど打算的で冷酷なのだったら、いっそ、とびおりるなり、倒れた召使の頭をあっさりと同じその杵で何度も殴りつけて、完全に殺し、目撃者を根絶やしにして、いっさいの心配を心から取り除くほうがいいではありませんか? そして最後に、目撃者が生きているかどうかを確かめるためにとびおりたとき、被告はもう一つの証拠物件、すなわち例の杵を、そこの小道に置き去りにしたのです。この杵は二人の女性のところからひっつかんできたものであり、彼女たちはどちらもあとで、その杵を自分のものと認めて、被告が自分たちのところからひっつかんでいったのだと証言することが、いつでもできるわけです。しかも、被告はその杵を道に置き忘れたとか、うろたえ放心して落したたかいうのではありません。そうではない、グリゴーリイが倒れていた場所から十五歩くらい離れたところから杵が発見された以上、まさしく被告は凶器を放り投げたのであります。そこで質問したいのですが、何のためにそんなことをしたのでしょう? 被告がそんなことをしたのは、まさしく、一人の人間を、年老いた召使を殺したことが悲しくなったからであり、だからこそ凶器である杵を腹立ちまぎれに、呪いをこめて投げすてたのです。そうとしか考えられません。いったい何のためにあんなに力いっぱい放り投げることがあったでしょうか? また、人間を殺してしまったという憐れみと痛苦を感じえたとするなら、もちろんそれは、父親を殺さなかったからなのです。父親を殺したあとなら、もう一人の被害者のところへ憐れみの気持からとびおりたりしないはずです。その場合は、もはや別の感情が起ったにちがいないし、憐れみどころではなく、自分を救う気持が先に立ったはずです。もちろん、そうにちがいありません。くりかえしになりますが、反対に頭蓋骨を徹底的にたたき割ったはずで、五分間もかかずらってなどいないでしょう。憐れみと、やさしい感情が現れたのは、まさしく、それまで良心が清らかだったからにほかなりません。したがって、これはまったく別の心理学になるのです。陪審員のみなさん、わたしは今、心理学からはどのような結論でも引きだせることを、わかりやすく示すために、わざと自分も心理学を用いてみました。問題は、だれがどうそれを用いるかにあるのです。心理学はきわめてまじめな人たちにさえ、創作欲をかきたてるものであり、しかもそれがまったく無意識のうちになのです。陪審員のみなさん、わたしの申すのは、必要以上の心理分析と、そのある種の悪用のことであります」

「炯眼(けいがん)」とは(1) 鋭く光る目。鋭い目つき。「―人を射る」(2) 物事をはっきりと見抜く力。鋭い眼力。慧眼(けいがん)。「―をもって鳴る批評家」とのことです、また、こういうのもありました、(1)鋭く光る目。(2)眼力が鋭く、洞察力が優れていること。慧眼。《秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。(太宰治『ア、秋』)》。

ここでいう「心理学」とは、被告の行動を被告の心の動きから合理的に説明するものとして使っているようですね、「行動心理学」とかいうものに近いようですが、これは「フェチュコーウィチ」がいうように「問題は、だれがどうそれを用いるかにあるのです」なのだと思います、しかし、まだ彼の弁論がはじまったばかりですが、ここに表記された話し方は「イッポリート」のような情熱的な迫力はありませんね。

ここでふたたび傍証席に、賛同の笑い声がきこえ、それはすべて検事に向けられたものでした。


わたしは弁護人の弁論全部をくわしく引用することはやめにして、その中からいくつかの個所や、二、三の重要な点だけをあげることにします。


2019年2月20日水曜日

1056

弁護人はこんなふうに説き起し、突然、声を張りあげました。

「陪審員のみなさん、わたしはこの町にはじめて来た人間です。わたしの受けた印象はすべて、先入観にもとづくものではありません。被告は粗暴な性格であり、野放図な人間で、おそらくこの町の百人もの人を侮辱し、そのために多くの方がかねてより被告に対して反感をいだいていたようでありますが、わたしはその侮辱も受けておりません。もちろん、当地の社交界の道徳的感情が憤ったのもしごく当然であることは、わたしも認めます。被告は粗暴であり、抑制のきかぬ人間だからです。が、それでも被告は当地の社交界に受け入れられ、才能豊かなわが検事の家庭でさえ目をかけられておりました」

(筆者注 この言葉をきいて傍聴席に二、三の笑い声があがり、すぐに抑えられはしたが、みなの耳に入った)。

検事が不本意ながら「ミーチャ」をわが家に出入りさせていたことや、それというのももっぱら検事夫人がなぜか彼を興味ある人物と見なしていたためであることは、周知の事実でした-検事夫人はきわめて道徳的な、立派な女性でしたが、空想好きなわがままな性質で、時によると、それも主として些細な事柄で夫に楯つくのが好きでした。

検事夫人は(779)で検事は「・・・・そのくせたいそう太った不妊症の女と結婚しており」と書かれていました。

もっとも「ミーチャ」はかなり時たましか検事の家を訪ねませんでした。

「それにもかかわらず、わたしはあえて仮定するのですが」

弁護人はつづけました。

「わが論敵のような、自立的な知性と公正な性格の内にさえ、わたしの不幸な依頼人に対して、ある種の誤った先入観が作られていたかもしれないのです。そう、これはきわめて自然であります。不幸な被告は、先入観をいだかれも仕方のないようなことを、あまりにもやりすぎてきたからです。傷つけられた道徳感情や、それにもまして美的感情は、時によると容赦ないものになることがあります。もちろん、才能あふれる検事の論告に、われわれは被告の性格や行為の厳密な分析と、事件に対する厳正な批判的態度をききとりましたし、何よりも、われわれに事件の本質を説明してくださるために深い心理分析が示されました。あの深層心理の洞察は、被告個人に対して多少なりとも意図的な悪意ある偏見をいだいている場合には、決して生れえなかったにちがいありません。しかし、このような場合、事件に対するきわめて悪意と偏見にみちた態度より、いっそう始末がわるく、いっそう致命的なものがあります。ほかでもありませんが、たとえば、ある種のいわば芸術的な遊びの精神、芸術的創作欲というか小説創作欲にわれわれが捉えられたような場合がそれで、特に神がわれわれの才能に恵んでくれた心理分析の天分が豊かである場合には、なおさらのことです。まだペテルブルグにいて、当地に参る支度をしているころから、わたしは警告されておりましたし、それに警告されるまでもなくわたし自身、当地で出会う論敵が深遠で緻密な心理学者であり、まだ歴史の浅いわが司法界に、もう久しくその特質によってある種の特別な名声を馳せておられることは、承知しておりました。しかし、みなさん、心理学というのは深遠なものでこそありますが、やはり両刃の刀に似たところがあるのです(傍聴席に笑い声)。おお、もちろん、みなさんはこの陳腐なたとえをお許しくださるでしょう。なにしろわたしは、雄弁に語るのはあまりにも不得手なのです。それでもしかし、検事の論告から思いつくままに一つ例をあげてみることにします。あの夜、被告は庭で塀を乗りこえて逃亡しようとした際、足にしがみついた召使を銅の杵で殴り倒した。それからすぐにまた庭にとびおり、召使を殺したかどうかを確かめようとして、まる五分もの間、被害者の世話をしていた。ところで検事は、被告がグリゴーリイ老人のところへとびおりたのは憐れみの気持からであるという供述の正しさを、なんとしても信じようとなさらないのです。『いや、あのような瞬間にそんな感傷が起りうるだろうか。それは不自然である。被告がとびおりたのは、自分の犯行の唯一の目撃者が生きているかどうかを確かめるためにほかならない。とすれば、そのことによって、彼があの犯行をやってのけたことを証明したわけだ。なぜなら、何らかの他の動機や衝動や感情によって、庭にとびおりたりするはずがないからだ』これが心理学であります。・・・・」

発言の途中ですが、ここで切ります。


「フェチュコーウィチ」は「イッポリート」の用いた心理学そのものに対して否定的なようですね、そして心理学によって被告の分析をする場合の分析する側の先入観のことに言及しています、つまり悪い噂が多い被告の心理を悪意を持って分析しているのではないかということで、さらにそれが創作的、作り話の要素もあるのではないかということです、「フェチュコーウィチ」はこれから彼に不利な多くの事実を一つ一つ潰そうとしています。


2019年2月19日火曜日

1055

十 弁護人の弁論。両刃の刀

有名な弁護士の最初の一言がひびき渡ると、すべてが鳴りをしずめました。

法廷全部が彼に目を釘付けにしていました。

彼はしごく率直な、簡明な、自信にみちた口調で話しはじめましたが、不遜な影はみじんもありませんでした。

雄弁や、悲愴な調子や、感情のふるえひびく言葉などを駆使しようという野心は少しも見られませんでした。

共感してくれる人たちの親しい集まりで話しはじめた人のようでした。

その声は美しく、声量も豊かで、感じがよく、声そのものにさえすでに何か真剣な、素直なものがひびいている感じでした。

しかし、この弁士なら、一挙に真の悲愴な調子にまで高揚して、《ふしぎな力で人々の心を打つ》(訳注 プーシキンの詩の一句)ことができるのが、みなにすぐわかりました。

ことによると、彼の話し方は「イッポリート」より型破りだったかもしれませんが、長たらしい文章がなく、むしろ正確でさえありました。

とうとう最後の「フェチュコーウィチ」の弁護がはじまりましたね、検事の論告がたいへん饒舌で感動的で完全でしたので、彼の発言はそれに対抗するだけの内容が要求されるわけです、作者は自分で山のように高いハードルを自分でこしらえて、それをさらに乗り越えようとしているのです、ここで「フェチュコーウィチ」の弁護の特徴がいくつかあげられています、①率直で簡明で自信にみちた口調、②不遜さはまったくない、③雄弁や、悲愴な調子や、感情のふるえひびく言葉などを駆使しようという野心がない、④共感してくれる人たちの親しい集まりで話しているようだ、⑤美しく、声量も豊かで、感じがよく、声そのものに何か真剣な、素直なものがひびいている感じ、⑥長たらしい文章がなく、むしろ正確ということです、つまり話し方がうまいということですね。

一つだけ婦人たちの気に入らぬ点がありました。

彼がいつもなんとなく背を曲げていたことで、特に弁論の最初には、おじぎするというのでもなく、なにか傍聴席の方へまっしぐらに飛んで行こうとするみたいに、長い背中を二つに折り、まるでその細い長い背中に蝶番でも取りつけてあって、そのためにほとんど直角に折り曲げることができるかのような感じでした。

弁論の最初のころは、なにか散漫な話し方で、体系がなく、手あたりしだいにいろいろな事実をつかみだしてくるように思われましたが、最後には一つの全体像ができあがっているのでした。

彼の弁論は二つの部分に分けることができそうでした。

前半は、検事論告の批判と反駁で、ときおり意地わるい辛辣な調子になりました。

ところが後半に入ると、ふいに語調も、態度さえも一変した感じで、一挙に悲愴な気分に高揚したため、法廷はこれを待ち構えていたかのように、感激に打ちふるえました。

彼はまっすぐ核心に入り、自分の活動舞台はペテルブルグでこそあるが、被告の弁護のためにロシアの各都市を訪れるのは今回がはじめてではない、しかしそれは、自分が無実だと確信できる被告か、あらかじめ無実の予感がする被告に限るのだ、ということから説き起こしました。

「この事件に関してもまったく同様であります」

彼は説明しました。


「最初のころの新聞の報道を見ただけで、すでにわたしには何か被告に有利なものがひらめき、極度に心を打ったのであります。一言で言えば、何よりも先にわたしの関心をひいたのは、ある法律的な事実なのです。これは裁判上の慣例でしばしばくりかえされるものであるとは言え、今度の事件のように完全な形で、これほど個性的な特徴をそなえて現れることは決してないように思えるのです。この事実は弁論の終りに、わたしが話をしめくくるにあたって述べるべきでありましょうが、わたしはいちばん最初にその考えを言ってしまいます。それというのも、わたしは効果を隠したり、印象を節約したりせずに、ずばり本題に入るという欠点を持っているからです。これはわたしとしては損得を考えぬやり方かもしれませんが、その代り誠実なわけであります。わたしのその考え、わたしの公式とは、次のようなものです-つまり、数々の事実の圧倒的な総和は被告に不利であっても、その反面、それらを一つ一つそれ自体検討してみると、批判に堪えるような事実はただの一つもないという点であります! その後さらにいろいろの噂や新聞によってこの事件に注目し、わたしはますますこの考えを確信するようになったのですが、そこへ突然、被告の身内の方から弁護の依頼を受けたのでした。わたしはただちに当地へ急行し、ここに来てもはや最終的な確信を得ました。数々の事実の恐るべき総和を粉砕し、それぞれの起訴事実の証拠不十分と空想性とを明るみに出すために、わたしはあえてこの事件の弁護を引き受けたのであります」


2019年2月18日月曜日

1054

「ちょいとむきになりすぎてね」

「不公平ですよ、不公平ですとも」

「いや、やはりみごとなもんだ。永年この日を待っていたんで、思いきり言ったんですよ、へ、へ!」

「弁護人は何を言いますかね?」

別のグループでは、「ペテルブルグの先生を無意味に刺激しましたね。『感じやすい心を打つ』なんて、おぼえてらっしゃるでしょう?」

「ええ、あれはうかつですわ」

「あせったのね」

「神経質な人ですもの」

「あたしたちはこうして笑っていますけど、被告はどんな気持でしょう?」

「そう、ミーチェニカはどんな気持かしら?」

「弁護士さんは何をおっしゃるでしょう?」

また第三のグループでは、「あの婦人は何者だい、柄付き眼鏡(ロールネット)を持っている、太った、いちばん端に坐ってるのは?」

この「柄付き眼鏡(ロールネット)」とは何でしょうか、だいたいは想像がつきますが、一般的には「ロニエット」とか「ロルネット」とか呼ばれているようです、「ハンドルのついた眼鏡。眼鏡を掛けることを好まない上流階級の婦人が観劇やルーペの代わり (レンズの種類による)に用いた」とのことです。

「あれはさる将軍の奥さんでね、離婚したんだ。あの人なら僕は知ってるよ」

「それで柄付き眼鏡なんぞもってるんだな」

「あばずれだよ」

おしゃれな人の持ち物ということですね。

「いや、ちょいと男好きのする女だぜ」

「あの二人おいた隣にブロンドが坐っているだろう。あのほうがいいよ」

「それにしてもあのときモークロエで、みごとな不意打ちを食わせたもんだね、え?」

「みごとはみごとだけど、またあのお話じゃね。なにしろ軒並みにどれだけ話してまわったかしれないんだから」

「今も我慢しきれなくなったってわけさ。うぬぼれが強いからな」

「不遇の身だからね、へ、へ!」

「それに失敬な男だよ。おまけに美辞麗句は多いし、文章は冗漫だし」

「それに脅しをかけるしな。どうだい、のべつ脅してたじゃないか。トロイカのくだりをおぼえてるかい? 『ハムレットはあちらの話で、わが国では今のところまだカラマーゾフなのであります!』ときたもんだ。あっぱれだね」

「あれは自由主義に当てつけたのさ。こわいんだよ!」

「それに弁護士もこわいのさ」

「そう、フェチュコーウィチ先生、何を言うかな?」

「いや、何を言っても、しょせん百姓どもの心は動かせないよ」

「そう思うかい?」

第四のグループでは、「あのトロイカの話はよかったですな、あれは諸民族のくだりでしたね」

「たしかにあのとおりですよ、ほら、諸民族はぼんやり待ってはいないだろうと言ったくだりはね」

「何のことです?」

「先週イギリスの議会で、さる議員がニヒリストのことで政府に質問したんですよ。あの野蛮な国民を教育するために、そろそろ介入していいころではないかって。イッポリートはそのことを言ってるんです。僕は知ってるけど、その話ですよ。先週その話をしてましたからね」

「山しぎ来たるもなお遠し、ですよ(訳注 待っててもらいたいものですなの意)」

「山しぎって何のことです? どうして、遠いんです?」

本当に「山しぎ来たるもなお遠し」って何でしょう、訳注を読めばわかりますが、ネットでも探せませんでした、出典は何なのでしょう、そして、なぜ「山しぎ」なのでしょうか。

「こっちはクロンシタットを閉鎖して、やつらに麦をくれてやりませんからね。そしたらどこで手に入れます?」

これは「クロンシタット」は、「ロシア北西部,レニングラード州の都市。1723年までクロンシロート Kronshlot。サンクトペテルブルグの西約 30km,フィンランド湾東部のコトリン島にある港湾都市。1703年ピョートル1世がサンクトペテルブルグ防衛のため,要塞と軍港を構築したのが始まりで,バルチック艦隊の根拠地となって発展。また 1875~85年湾奥のサンクトペテルブルグへいたる水路が掘削されるまでは,貿易港としてもにぎわった。しばしば反乱の舞台となり,ロシア革命時にはクロンシタットに駐屯する水兵が大きな役割を果たした(→クロンシタットの反乱)。また第2次世界大戦中レニングラード包囲戦に際しては,その防衛に大きく貢献した。港は 12月初旬から 4月まで結氷するため,砕氷船が出動する。人口 4万2992 (2005推計) 。」とのこと、「麦」の一件はどういう事件なのでしょうか。

「だって、アメリカは? この節はアメリカから輸入してるんですよ」

「嘘をつきたまえ」

しかし、鐘が鳴り、だれもが席にとんで帰りました。


「フェチュコーウィチ」が壇にのぼりました。


2019年2月17日日曜日

1053

「たとえこの法廷に、あなた方の感じやすい心を打つ、どれほど雄弁で感動的な言葉がひびき渡ろうと、みなさんはやはり、この瞬間、裁きの聖堂におられることを思い起してください。みなさんが真実の擁護者であり、聖なるロシアと、その基盤と、その家族と、そのすべての神聖なものとの擁護者であることを、思い起していただきたいのです! そうです、今この瞬間みなさんはロシアを代表しているのであり、みなさんの判決は単にこの法廷だけではなく、ロシア全土にひびき渡って、全ロシアが自己の擁護者であり審判者であるみなさんの声に耳を傾け、みなさんの判決に励まされもすれば、悲しみもするのであります。ロシアとその期待を苦しめないでください。われわれの宿命的なトロイカは、ことによると破滅に向って、まっしぐらに突き進んでいるのかもしれません。そして、すでに久しい以前からロシア全土で、この気違いじみたがむしゃらな疾走を止めようと、手がさしのべられ、訴えがなされているのです。他の諸国民が今のところまだ、がむしゃらに突っ走るこのトロイカに道を譲っているとしても、おそらくそれは、かつて詩人の望んだように、敬意からでなどなく、単に恐怖からにすぎないでしょう。この点を心にとめていただきたい、恐怖からか、あるいは嫌悪からでありましょうが、それでも道を譲ってくれるうちはまだいいでしょう。ことによると、他の諸国民がやがて道を譲ることを突然やめて、驀進(ばくしん)する幻影の前に堅固な壁となって立ちふさがり、自己を救うため、文化と文明を救うために、わが国の放埓ぶりの狂気の疾走をみずから押しとどめるようになるかもしれません! そうしたヨーロッパからの不穏な声が、すでにわれわれの耳に入っているのです。すでにその声があがりはじめているのです。実の息子による父親殺しを無罪とするような判決によって、それらの声を挑発し、ますますつのる彼らの憎しみを貯えたりしてはならないのです!」

一言で言うなら、「イッポリート」はひどく夢中になってしまったとはいえ、やはり悲愴な感じでしめくくりました。

やっと「イッポリート」の論告は終わったのですね、論告の結語は「トロイカ」の話になってしまいました、彼が言いたかったことはそのことかもしれません、(1031)でも彼は言っていました、「・・・・一時代前の偉大な作家(訳注 ゴーゴリ)は、そのもっとも偉大な作品(訳注 『死せる魂』)の結びで、ロシア全体を未知の目的に向ってひた走る勇ましいトロイカに見立てて、『ああ、トロイカよ、鳥のようなトロイカよ、だれがお前を考えだしたのだ!』と叫び、さらに誇らしげに感激に包まれて、がむしゃらに疾走するこのトロイカの前にすべての民族がうやうやしく道をあけると、付け加えたものです。みなさん、これはこれでかまいません。道をあけるなら、うやうやしくだろうと、どうだろうとかまわないのです。しかし、わたしの大それた考えによれば、かの天才的な芸術家がこのように作品を結んだのは、小児のように無邪気なセンチメンタルな善意の発作にかられたためか、あるいは単に当時の検閲を恐れたからにすぎないと思うのです。なぜなら、ソバケーウィチとか、ノズドリョフ、チチコフといった彼の作品の主人公たちに、この馬車を曳かせたりしようものなら、たとえどんな人物を馭者に仕立てようと、そんな馬ではまともなところに行きつけるはずがないからであります! しかも、これは現代の馬には遠く及びもつかぬ、一昔前の駄馬にすぎませんし、現代の馬はもっと優秀なのです・・・・」と、つまり、この父親殺しの事件を、時代の変わり目に目的もみえぬ未知に向って「がむしゃらに疾走する」狂気と捉え、今のロシアの現状と重ねています、しかしそれはそれですぐれた分析だとは思いますが、肝心の裁判における論告としては当初からの思い込みが強く、それに支配されているような気がしました。

ここで私なりに簡単ではありますが「イッポリート」の長い論告をまとめてみました。

1)現代のロシアの問題点を挙げて、この事件との関連
2)カラマーゾフ家の家族の紹介、「フョードル」「イワン」「アリョーシャ」「ドミートリイ」
3)「スメルジャコフ」の自殺の報告
4)「ドミートリイ」が常に身につけていた千五百ルーブルを使わなかったことの口頭での反証
5)財産をめぐる争いや、父と息子の家庭における関係のまとめ
6)医学鑑定、「ヘルツェンシトゥーベ」博士、モスクワの有名な博士、若い医師「ワルヴィンスキー」のうちの「ワルヴィンスキー」の「ドミートリイ」が正常であると言う意見に賛成し、「ドミートリイ」は正常だとする
7)「ラキーチン」の意見に基づく「グルーシェニカ」の否定的な性格分析
8)「ドミートリイ」が狂気にいたった五つの理由
9)「ドミートリイ」が「手紙」に書いた犯行の計画性
10)「ドミートリイ」が町中で吹聴していた殺人が具体性を帯びたのは「手紙」を書いたときであるが、同時にそれを回避するために必死になって行動していた、つまり「サムソーノフ」を訪問したことや、「セッター」を訪ねた小旅行などを詳しく説明
11)《裏庭》で「スメルジャコフ」と「グリゴーリイ」が病気であることを知ったこと
12)「ホフラコワ夫人」に金鉱行きをすすめられたこと
13)《合図》の説明
14)「スメルジャコフ」有罪説を支持するのは「イワン」「アリョーシャ」「グルーシェニカ」の三人だけであり、すべて確かな根拠はない
15)「スメルジャコフ」の性格描写、実際面で「フョードル」、理論面で「イワン」の影響、「ドミートリイ」に脅されて殺人の手助けをする
16)「スメルジャコフ」を正直者と判断し、癲癇も仮病ではないと説明
17)「スメルジャコフ単独犯行説」否定の根拠、彼の動機は金銭しか考えられず、その場合「ドミートリイ」に被害者の内実などを教えるはずはないということから否定、また当日の癲癇の病状からみても犯行を否定
18)「イワン」が法廷に提出した「スメルジャコフ」が着服していたという三千ルーブルについての反証
19)「封筒」が不自然に床に投げ捨てられたままになっていたというこそ半狂乱の「ドミートリイ」の仕業であり、彼が「グリゴーリイ」を介抱したのも、死んだかどうかの確認のためだと主張。
20)《まぎれもない以前の男》の存在を知って自殺を考え、最後に派手な酒宴をすることにした「ドミートリイ」の心理描写
21)彼は裏付けをとった証言やすべてにわたる細かい情況描写や供述の紹介によって陪審員に自説の正当性を確信させた
22)逮捕当時の「ドミートリイ」の犯罪者としての自己防衛をはかるための心理を犯罪者一般から類推して詳細に推測している
23)お守り袋に千五百ルーブルを縫い込んだことを作り話と否定、「グリゴーリイ」がドアから逃げる「ドミートリイ」を見たと嘘を証言
24)「ドミートリイ」の証言にも、彼を弁護する兄弟たちの証言にも、確固たる証拠がない、あれば取り下げる

25)結語として、事件をロシアの現状と結びつける

以上です。

そして事実、彼のもたらした感銘は絶大なものでした。

当の彼は、論告を終えると、そそくさと退廷し、くりかえして言いますが、別室でほとんど失神しそうになったほどでした。

法廷は拍手こそ送りませんでしたが、まじめな人たちは満足していました。

それほど満足していなかったのは婦人たちだけでしたが、その婦人たちにしてもやはり検事の雄弁は気に入っていましたし、まして結果をまったく心配せず、「フェチュコーウィチ」にすべてを期して、『やっとあの人の弁論がはじます。そうすればもちろん、どんな相手にだって勝つにきまっている!』と信じていたのだから、なおさらのことでした。

みんながちらちら「ミーチャ」を眺めていました。

私はこの論告を聞いて、自尊心の強い「ミーチャ」が何も言わなかったのが不思議でなりませんでしたが。

検事の論告の間ずっと、彼は両手を握りしめ、歯を食いしばり、目を伏せて黙って坐っていました。

ごくたまに頭を上げて、耳をすましていました。

「グルーシェニカ」の話になると、特にそうでした。

彼女についての「ラキーチン」の意見を検事が伝えたときには、彼の顔に憎しみにみちた軽蔑の笑いがあらわれ、かなりきこえよがしに「ベルナール野郎め!」と言い放ちました。

またまた「ベルナール」が出てきましたね、(932)で「ラキーチン」が「ドミートリイ」に話したフランスの生理学者で唯物論です。

「イッポリート」がモークロエで彼を尋問して苦しめた話を報告したとき、「ミーチャ」は頭を起し、ひどく興味深げにきき入っていました。

論告のある個所では、思わず立ちあがって何か叫ぼうとしかけたほどでしたが、それでも自分を抑え、軽蔑的に肩をすくめただけでした。

後日、論告のこの最終部分、すなわちモークロエで犯人を尋問した際の検事の手柄話をめぐって、「イッポリート」は、「あの男も、自分の才能をひけらかさずにはいられなくなったのさ」と、笑い物にされたのであります。

裁判は中断されましたが、ごく短い間で、十五分か、多くて二十分くらいの間でした。

傍聴席に話し声や叫びがひびいていました。

そのいくつかを、わたしはおぼえています。

「まじめな論告でしたな!」

あるグループで、一人の紳士が眉根を寄せて感想を洩らしました。

「心理分析に熱を入れすぎましたよ」

別の声が応じました。

「しかし、何もかも事実ですからな、否定できぬ事実ですよ!」

「そう、みごとな腕前だ」

「しめくくりをつけましたね」

「われわれにもですよ、われわれにも、しめくくりをつけたんです」

第三の声が加わりました。

「論告の冒頭、おぼえているでしょう、われわれはみんなフョードル・カラマーゾフと同じだと言ったのを?」

「終りにもね。ただ、あれはハッタリですよ」

「それに、あいまいな点もありましたな」


そして、これは余談ですが昨日、名古屋外国語大学が主催で日本ドストエフスキー協会が後援の「国際ワークショップ「表象文化としてのドストエフスキー」へ行ってきました、これは、科学研究費助成事業であり、このブログでも何回も出させていただきました亀山郁夫氏を中心に企画された事業のようですので興味があったのです、たまたま気づいたのが前日であり、急いで参加希望のメールを出したところすぐにご本人から大丈夫との連絡をいただきましたので参加いたしました、ステファノ・アローエ・沼野充義・諫早勇一・大平陽一・高橋知之・越野 剛・梅垣昌子・野谷文昭・林 良児・亀山郁夫・番場 俊の各氏の講演でしたが、タイトルどおりといえばそうなので私が文句言う筋合いなど全くないのですが、ドストエフスキーの核心の周りをぐるぐる回って、比喩的な表現をすれば、獲物を狙って上空をぐるぐる回ってはいるのですがなかなか獲物に喰らいつかないトンビのようでもどかしさを感じました、できればもっとガァーっと肉に食らいついていくパトスというかパッションが感じられなかったというのが率直な感想です、もっとも各氏が与えられた時間が短くてそういう展開には無理があるのかもしれません、ついでに言うと、とは言っても言い当てる適当な言葉がみつからないのですが、諸氏の講演内容を聞いて大学関係特有の何とも言えぬ、それは懐かしくもあるのですが、ある種の胡散臭さのようなものも感じました、これは学問だから仕方ないのかもしれませんが、合理的で科学的で学術的なものに関わる者にどうしてもつきまとうものであり研究発表するという行為につきものの何かだと思いますが、これは諸氏にその自覚があるがゆえにある種の胡散臭さを聴くものに感じさせるのかもしれません、とは言ってもいろいろとめずらしい内容の発表もありましたので、ゆっくりと反芻して考えてみたいと思います、5時間を超える内容でしたので少々疲れはしましたが、会場である東京大学本郷キャンパス法文2号館を出た時は真っ暗でした、安田講堂前の冬枯れのクスノキの道を歩きながら真っ先に思ったことは(Ora Orade Shitori egumo )でした。


2019年2月16日土曜日

1052

「イッポリート」の論告の続きです。

「・・・・これで被告はもう腹を立て、こんな質問は侮辱にひとしい瑣末事だと考える。しかも、いいですか、まったく本気で、本心からそう思うのです! しかし、彼らはみんなこうなのです。『自分のシャツを引き裂いたんです』という答えが返ってきます。『結構です。それなら、明日にでもあなたの下着類の中から、切れ端を引き裂いたそのシャツを見つけだしましょう』いかがですか、陪審員のみなさん、もし本当にそのシャツを発見できさえすれば(本当にそういうシャツが存在するとしたら、被告のトランクか箪笥の中に見つかるにきまっていますからね)、そうすればこれはたしかに事実であり、被告の供述の正しさを証明する歴然たる事実ということになるのです! ところが被告はそこまで思いめぐらすことができない。『よくおぼえていないけど、ことによるとシャツを引き裂いたんじゃなく、下宿のおかみのナイトキャップで縫ったんです』と被告は言いだす。『どんなナイトキャップですか?』『おかみのところから、くすねてきたんです。あそこにころがっていたもんでね。古いキャラコのぼろ布ですよ』『それははっきりおぼえているんですね?』『いいえ、はっきりおぼえているわけじゃありません・・・・』そして、かんかんになって怒るのですが、しかし考えてもみてください。これをおぼえていないはずがあるでしょうか? 人間にとってもっとも恐ろしい瞬間、たとえば刑場に曳かれてゆくときなどこそ、こうした些細な事実が記憶に残るのであります。すべてを忘れても、途中でちらと見えたどこかの緑色の屋根とか、十字架の上にとまっていたカラスとか、そういうものは記憶に刻みつけるのです。なにしろ被告はそのお守り袋を縫うにあたって、下宿の人々の目を避けたはずですし、だれか部屋に入ってきて見つけはせぬかという恐怖に、針を手にしながらどれほど屈辱的な苦しみを味わったか、当然、記憶しているにちがいないのです。ノックの音がしただけで、とびあがって、衝立のかげに逃げこんだはずなのです(彼の部屋には衝立があるのですから)・・・・それにしても、陪審員のみなさん、何のためにわたしはこんな細部の事実を、瑣末なことを、くだくだとお話ししているのでしょうか?」

突然「イッポリート」は叫びました。

「ほかでもありません、被告が今この瞬間にいたるまで、こんなばかげた話を頑なに言い張りつづけているからなのです! 被告にとって宿命的なあの夜以来、この二カ月の間ずっと、被告は何一つ説明できず、それまでのとっぴな供述を説明づけるような、具体的な状況をただの一つも付け加えていないのです。そんなものはすべて瑣末なことだ、名誉にかけて信じてほしい、と言うのであります! そう、われわれも喜んで信じたい、たとえ名誉にかけてでも信じたいと切望しております! われわれが人間の血に飢えた山犬ででもあるでしょうか? 被告に有利な事実をたとえ一つなりと示し、与えてくれれば、われわれは大喜びするのです。しかし、被告の表情によって実の弟の出した結論だとか、被告が胸をたたいたのは、きっとお守り袋を、それも闇の中でさし示したにちがいないなどという指摘ではなく、歴然とした具体的な事実でなければ困ります。われわれは新しい事実を歓迎し、真っ先に起訴を取り下げます。急いで取り下げるでしょう。だが、今は正義が叫んでおり、われわれはあくまでも主張を貫いて、何一つ取り下げることができないのです」

「イッポリート」はここで結語に移りました。

彼は熱にうかされたように見えました。

流された血のために、《卑しい強奪の目的で》息子に殺された父親の血のために、彼は絶叫しました。

数々の事実の悲劇的なおどろくべき総和を、彼はしっかりと指摘したのでした。

「天才をもって知られる被告の弁護人から、たとえどのようなことをきかされようと」

「イッポリート」はこらえきれずに言いました。


たしかに私も、お守り袋を縫ったときのことははっきりと記憶に残っているのではないかと思いますが、「ドミートリイ」がはっきり覚えていないのならそういうこともありうるのではないでしょうか、信じられないから否定するのではなく、信じられないことが往々にして現実には起こることもありうるのではないでしょうか。




2019年2月15日金曜日

1051

彼がスメルジャコフの名を持ちだすのは、おそらく翌日なり数日後なりのことで、機会をとらえて自分からこう叫ぶにきまっているのです。『どうです、僕はあなた方以上にスメルジャコフ説を否定していました、あなた方もそれはおぼえておられるでしょう。でも今やその僕も確信しました。あの男が殺したんです、あいつにちがいありません!』が、さしあたりわれわれに同調して、陰鬱な苛立たしい否定をする。それでも、もどかしさと怒りが、父親の窓をのぞいてうやうやしく立ち去ったなどいう、きわめて拙劣な、見えすいた釈明を彼に耳打ちしたのでした。何より、被告はまださまざまの状況や、意識を取り戻したグリゴーリイの証言の程度を、知らなかったのです。われわれは彼の身体検査にとりかかりました。身体検査は彼を怒らせましたが、逆に元気づけもしました。なぜなら三千ルーブルそっくりは見つからず、見つかったのは千五百ルーブルだけだったからです。そして言うまでもなく、憤ろしい沈黙と否定のこの瞬間になって、はじめて、お守り袋というアイデアが頭にうかんだのでした。疑いもなく被告はこの作り話の信じがたさを自分でも感じて苦しみ、なんとか本当らしく見せよう、まことしやかな一編の小説になるようにでっちあげようと、ひどく苦しんでいました。こういう場合、予審の第一の仕事は、そのいちばん重要な課題は、準備する余裕を与えずに不意打ちを食わして、犯人が心に秘めた考えを、すぐにぼろを出すような単純さと、不自然さと、矛盾とにみちた形で言うように仕向けることであります。犯人に口を割らせるには、何か、その意味からいえばきわめて重大でありながら、犯人がそれまで決して予想もしておらず、絶対に見ぬけぬような新しい事実なり、なんらかの状況なりを突然、さりげなく知らせてやるに限るのです。その事実はわれわれの手もとに用意されてありました。そう、かねて用意してあったのです。それは、ドアが開いており、そこから被告が逃げだしたという、意識を取り戻した召使グリゴーリイの証言でした。このドアのことを被告はすっかり忘れていたし、グリゴーリイがそれを見ていようなどとは、予想してもいなかったのです。効果は絶大でした。彼はとびあがって、だしぬけに『それじゃスメルジャコフが殺したんだ、スメルジャコフです!』と叫んだのです。こうして自分の秘め隠していた、基本的な考えを、きわめて見えすいた形でさらけだしたのです。なぜなら、スメルジャコフが殺しうるとすれば、被告がグリゴーリイを殴り倒して逃走したあとに限られるからです。そこで、グリゴーリイがドアの開いている見たのは殴り倒される前のことだった事実や、寝室を出るときに彼は衝立の向うでスメルジャコフの呻いているのをきいたことなどを、われわれが知らせてやると、被告は本当に打ちしおれてしまいました。わたしの同僚である、尊敬すべき俊才ネリュードフ予審調査官は、その瞬間、涙が出るほど被告が気の毒になったと、あとでわたしに話してくれたほどでした。そして、まさにその瞬間、被告は事態を立て直すために、例のまことしやかなお守り袋の話をあわてて告げたのであります。じゃ仕方がない、それならこういうお話をきいてください、というわけなのです! 陪審員のみなさん、ひと月前にお守り袋に金を縫いこんだというこの作り話を、なぜわたしが単にナンセンスであるばかりか、この場合に見いだしうる限りのもっとも見えすいたでたらめとさえ見なしているかという、わたしの考えはすでに述べました。これ以上見えすいた嘘を言ったり考えたりできるかどうか、たとえ賭けをして探したとしても、こんなへたな嘘は考えだせぬことでしょう。何よりもこの場合、得意になっている作者をたじろがせ、粉砕しうるのは、細部の事実であります。すなわち、現実には常にふんだんにあるというのに、心ならずも作者になったこれらの不幸な人々がいつも、何の意味もない不必要な些事として軽視し、決して頭にうかべようとさえせぬ、細部の事実にほかならないのです。そう、彼らはその瞬間そんなものにかまっておられず、彼らの頭はもっぱら壮大な全体像だけを創りあげる-ですから、よくもこんな瑣末なことを持ちだせるもんだ、という感をいだくのです! だが、彼らがぼろを出すのも、まさにここなのです! たとえば被告にこういう質問を出してみます。『ところで、どこでそのお守り袋の布施を手に入れましたか? だれに縫ってもらったのです?』『自分で縫ったんです』『で、その布地はどこで手に入れたんです?』・・・・」

ここで切ります。


「イッポリート」の推測が続きます、逮捕時の尋問内容をいろいろと捻じ曲げて自分の都合のいいように説明しています、彼は「われわれは彼の身体検査にとりかかりました。身体検査は彼を怒らせましたが、逆に元気づけもしました。なぜなら三千ルーブルそっくりは見つからず、見つかったのは千五百ルーブルだけだったからです。」と言っていますが、身体検査で見つかったわけではないですね、また、「その事実はわれわれの手もとに用意されてありました。そう、かねて用意してあったのです。それは、ドアが開いており、そこから被告が逃げだしたという、意識を取り戻した召使グリゴーリイの証言でした」というのはおかしいですね、(817)で検事は「まさにあなたが今おっしゃった、その開いていたドアのことですがね、ちょうどついでですから、あなたに傷を負わされたグリゴーリイ老人の、きわめて興味深い、そしてあなたにとってもわれわれにとってもこの上なく重要な証言を、今ここでお伝えしてかまわんでしょう。意識を取り戻したあと、われわれの質問に対して老人がはっきり、くどいくらいに語った話によると、表階段に出て、庭になにやら物音をききつけたので、開け放されたままになっている木戸から庭に入ってみようと決心した段階で、庭に入るなり、あなたがすでに供述なさったように、開け放した窓ごしにお父上の姿を見て暗闇の中を逃げてゆくあなたの姿に気づく前に、グリゴーリイ老人は左手に目をやって、たしかにその窓が開いているのを見たそうですし、同時に、そのずっと手前にあるドア、つまり庭にいた間ずっと閉ったままだったとあなたが主張なさっておられる例のドアが開け放されているのに気がついたそうです。あなたには隠さずに申しあげますが、グリゴーリイ自身は、あなたがそのドアから逃げだしたにちがいないと固く断言し、証言しているのです。と言っても、もちろん彼は、あなたが走りでるところを自分の目で見たわけではなく、老人がはじめてあなたを見つけたのは、もうだいぶ離れた庭の中で、塀の方に逃げてゆくところを・・・・」、つまり「自分の目で見たわけではな」いのです。


2019年2月14日木曜日

1050

「イッポリート」の論告の続きです。

「・・・・こうして彼は今、自己の運命の決定者たる裁判官の前に立っております。陪審員のみなさん、職務であるにもかかわらず、われわれ自身も一人の人間に対してほとんど恐怖に近い気持をおぼえ、その人間のためにそら恐ろしくなるような瞬間が、ままあるものです。それは、犯罪者がすでに何もかもおしまいであることを知りながら、なおかつ戦おうとし、戦う肚でいるときの、あの動物的な恐怖を見る瞬間であります。そういう瞬間には、いっさいの自己保存の本能が一挙に目ざめ、犯罪人は自分を救おうとして、苦悩にみちた物問いたげな、貫くような視線でみなさんを眺め、あなた方の顔つきや考えをとらえてさぐろうとし、あなた方がどちら側から打ちかかってくるかを待ち受けながら、ふるえる頭の中でとっさに何千という作戦を立て、それでもやはりそれを口に出すことを恐れ、うっかり口をすべらせることを恐れているものなのです! 人間の魂のこの屈辱的な瞬間や、魂の苦難の遍歴、自己救済のこうした動物的な渇望-それはまさに恐怖であり、ときには予審調査官の心にさえ犯人に対する同情と戦慄とをひき起すのです! それらすべてをわたしたちはあのとき、目撃したのでした。最初、被告は呆然とし、恐怖にかられて思わず、自分の名誉をひどく傷つけるような言葉をいくつか口走りました。『血だ! 当然の報いだ!』と彼は叫んだのです。だが、彼は急いで自分を抑えました。何を言い、どう答えるか、それらすべてはさしあたりまだ準備できておらず、用意できていたのはただ、『父の死に関しては無実だ!』という根拠のない否定だけでした。これが当座の防壁であり、この防壁の背後におそらく、さらに何かを、何らかのバリケードを築こうとしたのであります。自分の名誉を傷つけた最初の叫びを、彼は、われわれの尋問を予測して、召使グリゴーリイの死に関してのみ自分を有罪と認めるという説明を、あわててしました。『その血に関してなら罪があります、それにしても、だれが親父を殺したんでしょう、みなさん、だれが殺したんです? 僕でないとすると(八字の上に傍点)、殺すことのできたのはだれでしょうね?』どうですか、彼はわれわれにこうたずねたのです、同じその質問をたずさえて彼自身のところにおもむいたわれわれに、です! 《僕でないとすると》という、この先まわりした一言を、この動物的な老獪さを、この単純さを、このカラマーゾフ的な性急さを、おききになりましたか? 殺したのは俺じゃない、俺だなどと考えてもらっては困る、というわけです。『殺したいと思ったことはあります。みなさん、殺したいと思ったことはある』彼は急いでこう認めました。(あわててです、そう、ひどくあわてていました!)『でも、やはり僕は無実です、殺したのは僕じゃない!』彼はわれわれに対して、殺したいと思ったことはある、と譲歩してみせたのです。僕がどんなに誠実か、わかったでしょう、ですからこれで、僕が殺したんじゃないってことを早く信じてください、というわけです。ああ、こういう場合、犯罪者は往々にして信じられぬくらい軽率で、欺されやすくなるものなのです。このときも、予審調査官が突然、ごくさりげない態度で、『それじゃ殺したのは、スメルジャコフではないだろうか?』と、きわめて素朴な質問を出してみました。ところが、予期したとおりのことが起ったのです。彼はまだ準備ができておらず、いちばん確実にスメルジャコフを引っぱりだすべき時期をうまく選ぶことができぬうちに、先を越されて不意を打たれたので、ひどく腹を立てました。持ち前の気性から彼はただちに極端に走り、みずから全力をつくして、スメルジャコフが殺すはずはない、あれは人殺しのできる人間ではないと、われわれに力説しはじめたのでした。しかし、これを真に受けてはいけない、これは老獪さにすぎないのです。彼は決してスメルジャコフをあきらめたわけではなく、むしろ反対に、いずれあらためて持ちだすつもりだったのです。なぜなら、スメルジャコフ以外に、持ちだすべき人物がいないからであります。しかし、彼はそれをやつのは別の機会にであり、それというのも今はさしあたりその案が損われたからなのです。・・・・」

ここで切ります。

ここでの「イッポリート」は逮捕時の「ドミートリイ」の心情について語っていますが、人間性を疑いたくなるようないやらしい話し方ですね、性格が悪いとしか言えないです、(786)で「ドミートリイ」は、「無実です! 罪があるのは、ほかの血、つまりもう一人の老人の血に関してで、親父のじゃありません。そして死を悼んでいます! 僕は殺した、あの老人を殺してしまった、殴り殺しちまったんです・・・・しかし、その血のために、もう一つの、僕に何の罪もない恐ろしい血の責任までとらされるのは、やりきれませんよ・・・・恐ろしい濡衣だ、みなさん、まるで脳天をがんとやられたみたいですよ! それにしても、だれが殺したんだろう、殺したのはだれです? 僕でないとすると、殺すことのできたのはだれでしょうね? ふしぎだ、ばかげている、とても考えられない話だ!」と言っておりそのあとの態度を見てもそれが演技だと思えないはずですが、「イッポリート」はそのことを覚えていないのでしょうか。


また、彼は「・・・・予審調査官が突然、ごくさりげない態度で、『それじゃ殺したのは、スメルジャコフではないだろうか?』と、きわめて素朴な質問を出してみました・・・・」と言っていますが、これは、(803)で「それじゃ、その合図をスメルジャコフも知っていて、しかもあなたがお父上の死に対するいっさいの容疑を根本的に否定なさるということになれば、約束の合図をして、お父上にドアを開けさせたうえ、さらに・・・・殺人を行なったのは、その男じゃないでしょうかね?」そして、こう続きます、「ミーチャ」は深い嘲りと、同時におそろしい憎しみの眼差しで、検事を見つめました。あまり永いこと無言のままにらみつけていたので、検事は目をしばたたきはじめたほどでした。「また狐をつかまえましたね!」やがて「ミーチャ」が言いました。「悪党の尻尾をふんづかまえたってわけだ、へ、へ! あなたの肚の内は見通しですよ、検事さん! あなたはこう思ったんでしょう。僕がすぐに跳ね起きて、あなたが耳打ちしてくれた説にとびついて、『そうだ、スメルジャコフの仕業だ、あいつが人殺しだ!』と声を限りに叫びたてるだろうとね。そう考えたと白状なさいよ。白状なさい、そうすりゃ、つづきを話しますから」しかし、検事は白状しませんでした。黙って、待っていました。「どんだ誤解だ。僕はスメルジャコフだぞなんて叫びませんよ!」「ミーチャ」が言いました。「まるきり疑ってみないんですか?」「じゃ、あなた方は疑ってるんですか?」「あの男も疑ってみました」と、『それじゃ殺したのは、スメルジャコフではないだろうか?』と、きわめて素朴な質問を出し』たのは予審調査官ではなくて検事ではないでしょうか。


2019年2月13日水曜日

1049

 わたしは、三つの要素に完全に圧倒されて文句なく奴隷のように屈従した、犯罪者のそのときの精神状態を想像できるのです。その要素とは第一に、酩酊、ばか騒ぎと喧騒、踊り狂う足音、甲高い歌声、それに彼女-酒に頬を染め、うたい踊りながら、酔いしれて、笑いを送ってよこす彼女なのです! 第二に、宿命的な結末はまだ先のことだ、少なくとも間近なことではない、みなが乗りこんできて俺を捕まえるのはせいぜい明日の朝だという、心をはげましてくれる遠い空想。とすると、あと数時間ある、それだけあれば十分だ、あり余るほどだ! その数時間のうちに大いに知恵をしぼればいい。わたしは、犯罪者が死刑の絞首台に曳かれて行くときに似た気持が、彼にあったと想像します。まだ長い長い通りを馬車で運ばれ、それから徒歩で何千という群衆のわきを通り、そのあと別の通りに曲り、その通りのはずれにやっと恐ろしい広場があるのだ! 囚人馬車にのせられた死刑囚は行列のはじめにはきっと、自分の行手にまだ無限の人生があると感ずるにちがいないと、わたしには思われます。しかし、家々が過ぎ去ってゆき、絞首台がどんどん近づいてくる。ああ、まだ大丈夫だ、次の通りの曲り角までは、まだ遠い。死刑囚は相変らず元気に左右を眺め、自分に視線を釘付けにしている数千の、冷淡な物見高い群集を見まわす。彼はいまだに、自分も彼らと同じような人間であるという気がしているのです。しかし、もう次の通りへの曲り角にくる、ああ! なんでもない、まだ大丈夫だ、まだこの通りがそっくり残されている。そして、どれだけ多くの家々が過ぎ去っていっても、彼は『まだ家並みがたくさん残っているさ』と考えつづけるのです。いよいよ最後になるまで、広場につくまで、そんな気持でいるのです。あのときのカラマーゾフも、これと同じ気持だったと、わたしは想像いたします。『まだ向うじゃ気づいていまい』彼は思う。『まだ何かしらいい手を見つけることができるだろう、そう、まだ防御の計画を練ったり、反撃の方法を思案したりする時間はある。今は、今は彼女がこんなにすてきなんだからな!』心の中は不安と恐怖にとざされているのですが、それでも持金の半分を取り分けて、どこかに隠すだけの余裕はあったのです。そうでなければ、父親の枕の下から奪ってきたばかりの三千ルーブルの、そっくり半分がいったいどこへ消え失せたのか、わたしには納得できません。彼はすでに一度ならずモークロエに来たことがあり、すでに二昼夜ここで豪遊したことがあります。あの古い大きな木造の建物を、彼は納屋や回廊にいたるまで、知りつくしておりました。わたしの考えによれば、金の一部はあのとき、逮捕の少し前に、まさしくあの家の、どこかの隙間か、亀裂か、床板の下か、どこかの片隅か、屋根裏かに隠されたのです、しかし何のために? 理由はきまっています。破局は今すぐ起るかもしれない、もちろん彼はまだその破局をどう迎えるべきか、考えていないし、それにそんな暇もない、しかも頭はがんがん鳴っているし、心は彼女に(三字の上に傍点)惹かれる、だが金は-金はどんな状況でも必要です! 金さえあれば人間はどこへ行っても人間で通るからです。ことによると、あのような瞬間にそんな打算など、不自然に思われるかもしれません。しかし、彼自身が主張しているとおり、そのひと月ばかり前、やはりきわめて不安な宿命的な瞬間に、彼は三千ルーブルのうち半分を取り分けて、お守り袋に縫いこんでいるのです。もちろんそれが嘘であるにせよ、そしてそのことは今すぐ証明いたしますが、とにかくこの発想はカラマーゾフにとって馴染みのものであり、それを検討したことがあるのです。そればかりではなく、その後予審調査官に千五百ルーブルはお守り袋に(つい存在したことなないお守り袋に)取り分けたと主張したとき、おそらく彼はその場でとっさにお守り袋のことをでっちあげたにちがいありません。というのもその二時間前に、突然ひらめいたインスピレーションによって、金を半分取り分け、万一の用心に、身につけておかぬよう、朝までモークロエのどこかに隠したばかりだったからです。二つの深淵であります、陪審員のみなさん、カラマーゾフが二つの深淵を、両方いっぺんに見つめることができる人間であることを、思い起してください! あの家をわれわれは捜索しましたが、金は発見できませんでした。ことによると、その金は今でもあそこにあるのかもしれませんし、あるいはあの翌日に消えてしまって、現在は被告の手もとにあるのかもしれません。いずれにせよ、被告はかの女性のわきで、彼女の前にひざまずいているところを逮捕されたのです。彼女はベッドに横たわり、彼はその方に両手をさしのべて、その瞬間にはすべてを忘れ、逮捕する一行が近づいた物音さえ耳に入らぬほどでありました。彼はまだ何一つ申し開きの言葉を頭の中で用意する暇がなかったのです。彼も、彼の知恵も、不意を襲われたのでした。・・・・」

ここで切ります。

「イッポリート」は犯罪者としての「ドミートリイ」のそのときの心理状態を想像してみせます、つまり「ドミートリイ」がどん底の精神状態という中にありながらも、そのことを一瞬でも忘れさせるような彼にとって有利な精神状態でいられる条件のことです、それは三つあるそうです、一つ目は酩酊と彼女の存在によるハイテンション、二つ目は逮捕までの時間的余裕、三つ目は何でしょう、三つ目はなになにとはっきりとは書かれてはいません、この後の論告に続くのでしょうか、それとも、「ドミートリイ」がお金の半分を隠して持っているということでしょうか。


この説明の中で、死刑囚が刑場に向かう話が出てきます、これは「ドストエフスキー」自身の経験からの描写ではないかと書かれた文章を読んだことがあります、ある条件の下に置かれると人間はこういう思考性があるのですね、また、私は「金さえあれば人間はどこへ行っても人間で通るからです」という言葉にいたく感動しました。