2018年8月31日金曜日

883

「アリョーシャ」は、「コーリャ」の視線をとらえて、必死にまた合図を送りましたが、相手も今度も気づかなかったふりをして、目をそらせました。

「どこかへ逃げてって、そのまま行方知れずさ。あんなご馳走をもらったんだもの、行方不明になるのも当然だよ」

「コーリャ」は無慈悲に言い放ちましたが、その実、当人もなぜか息をはずませはじめたかのようでした。

「その代り、僕のペレズヴォンがいるさ・・・・スラブ的な名前だろ・・・・君のところへ連れてきてやったよ・・・・」

「いらないよ!」

突然「イリューシャ」が口走りました。

「いや、いや、いるとも。ぜひ見てくれよ・・・・気がまぎれるから。わざわざ連れてきたんだもの・・・・あれと同じように、むく毛でさ・・・・奥さん、ここへ犬をよんでもかまいませんか?」

だしぬけに彼は、何かもうまったく理解できぬ興奮にかられて、「スネギリョフ」夫人に声をかけました。

「いらない、いらないってば!」

悲しみに声をつまらせて、「イリューシャ」が叫びました。

その目に非難が燃えあがりました。

「それは、あの・・・・」

坐ろうとしかけた壁ぎわのトランクの上から、ふいに二等大尉がとびおりました。

「それは、あの・・・・また次の機会にでも・・・・」

彼は舌をもつれさせて言いましたが、「コーリャ」は強引に言い張り、あわてながら、突然「スムーロフ」に「スムーロフ、ドアを開けてくれ!」と叫び、相手がドアを開けるやいなや、呼び子を吹き鳴らしました。

「ペレズヴォン」がまっしぐらに部屋にとびこんできました。

「ジャンプしろ、ペレズヴォン、芸をやれ! 芸をやるんだ!」

「コーリャ」が席から跳ね起きて叫ぶと、犬は後肢で立ち、「イリューシャ」のベッドの前でちんちんをしました。

と、だれ一人予期しなかった事態が生じました。

「イリューシャ」がびくりとふるえ、突然力いっぱい全身を前にのりだして、「ペレズヴォン」の方に身を曲げると、息もとまるような様子で犬を見つめたのです。

「これは・・・・ジューチカだ!」

ふいに苦痛と幸福とにかすれた声で、彼は叫びました。

これが「コーリャ」がひとりきりでひと月かけて作り上げた物語のクライマックスですね。

「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」

よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫ぶと、「コーリャ」は犬の方にかがみこんで、抱きかかえ、「イリューシャ」のところまで抱きあげました。

「見ろよ、爺さん、ほらね、片目がつぶれてて、左耳が裂けてる。君が話してくれた特徴とぴたりじゃないか。僕はこの特徴で見つけたんだよ! あのとき、すぐに探しだしたんだ。こいつは、だれの飼い犬でもなかったのさ。だれの飼い犬でもなかったんですよ!」


急いで二等大尉や、夫人や、「アリョーシャ」をふりかえり、それからふたたび「イリューシャ」に向って、彼は説明しました。


2018年8月30日木曜日

882

「ええ、そう!」

息をあえがせながら、「イリューシャ」が長いささやきで答えました。

「黒マスクだから、つまり猛犬だよ、鎖につないどく犬だな」

まるで問題はすべてこの子犬と黒マスクででもあるかのように、「コーリャ」が重々しい、しっかりした口調で感想を述べました。

しかし、いちばんの問題は、いまだに彼が《小さな子》みたいに泣きだしたりせぬよう、精いっぱい感情を抑えようと努めながら、どうにも抑えきれぬことでした。

「大きくなったら、鎖でつないどかなけりゃね。僕は知ってるんだ」

「すごく大きくなるんだよ!」

少年の群れの中から一人が叫びました。

「きまってるさ、マスチフだもの。こんなに大きくなるよ、子牛くらいに」

二等大尉がとんできました。

「わざわざそういうのを見つけてきたんですから。いちばん獰猛なやつをですな。この両親もすごく大きくて、すごく獰猛で、背丈が床からこれくらいもありましょうか・・・・さ、お掛けください、このイリューシャのベッドにでも。さもなければこちらのベンチに。さ、さ、どうぞ、大事なお客さん、待ちに待ったお客さんですから・・・・カラマーゾフさんとごいっしょにいらしたんですか?」

繰り返しますが二等大尉はなぜそんな獰猛で大きくなるような犬を買ってきたんでしょうか、今この瞬間に「イリューシャ」を喜ばせることだけを考えて将来のことなど考えていませんね。

「コーリャ」は「イリューシャ」のベッドの裾に腰をおろしました。

おそらく、ここへくる途中、どんな話題からくだけた会話をはじめるか、準備してきたのだろうが、今や完全にその糸口を見失っていました。

「いいえ・・・・僕はペレズヴォンを連れてきたんです・・・・僕は今、ペレズヴォンという犬を飼ってるんですよ。スラブ的な名前でしょう。向うに待機してますから、僕が呼び子を吹けば、とびこんできます。僕も犬を連れてきたんだ」

「スラブ的」ということがどういうことなのか分かりませんでしたので、調べてみました、「スラブ主義」という項目に「スラボフィル,スラブ派 slavyanofilyとも呼ばれる。 1830~70年代にロシアのインテリゲンチアの一部でもてはやされた宗教的国粋主義的思潮。ヘーゲル哲学,特にその宗教的観念論的傾向を継承しつつ,またシェリング哲学に基づいてロシアの国民性の本質を探求し,それをピョートル1世以前の古き「聖なるロシア」に求めた。最初モスクワの文学サークルで形成され,40年代から西欧派 (ザーパドニキ) と激しい論争を展開した。代表者にキレーエフスキー兄弟,A.S.ホミャコフ,アクサーコフ兄弟,Y.F.サマーリンらがいる。彼らは『モスクワ人』誌によって,ロシアには西ヨーロッパ資本主義の害毒を免れうる独特な発展の道があると主張し,真のメシアニズムを伝えるギリシア正教と古来の農村共同体慣行の犠牲的精神を保存することを説いた。しかし,ロシアにおける資本主義の発達の必然性およびその進歩的役割に背を向けることになったので,次第に反動性を強め,ついには認識手段としての合理性をも拒否する神秘的傾向を強めるようになった。」とありました。

ふいに彼は「イリューシャ」をふりかえりました。

「なあ、爺さん、ジューチカをおぼえてるかい?」

突然彼はこんな質問で「イリューシャ」にすごいパンチを浴びせました。

なかなか「コーリャ」はやり手ですね、みんなの気持ちの裏をかいています。

「イリューシャ」の顔がゆがみました。

彼は苦痛の色をうかべて「コーリャ」を見ました。

戸口に立っていた「アリョーシャ」は眉をひそめ、「ジューチカ」の話はせぬようにと、ひそかに「コーリャ」に合図しかけましたが、相手は気づきませんでした。

あるいは気づこうとしなかったのです。

「どこにいるの・・・・ジューチカは?」

張り裂けるような声で、「イリューシャ」がたずねました。

「おい、君、君のジューチカなんか、ふん、だ! 君のジューチカはどこかへ行っちまったじゃないか!」


「イリューシャ」は黙りこみましたが、また食い入るようにまじまじと「コーリャ」を見つめました。



2018年8月29日水曜日

881

「しつけの立派な若い人は、すぐにわかるものね」

両手をひろげながら、彼女は大声で言いました。

「ところが、ほかのお客さんたちときたら、肩車をして入ってくるんだからね」

「なんだい、かあちゃん、肩車して入ってくるって、何のことだね?」

やさしい口調ではあるが、《かあちゃん》をやや警戒しながら、二等大尉が甘たるく言いました。

「そうやって入ってくるのよ。玄関で肩車し合ってさ。それも、上品な家庭へ肩車したまま入ってくるんだから。そんなお客ってあるものかしらね?」

彼女は本当に「上品な家庭」という過去の幻想を抱いているのですね。

「だれだね、いったいだれのことだい、かあちゃん、そうやって入ってきたのは?」

「ほら、今日はその子があの子に肩車して入ってきたし、この子はそっちの子に肩車したし・・・・」

だが、「コーリャ」はもう「イリューシャ」のベッドのわきに立っていました。

病人は目に見えて青ざめました。

ベッドに半身を起し、食い入るようにまじまじと「コーリャ」を見つめました。

「コーリャ」は以前の小さい親友にもう二カ月も会っていませんでしたので、突然すっかりショックを受けて立ちどまりました。

こんなに痩せおとろえて黄ばんだ顔や、高熱に燃えてひどく大きくなったような目や、こんな痩せ細った手を見ようとは、想像もできなかったのです。

「イリューシャ」が深いせわしい呼吸をしているのや、唇がすっかり乾ききっているのを、彼は悲しいおどろきの目で見守っていました。

一歩すすみでて、片手をさしのべると、まったく途方にくれたと言ってよい様子で口走りました。

「どうだ、爺さん・・・・具合は?」

だが、声がとぎれて、くだけた調子はつづかず、顔がなにかふいにゆがんで、口もとで何かがふるえだしました。

「イリューシャ」は痛々しい微笑をうかべていましたが、相変わらず一言もいえずにいました。

「コーリャ」がふいに片手を上げ、何のためにか「イリューシャ」の髪を掌で撫でてやりました。

「だいじょうぶ、だよ!」

小さな声で彼はささやきましたが、それは相手をはげますというのでもなく、何のために言ったのか自分でもわからぬというのでもありませんでした。

文章の意味がわかりません。

二人は一分ほどまた黙りました。

「何だい、それ、新しい子犬かい?」


だしぬけにおよそ無関心な声で、「コーリャ」がたずねました。



2018年8月28日火曜日

880

これは「カテリーナ」が大金を投じてわざわざモスクワからよびよせ、招いた医者でした。

と言っても、「イリューシャ」のためにではなく、いずれあとでしかるべき場所で述べる別の目的のためにでしたが、せっかく来た以上、「イリューシャ」も診察してくれるよう彼女が頼んだもので、そのことは二等大尉もあらかじめ知らされていました。

この医者は、誰か他の人を看るために呼んだので、それはわたしも以前読んだので誰なのか憶えてはいるのですが、多くの中心的な登場人物がこの医者のことでうまく繋がっているのが見事だと思います。

「コーリャ・クラソートキン」の来訪に関しては、もうだいぶ前から、「イリューシャ」がこれほど気に病んでいるこの少年が来てくれることを心待ちにしていたとはいうものの、まったく予想もしていませんでした。

「コーリャ」がドアを開けて、部屋に姿をあらわしたその瞬間、二等大尉と少年たちはみんなして、病人のベッドのまわりに集まり、今しがた連れてきたちっぽけなマスチフの子犬の品定めをしているところでした。

子犬は昨日生れたばかりでしたが、姿を消してしまってもちろんもう死んだにちがいない「ジューチカ」のことをたえず嘆いている「イリューシャ」の気を晴らし、慰めるために、もう一週間も前から二等大尉が注文していたのです。

注文していたということは、お金を出して買ったということですね、次の文章に書かれているように「れっきとしたマスチフ」とのことですので、それなりの値段でしょうし、餌台もかかるでしょうし、大きくなったら誰が世話するのでしょう、そんなことは二等大尉は考えておらず、ただ今この場で、息子を慰めるために用意したのでしょう、しかもそれで息子が実際に喜ぶのかもわからないと思いますが。

しかし、小さな子犬を、それもただの子犬ではなく、れっきとしたマスチフを(もちろん、これはひどく大事なことだった)、もらえることをすでに三日も前からきかされて知っていた「イリューシャ」は、繊細なデリケートな心づかいから、この贈り物を喜んでいるような顔をしてみせたものの、父親も少年たちもみな、新しい子犬がことによると、少年に苦しめられたかわいそうな「ジューチカ」の思い出を、小さな心の中でいっそうはげしく揺さぶったにすぎぬかもしれないことを、はっきりと見てとりました。

子犬は彼のそばに寝て、もぞもぞ動いており、彼も病弱な微笑をうかべながら、細い青白い、痩せこけた手で撫でてやっていました。

どうやら子犬が気に入ったようにさえ見受けられました。

作者は、あえて「気に入ったようにさえ見受けられました」と微妙な書き方をしています。

しかし・・・・やはり「ジューチカ」はいませんでした。

やはりこれは「ジューチカ」ではありません。

もし「ジューチカ」とこの子犬がいっしょにいるのだったら、そのときこそまったく幸せだったろうに!

「クラソートキンだ!」

少年の一人が、入ってきた「コーリャ」に最初気づいて、突然叫びました。

傍目にもわかるほどの動揺が起り、少年たちは左右にしりぞいて、ベッドの両側に立ったので、ふいに「イリューシャ」の姿がすっかりあらわれました。

映画のワンシーンのように目に浮かぶ光景です。

二等大尉は「コーリャ」を出迎えにあたふたと走りました。

「さ、さ、どうぞ、どうぞこちらへ・・・・大事なお客さま!」

彼は舌足らずな口調で言いました。

「イリューシャ、クラソートキンさんがお見えになったよ!」

しかし、「クラソートキン」はすばやく握手を求めて、社交の礼儀に対する並々ならぬ知識を一瞬のうちに示しました。

それからすぐ、何よりもまず肘掛椅子に坐っている二等大尉夫人の方に向き直り(ちょうどこのとき、夫人はご機嫌ななめで、少年たちが「イリューシャ」のベッドの前に立ちふさがって、新しい子犬を見せてくれないと、不平を鳴らしていたところだった)、靴の踵をかちんと打ち合せてきわめて丁寧におじぎし、さらに「ニーノチカ」の方に向き直って、上流婦人に対するようなおじぎをしました。

このいんぎんな振舞いが、病身の夫人にきわめて好もしい印象を与えました。


2018年8月27日月曜日

879

しかし、ここ数日来、彼女もふいにすっかり変ったみたいでした。

しばしば片隅の「イリューシャ」を見つめて、考えこむようになったのです。

前よりずっと無口になり、おとなしくなって、泣くことがあるとしても、きこえぬように静かに泣いていました。

二等大尉は妻のこの変化に気づいて、悲しくいぶかしみました。

「悲しくいぶかしみました」とはあまり聞いたことのない表現です、「いぶかしむ」とは不審に思うということですね、つまり妻はこのことについては何かわかっているのではないかという疑問が生じたのでしょう。

子供たちの見舞いは最初彼女の気に入らず、怒らせるだけでしたが、やがて子供たちの快活な大声や話が、彼女の気をまぎらせるようになり、しまいにはすっかり気に入ったため、もし子供たちが来るのをやめたりしたら、彼女はひどくふさぎこむにちがいないほどになりました。

子供たちが何か話したり、遊戯をはじめたりすると、彼女は声をあげて笑い、拍手するのでした。

子供たちのだれかをよびよせて、接吻してやることもありました。

「スムーロフ」少年は特にお気に入りでした。

二等大尉はと言えば、「イリューシャ」を楽しませにやってくる子供たちの姿は、そもそものはじめから感激に近い喜びと、これで「イリューシャ」も悲しがるのをやめ、ことによるとそのおかげで回復が早まるかもしれぬという希望とで、彼の心を充たしました。

「イリューシャ」の病状に対する恐怖にもかかわらず、彼はごく最近まで、わが子がふいに快方に向かうことを、片時も疑っていませんでした。

彼は小さな客たちをうやうやしく迎え、まわりをうろうろして、精いっぱいサービスし、肩車でもしかねない勢いだったし、本当に肩車をしてやりかけたのですが、そんな遊びが「イリューシャ」の気に入らなかったため、あきらめました。

子供たちのために、ボンボンだの、しょうが入りパンケーキだの、くるみだのを買ってやり、お茶を入れたり、サンドイッチを作ったりしてやりました。

断っておかねばなりませんが、このところずっと、金には不自由しなかったのです。

「カテリーナ」からのあのときの二百ルーブルを、彼はずばり「アリョーシャ」の予言どおり、受けとりました。

(490)で「アリョーシャ」は「・・・・ところが今あの人は《自滅行為をした》と承知してはいても、ひどく誇りにみちて、意気揚々と帰っていったんですよ。とすれば、遅くも明日あの人にこの二百ルーブルを受けとらせるくらい、やさしいことはないわけです、なぜってあの人は自分の潔癖さを立派に示したんですからね、お金をたたきつけて踏みにじったんですもの。踏みにじっているときには、僕が明日また届けにいくなんてことは、わかるはずありませんしね。ところが一方では、このお金は咽喉から手の出るほど必要なんです。たとえ今誇りにみちていたにせよ、やはり今日にもあの人は、なんという援助をふいにしてしまったんだと、考えるようになるでしょうよ。夜になればもっと強くそう思い、夢にまで見て、明日の朝までにはおそらく、僕のところへ駆けつけて赦しを乞いかねぬ心境になるでしょう。そこへ僕が現れるという寸法です。『あなたは誇りにみちた方です、あなたは立派にそれを証明なさったのですから、今度は気持ちよく受けとって、わたしたちを赦してください』こう言えばあの人はきっと受けとりますとも!」と言っていました。

その後「カテリーナ」は、家庭の状況や「イリューシャ」の病気についてさらにくわしく知ると、みずから住居を訪ね、家族みんなと知合いになり、半ば気のふれた二等大尉夫人さえも魅了してしまいました。

このような慈善的行動はさすがに「カテリーナ」らしいのですが、貧しい人はたくさんいると思いますが、なぜこの家を救済しようとするのでしょうか、それは婚約者の「ドミートリイ」が関係しているのが理由だと思います。

それ以来、彼女は惜しみなく金を与えたし、当の二等大尉も、息子が死にはせぬかと考えると恐怖に押しひしがれて、かつての自尊心を忘れ、おとなしく施しを受けとりました。

お金を受け取る二等大尉の心情をここでちゃんと説明しています。

この間ずっと、「カテリーナ」の招きで、「ヘルツェンシトゥーベ」博士がいつも正確に一日おきに病人を往診していましたが、来診の効目もほとんどなく、やたらに薬を押しつけるばかりでした。

「ヘルツェンシトゥーベ」博士はどうみてもヤブ医者のようですね。


だが、その代り、この日、つまりこの日曜の朝、二等大尉の家では、モスクワからやってきた、モスクワでは名医と見なされている、さる新しい博士の来診を待ち受けていました。


2018年8月26日日曜日

878

「スムーロフ」は言われたとおりにしました。

行方の知れなくなった「ジューチカ」を彼が連れてくるにちがいないという空想が、「スムーロフ」の心に生れたのは、一度「コーリャ」がちらと洩らした、『ジューチカが生きてさえいるなら、犬一匹探しだせないなんて、揃いも揃って間抜けばかりだ』という言葉が根拠になっていました。

「スムーロフ」が折を見はからって、犬をめぐる自分の推測をおそるおそる「コーリャ」に仄めかしたところ、相手はふいにひどく怒りました。

「ペレズヴォンがいるのに、よその犬を町じゅう探しまわるほど、僕が間抜けだっていうのか? それに、ピンを呑みこんじまった犬が、そのまま生きているなんて、夢みたいなことが考えられるかい? べたべたした愛情だね、それ以外の何物でもないよ!」

このへんの「コーリャ」の心理描写は丁寧ですね。

一方、「イリューシャ」は、もう二週間ほど、部屋隅の聖像わきにある自分のベッドから、ほとんど離れたことがありませんでした。

学校へは、「アリョーシャ」と出会って指に噛みついた、あの日以来行っていませんでした。

もっとも、あの日から発病したのですが、それでもひと月ほどはまだ、ときおりベッドから起きだして、たまに部屋の中や玄関をどうにか歩くことができました。

「イリューシャ」はあの投石の日から発病したとのことですが、これは重大なことです、病名は何でしょうか、精神的ショックが原因で発病したのですね。

やがて、すっかり衰弱し、そのため父の手を借りなければ動けなくなりました。

父親は病気を心配して、酒までふっつりとやめ、息子が死にはせぬかという恐怖に半狂乱になり、よく、手をとって部屋の中を歩かせたり、またベッドに寝かせつけてやったりしたあとなどは特に、ふいに玄関の暗い片隅に走りでて、壁に額を押しあて、泣き声が「イリューシャ」にきこえぬよう、声を殺しながら、身をふるわせてむせび泣くのでした。

部屋に戻ると、たいてい何かで大事な息子の気をまぎらせて慰めにかかり、童話やこっけいな一口話をしたり、外で出会ったいろいろなこっけいな人の真似をしたり、はては動物の真似をして、どんなこっけいな吠え方や鳴き方をするかを演じてみせたりしました。

しかし「イリューシャ」は、父親が百面相をしたり、道化を演じたりするのを、とてもきらっていました。

不愉快そうな様子は努めて見せぬようにしてはいたものの、少年は、父が社会で虐げられていることを心の痛みとともに意識し、《へちま》や、《あの恐ろしい一日》のことを、いつもしつこく思いだすのでした。

足なえの、もの静かなおとなしい娘「ニーノチカ」も、父が百面相をするのはきらいでしたが(もう一人の姉ワルワーラに関して言えば、彼女はもうだいぶ前にペテルブルグへ講義をききに発って行った)、その代り、半ば気のふれたかあちゃん(五字の上に傍点)は、夫がよく何かの物真似をしたり、何かこっけいなしぐさを演じたりしはじめると、たいそうおもしろがり、心のそこから笑い声をあげました。

もう一人の姉「ワルワーラ」については、(478)で「・・・・利口すぎるくらいですが、まだ女学生で、ネワ河のほとりでロシア女性の権利を見つけだすんだとか申して、もう一度ペテルブルグへ行きたがっております・・・・」とありましたが、彼女は実際にペテルブルグへ講義を聞きに行ったのですね。


彼女を慰めるにはこれしかなく、それ以外のときはいつも彼女は、今では世間のみんなに忘れられてしまったとか、だれも自分を尊敬してくれないとか、みんなが自分を侮辱するなどと、ひっきりなしに愚痴をこばして、泣いていました。


2018年8月25日土曜日

877

五 イリューシャの病床で

われわれも知っている退役二等大尉「スネギリョフ」の家族が暮している、馴染み深い例の部屋は、このとき、つめかけた大勢の客のためにむんむんし、狭苦しい状態でした。

このときは数人の少年が「イリューシャ」のそばに坐っていました。

彼らもみな、「スムーロフ」と同様、「アリョーシャ」が中に入って「イリューシャ」と仲直りさせたことを否定したそうな様子でしたが、事実はそのとおりでした。

これは次の文章に書かれていいるように、「アリョーシャ」が自分を目立たせることなく、また少年たちの自尊心を保たせるように、うまく仲直りさせたということですね。

この場合、彼の手際のよさは、《べたべたした愛情》なしに、子供たちを次から次へと、さりげなく、さも偶然をよそおって、「イリューシャ」と和解させたことにありました。

それが「イリューシャ」の悩みに大きな安らぎをもたらしました。

かつての敵だった少年たちみんなの、ほとんどやさしいと言ってもよい友情や同情に接して、彼はすっかり感動しました。

ただ一人、「コーリャ・クラソートキン」の姿だけが足りず、このことが恐ろしい重荷となって心にのしかかっていました。

「イリューシャ」のつらい思い出の中で、いちばんつらいことがあるとすれば、たった一人の親友であり味方であった「コーリャ」に、あのときナイフをかざしてとびかかった、あの一件にほかなりませんでした。

利口な少年の「スムーロフ」も、そう思いました(この子は真っ先にイリューシャと仲直りしに来たのである)。

ここで作者は「スムーロフ」のことをわざわざ「利口な少年」と書いています。

しかし、《ある用件で》「アリョーシャ」が訪ねたいと言っていることを、「スムーロフ」が遠まわしに伝えると、当の「コーリャ」は言下にきっぱりと来訪を断ったうえ、どう振舞えばよいかは自分で承知しているし、だれの忠告も求めてはいない、また病人を見舞いに行くのなら、《自分なりの計算》があるから、いつ行くかは自分が承知していると、「スムーロフ」に頼んでただちに「アリョーシャ」に伝えさせました。

それがこの日曜の二週間ほど前のことでした。

「アリョーシャ」が、最初の心づもりのように、自分から彼を訪ねなかったのは、そのためです。

なぜか、このような文章もいままでと違って、伏線の前後関係の構成が雑になってきているように思います、それはたいしたことではありませんが、少しひっかかりました。

もっとも、少し待ちはしたものの、それでも「アリョーシャ」はもう一度、そしてさらに一度、「スムーロフ」を「コーリャ」のところに行かせました。

しかし、二度とも「コーリャ」は、今度はもうきわめて苛立たしげな、にべもない断りの返事をよこし、もし「アリョーシャ」が勝手に迎えにきたりしたら、その腹癒せとして絶対に「イリューシャ」のところには行かないし、これ以上しつこくしないでほしいと、言伝てをよこしました。


当の「スムーロフ」さえ、ぎりぎりの前の日まで、この朝「コーリャ」が「イリューシャ」のところへ行く決心をしたことを知りませんでしたし、つい前日の晩、「スムーロフ」と別れしなに、「コーリャ」が突然、明日の朝いっしょに「スネギリョフ」家に行くから、自宅で待っていてくれ、ただしさりげなく訪ねたいから、自分が行くことはだれにも言わないようにと、ぶっきらぼうに言い渡したのでした。


2018年8月24日金曜日

876

「たとえ自分の楽しみのために遊んだとしたって、べつにどうってことはないでしょうに?」

「でも、自分のために・・・・あなただって馬車ごっこはしないでしょう?」

「じゃ、こう考えるんですね」

「アリョーシャ」はにっこりしました。

「たとえば、大人は劇場へ行くでしょう、劇場ではやっぱり、いろいろな人物の冒険を演じて、時にはやはり追剝ぎだの戦争だのが出てくることもある。だったら、これだって同じじゃありませんか、もちろん性質は違いますけど。休み時間に若い人たちが戦争ごっこをしたり、追剝ぎごっこをしたりするのも、やはり芸術の芽生えだし、若い心に芽生えかけた芸術欲ですよ。こういう遊びのほうが、往々にして、劇場の演し物よりうまくまとまってるものですよ、ただ違いと言えば、劇場へは役者を見に行くのに、こっちは若い人自身が役者だというだけでね。でも、それはごく自然なことでしょう」

「アリョーシャ」の説明は説得力がありませんが、彼が言いたいことは心の中を二重化して、自分を客観化する自分を想定するということでしょうか、しかし「コーリャ」の問題はそういうところではないと思います。

「そう思いますか? それがあなたの説なんですね?」

「コーリャ」はまじまじと相手を見つめました。

「いや、あなたはかなり興味深い考えをおっしゃいましたね。今日、家に帰ったら、この問題で頭を使ってみましょう。正直に言うと、あなたからいろいろ学ばせていただけると期待していたんです。あなたに教わりに来たんですよ、カラマーゾフさん」

感情をこめた、しんみりした声で、「コーリャ」は結びました。

「僕もそうです」

「アリョーシャ」は彼と握手して、にっこりしました。

「コーリャ」は「アリョーシャ」にきわめて満足しました。

自分をこの上なく対等に扱ってくれ、《大人》に対するような口をきいてくれたのが、心を打ったのです。

「今すぐ手品を一つお目にかけますからね、カラマーゾフさん。これも一つの芝居なんです」

彼は神経質に笑いだしました。

「僕はそのために来たんですよ」

「最初、左手の家主のところへ寄りましょう、部屋が狭くて暑いものだから、あなたのお友達もみんな外套をそっちに置いているんです」


「いえ、僕はほんのちょっといるだけだから、外套のまま入って行きます。ペレズヴォンはここの玄関の土間に残って、死んだ真似をしてますよ。『こい、ペレズヴォン。伏せて、死んだ真似をしろ!』ほらね、死んじゃったでしょう。まず僕が入って、部屋の模様を見たあと、ちょうといいころに口笛を吹いて、『こい、ペレズヴォン!』とよべば、こいつはすぐ、気違いみたいな勢いでとんできますよ。ただ、そのときにスムーロフがドアを開けるのを忘れさえしなければいいんです。僕が切りもりして、手品をお目にかけますから・・・・」


2018年8月23日木曜日

875

「でもね、犬を連れた君の姿を見て、僕はてっきり君がまさしくジューチカを連れてきたんだと思いましたよ」

このセリフもここではあまり意味がないと思いますが、あとになってそうじゃないことがわかります。

「まあ待ってください、カラマーゾフさん、ひょっとしたら僕たちで探しだせるかもしれませんよ、でもこの犬は、これはペレズヴォンです。僕は今この犬を部屋に入れてやります。もしかしたら、マスチフ以上にイリューシャを喜ばせるかもしれませんからね。待っててください、カラマーゾフさん、今すぐいろいろなことがわかりますから。あ、たいへん、こんなにあなたを引きとめてしまって!」

この「コーリャ」の試みは「イリョーシャ」を驚かせはするでしょうが、本心で喜ぶかどうかは疑問です。

突然「コーリャ」がひたむきに叫びました。

「あなたはこんな寒さにフロックだけなのに、引きとめてしまって。ね、どうですか、僕はなんてエゴイストなんだろう! ああ、僕たちはみんなエゴイストばかりですね、カラマーゾフさん!」

なぜ、「僕はエゴイスト」が「僕たち」になったのでしょう、この一瞬の変わり身の中に「コーリャ」が何か考えてそう言ったのでしょうが。

「心配ないですよ。そりゃたしかに寒いけど、僕は風邪をひきやすいほうじゃないから。それにしても、もう行きましょう。ついでに、何てお名前ですか? コーリャってことは知ってるけど、そのあとは?」

「ニコライです、ニコライ・イワノフ・クラソートキン、お役所風に言えばクラソートキンの子息です」

ここで「アリョーシャ」がわざわざ名前を聞いているのはなぜなんでしょうか、セリフでなくても説明できると思うんですが、この質問は唐突です。

なぜか「コーリャ」は笑いだしましたが、ふいに付け加えました。

「僕はもちろん、ニコライなんて名前は大きらいですけど」

「どうして?」

「月並みだし、お役所風だから・・・・」

「君は数えで十三?」

「アリョーシャ」がたずねました。

「いえ、つまり、数え年で十四、あと二週間すれば満で十四歳になります。もうすぐですよ。あなたには前もって僕の弱点を打ち明けておきますけど、カラマーゾフさん、これはあなたにいっぺんで僕の性質を知っていただけるように、お近づきのしるしに打ち明けるんですが、僕は年齢のことをきかれるのが大きらいなんです、大きらい以上なんですよ・・・・それから最後に・・・・僕に関して、たとえば先週、僕が予備クラスの子供たちと、追い剥ぎごっこをしたなんて中傷があります。遊んだことは事実ですけど、僕が自分のために、自分が楽しむためにそんな遊びをしたなんていうのは、これはまったく中傷です。この話があなたの耳に入っていると考えるだけの根拠が僕にはあるんですが、僕は自分のためじゃなく、子供たちのためにやったんですよ、だって子供たちは僕がいないと何一つ考えだせないもんですからね。この町じゃいつも下らぬ噂が広まるんだから。ここは流言蜚語の町ですよ、本当の話」


なんとも用心深い性格ですね。


2018年8月22日水曜日

874

「ああ、実に残念ですよ」

「アリョーシャ」が興奮して叫びました。

「君たちのそうした関係をもっと前に知らなかったのが。知ってさえいれば、僕自身もっと早く、いっしょにあの子のところへ行ってくれるよう、君に頼みに行ったでしょうに。本当のことを言うと、あの子は病気で熱にうかされながら、君のことをうわごとで言っていたんですよ。君があの子にとってどんなに大事な人か、僕は知りませんでしたからね! それにしても君はほんとにジューチカを見つけだせなかったんですか? お父さんも、子供たちも、みんなで町じゅう探したんですけどね。本当の話、あの子は病気になってから、僕のいる前で三度も、涙をうかべてお父さんにくりかえして言ってましたよ。『僕が病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだ、神さまの罰が当ったんだよ』って。どうしてもその考えを振り切れないんですね! だから、もし今ジューチカを見つけだして、死なずに生きていることを見せてやったら、あの子は嬉しさのあまり元気になりそうな気がするんです。僕たちはみんな君に期待してたんですよ」

「だけど、どういうわけで僕がジューチカを探しだすと期待してたんですか、つまり、この僕が探しだすと?」

異常なほどの好奇心を示して、「コーリャ」がたずねました。

「なぜ、ほかの人じゃなく、この僕を当てになさったんです?」

「君ならきっと探しだすだろうし、探しだせば連れてくるはずだ、というような噂がありましてね。スムーロフ君が何かそんなことを言ってたんです。何よりも僕たちは、ジューチカが生きている、どこかで見かけたからと、思いこませるように務めているんですよ。子供たちがどこかから生きた野兎をつかまえてきたんだけど、あの子はちょっと見て、かすかに微笑しただけで、野原に放してやるように頼むんです。僕たちもそうしてやりました。今しがたもお父さんが帰ってきて、マスチフの子犬を持ってきたんです。やはりどこかで手に入れて、慰めようと思ったんですが、どうも結果はいっそうわるいようですね・・・・」

「それから、教えてください、カラマーゾフさん。あのお父さんはどういう人です? 僕も知ってはいますけど、あなたのご判断ではどういう人ですか、道化ですか、ピエロでしょうか?」

「いや、とんでもない。世間には、深い感情を持ちながら、なにか抑圧された人々がいるものです。そういう人たちの道化行為は、長年にわたる卑屈ないじけのために、面と向って真実を言ってやれない相手に対する、恨みの皮肉のようなものですよ。本当です、クラソートキン君、そういう道化行為は往々にして非常に悲劇的なんです。あの人の場合、今やすべてが、この地上のすべてが、イリューシャに集約しているんです。だから、もしイリューシャが死んだら、あの人は悲しみのあまり気が違ってしまうか、でなければ自殺してしまうでしょうよ。今のあの人を見ていると、ほとんどそう確信していいくらいですよ!」

「アリョーシャ」の人間の見方が気になるところです、ここで「面と向って真実を言ってやれない相手」というのは、いろいろの事情があって、つまりそれは「長年にわたる卑屈ないじけ」のために、お父さんが素直に真実を述べられない人ということでしょうか、そういう人に対してお父さんは恨みがましい皮肉を言うことでもって対応するのですが、それがここで言う道化行為なのでしょうか。

「わかります、カラマーゾフさん。あなたは人間をよくご存じのようですね」


「コーリャ」がしみじみした口調で言い添えました。


2018年8月21日火曜日

873

まだ「コーリャ」の長い会話の続きです。

・・・・そこへ突然、あの子のお父さんの事件が起ったんです、おぼえてらっしゃるでしょう、例のへちまの一件を? おわかりでしょうけど、そんなわけであの子は前もってもう、恐ろしい癇癪を爆発させる下地はできていたんですよ。子供たちは、僕が相手にしなくなったのを見ると、あの子をいじめにかかって、《へちま、へちま》とからかいはじめました。そんなとき、僕がひどく気の毒に思っている例の喧嘩が起ったんです。だってあのとき、あの子は一度こっぴどく殴られましたものね。ある日、教室から出ると、校庭であの子はみんなにとびかかっていきました。ちょうど僕は十歩ほど離れたところにいて、見ていたんです。誓って言いますけど、あのとき僕は笑った記憶はありませんよ。むしろ反対に、あの子がとても、とても気の毒になって、あと一瞬したら、味方しにとびだしたにちがいないんです。ところが、あの子は突然、僕と目が合うと、どう思ったのか知らないけど、ペンナイフをつかむなり、とびかかってきて、僕の腿を、右足のここのところを突き刺したんですよ。カラマーゾフさん。僕はただ『それが僕の友情に対するお礼なら、もっとやったらどうだい、どうぞご勝手に』と目で言わんばかりに、軽蔑の目で見つめてやりました。でも、あの子はもう一度刺そうとはせず、こらえきれずに、自分のほうがこわくなって、ナイフを棄てると、大声で泣きだして、一目散に逃げて行きましたっけ。僕はもちろん告げ口なんかしませんでしたし、みんなにも先生の耳に入らぬよう黙っていろと言いつけて、母にさえ、すっかり癒ってからはじめて話したほどです。それに傷といってもたいしたことはなく、ひっかいた程度でしたし。あとできいたんですけど、その日あの子は石を投げたり、あなたの指を噛んだりしたんですってね。でも、あの子がどんな気持だったか、わかってくださるでしょう! 仕方がありません、僕がばかなことをしたんです。あの子が病気になったとき、僕は赦してやりに、つまり仲直りしに行きませんでした。今になって後悔してるんです。でも僕には特別な目的があったんですよ。さ、これが今までのいきさつです・・・・ただ、僕はばかなことをしたようですね・・・・」


これでやっと長い「コーリャ」の話が終わりました、彼は会話の中でだんだん素直になっていき、自分はばかだったと反省していますね、私は投石の場に「コーリャ」もいたと勘違いしていましたが、(442)にありますが、「・・・・さっき教室でクラソートキンをペンナイフで突いて、血を出したんだよ。クラソートキンは先生に言いつけようとしなかったけど、あんなやつ、のしちゃわなきゃ・・・」というセリフのとおり、「コーリャ」はその場にはいなかったのですね、だから「あとできいたんですけど、その日あの子は石を投げたり、あなたの指を噛んだりしたんですってね」と言っているのですね。


2018年8月20日月曜日

872

「コーリャ」の長い会話の続きです。

「・・・・なんという悲劇だろう、と僕は思いました。問いつめて、事情をききだしたところ、あの子は何かのきっかけで、あなたの亡くなったお父さん(そのころはまだ生きてらっしゃいましたけど)の召使いスメルジャコフと親しくなって、あの男がばかなあの子に愚劣ないたずらを、つまり残酷な卑劣ないたずらを教えこんだんです。パンの柔らかいところにピンを埋めこんで、そこらの番犬に、つまり空腹のあまり噛みもしないで丸呑みにしてしまうような犬にそれを投げてやって、どうなるかを見物しようというわけです。そこで二人してそういうパン片をこしらえて、それを今これほど問題になっているむく犬のジューチカに投げてやったんです。これはどこかの番犬ですけど、ろくに食べ物ももらえないもんだから、一日じゅうむやみに吠えてるような犬でしてね(犬のああいう愚かしい吠え声をお好きですか、カラマーゾフさん? 僕はとても我慢できませんよ)。犬はすぐにとびついて、丸呑みにするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴をあげて、そのまま消えてしまったんです。これはイリューシャ自身の言葉ですけどね。あの子は僕に打ち明けると、おいおい泣きながら、僕に抱きついて、身をふるわせていました。『走りながら、きゃんきゃん悲鳴をあげるんだ』と、そればかりくりかえしてましたっけ。その光景がショックだったんですね。そう、良心の呵責だってことはわかりました。そこで僕もまじめに対応したんです。何よりも、これまでのこともあるのであの子を鍛えてやりたかったもんですから、実を言うと、ちょっと芝居をして、実際は全然それほどじゃなかったかもしれないのに、すごく怒ったふりをしたんです。僕は言ってやりました。『なんて卑劣なことをしたんだ。君は卑劣漢だぞ。もちろん僕は言いふらしたりしないけど、当分君とは絶交だ。この問題はよく考えて、今後君との付合いをつづけるか、それとも卑劣漢として永久に君を見棄てるかは、いずれスムーロフを通じて知らせるよ』って。スムーロフというのは、今僕といっしょに来た子で、日ごろから僕に心服しているんです。この言葉があの子にはひどいショックだったんですね。正直に言って、そのときに僕は、ことによるとあまりきびしすぎたかもしれないと感じたんですけど、仕方がありません。それがあのときの僕の考えだったんですから。一日たってから僕はスムーロフをあの子のところへやって、今度あの子とは《口をきかない》と伝えさせました。つまり、僕らの間では、二人の友達が絶交するとき、こういう言い方をするんですよ。僕としてはほんの四、五日あの子をこらしめて、後悔を見とどけてから、また手をさしのべようというのが、ひそかな考えだったんです。それが僕の固い決意でした。ところが、どう思います。スムーロフから言伝てをきくと、突然あの子は目をぎらぎらさせて、『クラソートキンに伝えてくれ、こうなったら僕はどの犬にも全部ピンを入れたパンをまいてやるから。どの犬にもだぞ!』と、どなったんです。『ああ、すっかりわがままになっちまったな。しごいてやらなきゃ』と僕は思って、完全な軽蔑を示すようになり、会うたびに顔をそむけたり、皮肉な笑いをうかべたりしました。・・・・

まだ、「コーリャ」の会話が終わりませんので、ここで切ります。


それにしても「スメルジャコフ」はもういい大人ですが、こういうことを小さい子供に教えていいわけがありません、いや、これはもういたずらなどと言うことではなく、犯罪ですね、彼自身の精神状態に問題があるのでしょう、現在でもスーパーのパンに針を混入という事件が少なからずあるのですが、これらはストレス解消のためと言われています。


2018年8月19日日曜日

871

「それに、大体僕は子供好きなんです。今もわが家でちびっ子を二人面倒をみてましてね、今日もそれで手間どったんです。まあ、そんなわけで、イリューシャいじめも終りましたし、僕はあの子をかばってやることにしたんです。気位の高い子だってことはわかっていました。これだけは言っておきますけど、気位の高い子でしてね。それがしまいには、僕に奴隷のように心服して、どんな些細な僕の命令でもはたすし、僕の言葉を神のお告げみたいにきいて、なんでも僕の真似をするようになったんです。休み時間になるとすぐ僕のところへやってきて、いっしょに歩きまわる。日曜もそうです。中学校では、上級生が下級生とこんなふうに仲よくしてると、冷やかされるんですけど、これは偏見ですよね。それが僕の夢なんです。それだけのことですよ、そうでしょう? 僕はあの子を教え、仕込んでやりました。だって、あの子が僕の気に入ったからには、仕込んでいけない理由はないでしょう? あなただって、カラマーゾフさん、あんなちびっ子たちと仲よしになったのは、つまり、若い世代に感化を与え、仕込んで、役に立ちたいと思ってるからでしょう? 実を言うと、人の噂で知った、あなたの性格のそういう一面が、いちばん僕の興味をひいだんです。もっとも、本題に戻りましょう。そのうちに僕は、あの子の内に一種の感傷が、センチメンタリズムが育ってきたのに気づいたんです。ところが僕は生まれたときから、そういうべたべたした愛情の断固たる敵でしてね。おまけに、矛盾しているんですよ。気位が高い子なのに、僕には奴隷のように心服したり、奴隷のように心服してるかと思えば、いきなり目を光らせて、僕の言葉に同意しようとさえせずに、食ってかかって、気違いみたいになってしまったりするんです。ときおり僕はいろいろな思想を教えてやったんですけど、あの子はその思想に同意できないというのじゃなくて、僕に対して個人的な反抗をしてることがわかったんです。それというのも、あの子の愛情に対して僕が冷淡な態度で応ずるからなんです。あの子をしごいてやるために、僕はあの子がやさしくすればするほど、いっそう冷淡にしてやりました。わざとそう振舞ったんです。それが僕の信念ですからね。あの子の性格を鍛えて、むらのないものにし、人間を創ってやるつもりでした・・・・ところが・・・・そう、もちろんあなたは話半ばで僕の言いたいことをわかってくれるでしょう。そのうちにふと気がつくと、あの子は一日、二日、三日と思い悩み、悲しんでいる様子なんです。それが愛情のことなぞじゃなく、何か別の、もっと強烈な、高度のことらしいんです。・・・・


「コーリャ」の長い会話はまだ続いていますが、ここで一旦切ります。



2018年8月18日土曜日

870

「やっと来てくれましたね、みんなで君を待っていたんですよ」

「今すぐおわかりになるでしょうが、いろいろ理由があったものですから。とにかく、お目にかかれて嬉しく思います。以前から機会を待っていましたし、お噂はいろいろと」

いくらか息をはずませながら、「コーリャ」はつぶやきました。

「こんなことがなくても、僕たちは知合いになってよかったはずですね。僕自身も君の噂はいろいろときいていましたし。でも、ここへ、こちらへ来るのはずいぶん遅かったじゃありませんか」

「どうなんですか、様子は?」

「コーリャ」は「遅かった」理由を説明しませんね、話をはぐらかすのもうまいのでしょうか。

「イリューシャがとてもわるいんです。あの子はきっと死ぬでしょうよ」

「そんな! 医学なんて卑劣なもんですね、そうじゃありませんか、カラマーゾフさん!」

「コーリャ」はむきになって叫びました。

「イリューシャは始終、ほんとうに何度も君のことを思いだしていましたよ。だってね、夢にまでうわごとで言うくらいですもの。どうやら、前には君はあの子にとって、とても大事な人だったようですね・・・・例の・・・・ナイフの事件までは。それと、もう一つ原因があるんですよ・・・・それはそうと、これは君の犬ですか?」

「コーリャ」は医学を軽蔑しているので、「アリョーシャ」にそれをぶつけたのでしょうか、今度は「アリョーシャ」がそれには答えません、先ほどは「アリョーシャ」の質問に対して「コーリャ」が答えませんでしたが、こういうことは現実ではよくあることですが、小説の中ではあまりないのではないでしょうか、しかしそれを書くことで何か表現しているのかもしれませんが、「ペレズヴォン」はずっと「コーリャ」に付いてきていたのですが、道中で全くその様子が触れられていないのは少し不自然ですね。

「ええ。ペレズヴォンです」

「ジューチカじゃないんですか?」

「アリョーシャ」は残念そうに「コーリャ」の目をのぞきこみました。

「あの犬はもう、あのまま行方がわからないんですね?」

「あなた方がみんな、ジューチカだといいのにと思っていることは、僕も知ってます。話は全部ききましたから」

「コーリャ」は謎めいた薄笑いをうかべました。

この「謎めいた薄笑い」は後になってその理由がわかります。

「あのね、カラマーゾフさん、僕はあなたに事情をすべて説明します。何よりも、そのために来たんですから。家に入る前に、あらかじめあなたに一連の出来事をすっかり説明しておこうと思って、そのためにあなたをよびだしたんですよ」

彼は張りきって話しだしました。

「実はね、カラマーゾフさん、イリューシャはこの春予備クラスに入ったんです。でも、ご存じのとおり、ここの予備クラスなんて、みんな子供ばかりですからね。みんなはすぐにイリューシャをいじめだしたんですよ。僕は二級上だから、もちろん、少し離れて遠くから見ていました。見ると、ちっぽけな弱々しい子なのに、降参せずに、取っ組み合いの喧嘩までしてるじゃありませんか。気位の高い子で、目をきらきらさせているんです。僕はこういう子が好きなんですよ。ところが、みんなはいっそうひどくいじめるんです。何よりも、そのころあの子はひどい外套を着てたし、ズボンがたくしあがって、長靴は穴だらけときている。それをからかうんです。ばかにしてね。ええ、そんなのは僕はきらいだから、すぐに味方をして、こっぴどい仕返しをしてやったんです。みんな、やっつけてやりましたよ。で、みんなは僕を崇拝しているんです、これはご存じでしょう、カラマーゾフさん?」


感情まるだしに「コーリャ」は自慢しました。


2018年8月17日金曜日

869

四 ジューチカ

「コーリャ」はもったいぶった表情で塀によりかかり、「アリョーシャ」の出てくるのを待ちはじめました。

そう、「アリョーシャ」とはもうずっと以前に知合いになりたいと思っていました。

少年たちから噂はいやというほどきかされていましたが、今までは彼の話がでると、いつもうわべでは軽蔑するような無関心な態度を示し、みなの伝える話をききながら、「アリョーシャ」を《批判》さえしたものでした。

しかし、内心ではとても知合いになりたいと思っていました。

彼のきいた「アリョーシャ」に関するどの話にも、何か心をひかれ、共感するものがありました。

こういうわけで、今のこの瞬間は重大でした。

まず第一に、恥をかくようなことをせず、自立性を示す必要がありました。

『でないと、僕を十三だと思って、あの連中と同じような子供と見なすだろうからな。あの人にとって、あんな子供たちが何だというんだろう? 仲よくなったら、きいてみよう。それにしても、僕がこんなに背が低いってのは、不愉快だな。トゥジコフは僕より年下だけど、背は頭半分だけ高いもの。でも、僕の顔は利口そうだ。そりゃ美少年じゃないさ、いけすかない顔だってことは承知してるけど、でも利口そうな顔だ。それから、あまり自分の考えを述べないようにしなけりゃな。でないと、すぐに抱擁し合ったりして、なめてかかるからな・・・・ちぇ、なめてかかられたら、いやらしいな!」

「コーリャ」は精いっぱい一人立ちの人間らしい様子をしようと努めながら、こんなふうに胸を騒がせていました。

何よりも、彼を苦しめていたのは、低い背丈でした。

《いけすかない》顔も、背丈ほど苦になりませんでした。

彼の家には、片隅の壁に去年から身長を測った線が鉛筆で記され、それ以来ふた月ごとに胸をどきつかせながら、どれだけ伸びたかをまた計りに行くのでした。

しかし、悲しいことに、背丈の伸びはおそろしく少なく、そのことが時にはそれこそ彼を絶望に追いこむのでした。

顔について言うなら、ちっとも《いけすかない》顔でなぞなく、むしろ反対に、かなりかわいらしい、色白の、やや青ざめた、そばかすのある顔でした。

小さいが、生きいきした灰色の目はものおじせず、感情に燃えあがることがしばしばありました。

頰骨はやや広く、小さな唇はさほど厚くはないが、とても赤いのでした。

鼻は小さく、まるきりしゃくれていました。

『まったくの獅子鼻じゃないか、まるきり獅子鼻だ!』

鏡で眺めては、「コーリャ」はひそかにつぶやき、いつも腹を立てて鏡のそばを離れるのでした。

『それに、利口そうな顔かどうか怪しいもんだぞ?』

ときおりはそれまで疑って、思うこともありました。

とはいえ、顔や身長の心配が彼の心をすっかり占めていた、などと考えてはいけない。

むしろ反対に、鏡の前にいる瞬間がどんなに苦しいものであろうと、彼はすぐにそんな瞬間を忘れ、永いこと思いだしもせずに、彼が自分の行為を規定した言葉を借りるなら、『思想と現実生活に自己のすべてを打ちこむ』のでした。

作者は、「コーリャ」の特徴を念入りに描いていますね、これは今後の展開に重要な人物であると思わせます。

「アリョーシャ」は間もなく姿をあらわし、「コーリャ」の方に急ぎ足でやってきました。

まだ五、六歩離れているうちに、「コーリャ」は、「アリョーシャ」が何かまったく嬉しそうな顔をしていることを、見きわめていました。

『ほんとうに僕と会うのがそんなに嬉しいのかな?』

「コーリャ」はおどろいて思いました。

ここでついでに記しておきますが、「アリョーシャ」はわれわれと別れたとき以来、すっかり変わりました。

僧服をぬぎすて、今ではみごとな仕立てのフロックと、ソフトを身につけ、髪は短く刈りこんでいました。

これらすべてが彼の男ぶりを大いにあげ、まったくの美青年に見えました。

かわいげな顔は常に明るい表情をたたえていましたが、その明るさは何か静かな落ちついたものでした。

「コーリャ」のおどろいたことに、「アリョーシャ」は部屋にいたときの服装のまま、外套も着ないで出てきたのでした。

急いできたことは明らかでした。


彼はいきなり「コーリャ」に片手をさしのべました。