2017年7月31日月曜日

487

第五編 プロとコントラ(訳注 ラテン語で肯定と否定、賛否を意味する)

一 密約

またしても「ホフラコワ夫人」が、真っ先に「アリョーシャ」を出迎えてくれました。

ということは、「アリョーシャ」は「カテリーナ」の家ではなく、「ホフラコワ夫人」の家に「カテリーナ」がまだいると思っているのですね。

彼女はあたふたしていました。

何か重大なことが起ったのです。

「カテリーナ」のヒステリーは気絶で一段落しましたが、そのあと「恐ろしいひどい衰弱に見舞われましてね。床につくなり、目を閉じて、うわごとを言いはじめましたのよ。今はひどい熱なので、ヘルツェンシトゥーベ先生や、叔母さまたちを迎えにやったところですの。叔母さまたちはもうお見えになってらっしゃいますけれど、ヘルツェンシトゥーベ先生はまだなんです。みんなしてあの人のお部屋に集まって、待っているところですわ。何か、事が起きそうですわ、まるで意識がないんですもの。もし熱病にでもなったら!」

こう叫びながら、「ホフラコワ夫人」は深刻に怯えた顔つきをしていました。

「これはもう深刻な事態ですわ、深刻です!」

まるで、これまでに起ったことはすべて深刻ではなかったかのように、彼女は一言ごとにこう付け加えるのでした。

「アリョーシャ」は沈痛な面持で彼女の話をきき終えました。

自分のほうの事件も話そうとしかけたのですが、最初の数言で彼女にさえぎられました。

彼女は忙しかったのです。

彼女は「リーズ」の相手をしてくれるよう、そして「リーズ」のところで自分を待っていてくれるよう頼みました。

「いえね、アレクセイ・フョードロウィチ」彼女はほとんど耳打ちに近いようなささやき声で言いました。「あたくし今リーズにひどくおどろかされましたの、でも感動させられもしましたわ、ですから心ではあの子のすべてを赦しておりますの。だってね、あなたがお出かけになるとすぐ、あの子はだしぬけに、昨日と今日あなたをからかったみたいだと、そりゃ真剣に後悔しはじめるじゃございませんか。でも、あの子はからかったわけではなく、ちょっとふざけただけですわ。それなのに、涙を浮べんばかりに、あんまり真剣に後悔するものですから、あたくしびっくりしてしまいましたの。これまでは、あたくしをからかったようなときでも、一度として真剣に後悔したことなぞなく、いつも冗談にまぎらせておりましたのに。あなたもご存じのとおり、あの子はのべつあたくしをからかってばかりおりますのよ。それが今度は真剣なんですの、今度ばかりは何もかも真剣ですのよ。あの子はあなたのお考えをとても高く評価しておりますわ、アレクセイ・フョードロウィチ、ですから、できますことなら、あの子に腹をお立てになったり、わるくお思いになったりなさらないでくださいましな。あたくし自身も、結局はあの子を大目に見てやりますのよ。だってとても利口な子ですものね、そうじゃございませんこと? 今も、あなたとは幼な友達だなどと申しましてね。《いちばんまじめな幼な友達》なんですって。察してやってくださいませな、いちばんまじめなお友達なのに、あたしときたら、というわけですの。あの子はこういう点にかけては、とてもまじめな気持や、記憶さえ持っておりますのよ。何より肝心なのは、あの子の言いまわしや言葉で、まるきり予想もしていないような思いがけない言葉が、ひょいと出てまいりますのね。たとえば、ついこの間も松の木のことで、こんなことを申しましたわ。あの子のごく幼いころ、うちの庭に松の木がございましたのよ、たぶん今もあるはずですから、何も過去形で話す必要はございませんわね。松は人間と違って、いつまでも変りませんもの、アレクセイ・フョードロウィチ。あの子はこう申しましたわ。『ママ、あたしあの松の木が記憶にまつわりついてならないの』つまり、《まつ(二字の上に傍点)がまつ(二字の上に傍点)わりつく》というわけですのね。あの子は何かもっと別の表現をしましたっけ。だって、何ですか混同してしまって、松なんて愚かしい言葉ですもの。ただ、あの子は何かそんなふうなことで、あたくしなぞにはとうてい伝えられぬような独創的なことを言ったものですわ。でも、みんな忘れてしまいました。では、またのちほど。あたくし、すっかりショックを受けてしまって、どうやら気が変になりそうですわ。ああ、アレクセイ・フョードロウィチ、これまでにあたくし二度も気が変になりかけて、治療を受けたことがございますのよ。リーズのところへ行ってやってくださいませ。あの子を元気づけてやってくださいませな、あなたはいつだってとてもお上手なんですもの。リーズ」

簡単に言えば「ホフラコワ夫人」は「リーズ」が「アリョーシャ」のことを大事に思っていることを伝えたかったのでしょう。


そして、「昨日と今日あなたをからかった」ことを後悔しているというのですから「リーズ」の手紙のことだと思いますが、気を悪くせずに「リーズ」を元気づけてくださいということですね。


2017年7月30日日曜日

486

アレクセイ・フョードロウィチ・・・・手前は・・・・いえ、あなたさまは・・・・」

二等大尉は、崖からとびおりる決意を固めた人間のような顔つきで、異様に、奇怪にひたと相手を見つめ、同時に唇に薄笑いのようなものを漂わせながら、つぶやき、ふっと絶句しました。

「手前は・・・・あなたさまは・・・・いかがでしょう、今から手品を一つお目にかけますが!」

だしぬけに彼はしっかりした早口でささやきました。

その言葉はもはやとぎれたりしませんでした。

「手品って、何のことです?」

「手品ですよ、いともふしぎな手品でござります」

なおも二等大尉はささやきつづけました。

口が左にゆがみ、左目が細められて、彼はまるで吸いつけられたように、目をそらそうともせず、ずっと「アリョーシャ」を見つめていました。

「どうなさったんです、手品って何のことですか?」

「アリョーシャ」はすっかり肝をつぶして叫びました。

「こういう手品ですよ、ごらんなさいまし!」

ふいに二等大尉が金切り声を張りあげました。

そして、この会話の間ずっと右手の親指と人差指で二枚いっしょに端をつまんでいた百ルーブル札を「アリョーシャ」に示すと、突然なにやら凶暴な勢いでそれをひっつかみ、もみくちゃにし、右手の拳で固く握りしめました。

「見ましたか、ごらんになりましたか!」

青ざめ、半狂乱になって彼は「アリョーシャ」に金切り声で叫び、いきなり拳を上にふりあげると、力まかせに二枚のもみくちゃになった札を砂の上にたたきつけました。

「ごらんになりましたか?」

指で札を示しながら、彼はまた金切り声で言いました。

「ざっとこういうわけですよ!」

そして、いきなり右足を上げ、はげしい憎しみをこめて靴の踵で踏みにじり、一踏みするごとに叫びたて、息をあえがせるのでした。

「これがあなたのお金ですよ!あなたのお金だ!ほら、あなたのお金だ!あなたのお金ですよ!」

確かに、小さな紙切れが人間を生死を支配する力を持っているという世の中の仕組みをひっくり返すような「いともふしぎな手品」です。

二百ルーブルの価値が二枚の小さな紙切れに化けているのですから化けの皮をはがしてやったのでしょう。

「スネギリョフ」が「これがあなたのお金ですよ!」と四回も連続して繰り返し言っているのは、お金の価値の一般的な側面を客観的な立場で何度も考えた結果かもしれません。

ふいに彼はうしろにとびすさり、「アリョーシャ」の前で身をまっすぐ起こしました。

姿全体が口につくせぬ誇りをあらわしていました。

「あなたをお使いによこした方にお伝えください、へちまは自分の名誉を売りはいたしません、と!」

片手を宙にさしのべながら、彼は叫びました。

それからすばやく身をひるがえして、やにわに走りだしました。

だが、ものの五分も走らぬうちに、また全身でふりかえり、突然「アリョーシャ」に投げキスを送りました。

しかし、また五分と走らぬうちに、最後にもう一度ふりかえりましたが、今度はその顔にゆがんだ笑いはなく、反対に涙でうちふるえていました。

とぎれがちな、涙にむせぶ早口で、彼は叫びました。

「一家の恥とひきかえにあなたのお金を受けとったりしたら、うちの坊主に何と言えばいいのです?」

こう言いすてるなり、今度はもうふりかえろうともせず、まっしぐらに走り去って行きました。

ここで五分走っていますが、何だか五分走るのは長すぎるんじゃないかと思いました。

合計で十分走っているわけですから。

ネットで調べましたら、以下のような記事が見つかりました。

ジョギング:1Km当たり5分~6分
スロージョギング:1Km当たり7分~8分
超スロージョギング:1Km当たり9分~10分(早歩きと同じくらい)

つまり、早歩き程度の走り方でも十分で1Kmも離れて行くわけですから、「スネギリョフ」が涙を流していることなどわかりませんし、声も聞こえません。

「アリョーシャ」は口では言いあらわせぬ悲しみをいだいて、そのうしろ姿を見送っていました。

ああ、二等大尉自身、よもや札をもみくちゃにしてたたきつけようなどとは、最後の瞬間まで思ってもいなかったことが、彼にはよくわかりました。

走り去ってゆく二等大尉は一度もふりかえりませんでしたし、ふりかえるはずもないことは「アリョーシャ」も承知していました。

あとを追いかけて、よびとめる気はしませんでした。

理由がわかっていたからです。

二等大尉の姿が視界から消えると、「アリョーシャ」は二枚の札を拾いあげました。

札はひどく皺くちゃになり、おしひしゃげて、砂にめりこんでいましたが、まったくそっくりしており、「アリョーシャ」がひろげて皺をのばしにかかると、真新しい札のようにぱりっと音をたてたほどでした。

このわざわざとってつけたような描写、とくに「ぱりっと音をたてたほどでした」というのは、お金の力というか、現実のシムテムの強靭さの象徴のように思えます。


皺をのばすと、彼は札をたたんで、ポケットに入れ、頼まれた用事の首尾を報告するために「カテリーナ・イワーノヴナ」のところに向かいました。


2017年7月29日土曜日

485

「アリョーシャ」は、自分がこれほどの幸福をもたらし、この哀れな男が幸福になることに同意してくれたことが、ひどく嬉しく思いました。

「ちょっとお待ちになって、アレクセイ・フョードロウィチ、お待ちになってくださいまし」

二等大尉はふいに心に浮んだ新しい夢にまたとびつき、狂おしいほどの早口でまたもやまくしたてはじめました。

「いかがでしょうな、これで本当に手前とイリューシャとは夢を実現できるかもしれませんですね。馬と幌馬車を買うんですよ。馬は黒栗毛でね。あの子がぜひ黒栗毛と頼んだものですからね。そして、おととい空想で描いたように出発するんです。K県に知合いの弁護士がおりましてね。幼な友達なのですが、これが信頼できる人を介して、もし手前が行ったら、自分の事務所で書記のポストをくれるとか言ってきてくれましたので、ことによると、本当にそうしてくれるかもしれませんのです・・・・そうなればかあちゃんを乗せ、ニーノチカを乗せ、イリューシャを馭者台に坐らせて、手前はどんどん歩いて、みんなを連れていけるのでございますがね・・・・ああ、ここで焦げついている貸金を一つだけでも払ってもらえたら、その夢も叶うでしょうに!」

「スネギリョフ」はここでどうして「焦げついている貸金を一つだけでも払ってもらえたら」などとい言うのでしょう。

「叶いますよ、叶いますとも!」と、「アリョーシャ」は叫びました。「カテリーナ・イワーノヴナはまだいくらでも出してくださるでしょうし、僕も持ち合わせがありますから、弟からと思って、友人からと思って、いくらでも必要なだけ使ってください、あとで返してくだされば結構ですから・・・・(あなたはきっとお金持になりますよ、なりますとも!)それに、ほかの県へ引っ越すということ以上にいい考えは、絶対に生れるはずがありませんしね! それこそあなたの救いです、何よりも、お宅の坊ちゃんにとって救いですよ。なるべく早いほうがいいですね、冬になる前に、寒さの訪れる前に引っ越しをなさって、向うから僕らにお便りをください、そうすれば僕たちはいつまでも兄弟でいられるんですもの・・・・いいえ、これは夢じゃありませんよ!」

相変わらず「アリョーシャ」は「カテリーナ・イワーノヴナはまだいくらでも出してくださるでしょうし」なんて能天気なことを言っています。

「アリョーシャ」は彼を抱擁しようとしかけました。

それほど満足だったのです。

だが、ちらと相手を見て、ふいに立ちすくみました。

相手は首を突きだし、唇を突きだして、狂ったような青ざめた顔をして立ちつくし、何か言いたげに唇を動かしていました。

声はしなかったのですが、たえず唇だけでささやいている様子は、なにか異様でした。

「どうしたんです」と「アリョーシャ」はなぜかふいにびくりとしました。

このへんで「スネギリョフ」の頭の中は普通の状態ではなくなっていますね。


ああ、ここで焦げついている貸金を一つだけでも払ってもらえたら、その夢も叶うでしょうに!」と言ったときは、まだ考えが現実に足を下ろしているようにもみえていたのですが、そうなったときに、その幸福な状態をぶち壊すような大きな力が「スネギリョフ」の頭の中を洪水のように満たしてきているのでしょう、これこそ悲劇です。


2017年7月28日金曜日

484

「これを手前にでござりますか、手前に、こんな大金を、二百ルーブルなんて! これはまあ! こんな大金はもう四年も拝んだことがございませんよ! しかも、妹だなどとおっしゃるので・・・・本当ですか、本当でござりますか?」

「誓います、僕が言ったことはみんな本当です」と、「アリョーシャ」は叫びました。

二等大尉は顔を赤くしました。

「まあお聞きください、あなた、お聞きくださいまし、もしこれを受けとったら、手前は卑劣漢になりはしないでしょうか? あなたからごらんになって、卑劣漢になりはしないでしょうか、卑劣漢に、アレクセイ・フョードロウィチ? いけませんよ、アレクセイ・フョードロウィチ、まあお聞きください、お聞きくださいまし」

家族が困っているのに、自分が「卑劣漢」と言われることを恐れている「スネギリョフ」です。

のべつ両手で「アリョーシャ」にさわりながら、彼はあせって言いました。

この「のべつ両手でさわりながら」という表現はなかなか思いつきませんね。

「おなたさまは、《妹》がよこした金だからと言って、ぜひ受けとるように手前を説得なすっておられますが、もし手前が受けとれば、内心ひそかに軽蔑をお感じになるのじゃござりませんか?」

「とんでもない、そんなことはありませんよ! 誓ってもいいですが、そんなことはありません! それに、だれ一人、絶対に知る気づかいはないのですから。僕たちだけです、僕と、あなたと、あの人と、それにもう一人、あの人の親しい友達であるさるご婦人と・・・・」

「アリョーシャ」は勘違いしていますが、「スネギリョフ」はそんなことを聞いているのではありません、内心の問題です。

この「アリョーシャ」の発言は「スネギリョフ」を見くびっているともとれるものです。

「そんなご婦人はどうでもいいんです! まあ聞いてください、アレクセイ・フョードロウィチ、しまいまでお聞きくださいまし。すっかり聞いていただかねばならぬ時がいよいよ参ったようです。なぜって、今の手前にとってこの二百ルーブルがどんな意味を持つか、あなたさまには理解もできないはずだからでございますよ」

なにかしだいに取り乱した、ほとんど奇怪とさえ言ってよいような熱狂におちいりながら、哀れな男は話しつづけました。

まったく常軌を逸したかのように、まるで最後まで話させてもらえないのを恐れるみたいに、ひどくせきこみ、あせって話すのでした。

「これが尊敬すべき神聖な《妹》から贈られた、公明正大なお金であることは別にしましても、あなたさまにはおわかりいただけますでしょうか、手前はこれでかあちゃんと、せむしの天使であるニーノチカとを治療してやることができるのでございますよ。ヘルツェンシトゥーベ先生はお心のやさしさから手前どもにおいでくださって、まる一時間も二人を診察したあげく、『さっぱりわからん』と言っておられましたが、それでもここの薬屋にあるミネラル水がきっと効くだろうとおっしゃって、さらに足湯用の薬も処方してくださいました。ですが、ミネラル水は三十カペイカもいたしますし、それをおそらく四十本くらい飲まなければなりませんのです。ですから手前は処方箋をいただいたなり、聖像の下の棚にのせて、いまだにそのままになっているんでございます。また、ニーノチカのほうは、何とかいう溶液を熱い風呂に入れて、毎日朝晩はいるように処方してくださいましたんですが、召使も、手伝いも、たらいも、水もないあんな立派な御殿にいる手前どもに、どうしてそんな治療ができましょう? まだお話ししていませんでしたが、ニーノチカは全身リューマチで、夜になると右半身がうずいて、ひどく苦しむのです。でも本当の話、天使のようなあの子は手前どもを心配させぬために、じっとこらえて、手前どもを起こさぬよう呻き声一つ立てずにいるのでございますよ。手前どもは手あたりしだい、口に入るものを食べて生きているのですが、あの子は犬にでもやるしかないような、いちばん最後の一片をとるのでございます。『あたしはこの一片にも値しないのよ、みんなのを横分取りしているんだわ、あたしはみんなの重荷になっているんですもの』あの子の天使のような眼差しは、さもこう言いたげなんです。手前どもがつくしてやると、それがあの子にはつらいのですね。『あたしにはそんな値打ちはないわ、もったいない、あたしは役に立たない、何の値打ちもない片輪ですもの』あの子は天使のようなやさしい心でみんなのことを神さまに祈ってくれているというのに、値打ちがないどころじゃございませんよ。あの子がいなかったら、あの子のもの静かな言葉がなかったら、わが家はまさに地獄です。あの子は、あのワルワーラの心さえ和ませてくれるのでございますからね。でも、ワルワーラのこともやはり咎めないでくださいまし、あの子だって天使なんです、やはり心を傷つけられた天使なのでございますよ。この夏、帰ってきたときに、あの子は十六ルーブル持っておりました。家庭教師をして稼いだので、九月に、つまり今ごろ、ペテルブルグへ戻るための旅費として取り分けておいたお金なんです。ところが、手前どもがそれを巻きあげて、暮しにつぎこんでしまいましたので、今はあの子は帰るにも旅費がないのでございますよ、そういうわけなんです。それにまた、あの子は帰るわけにいかないのですよ、なにしろ手前どものために懲役人のように働いておりますのでね。とにかく痩馬に馬車をひかせ、鞍をおいてこき使うような按配で、みんなの面倒はみる、繕いものや洗濯はする、床を掃く、かあちゃんを寝かせつけるといった忙しさですし、そこへもってきて、かあちゃんが気まぐれで、涙もろいときている、なにせかあちゃんは狂人でございますからな! ですから、今この二百ルーブルがあれば、女中をやとうこともできるわけです、おわかりになりますか、アレクセイ・フョードロウィチ、かわいい家族の治療にもとりかかれるし、女学生をペテルブルグに送りだしてもやれる、牛肉も買えるし、新しい食餌療法もとれるわけでして。ああ、まさに夢でございますな!」

この発言を聞いても「スネギリョフ」がとんでもないひどい人間だということがわかります。

「ニーナ・ニコラーエヴナ」のことを言葉では「天使」だと持ち上げているのですが、彼女が望むからと言って「犬にでもやるしかないような、いちばん最後の一片」を食べさせているのです。

「何の値打ちもない片輪」だと思っているのは彼女ではなく、家族ではないでしょうか。

また、「ワルワーラ・ニコラーエヴナ」のことも口先ではやはり「天使」だと言っていますが、彼女の大事なお金も「手前どもがそれを巻きあげて、暮しにつぎこんでしまいました」のです。

臆面もなくそういうことを言う自分は、「悲しみをまぎらすために、最後の銭をはたいて飲んじまった」し、「手前を軽蔑なさらないでくださいまし。ロシアでは酒飲みがいちばん善人でございますからね」なんて言うのですから。


「ヘルツェンシトゥーベ先生」はどういう経過でいつ診察に来たのかわかりませんが、この先生もダメですね、批判ばかりになりますが患者のおかれた環境のことを全く考えていません。


2017年7月27日木曜日

483

彼はまた先ほどと同じ、敵意にみちた、神がかり的な口調で言葉を結びました。

しかし、「アリョーシャ」は、二等大尉がもう自分を信用してくれており、もしほかの人間が自分の立場に置かれていたとしたら、この男は決してこんな《熱心な話》などしなかったろうし、今話したようなことは打ち明けなかったにちがいない、と感じました。

「しょってる」という言葉を思い出しましたがこういう時に使うのでしょう。

このことが、涙に心をふるわせている「アリョーシャ」を勇気づけました。

「ああ、僕はぜひお宅の坊ちゃんと仲直りしたいものです!」彼は叫びました。「あなたにお膳立てしていただけたら・・・・」

この発言も「しょってる」っていうことに思えてきました。

「そうですとも」二等大尉はつぶやきました。

「ところで今度は別のことです、全然別のことですけれど、きいてください」と、「アリョーシャ」は叫びつづけました。「ぜひきいてください! 僕はあなたへの預かり物を持っているんです。僕の兄の、あのドミートリイは、いいなずけである、心の気高いお嬢さんにも侮辱を与えました、この人のことはおそらくあなたもおききおよびでしょう。僕にはその人の受けた侮辱をあなたに打ち明ける権利があるんです。いや、そうしなければならないんです。なぜってその人は、あなたの受けた侮辱をきき、あなたの不幸な境遇を知って、僕に今しがた・・・・いや先ほど、お見舞いをあなたに届けてくれるよう頼んだんですからね・・・・でも、これはあの人だけからのもので、あの人をも棄てたドミートリイからじゃありません。絶対に違います。また、弟である僕からでも、ほかのだれかからでもなく、あの人ひとりからのものです! このお見舞いをぜひ受けとってくださるように、とのことでした・・・・あなた方はどちらも同じ一人の男から侮辱を受けたわけですしね・・・・あの人は自分が兄から、あなたの受けたのと同じような(侮辱の程度においてですが)侮辱を受けたときに、はじめてあなたのことを思いだしたのです! これはつまり、妹が兄に援助の手をさしのべるという意味なんですよ・・・・あの人はまさしく僕に、この二百ルーブルを妹からの金と思って受けとってくれるよう、あなたを説得してほしいと頼んだのです。このことはだれ一人知りっこありませんし、でたらめな噂の立つ気づかいもありません・・・・これがその二百ルーブルです。誓ってもいいですけれど、あなたはこれを受けとるべきですよ、でないと・・・・でないと、つまり、世界じゅうの人がみなお互いに敵にならなければいけなくなりますもの! でも、この世界にも兄弟はいるんです・・・・あなたは気高い心の持主ですから、そのことを理解してくださらなければ、わかってくださらなければ!」

「アリョーシャ」の理屈はこうです、ひとりの男から侮辱を受けた者どおしは、連帯しなければならないと。

それで、このことがいきなり「世界」の兄弟というところに飛躍します。

これは、当時のマルクス主義の思想を反映しているようにも思えます。

大体今までのところ、「アリョーシャ」というのは、理想的な人格というふうな描かれ方をされてきたと思っていましたが、このあたりでいろいろとマイナス面が見えてきたように思います。

これは私の中に意地悪い考えが浮かんできたからでしょうか、そうとも思えますが、はっきり自分ではわかりません。

そして「アリョーシャ」は真新しい虹色の百ルーブル札を二枚、彼にさしだしました。

ちょうどそのとき、二人とも生垣のわきの大きな石のそばに立っており、周囲にはだれの姿もありませんでした。

札はどうやら二等大尉に恐るべき印象をもたらしたようでした。

彼はびくりとふるえました、しかし最初は単なるおどろきからにすぎないようでした。

なにしろ、こんなことは想像もしていなかったし、こうした結末などまったく予想もしていなかったからです。

だれかからの、それもこんな巨額の援助など、夢にさえ考えてみませんでした。

二百ルーブルは大体、二十万円ですね。

彼は札を受けとり、一分ほどほとんど返事もできませんでした。


何かまったく新しい表情が、その顔をちらとよぎりました。


2017年7月26日水曜日

482

「スネギリョフ」の会話はまだ続きます。

ただ、あの子は学校からひどく傷だらけで戻ってくるようになりましてね。手前は一部始終を知ったのは、おとといのことでござります。たしかに、あなたさまのおっしゃるとおり、今後もう学校へはやらぬことにいたしましょう。あの子がたった一人でクラス全体を相手にまわして、自分から喧嘩を売り、憎しみの塊になって、心を燃やしていることを知ったとき、手前はあの子のためにそら恐ろしい気持ちになりましたんですよ。また散歩に出かけると、あの子がこうだずねるんです。『パパ、ねえパパ、お金持は世界でいちばん強いの?』手前はこう答えました。『そうだよ、イリューシャ、金持より強い人は世界にいないんだ』あの子は『パパ、それじゃ僕、うんとお金持になるよ、将校になって、みんなをやっつけてやる。皇帝さまにご褒美をもらって帰ってくるんだ、そうすればだれも笑ったりしないものね』そう言ったあと、しばらく黙っていてから、また言うんです。唇が相変らずふるえておりましてね。『パパ、この町はとってもいやな町だね、パパ!』『そうだね、イリューシャ、あまりいい町じゃないね』『パパ、ほかの町へ引っ越そうよ、だれも僕たちのことを知らないようないい町へさ』『引っ越そう、引っ越そうな、イリューシャ、お金を貯めたらすぐにな』手前は暗い考えからあの子の心を引き離すチャンスができたのを喜んで、どうやってほかの町へ引っ越そうかとか、馬と荷馬車を買おうだとか、あの子といっしょに空想しはじめたのでございます。ママと姉さんたちは荷馬車に乗せて、何かでくるんであげようね、パパたち二人は横について歩いて行こう、お前は時々は坐らせてあげるけど、パパはずっと歩くぞ、うちの馬だもの、大事にしてやらなけりゃいけないし、みんなが乗るわけにゃいかないものな、さあ出発だ、といった具合にですな。あの子はすっかり嬉しがりましてね、何よりも馬が自分のもので、それにのって行けるってことが嬉しかったんでございますよ。ご承知のとおり、ロシアの男の子は生れたときから馬といっしょみたいなものですからね。永いこと話しました。ありがたいことに、やっとあの子の気をまぎらせ、慰めてやることができた、と手前は思いました。これがおとといの夕方のことでしたが、昨日の夕方になると、もう様子ががらりと違っているのです。朝また学校に行ったのですが、暗い顔をして戻ってまいりました。とても暗い顔でございましたよ。夕方、あの子の手をとって散歩に連れだしても、黙りこくって口をきかないのです。ちょうど、かすかな風が起って、日がかげり、秋の気配でございました。それに、そろそろ暗くなりかけてきたので、散歩していても、二人とも気が滅入りましてね。手前はこう申しました。『なあ、坊や、どんなふうに引っ越しの支度をしようか』昨日の話に持っていこうと思いましてね。ところが黙っているのです。ただ、手前の手の中で小さな指がぴくりとふるえたのが、感じとれましたよ。いや、これはまずいぞ、また何かあったな、と思いましたね。そのうち、ちょうど今みたいに、この石のところまで来たので、手前はこの石に腰かけたのですが、空を見ると凧がいっぱい上がって、びゅんびゅん唸っているんですね。三十くらい凧が見えたでしょうか。今は凧上げのシーズンですのでね。『そうだ、イリューシャ、うちでもそろそろ去年の凧を上げようじゃないか。パパが直してあげるよ、どこにしまったあるんだい?』と手前は言ったのですが、あの子は黙って、わきを向いたまま、こちらに横顔を見せて立っているのです。そのときふいに風が唸りをあげて、砂埃を舞い上げましてね・・・・すると突然あの子が身体ごとぶつかってきて、両手で手前の首をかけ、しがみつくじゃございませんか。いえね、無口でプライドの高い子供というのは、永いこと涙を内にこらえていますけれど、深い悲しみにおそわれてふいに堰が切れたとなると、もう涙が流れるなどというものじゃなく、それこそ滝のようにほとばしるものでございましてね。あの子は暖かい涙のしぶきで、突然、手前の顔をぐっしょり濡らしたんでございますよ。痙攣でも起したように泣きじゃくり、身をふるわせ、手前を抱きしめるのです。手前はこの石に坐っておりました。『パパ、ねえパパ、大好きなパパ、あいつはパパにひどい恥をささせたんだね!』あの子はこう叫びましたっけ。それをきいて手前も泣きだしてしまったんです。二人して坐って、抱き合ったまま、ふるえておりました。『パパ、パパ!』と、あの子は言いますし、手前も『イリューシャ、イリューシャ!』と言うだけです。だれもそのときのわたしたちを見ていた者はございません。神さまだけがごらんになって、きっと天国の名簿に手前のことを書きこんでくださいますでしょう。アレクセイ・フョードロウィチ、お兄さまにたんとお礼を申しあげておいてくださいまし。いや、手前はあなたさまを満足させるために、あの子を折檻したりするもんですか!」

神さまは「スネギリョフ」の名前を「天国の名簿」に書きこんでくれるのでしょうか。

彼が学校で「イリューシャ」がいじめられているを知って「手前はあの子のためにそら恐ろしい気持ちになりましたんですよ」と言うのは誰でもが持つ自然の感情でしょう。

また、彼が「イリューシャ」に「お金持は世界でいちばん強いの?」と聞かれて、「そうだよ」と答えるところは、読むものは誰でも反感するでしょう。

「カテリーナ」も「スネギリョフ」もその事件、つまり「ドミートリイ」が「スネギリョフ」に暴行した事件が起こったのは、一週間前のことだと言っていますので、簡単にまとめてみました。

事件の起きた日を一日目とすると、その日「イリューシャ」は《都》で飲んでいる「スネギリョフ」が広場に引っ張り出された時に居合わせて「ドミートリイ」に赦しを乞うていますが、その後、家に帰ってからひどい熱をだして、一晩じゅううわごとを言いつづけ、「スネギリョフ」とは口もろくにきかず黙りこんでいました。しかし、娘たちはもうだいたいのことは嗅ぎつけていました。

二日目は、「スネギリョフ」が最後の銭をはたいて酒を飲んだので記憶がありませんが、そのこともあって母親の「アリーナ・ペトローヴナ」は泣き出します。

三日目は、「スネギリョフ」はふつか酔いで寝ていたために「イリューシャ」のことはおぼえていないのでが、この日「イリューシャ」は学校で、事件のことで『ヘチマ』と言われみんなに笑い者にされました。

四日目に「イリューシャ」は顔色がなく真っ蒼になって学校から戻ってきました。「スネギリョフ」はいつもの夕方散歩のときの会話で「イリューシャ」が「ドミートリイ」を殺したいと思うほどの復讐心をもっていることを知ります。

五日目、「イリューシャ」は学校からひどく傷だらけで戻ってくるようになりました。

六日目、おとといの夕方、「スネギリョフ」は「イリューシャ」がたった一人でクラス全体を相手にまわして、自分から喧嘩を売り、憎しみの塊になって、心を燃やしてことを知りました。散歩のときの会話で「引っ越し」の話をして、「イリューシャ」には気晴らしになったようでした。

七日目、きのうのこと、「イリューシャ」がもう様子ががらりと違って暗い顔をして戻ってきました。


八日目つまり今日です、「アリョーシャ」は最初に「フョードル」のところへ行き、そこから「ホフラコワ夫人」に家に向かう途中で「イリューシャ」たちに遭遇し、投石されたり指を嚙まれたりします。この日教室で「イリューシャ」は「クラソートキン」をペンナイフで刺しました。それから「アリョーシャ」は「ホフラコワ夫人」に家に行って「カテリーナ」から「スネギリョフ」に渡すようにと二百リーブル預かりました。次に「ドミートリイ」に会いに行くのですが不在だったため「スネギリョフ」の家を訪ねたのです。


2017年7月25日火曜日

481

「その日、あの子は家に帰るとひどい熱をだして、一晩じゅううわごとを言いつづけておりました。一日じゅう、手前とは口もろくにきかず、むっつり黙りこんでおりましたが、ただ手前は気づいていたんでございます。あの子は片隅からちらちら手前の様子をうかがいながら、しだいに窓の方につっぷして、さも勉強しているような格好をしてはいるものの、勉強なんぞ上の空だってことは手前にはよくわかるんです。翌日、手前は一杯やったもので、たいていのことはおぼえておりません。罪深い男の憂さ晴らしでございますよ。だもんで今度はかあちゃんまで泣きだしましてね。手前とてかあちゃんをとても大事に思ってはいるんですが、悲しみをまぎらすために、最後の銭をはたいて飲んじまったというわけで。手前を軽蔑なさらないでくださいまし。ロシアでは酒飲みがいちばん善人でございますからね。いちばんの善人がわが国ではいちばん酒飲みでもあるわけでしてね。手前はふつか酔いで寝ていたために、その日のイリューシャのことはあまりよくおぼえておりませんのですが、ちょうどその日、子供たちが朝からあの子を笑いものにしたんでございますよ。『ヘチマ、お前の父ちゃんはヘチマをつかまれて飲屋から引きずりだされたし、お前はわきをうろうろ走りまわって、あやまっていたっけな』なんて、はやしたてたんだそうでして。三日目にまた学校から戻ったところをふと見ると、まるで顔色がないんです。真っ蒼になってましてね。どうしたときいても、黙っているんです。そりゃ、あの御殿の中じゃ話も何もできませんですよ。しようものなら、すぐにかあちゃんや娘たちが割りこんできますからね。おまけに娘たちは最初の日にもう嗅ぎつけていましたしね。例のワルワーラなんぞ、もう文句を言いはじめていたところですよ。『ピエロ、道化者、少しは何か分別のあることができないものなの?』手前はこう申しました。『まったくだね、ワルワーラ・ニコラーエヴナ、何か分別のあることができないものだろうかね?』まあ、そのときはそれでうまく逃げましたですがね。ところで、夕方あの子を散歩に連れだしたんざんすよ。ついでに申しあげておきますが、それまでもあの子とは毎日夕方になると、ちょうど今あなたさまと歩いているこの道を、散歩に出ることにしておりましてね。うちの木戸口から、ほら、あそこの生垣のわきの道ばたに一つだけごろんところがっている大きな石のところまでで、あそこから町の放牧場になっているんですが、ひっそりと人気のない美しい場所でござんすよ。手前はいつものように、イリューシャと手をつないで歩いて行きました。あの子の手は小さくて、指なんぞ細っこくて、ひんやり冷たいんです。あの子は胸をわずらっておりますのでね。『パパ、パパ!』あの子が言うんです。『何だい』と言って、ひょいと見ると、目がきらきら光ってるじゃありませんか。『パパ、あのときあいつはひどいことをしたね、パパ!』『仕方がないさ、イリューシャ』と手前が申しますとね、『あんなやつを仲直りしちゃだめだよ、パパ、仲直りしないでよ。学校へ行くとみんなが、あのことであいつはパパに十ルーブルくれたなんて言うんだ』で、手前は言いました。『そんなことあるもんか、イリューシャ、これからだってあんなやつから絶対にお金なんかもらうもんか』するとあの子は全身をふるわせて、両手でこの手をつかむなり、また接吻するじゃありませんか。『ねえ、パパ』そしてこう言うんです。『パパ、あいつに決闘を申し込んでよ、学校でみんながからかうんだよ、パパは臆病で決闘を申し込めないもんだから、十ルーブルもらって泣き寝入りしたんだ、なんて』『あのね、イリューシャ、パパはあいつに決闘を申し込むわけにいかないんだよ』手前はこう答えて、今あなたさまに申しあげたようなことを手短かに話してやりましたんです。あの子はじっときいてから、こう申しました。『パパ、ねえパパ、でもやっぱり仲直りしちゃだめだよ。僕が大きくなったら、あいつに決闘を申し込んで、殺してやるんだ!』目がぎらぎらと燃えておりましてね。それでも、手前はとにかく父親でござんすから、正しいことを言わねばなりません。手前はあの子にこう申しました。『たとえ決闘にせよ、人を殺すのは罪深いことなんだよ』するとあの子の返事がこうです。『パパ、それじゃね、パパ、僕が大きくなったら、あいつを投げ倒してやる。僕のサーベルであいつのサーベルをたたき落して、組みついて、投げ倒すんだ、そしてあいつの上にサーベルをふりかざして、今すぐにでも殺せるんだが赦してやる、思い知ったかって言ってやるんだ!』どうですか、いかがですか、二日の間にあの子の頭の中ではこれだけの思考過程がすすんでいたんですよ。夜も昼もあの子はサーベルでのこの復讐のことばかり考え、夜中にはきっとこれをうわごとに言っていたにちがいありません。

ここは、まだ「スネギリョフ」の会話の途中です。

「イリューシャ」が熱を出して「スネギリョフ」は「悲しみをまぎらすために、最後の銭をはたいて飲んじまった」と言っていますが、この一家にとっては大事なお金だというのに、これから先の生活はどうするんでしょう。

そんなことをするから母親の「アリーナ・ペトローヴナ」まで泣き出してしまいました。

本人は「罪深い男の憂さ晴らし」などと言っています。

そして「ロシアでは酒飲みがいちばん善人」だとも言って全然反省しておらず、ロシアのせいにしています、いや反省はしているかもしれませんが、自己肯定もしています。


この会話の中で「十ルーブル」という言葉が何度も出てきて、もらったとかもらわなかったとか言っていますが、これは、「アリョーシャ」が「カテリーナ」から預かった二百ルーブルの大金と対比させる意味もあるのでしょうか。


2017年7月24日月曜日

480

「それに、ご承知かもしれませんが、坊ちゃんのほうから先にみんなに攻撃をしかけたとか。あなたのことで、すっかり敵意に燃えているんですね。子供たちの話ですと、さっきクラソートキンという少年の脇腹をペンナイフで刺したとかいうことでしたが・・・・」

「それもききました。危ないことでござりますね。クラソートキンというのは、ここの役人でしたから、ひょっとすると、また面倒なことになるかもしれませんです・・・・」

この「スネギリョフ」という人間はダメですね、すべてが人ごとのようです、自分の子供が人を刺したのですから、自分の心配よりすぐに相手のところに行くべきだと思いますが。

「差し出がましい口をきくようですが」と、「アリョーシャ」は熱をこめてつづけました。「しばらく学校をお休みさせてはどうでしょう、そのうちには坊ちゃんの気も鎮まるでしょうし・・・・胸の怒りも消えるでしょうから・・・・」

「怒り、ね!」二等大尉は相槌を打ちました。「まさしく怒りでござりますな。一寸の虫にも五分の魂、と申しますですからね。あなたさまは、この一部始終をご存じありますまい。それじゃ、この話を特にさせていただきましょうか。ほかでもござりませぬが、例の事件以来、学校の子供たちがあの子をへちま(三字の上に傍点)とからかうようになったんでございますよ。中学校の子供というのは、無慈悲な連中でしてね。一人ひとりになれば、天使のような子供たちなのに、いっしょにかたまると、特に学校では、往々にしてひどく無慈悲になるものでして、みんながからかいはじめたものですから、イリューシャの高潔な魂が目ざめたんでございますな。これがごく普通の少年で、弱虫な息子でしたら、降参して、父親を恥じるところでござんしょうが、あの子は父親のためにみんなを向こうにまわしてたった一人で立ちあがりましたんです。父親のため、心理のために、真実のためにでございますよ。なにしろ、あの日、お兄さまの手に接吻して『パパを赦して、パパを赦してあげて』と叫んだとき、あの子がどんなつらい思いをしたか、それを知っているのは神さまと、手前だけでございますからな。ま、こんな具合に手前どもの子供、つまりあなた方のお子さまではなく、われわれ、みなに軽蔑されてはいても高潔な心を失わぬ貧乏人に子供というのは、生れて九年かそこらで、この世の真実を知るんでござんすね。金持のお子さんなんぞは、どうしてどうして、一生かかってもこれだけの深みは究められやしませんが、うちのイリューシャは広場でお兄さまの手に接吻したあの瞬間、まさにあの一瞬に真理をすっかり究めつくしてしまいましたんです。そしてその真理があの子の心に入りこみ、あの子を永久にたたきのめしたんでございますよ」

またしても我を忘れたかのように、熱っぽい口調で二等大尉は言いましたが、その際にも、いかに《真理》がイリューシャをたたきのめしたかを現実に示そうとするように、右の拳で左の掌をたたくのでした。


たぶんこの「スネギリョフ」という人は、自己反省がなく責任を社会や他者に転化したがる人間ではないでしょうか、だから自分の怒りを「イリューシャ」が代理してはらしていることを「高潔な魂」と言って肯定していますが、これは子供に対してはもっともひどい対応の仕方です。


2017年7月23日日曜日

479

「一時は裁判沙汰にしようかとも思いました」二等大尉はつづけました。「ですが、わが国の法典を開いてごらんなさいまし、個人的な侮辱に対して相手からどれほどの償いを得られるというんでございます? そこへもってきて突然、例のアグラフェーナ・アレクサンドロヴナという女性が手前をよびつけて、叱りとばすじゃござんせんか。『大それた考えを起すんじゃないよ! あの人を訴え出たりしようもんなら、たんと思い知らせてやるわよ、あの人はお前さんの詐欺に腹を立てて殴ったんだってことを、世間一般に大々的にすっぱぬいてやるから。そうすりゃ裁判にかけられるのはお前さん自身なんだからね』いったいその詐欺とやらがだれの思いつきなのか、だれの差金で手前みたいなしがない者がそんな振舞いをしたのか、それは神さまだけがご存じですが、何もかもほかならぬあの女性と、フョードル・パーヴロウィチの差金によるものじゃござんせんか? そのうえ、あの女性はこう追討ちをかけるんでございますよ。『それだけじゃなく、お前さんを永久に放逐して、今後あたしのところで何一つ稼げないようにしてやるから。あたしの商人にも(あのサムソーノフ老人のことを、あの女性はあたしの商人とよんでいるんですがね)言いつけてやるわ。そしたらあの人だってお前さんをおはらい箱にするにきまってるわ』そこで手前も、もしあの商人におはらい箱にされたら、どうなるだろう、だれのところで稼がせてもらえるだろう、と思案したしましてね。なにしろ、手前に残されているのはあの二人だけなんですから。それというのも、あなたのお父さまのフョードル・パーヴロウィチは、ほかのさる理由で、手前を信用なさらなくなったばかりか、手前の領収書を押さえて、裁判所に突きだそうとさえ考えてらっしゃいますんでね。それやこれやの結果、手前も泣き寝入りすることにしたわけでして、おかげであなたさまも手前の家族をごらんになったというしだいで、ところで、一つお伺いしたいのですが、さっきあなたさまの指にひどく嚙みつきましたんでございますか、イリューシャのやつは? 御殿であの子のいる前では、くわしくおたずねするのもはばかられたものですから」

「スネギリョフ」が裁判沙汰にしないようにすでに「グルーシェニカ」が釘を刺していたのですね。

詳しいことはよくわからないのですが、「スネギリョフ」もその詐欺的行為に手を貸した当事者でもあるということですが、この謀りごとの元凶は「フョードル」であり、「グルーシェニカ」が絡んでおり、「スネギリョフ」が手を貸したということでしょう。

「グルーシェニカ」の行為は一種の脅しですが、「スネギリョフ」もこのふたりのおかげで日常的な稼ぎを得ているようですので、逆らうわけにはいきません。

「フョードル」もある理由で「スネギリョフ」を信用しなくなっているとのことですが、それはそれで彼は相当なことをしたのかもしれません。

しかし、家の中で「イリューシャ」が「アリョーシャ」の指を嚙んだことを聞かなかったのは「スネギリョフ」の配慮のためということがわかりました。

「ええ、とても痛かったです、それに坊ちゃんはひどく苛立っておられましたしね。カラマーゾフの人間である僕にお父さんの仇討ちをしたんですね、今になってよくわかりました。それにしても、坊ちゃんが学校友達と石をぶつけ合っているところを、もしあなたがごらんになったら! とても危険ですよ、殺されかねませんしね、なにぶん子供のことで分別がありませんから、石が飛んできて、頭をぶち割るかもしれないし」


「いえ、もう命中したんです、頭じゃありませんが、胸にですね。心臓の少し上の辺にですが、今日ぶつけられたとかで、痣をこしらえて、帰ってくるなり、泣いたり、唸ったりしたあげく、病気になってしまったんでございますよ」


2017年7月22日土曜日

478

七 すがすがしい大気のなかでも

「すがすがしい空気じゃございませんか、どうも手前どもの御殿の中は、あらゆる意味でひどくむさくるしゅうござんしてね。少し歩きましょうか。ぜひあなたさまに興味のある話を申しあげたいと思いましてね」

「僕のほうもとても大事な用があるんです」と、「アリョーシャ」は言いました。「ただ、どう切りだせばいいのか、わからないもので」

「手前に用がおありのことくらい、もちろんわかっておりましたとも。用がなけりゃ、手前のところなど決してのぞいてくださるはずがござんせんからね。それとも本当にうちの坊主のことで文句を言いにいらしただけでございますか? まさか、そんな。ついでに坊主のことですが、あそこですべてを説明するわけにもまいりませんでしたので、今ここであのときの模様をお話ししときましょう。実は、このへちま(三字の上に傍点)もつい一週間前までは、もっと房々としておりましたんです。手前の申しているのは、この顎ひげのことでして。手前の顎ひげにへちま(三字の上に傍点)と綽名をつけましてね、主に中学生どもでございますが。ところであの日、お兄さまのドミートリイ・フョードロウィチが手前の顎ひげをつかんで、飲屋から広場へ引きずりだしたとき、ちょうど学校帰りの中学生たちが来合せて、そこにイリューシャもいたんでござります。あの子は手前のそんなざまを見るなり、とんできて、『パパ、パパ!』と叫びながら、しがみつき、抱きついて、手前を引き離そうとしたり、手前を痛めつけている相手に『放して、放してあげて、これは僕のパパなんです、パパなんです、赦してあげて』と叫んだりいたしましてね。『赦してちょうだいよ』と言うなり、小ちゃな手でお兄さまにすがりつくと、その手に、ほかならぬお兄さまの手に接吻するじゃございませんか・・・・あの瞬間、あの子がどんな顔をしていたか、今でも思いだします、忘れられないんです、決して忘れられるものじゃございませんよ!」

「ドミートリイ」がそんなひどいことをした理由は何なのか、「スネギリョフ」は説明しませんね、そして、「イリューシャ」がこのことに関係のない「アリョーシャ」に嚙みついて大怪我をさせたことについて、最初に謝るべきであると思うのですが、それもありません。

たぶん、自分のことに精一杯で他人を思いやる余裕もないのでしょう。

「僕、誓います」と、「アリョーシャ」は叫びました。「兄はたとえその同じ広場にひざまずいてでも、真心こめて、衷心から後悔の気持をあなたに示すはずです・・・・僕がそうさせます、それをしないようなら、もう兄じゃありません!」

「ははあ、するとまだ計画の段階でございますか。それもお兄さまから直接ではなく、あなたさまの熱しやすいお心の高潔さから出たお話にすぎないわけですね。それならそうおっしゃってくださればよござんすのに。いや、そういうことでしたら、ひとつ、お兄さまの高潔きわまりない騎士道、将校道の真髄をご披露させていただきましょうか、なにしろあの日立派にお示しになられたんでござんすから。お兄さまは手前のへちまをつかんで引きずりまわすのをやめて、やっと自由にしてくださったあと、『貴様も将校なら、俺も将校だ。れっきとした人間の介添人を見つけることができるんだったら、差し向けろ。貴様なんぞ人間の屑だが、いつても相手になってやる!』と、こう申されましたんですよ。まさに騎士道の真髄じゃござんせんか! そのあと手前はイリューシャといっしょにすごすごと帰ってきたのですが、一門の系図にとどまるようなこの光景がイリューシャの心の記憶に永久に刻みつけられたのでござりますな。いや、この上どうしておめおめと貴族であられましょう。まあ、考えてごらんなさいまし、あなたさまは今手前の御殿においでくださって、何をごらんになられました? 三人のレディが坐っておりましたでしょうが。一人は足なえで、頭のおかしい女、もう一人はいざりでせむし、三人目は両足ちゃんと揃って、利口すぎるくらいですが、まだ女学生で、ネワ河のほとりでロシア女性の権利を見つけだすんだとか申して、もう一度ペテルブルグへ行きたがっております。イリューシャのことは申すまでもござりません、まだやっと九つで、かけがえのない一人息子でございますですからね。手前がもし死んだりしたら、この家族たちはどうなるんでござんしょう、手前はこの点だけをあなたさまにお伺いいたしたいんで?かりにそういうことになって、手前が決闘を申し込んだりすれば、お兄さまはたちどころに手前を殺してしまうでしょうな、そしたらどうなります? そしたら家族の者たちみんなはどうなるんでございます? もっとわるいことに、もしお兄さまが手前を殺さず、片輪にするだけにとどめておかれたら、もはや働くこともならず、そのくせ食べる口だけは残るわけで、そうなったらいったいだれが手前の口を養ってくれましょう、だれが家族みんなを食わせてくれるんでござりましょう? それともイリューシャを毎日、学校へやる代りに、物乞いにでも出せとおっしゃるので? 手間にとって決闘を申し込むというのは、こういうことを意味するんでございますからね、愚にもつかぬ言葉ですよ。それ以外の何物でもございませんな」

ここは「スネギリョフ」の言う通りだと思います。

「ドミートリイ」を謝らせると言っているのはひとり「アリョーシャ」だけですが、これは彼の万能感からくることで、やはり本人の意志を確認して了解をとっていないので、不誠実といえるのではないでしょうか。

「兄はあなたに赦しを乞うでしょうよ、広場の真ん中であなたの足もとにひれ付しますとも」


眼差しを燃え上がらせて、「アリョーシャ」がまた叫びました。


2017年7月21日金曜日

477

「かあちゃん、かあちゃん、もういいんだ、もういいんだよ! お前が一人ぼっちなもんか。みんな、お前を愛し、尊敬しているんだよ!」

そして彼はまた妻の両手に接吻しはじめ、両の掌で妻の顔をやさしく撫でてやりました。

彼はナフキンをつかむと、妻の顔の涙をいきなりぬぐいにかかりました。

「アリョーシャ」には、当の彼の目にも涙が光っているようにさえ思えました。

「どうですか、ごらんになりましたか? おききになりましたか?」

片手で哀れな狂女をさし示しながら、彼はなにかふいに荒々しく「アリョーシャ」の方に向き直りました。

「見ました、ききました」と、「アリョーシャ」はつぶやきました。

「パパ、パパ! パパはそんなやつと・・・・そんなやつ、ほっときなよ、パパ!」

突然、少年が寝床に半身を起し、燃える目で父を見つめながら、さけびました。

「ほんとに、悪ふざけや、ばかな真似をしてみせるのは、もうたくさんよ、そんなもの何の役にも決して立ちやしないんだから!」

相変らず例の片隅から「ワルワーラ」が、もはや本気に怒って叫び、片足を踏み鳴らしさえしました。

「あんたがかっとなるのも、今度ばかりはしごくもっともざんすよ、ワルワーラ・ニコラーエヴナ。なに、すぐにお気のすむようにしてあげますとも。さ、帽子をおかぶりになって、アレクセイ・フョードロウィチ。手前もこのハンチングをとって、さあ参りましょう。あなたさまに、まじめなお話をせにゃなりませんが、ただ、この壁の外に出ませんことにはね。ここに坐っておりますのが、手前の娘ニーナ・ニコラーエヴナでございます。ご紹介を忘れておりまして。これは人間界に舞いおりてきた・・・・肉体をそなえた天使でございまして・・・・ただ、その意味がおわかりいただけるかどうですか・・・・」

「見てよ、まるで痙攣でも起したみたいに、全身をあんなにふるわせてさ」と、「ワルワーラ・ニコラーエヴナ」がいまいましげにつづけました。

「それから、今しがた床を踏み鳴らして、手前をピエロなどとすっぱぬいたのも、やはり肉体をそなえた天使でござりまして、手前をあんなふうに罵るのもしごくもっともでござりますよ。さ、参りましょうか、アレクセイ・フョードロウィチ、そろそろけりをつけませんことには・・・・」

そして「アリョーシャ」の手をとると、部屋からまっすぐ通りへ連れだしました。

「スネギリョフ」は、「ワルワーラ・ニコラーエヴナ」が怒るのは当たり前のことだと言っています、そして、彼女の気のすむようにするには、まじめに話しをする必要があり、そのけりをつけるには外に出なければならないと言うのです。


外に行けば一体何があるのでしょうか、「ワルワーラ・ニコラーエヴナ」は「スネギリョフ」のピエロのようなおどけは「何の役にも」立たないと言っていましたので、何か役に立つことを望んでいるのでしょう。


2017年7月20日木曜日

476

「あのね、たいへんなニュースがあるんですよ」

娘たちを指さしながら、母親が両手をひろげました。

「まるで雲が流れてゆくみたいね。雲が流れ去ってしまえば、またわたしたちの音楽がはじまるんですよ。以前、うちの人が軍人だったころは、うちにもたいそうなお客さまが大勢いらしたものでしたわ。わたしはべつに今とくらべてどうこう言ってるわけじゃないんですよ。蓼食う虫も好きずきですからね。そのころ、補祭の奥さんがやって来て、こう言ったんですよ。『あのアレクサンドル・アレクサンドロウィチてのは心の立派な人だけれど、ナスターシャ・ペトローヴナときたら悪魔の親戚みたいな女ね』だから、わたしはこう答えてやったんです。『ふん、だれがだれをどう尊敬しようと勝手だけれど、あんたはオタンコなすで、いやなにおいがするよ』そうしたらあの女ったら『お前みたいな女は、牢屋にでも入れとくほうがいいんだ』なんて言うもんですからね、わたしも言ってやったんですよ。『ああ、お前さんも腹黒い女だね、だれに説教する気で来たのさ』って。そしたら今度は『わたしゃきれいな空気を吸ってるけれど、あんたの吸ってる空気は汚れてるからね』と言うじゃありませんか。だからわたしはこう答えたんです。『それじゃ将校さんたちにきいてごらんよ、わたしの身体の中に汚れた空気が入ってるかどうかをさ』でもそれ以来、わたしはそのことが心にひっかかっていたもんで、この間、ちょうど今みたいにここに坐っていたら、復活祭によく見えたあの将軍がいらしたものですから、伺ってみたんですよ。『ねえ、閣下、上流夫人が自由な空気など吸ってよろしいものでしょうか?』って。そしたら『そう、お宅は通風孔かドアを開けておくとよろしいな、どうも空気が濁っとるようですからな』なんて、おっしゃるじゃありませんか。みんな、こうなんですから! どうしてうちの空気がそんなに気になるんでしょうね? 死人のにおいなんか、もっとひどいのに。わたしは言ってやりましたよ。『あなた方の空気を汚しゃしませんよ、わたしは靴を誂えて、ここを立ち去りますからね』って。どうか、みんな、母さんを責めないでおくれ。あんた、わたしはあんたの気に入らないことでもしたかしら? とにかく、わたしはイリューシャが学校から戻ってきて、親孝行してくれるのだけが生き甲斐なんだ。昨日もリンゴを持ってきてくれたわね。ねえ、お前たち、母さんを赦しとくれ、母さんはまったくの一人ぼっちなんだからね。どうしてうちの空気がそんなに気に入らないんだろうね!」

「アレクサンドル・アレクサンドロウィチ」とは一体誰のことでしょうか?

そして「ナスターシャ・ペトローヴナ」とは誰でしょう、「スネギリョフ」の奥さんが「アリーナ・ペトローヴナ」ですので文意から言っても彼女のことでしょうか。

とにかく、この「アリーナ・ペトローヴナ」の話は一貫性がなく、もはや正常な人間のものではないということは確かです。

最初だけは、昔の良きイメージが浮かんで来たのでしょうが、すぐにそれは誰かに非難され、すぐに悲劇的な現在に直結します。

そして哀れな女はだしぬけにわっと泣きだしました。

涙が流れとなって落ちました。


二等大尉がまっしぐらに走りよりました。


2017年7月19日水曜日

475

「そしてこの自然界の何一つ、
彼は祝福しようと思わなかった。(訳注 プーシキンの詩『悪魔』より)
つまり、これを女性形に変えて、彼女は祝福しようと思わなかったといたせばよろしゅうござんすね。ところで、手前の令夫人をお見知りおきくださいまし。アリーナ・ペトローヴナ、足なえの女性で、年齢は四十三、四というところでしょうか。足は動くには動くのですが、少しばかりでござりましてな。平民の出でござりまして。アリーナ・ペトローヴナ、ちっとは顔の皺をのばすもんですよ。こちらがアレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフさん。お立ちなさい、アレクセイ・フョードロウィチ」

プーシキンの詩『悪魔』は探しましたがわかりませんでした。

当時のロシアでは、このように有名な詩人の詩を会話にはさむということを普通に行っていたのでしょうか、「フョードル」「ドミートリイ」「イワン」などもそうですが、日本では小唄の一節を会話にはさんだりはしたと思いますが、詩の一片をはさむことは考えられませんね。

つまり、彼らはこのような詩をかなり読み込んでいるということです。

彼はアレクセイの手をつかむなり、彼からは予想もできぬほどの力でいきなり立ちあがらせました。

「レディに紹介されているんですから、立たなければいけませんですよ。かあちゃん、この人は例のほら、あのカラマーゾフじゃなく、弟さんだよ、謙遜の美徳にかがやく立派なお方だ。失礼だけれどね、アリーナ・ペトローヴナ、ひとつ最初にお手に接吻させてくださいませんか」

そして彼は妻の手にいとも丁重に、やさしく接吻までしました。

窓際の娘は怒りをこめてこの情景に背を向けましたが、傲慢そうな物問いたげな妻の顔はふいに並みはずれたやさしさをうかべました。

このように、すれば妻がどのようになるのかを「スネギリョフ」はわかっているのですね、妻の方ももう精神状態は現実から過去へ、空想の世界に飛んでいってしまっています。

「ようこそ、どうぞお掛けなさいませ、チェルノマーゾフさん」彼女は言いました。

「カラマーゾフですよ、かあちゃん、カラマーゾフさんですよ。どうも手前どもは卑しい育ちなものでございまして」彼がまたささやきました。

「カラマーゾフだか何だか知らないけど、わたしはいつもチェルノマーゾフで通してるんですよ・・・・さ、お掛けくださいまし、どうしてあなたを立たせたりしたんでしょうね? 足なえの女とか言ってましたけど、足はこのとおりあるんですよ。でも、まるで桶みたいにふくれてしまって、当のわたしのほうは干からびちまいましてね。以前はこれでもずっと太っていましたのに、今じゃ針でも呑んだみたいになってしまって・・・・」

「なにせ卑しい育ちなもので、卑しい育ちなもので」二等大尉がまたささやきました。

「パパ、ああ、パパったら!」

ふいに、それまで自分の椅子で黙りこんでいたせむしの娘が叫び、いきなりハンカチで目を覆いました。

この娘はまだ紹介されていませんね、二十歳くらいの若い娘でせむしであるうえに、両足とも麻痺していざり同然の娘です。

「ピエロ!」窓ぎわの娘がどなりつけました。

この娘は「ワルワーラ・ニコラーエヴナ」ですね。

「スネギリョフ」はいつもこういう仕草で人を迎えるのでしょう。


相手を迎えるためには自分がそういうピエロ的なおどけとともに接遇しなければならない何かがあるのでしょう。



2017年7月18日火曜日

474

「これで僕にもすべてがわかったような気がします」

なおも坐りつづけたまま、「アリョーシャ」は沈んだ口調で静かに答えました。

すでに「アリョーシャ」も大体のことは察しがついていたと思います。

「つまり、お宅の坊ちゃんはとても気立てがやさしくて、お父さん思いなので、あなたを侮辱した男の弟である僕にとびかかってきたんですね・・・・これでわかりました」

考えこみながら、彼はくりかえしました。

「しかし、兄のドミートリイは自分の行為を後悔しています。僕は知っているんです。ですから、もし兄がこちらへ伺わせていただくなり、でなければ、いちばんいいのは例の同じ場所でもう一度お目にかかるなりすることができれば、兄はみなの前であなたに赦しを乞うにちがいありません・・・・あなたがお望みなら、の話ですけれど」

しかし、「スネギリョフ」という人物は素直ではありませんので次のように言うのですね。

「と、つまり、顎ひげをひんむしっておいて、赦しを乞うというわけでございますか・・・・これですっかりけりがついたし、気もすんだ、とそういうわけざんすね?」

「いえ、とんでもない、まるきり反対です。兄はあなたのお気のすむことでしたら、どんなふうにでもするはずです」

「そうしますと、手前がもしあの方に例の、《都》という名前ですが、あの飲屋か、でなけりゃ広場で、わたしの前にひざまずいてもらいたいと申したら、あの方はひざまずいてくださるんでしょうか?」

「ええ、ひざまずくでしょう」

「なんという感激。感激のあまり、涙ぐみましたです。あまりにも感じやすい性質でござりましてな。失礼ですが、紹介させていただきますです。これが手前の家族でございまして、娘二人に息子一人、これが手前の一族でござります。手前が死んだら、どなたかがこの子供たちをかわいがってくださるんざんしょうか? また手前が生きております間、この子供たち以外に、だれか、こんなろくでなしの手前を愛してくれる者がおりましょうか? 神さまは手前のような人間一人ひとりにまで、たいへんな恵みを授けてくださったものでござりますね。なにせ、手前のような人間でも、やはりだれかに愛してもらわにゃなりませんですし」

「ええ、まったくそのとおりですとも!」

「アリョーシャ」は叫びました。

「スネギリョフ」一家の貧しさは、父親の退職と、妻の病気と、娘の障害のためのようですが、こういう状態ではとくにこの時代では貧困から抜け出すことは無理かもしれません。

「悪ふざけもいい加減になさいよ、どこかのばか者がくりゃ、そうして恥をさらすんだから!」

窓のところにいた娘が、嫌悪と軽蔑の表情で父親をかえりみながら、だしぬけに叫びました。

この娘は左隅に立っていた娘で「お坊さんが寄付集めに来たわ、来るに事欠いて家あたりへさ!」と言った口の悪い娘です。

「しばらくお待ちなさい、ワルワーラ・ニコラーエヴナ、首尾一貫させてくださいよ」

命令的な口調でこそあるが、大いにけしかけるような顔で娘を眺めながら、父親は叫びました。

「スネギリョフ」も「ワルワーラ・ニコラーエヴナ」も家族ですから。

「なにせ、ああいう気性でござりましてな」


彼はまた「アリョーシャ」の方に向き直りました。


2017年7月17日月曜日

473

「出会いとはまた何のことでございましょうね? それは例のあの一件のことじゃございませんか? つまり、へちまの、風呂場のへちまの一件のことでは?」

彼はふいに思いきり身をのりだしたため、今度は本当に膝が「アリョーシャ」にぶつかりました。

唇が何か一種特別な具合に、糸のように結ばれました。

「へちまって何のことですか?」

「アリョーシャ」はつぶやきました。

「そいつはね、パパ、僕のことを言いつけに来たんだよ!」

「アリョーシャ」にはすでにききおぼえのある先刻の少年の声が、片隅のカーテンのかげから叫びました。

「さっき、そいつの指に嚙みついてやったんだ!」

カーテンがさっと開かれ、「アリョーシャ」は隅の聖像の下の、ベンチと椅子をつないだ寝床の上に先ほどの敵を見いだしました。

少年は自分の外套と、さらに古ぼけた綿入れの夜具をかけて寝ていました。

見るからに身体具合がわるいらしく、燃えるようなその目から察すると、熱が高いようでした。

少年は先ほどとは違って、今や恐れげもなく、「アリョーシャ」をにらみつけていました。

『僕の家だから、今度は手出しできまい』といった感じでした。

「だれの指に嚙みついたんだと?」

二等大尉は椅子から跳ね起きそうにしました。

「あの子はあなたさまの指に嚙みついたので?」

「ええ、僕にです。さっき通りでほかの男の子たちと石をぶつけ合っていましてね。向うは六人なのに、お宅の坊ちゃんはたった一人なんです。僕がそばに行ったら、僕にも石をぶつけて、そのあともう一つ頭にぶつけられました。僕が何をしたのってきいたところが、いきなりとびかかってきて、いやっていうほど指に嚙みつきましてね。なぜだか、わからないんですけど・・・・」

「今すぐ折檻してやりますです! たった今、折檻してくれます」

二等大尉は今度はもうすっかり椅子から跳ね起きました。

「でも、僕はべつに文句を言ってるわけじゃないんです、ただお話ししただけですから・・・・折檻なさるなんて、僕は全然望んでやしません。それに坊ちゃんは今、ご病気のようでもあるし・・・・」

「それじゃ、あなたさまは手前が折檻するとでもお思いになりましたので? 手前がイリューシャのやつめをふんづかまえて、たった今あなたさまの目の前で、あなたさまを喜ばせるために折檻するとでも? そんなに急いでやらにゃなりませんですか?」

二等大尉はまるで今にもとびかかりそうな身ぶりで、いきなり「アリョーシャ」の方に向き直ると、口走りました。

何という言い草でしょう、今自分で「今すぐ折檻してやりますです! たった今、折檻してくれます」と二度も強調して言ったじゃないですか、それなのに人の心を試すようなことをするとは相当心がゆがんでいます。

「そりゃ、あなたさまの指についてはお気の毒に思いますが、いかがでござりましょう、イリューシャのやつめを折檻いたす前に、今すぐあなたさまの目の前で、とっくりご満足いただけるよう、ほれ、このナイフで手前の指を四本ざっくり切り殺すことにしましては。復讐欲を充たすには、指の四本も詰めれば十分と思うんざんすが。よもや五本目までは要求なさりますまい?」

彼は心がゆがんでいるだけでなく、人生の絶望のため破れかぶれになっているのですね。

彼はふいに絶句し、息がつまったかのようになりました。

顔の線の一つ一つが動き、ひきつって、目つきまでひどく挑戦的になってきました。


まるで錯乱したみたいでした。


2017年7月16日日曜日

472

「僕・・・・アレクセイ・カラマーゾフという者で・・・・」

「アリョーシャ」は返事のつもりで言いかけました。

「よく存じあげておりますです」

言われなくとも相手がだれかは承知しているということをわからせようとして、男はすぐにさえぎりました。

「手前は二等大尉スネギリョフでござります。それにしましても、やはりお伺いしておきとうござんすね、いったい何の酔狂で・・・・」

「僕はただちょっとお寄りしただけです。実はちょっとお話ししたいこともありまして・・・・もしお差支えなければ・・・・」

「それでござんしたら、どうぞ椅子を。さ、さ、まずはこれへ。これは昔の喜劇の台詞でござんしたね。『さ、さ、まずはこれへ』なんて」

そして二等大尉はすばやい動作で空いている椅子をつかむと(全部木製で、何も張ってない、百姓の使うような質素な椅子だった)、ほとんど部屋の中央に据えました。

それから、同じような別の椅子を自分用にとり、先ほどと同じく膝が触れ合わんばかりに近々と、「アリョーシャ」の真向いに座りました。

「元ロシア歩兵二等大尉スネギリョフでござります。持ち前の短所が仇となって恥をさらしはいたしましたものの、これでもやはり二等大尉でござんして。しかし、スネギリョフというより、二等大尉スロヴォエルソフ(訳注 ロシア語で召使などの用いる敬語の接尾語Sをスロヴォエルスとよぶ)と申したほうが手取り早いようでして、と申しますのも人生半ばを過ぎてから、やたらとスロヴォエルスをつけて話すようになりましたものですからね。人間おちぶれると、言葉遣いまで卑屈になりますですね」

「たしかにそうでしょうけど」

「アリョーシャ」は苦笑しました。

「ただ、思わず使ってしまうんですか、それともわざと?」

「アリョーシャ」のするどい質問です。

「誓ってもよろしゅうござんすが、思わず使ってしまうんで。前半生ずっとそんな言葉遣いはしませんでしたのに、突然倒れて、起きあがったときにはスロヴォエルスがくっついていたんでござります。神さまの御業でござんしょうね。お見受けしたところ、あなたさまは現代の問題に関心をお持ちのようで。それにしましても、どうしてこんな物好きをなさいましたんで? なにせ手前どもは、おもてなしなどとうていできかねる環境に暮しておりますのですから」

ここまででもうこの「スネギリョフ」という人物が一癖も二癖もあることがわかりますね。

「僕が伺ったのは・・・・例のあの事件のことでですが・・・・」

「例の事件と申しますと?」

二等大尉がもどかしげにさえぎりました。

「あなたと、僕の兄ドミートリイとの出会いの件です」


「アリョーシャ」はばつわるげに言いました。