2017年1月31日火曜日

306

「こいつはコニャックさ!」と「ドミートリイ」は哄笑しました。

つまり、大笑いしました。

「お前は『また飲んだくれてる』なんて目で見ているな?まぼろしを信じちゃいかんよ。

嘘つきの下らぬ俗衆を信ずることなく、
おのれの懐疑を忘れよ・・・
(ネクラーソフの詩『迷いの闇の深い底から』の一節)

俺は飲んだくれてやしないよ、あのラキーチンの豚野郎の言いぐさを借りれば、《賞味している》だけさ、あの野郎はいずれ五等官にでもなって、のべつ《賞味している》をぬかしやがるだろうよ。座れよ。俺はな、アリョーシャ、お前をつかまえて、この胸に抱きしめてやりたいよ、それも押しつぶすくらい、ぎゅっとな。なにしろ俺が世界じゅうで本当に・・・本当の意味で(わかるな!わかるだろ!)愛しているのは、お前一人なんだから!」

「ドミートリイ」は最後の一句を何かものに憑かれたように口走りました。

ここで、「ドミートリイ」は「まぼろしを信じちゃいかんよ」なんて言っていますが、真実は目の前の現実の中にあるとは限らないということでしょうか。

「ネクラーソフ」の詩が続きます。

「ニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフ」は、帝政ロシア時代の詩人、雑誌編集者です。

「ネクラーソフ」の『迷いの闇の深い底から』の一部は、ドストエフスキーの『地下室の手記』第二部の冒頭にも引用されています。

この詩の、米川正夫訳・河出書房出版の「ドストエフスキー全集 別巻」による全文です。

『迷いの闇の深い底から』

わたしが迷いの闇の中から 火のごとき信念に満ちた言葉で 
その淪落の魂を引き出したとき お前は深い悩みに充ちて 
双の手をもみしだきつつ 身を囲んでいる悪趣を呪った 

そうして追憶の鞭をふるって 忘れやすき良心を罰しつつ 
お前は過ぎこし方の身の上を 残らずわたしに語ってくれた 

と、ふいに両手で顔を蔽って 恥と恐れにやるせなく 
お前はわっとなきだした 悩みもだえ身をふるわして 

信じておくれ、わたしは多少、同情の念をいだきながら 
貪るようにお前の言葉を、一つ残らず捕えていた… 
すっかりわかった、不幸な女! わたしはすっかりゆるした、なにもかも忘れつくした 

どうしてお前は毎時毎分、心の中で 疑いに責められていたのだ? 
意味もない大衆のいうことなどに お前は服従したのか? 

空虚でしかもうそつきの、大衆などを信じるな 自分の疑いなどは、忘れてしまえ 
病的におびえやすい心の中に 身を削るような考えを秘めないがよい! 

いたずらに、なんのためにもならないことで わが胸に蛇を暖めないがよい 
わたしの家へはばかることなく悪びれず入っておいで 
お前は立派な女あるじだ!


そして、「ドミートリイ」は「あのラキーチンの豚野郎の言いぐさを借りれば、《賞味している》だけさ」と言っていますが、この《賞味している》という表現は、気づきませんでしたが、「ラキーチン」の会話の中のどこかで出てきているのでしょうか。


2017年1月30日月曜日

305

ここで女主人の家の庭の様子が説明されています。

庭は一ヘクタール(訳注 約三千坪強)か、それよりやや広い程度であり、庭木は四方の塀に沿って周囲に、リンゴや楓、菩提樹、白樺などが植えてあるだけだった、といかにも周囲の家の庭と比べて貧相なように書かれていますが、兎小屋に住む日本人の感覚からかけ離れています。

庭の中央は空地で、牧草地にあてられていて、夏にはここで四、五十キロの乾草がとれました。

そして、女主人は春になるとこの庭を何ルーブルかで貸していました。

塀のそばには、エゾイチゴやスグリや黒スグリの畑があり、家のすぐ近くには最近作られたものでしたが野菜畑もありました。

「ドミートリイ」は家からいちばん遠い庭の隅へ「アリョーシャ」を連れていきました。

そこには、鬱蒼と立ちならぶ菩提樹や、黒スグリ、ニワトコ、スイカズラ、ライラックなどの古い灌木の間に、ひょっこり、何やら古めかしい緑色のあずまやの跡のようなものが姿を現しました。

黒スグリはフランスではカシス、イギリスではブラックカラントと呼ばれています。

格子の壁をめぐらしたあずまやは、すっかり黒ずんで傾いていましたが、屋根があるので、まだ雨をしのぐことはできました。

このあずまやは、いつ建てられたのかもわかりませんが、人の話によると、五十年ほど前、当時の持主だった「アレクサンドル・カルロウィチ・フォン・シュミット」とかいう退役中佐が建てたということでした。

しかし、何もかももはや腐って、床は朽ち、床板はぐらぐらして、木材はじめついた匂いを放っていました。

あずまやの中には、地面に埋めこみになっている緑色の木のテーブルがあり、まわりに、これもやはり緑色のベンチが置かれていて、一応座ることができました。

「アリョーシャ」は兄の感激したような精神状態にすぐ気づきましたが、あずまやに入ると、コニャックの半分くらい入った壜とグラスがテーブルの上にのっているのが目につきました。

コニャック (Cognac) は、フランスのコニャック周辺で産出されるブランデーで、レミー・マルタン(Rémy Martin)やカミュ(Camus)やヘネシー(Hennessy)、マーテル(Martell)などが有名で、それ以外はブランデーと呼ぶようですね。

しかし、このころのロシアでそのようなお酒は販売されていたのでしょうか、疑問に思って、「ロシアのコニャック」で検索したところ、現在ロシア在住の方のブログなどの情報では、コニャックはたくさん売られているのですが、ロシアではブランデー全てを「コニャック」と呼んでいるらしいのです。

また、フランス政府はロシアで使われている広い意味でのブランデーを意味する「コニャック」を言語として使わず「ブランデー」と表現するように求めているそうだと書かれた内容の記事もありました。

さらに、アルメニアで作られる「アララト(ARARAT)」というブランデーがあり、ロシアでは「アルメニアコニャック」(Армянский коньяк)の愛称で親しまれ、ロシア語話者の間ではコニャックとして流通している、という「ウィキペディア」の記事もありました。


ここで「ドミートリイ」が飲んでいるのは、何だかよくわかりませんが、ウォッカよりは高級な強いお酒ということでしょう。


2017年1月29日日曜日

304

「アリョーシャ」は「それにしても、ここにはだれもいないのに、どうして声をひそめたりすの?」と「ドミートリイ」に聞きました。

「どうして声をひそめるか、だって?ああ、そうだな、畜生」と「ドミートリイ」はふいに大声で叫びました。そして「そう、なんだって俺は声をひそめたりしてるんだろう?まったく、お前を見てのとおり、人間の本性なんてふいにわけのわからん混乱をひき起すもんだな。俺はね、ここに張りこんで、人の秘密を見張ってるんだ。説明はいずれするが、秘密ってことを承知してるもんで、急に口のきき方まで秘密めかしくなってきて、必要もないのに、ばかみたいに声をひそめたりするんだな。さ、行こう!こっちだ!それまでは沈黙だぞ。お前にキスしてやりたいよ!

この世の至高のこのに栄えあれ、
わが内部の至高のものに栄えあれ!

俺はたった今、お前がくるまで、ここに坐って、この文句をくりかえしていたところなんだ・・・」

「ドミートリイ」は、会いたいと思っていた「アリョーシャ」に偶然会えたのでかなり興奮気味ですね。

「ドミートリイ」が繰り返していたという「この世の至高のこのに栄えあれ、わが内部の至高のものに栄えあれ!」は自作の詩ですが、彼の心情をよくあらわしており、理想主義的な彼の志向性がよくわかりますね。


あとで書かれているのですが、彼のこのハイテンションは、酒のせいでもあるのです。


2017年1月28日土曜日

303

「ドミートリイ」は、「フョードル」の家の隣の母と娘が暮らす家の庭に勝手に入り込んでいたのですね。

「アリョーシャ」が驚くのも無理はありません。

彼は、何かによじのぼって、胸までのりだして立ち、必死に両手でこちらに合図を送って、呼んでいたのですが、どうやら人にききつけられぬよう、叫ぶのはおろか、言葉を口に出すのさえ恐れる様子で、手招きしていました。

どうでもいいことですが、「何かによじのぼって」というのが気になります。

何によじのぼっても関係ないのですが、「アリョーシャ」の視線から見れば、生垣があるのですから、「ドミートリイ」の足元は見えないでしょう。

そして、「胸までのりだして立ち」と書かれていますので、胸のあたりは見えるのでしょう。

「ドミートリイ」の手招きに応じて「アリョーシャ」はすぐ生垣に走りよりました。

ということは、「アリョーシャ」が「ドミートリイ」に気づいたときは、生垣から少し離れたところを歩いていたことになります。

生垣の高さはどのくらいかはわかりませんが、「ドミートリイ」は何か台のようなもの、たとえば、木の切り株のようなものに上って背伸びしていたのでしょうか。

「お前の方でふりかえってくれたからよかったものの、でないと危うく声をかけるところだったぜ」と、嬉しそうに急きこんで、「ドミートリイ」がささやきました。

「こっちへ乗りこえてこいよ!早く!お前がきれくれたとはありがたい。たった今お前のことを考えていたところなんだ・・・」

「アリョーシャ」のほうも嬉しかった。

しかし、どうやって生垣を越えたものか、とまどっていました。

そうしていると、「ドミートリイ」が逞しい腕で肘を支え、跳躍をたすけてくれました。

「アリョーシャ」は僧服の裾をからげ、町のはだしの腕白小僧のような身軽さでとびこえました。

「よし、うまいぞ、行こうぜ!」と感激したようなささやき声が「ドミートリイ」の口をついて出ました。

「どこへです」と「アリョーシャ」まであたりに目をくばりながら、ささやきました。

しかし、自分たち二人以外だれもいない、無人の庭にいることに気づきました。

庭は小さかったけれど、それでも女主人の家は二人のいるところから少なくとも五十歩くらい離れていました。

その小さいという庭のことは、あとに書かれていますが、一ヘクタール強あります。

正方形として考えると、1ha(ヘクタール)は100m×100mです。

全然小さくないですね。

生垣のところから家まで五十歩くらいと書かれています。

五十歩とは、何メートルでしょうか。

前に【123】の時に、「ゾシマ長老」の僧庵が修道院から四百歩と書かれていて、その時の計算方法で315メートルほどと仮定しましたので、五十歩はだいたい40メートルくらいとなります。

建物がだいたい庭の真ん中あたりにあって、建物の大きさも考えると、そのくらいでいいかもしれません。


しかし、尺貫法の歩(ぶ)というのもあり、これは日本では伝統的に6尺であり、1尺が30.3センチメートルなので約1.8メートルになり、これだと四百歩は720メートルで、五十歩は90メートルになりますが、これはおかしいですね。


2017年1月27日金曜日

302

裏道の途中に一箇所、父の家のすぐ近く、それも父の庭と隣合っている、窓の四つついた、古めかしい小さな、傾きかけた家のわきを通ることになっていました。

「アリョーシャ」の知っているかぎりでは、この町の町人で、娘と二人で暮らしているいざりの老婆でしたが、この娘というのが、首都でハイカラな小間使などして、つい最近まで将軍のお屋敷ばかり渡り歩いていたような女で、老婆の病気のためにもう一年ほど前に帰郷してきたものの、いつも贅沢な服を着飾っていました。

介護離職ですね。

しかし、老婆と娘はひどい貧乏に落ちこみ、隣家のよしみで毎日「フョードル」の台所へスープとパンをもらいにくるほどでした。

「マルファ」はこころよく取り分けてやっていました。

しかし、娘は、スープをもらいにくるほどでしたが、服は一枚も売ろうとしなくて、そのうちの一着などはやけに長い裳裾さえついていました。

こんな事情を「アリョーシャ」が知ったのは、もちろんまったく偶然になのですが、町のことならおよそ何でも知っている親友「ラキーチン」に聞いたからでしたが、それで知りはしましたが、忘れていました。

「ところが、今、隣の庭のところまでくると、ふいにこの裳裾のことを思いだしたので、考えに沈んでいた頭を急いで起し・・・突然、まったく予想もしなかった対面にぶつかった。」


「ドミートリイ」でした。


2017年1月26日木曜日

301

「彼女と非常に親しい兄のイワンに、彼女の家で出会うはずはないと、彼は判断した。兄のイワンはきっと今、父と一緒にちがいない。」

ここで、急に「イワン」が「カテリーナ」と「非常に親しい」ということになっていますが、どれくらい親しいのでしょうか。

少し前、修道院長のところへ行く道の途中で「アリョーシャ」は待ち伏せしていた「ラキーチン」に会い、その道々彼に聞いてはじめて「イワン」と「カテリーナ」に関することを聞いたわけで、それも「カテリーナ」の家に「ドミートリイ」と「イワン」が一緒にいたというだけのことであり、特にふたりが好き合っているということではなかったのですが、「ラキーチン」の「イワン」に対する嫉妬めいた話し方によってそう判断したのでしょうか。

そして、「イワン」は「フョードル」と同時に馬車で家に帰ったのを目撃していますので、途中で「カテリーナ」のところに寄ったりはしないでしょう。

「ドミートリイに出会わぬことは、いっそう確かだった。彼にはその理由も予想できた。」

「ドミートリイ」は、罵り合いの末、「ゾシマ長老」から足もとへの跪拝を受け両手で顔を覆って、一足先に部屋を飛びだしましたから、そんな状態でわかれようとしている女性のところへは行かないでしょう。

しかし、ここで、「アリョーシャ」が確信をもってそう思える理由というのは、別にあるのでしょうか。

「とすれば、二人の会話は差向かいで行われることになる。」

「その宿命的な会話の前に、ぜひともドミートリイのところに駆けつけて、会っておきたかった。」

「宿命的な会話」とまで書かれていますが、「カテリーナ」が決心したというその話は、いったいどんな話でしょう。

少なくとも「アリョーシャ」はどのような話がなされるのか予想しているから「ドミートリイ」に会った方がいいと思ったわけで、感のいい人はわかるかもしれませんが、私にはわかりません、というか忘れてしまっています。

「アリョーシャ」は、自分がもらった手紙を見せないで「ドミートリイ」と何かしら言葉を交わせるのではないかと思いました。

事前に「ドミートリイ」の意向を聞いていた方がいいと思ったのでしょう。

しかし、「ドミートリイ」の家は遠かったし、それに今ごろはやはり家にいないだろうと思いました。

なぜ、今ごろ、つまり昼食時間の終わった午後ですが、「ドミートリイ」が家にいないと思うのでしょう。

そもそも「ドミートリイ」は働いているのでしょうか、それとも毎日のように飲み屋で飲んでいるのでしょうか。

「アリョーシャ」は一分ほどその場にたたずんでから、ついに最後の肚を決めました。

「習慣的なあわただしい十字を切り、すぐに何事かほほえむと、彼は恐ろしい令嬢の家に毅然とした足どりで向った。」

「アリョーシャ」は「カテリーナ」の家は知っていました。

しかし、広小路に出て、それから広場などを突っ切っていたのでは、かなり遠くなります。

小さな町なのですが、あちこちに広がっていましたので、道のりもかなり遠い場合があるのです。

それに、父「フョードル」も「アリョーシャ」が修道院から引き上げて家に帰ってくるのを待っているはずです。

もしかして、先ほどの命令をまだ忘れずに、気まぐれを起こしかねなかったので、そちらの方へも間に合うように急がなければなりませんでした。

「先ほどの命令」とは、父親の権利で今日限り永久に引きとるということですが、これで一件落着とはいかずに、また修道院に対して何かしかけるかもしれないとでも思っているのでしょうか。

ここでは、とにかく早く、なにごとも急がなければならなかったということです。

そして「アリョーシャ」は、裏通りづたいに近道することに決めました。

そういう抜け道なら、五本の指のようによく知っていました。

裏通りづたいということは、荒れはてた塀に沿ってほとんど道のないところを行くことで、ときにはよその生垣を乗りこえたり、よその庭先をぬけたりしなければなりませんでした。

どうして「アリョーシャ」はそんな裏道をよく知っていたのでしょうか。

町のだれもが「アリョーシャ」を知っていて、挨拶をかわす間柄ではありましたが。


この道なら、広小路へ出るのに半分は近くなると「アリョーシャ」は思いました。

しかし、少し前に「広小路に出て、それから広場などを突っ切っていたのでは、かなり遠くなる。」と書かれてありましたので、裏道を通る近道は広小路に出るまでで、そらから広場を突っ切るのですね。


2017年1月25日水曜日

300

「彼が恐れたのは、まさにほかならぬカテリーナという女性だった。」

「アリョーシャ」は、はじめて会ったときから彼女がこわかったのです。

「彼女に会ったのは全部で一、二度、多くても三度くらいだし、一度は偶然にいくつか言葉をかわしたことさえあった。」と書かれていますが、「リーザ」から手紙を渡された時に「アリョーシャ」は「あの人に会ったのは、たった一度だけなのに」と言っています。

「アリョーシャ」にとって彼女の面影は、美しい、気位の高い、高圧的な娘として印象に残っていました。

「しかし、彼を苦しめていたのは、彼女の美しさではなく、何かほかのものだった。つまり、自分の恐怖を説明できぬことが、今その恐ろしさをいっそう強めていた。」

「あの令嬢の目的がきわめて立派なものであることは、彼にもわかっていた。」

「彼女はすでに自分に対して負い目のある兄ドミートリイを救おうと熱望しているのだし、それももっぱら寛大な気持からにほかならなかった。」

「そして、それを認め、そうした美しい寛大な気持を正しいものと見なさずにはいられなかったにもかかわらず、彼女の家に近づくにつれて、背筋を寒気が走りぬけるのだった。」

「アリョーシャ」のそれほどまでに強い恐れというのは、興味深いものがありますが、それは、「アリョーシャ」自身が自分の中にある正義というものに対する違和感のようなものを感じているからであり、彼女の中にある正々堂々とした正義、それは実際には推測できず正体不明ですが、その名実ともに完璧ないわば大上段としての正義に対して、彼の孤独の闇の中から根付いて成長したような小さな正義は太刀打ちできないように思うからではないでしょうか。


ときどき、今、現状はいったいどんな状況なのかわからなくなってきますが、「アリョーシャ」は修道院長に食堂での大騒ぎのことを聞き、その足で、自分はある決心をしたので今すぐ来てほしいという「カテリーナ」の家に向かっている途中です。


2017年1月24日火曜日

299

「アリョーシャ」は明日になれば「フョードル」が自分をまた修道院に送り返すに決まっているし、ことによると今日にも送り返すかもしれないことがわかっていました。

それに、「フョードル」がほかのだれかをならともかく、この自分を侮辱する気など起こしっこないという自信も十分にありました。

それだけではありません。

「アリョーシャ」は、世界中のだれ一人、決して自分を侮辱しようなどと思わぬことを、いや、単に思わぬばかりか、侮辱するはずもないことを確信していました。

彼にとってこれは、理屈ぬきにきっぱりと与えられた公理だったので、その意味では彼はなんのためらいもなく、先へ進んでゆくことができました。

これは、自分は全く何もやましいことはない、だから正々堂々と世間に対峙しうるという言いようもないような自信過剰であると思います。

若いので仕方がないかもしれませんが、一歩間違えば傲慢ということにもなりかねませんね。

しかしそんな彼にもある一面だけは例外の部分がありました。

「アリョーシャ」は、今この瞬間、心の中にうごめいていたのは、まるきり違う性質の、自分でもはっきり説明できそうもないだけによけいやりきれぬ、ある別の恐れでした。

それは、女性に対する恐れなのでした。

具体的は、先ほど「ホフラコワ夫人」に託してよこした手紙のことで、用事があるから寄ってほしいと有無を言わさぬ口調で頼んできた「カテリーナ」に対する恐れでした。

これは、「ホフラコワ夫人」の娘「リーザ」が「アリョーシャ」に手渡した手紙のことですね。

「この要求と、必ず行かねばならぬ必要性とが、とたんに彼の心に何かやりきれぬ感情を植えつけ、その後つづいて修道院や、さらに今しがた修道院長のところで起ったさまざまの騒動や事件にもかかわらず、この感情は昼食までの間ずっと、時がたつにつれてますますはげしく、苦しく、痛み続けた。」

「昼食までの間」と書かれていますが、「アリョーシャ」はまだ昼食はとっていませんが、どこで食べて、それから枕と布団を担いで「フョードル」の家に帰るのでしょうか。

実は、ここではまだ書かれていませんが、「アリョーシャ」が昼食をとったのは、さきほど騒動の事情を聞いた修道院長の台所で、パン一斤とクワスをコップ一杯という簡素な昼食でした。

要するにこういうことです。

「アリョーシャ」はどんなことよりも「カテリーナ」に会うのが一番嫌だったのです。

「リーザ」から手紙を渡された時に「アリョーシャ」の顔がひどく気がかりそうになりましたと書かれていました。

その時に「ホフラコワ夫人」は「アリョーシャ」に説明しています。

つまり、「ドミートリイ」のことや、最近のいろいろな出来事のことで、「カテリーナ・イワーノヴナ」が今ある決心をしたので、詳しくは自分も知らないがとにかく、なるべく早く会いたいということでした。

「アリョーシャ」が恐れたのは、「カテリーナ」がいったい何の話を持ちだし、自分がどう答えてよいかわからないということではありませんでした。

では、何をそんなに恐れているのでしょうか。

それは別に、「アリョーシャ」が彼女の内なる女性を恐れたわけでもありませんでした。

「彼女の内なる女性」とは、おもしろい言い方ですね。

彼はもちろん、女というものをろくに知りませんでした。

しかし、ごく幼い時から修道院に入るまで、ずっと女ばかり相手に暮らしてきたのです。


「アリョーシャ」は四歳くらいの時、母親が死んですぐに「ヴォロホフ将軍の未亡人」に引き取られ、その後、彼女の筆頭相続人で篤実な人「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」一家に、それから彼の親戚らしい二人の婦人の家に引きとられ、二十歳になって「フョードル」の家に帰りました。


2017年1月23日月曜日

298

三 熱烈な心の告白-詩によせて

また時間をさかのぼります。

「フョードル」がわめきちらしながら、修道院の食堂から出ていくところです。

「アリョーシャ」は、父が修道院を出るときに馬車の中から叫んだ命令をきくと、しばらくの間ひどく不審そうにその場にとどまっていました。

「フョードル」は、「枕も敷布団もかついでくるんだ、こんなところにお前の匂いも残さんようにしろ」と叫んだのですね。

といっても、「アリョーシャ」はそれを聞いて、呆然と立ちつくしていたわけではなく、彼に限ってそんなことはありませんでした。

むしろ反対に、彼は不安にかられて、すぐさま修道院長の台所に駆けつけ、父が上の食堂で何をしでかしたかをききだしました。

「上の食堂」と書かれていますので、修道院長の住むところは2階建なのでしょうか、構造がわかりません。

そして「アリョーシャ」は、そのあと、自分をいま苦しめている問題も町へ行くみちみちなんとか解決できるだろうと期待しながら、歩きだしました。

「アリョーシャ」は町のどこか歩いていこうとしているでしょうか、そして、「みちみち解決できる」とは、「フョードル」のことで、彼が町に行く途中で思い直すかもしれないと期待しているのでしょうか、わかりませんが、彼はある面で楽観的ですね。

ところが、少し先を読めばわかるのですが、「アリョーシャ」は「カテリーナ」の家に向かっているのですね。

実際には途中で「ドミートリイ」に会ったり、いろいろ寄り道するのでかなり先になりますが。

そして、「自分をいま苦しめている問題も町へ行くみちみちなんとか解決できる」というのは、「フョードル」のことではなく、「カテリーナ」にたいする自分の恐れのことなのでした。

「あらかじめ言っておくが」と作者は前置きして続けます。

父のどなり声や、《枕や布団をかついで》家に移ってこいという命令など、彼は少しも恐れていませんでした。

きこえよがしに、それもあんな芝居じめた大声での、帰ってこいという命令が、つい《調子にのりすぎて》、いわば格好をつけるために言ったものであることくらい、わかりすぎるほど、よくわかっていました。

「格好をつけるため」というより、言葉のいきおいで《調子にのりすぎて》の方が適切に思います。

自分の気持ちの勢いがどのくらい激しいものなのかを周りに知らしめるために、言葉の使い方も躊躇せずに、気持ちの激しさと同じように過激な内容にしてみせているということだと思いますが、こういう状態は自分の気持ちの中で言葉との体裁を整えるという意味では「格好をつける」とも言えるのでしょうか、またそれは他者に対しても「格好をつける」ことになるのでしょうか。

作者は、この「格好をつける」ことを別の例で説明します。

それは、ちょうど、つい先ごろのこと、とのことです。

この町のさる町人が、自分の名の日の祝いに、すっかり酔払ったあげく、それ以上ウォトカを出してもらえないのに腹を立て、客の前だというのに、いきなり自分の家の食器を割ったり、自分や妻の服を引き裂いたり、家具をたたきこわしたりしはじめ、はては家の窓ガラスまでたたき割ったりしたことがあったが、これもみな、やはり格好をつけるためでした。

だから、いま父に起こったことも、もちろん、これと同じ類いにきまっています。

酔払った町人が、翌日しらふに帰ってから、割った茶碗や皿を惜しがったことは言うまでもありません。

この町人の例証のシチュエーションがわかりにくいのですが、彼は自分のお祝いに客をまねいてどこかの店で飲んでいて、飲みすぎたためウォトカを出してもらえず、客を引き連れて自宅に帰って、それからあばれたと読めますが、ここで、「格好をつけるため」の説明とするのは、少し不自然といえば不自然ですね。


このようになった時の人間の心理というのは、一見単純なことのようですが、それを分析するのはたぶんものすごくむずかしいことのように思います。


2017年1月22日日曜日

297

神ががり行として慕われていた「リザヴェータ」なのですが、「コンドラーチエワ」という裕福な商家の未亡人なぞは、まだ四月の末だというのに、「リザヴェータ」をわが家に引きとり、お産まで外に出さぬよう指図したほどでした。

監視は厳重でした。

しかし、それほどの厳重さにもかかわらず、結果的には、「リザヴェータ」がいちばん最後の晩になって、ふいにこっそり「コンドラーチエワ」の家をぬけだし、「フョードル」の家の庭にあらわれたのです。

身重の彼女がどうやって高い頑丈な塀を乗りこえたのかは、一種の謎として残りました。

「手を貸す者があったのだ」と言う人もあれば、「なにか目に見えぬ力によって運ばれたのだ」と説く者もありました。

しかし、やはり、たとえきわめてむずかしくとも、ごく自然にすべてが行われたのであり、野宿するために生垣をよじのぼってよその菜園にもぐりこむのが得意だった「リザヴェータ」は、「フョードル」の塀になんとか這いあがり、身重にもかかわらず、身体にさわるのを承知で庭にとびおりた、というあたりが、いちばん確かなことでしょう。

「フョードル」の家で産んだのは因縁めいています。

あの夜、「グリゴーリイ」は「マルファ」のところへ駆けもどると、「リザヴェータ」の介抱に彼女をやり、自分は折りよく近所に住んでいた町人の産婆をよびに走りました。

そして、赤ん坊は助かりましたが、「リザヴェータ」は明け方、息をひきとりました。

「グリゴーリイ」は子供を抱きあげて、家に連れてゆき、妻を座らせると、その胸にあてがうように子供を膝にのせてやりました。

「神の御子であるみなし児は、すべての人にとって血縁というが、わしらにはなおさらのことだ。これは、死んだうちの坊やが授けてくれたんだよ。これは悪魔の息子と、信心深い娘との間にできた子供だ。育ててやれ、これからは泣くんじゃないぞ」

こうして「マルファ」は子供を育てることになりました。

洗礼を授け、「パーヴェル」と名づけましたが、父称はだれ言うとなくひとりでに「フョードロウィチ」(訳注 フョードルの息子ということになる)と呼ぶようになりました。

「フョードル」はすべてを必死に否定しつづけてはいたものの、べつに反対もせず、むしろおもしろがってさえいました。

彼が捨て子を引きとったことは、町では好評でした。

のちに「フョードル」はこの捨て子に苗字を考えてやりました。

母親の綽名「スメルジャーシチャヤ」にちなんで、「スメルジャコフ」と名づけだのです。

「スメルジャーシチャヤ」という綽名は「悪臭のひどい女という意味」ですが、それにちなんだ苗字というのは「フョードル」もひどいものだと思いますが、そんなものではないのでしょうか。

この「スメルジャコフ」が「フョードル」の第二の召使になり、この物語のはじめのころ、「グリゴーリイ」と「マルファ」の老夫婦といっしょに離れで暮していました。

その時には、母屋には「フョードル」と息子の「イワン」が住んでいましたね。

「スメルジャコフ」はコックとして使われていました。


「この男についても特にいろいろ話しておく必要が大いにあるのだが、読者の注意をそんなに長い間、ありふれた召使たちのほうにそらせておくのは、わたしとしても心苦しいので、スメルジャコフについてはいずれ小説がすすむにつれて触れることになるだろうと期待して、物語に移ることにしよう。」と作者は書いています。


2017年1月21日土曜日

296

「グリゴーリイ」が主人のために力のかぎり精力的に頑張ったのは、まさにこの時でした。

そういったいっさいの中傷に対して主人をかばったばかりか、主人のために喧嘩や口論までして、大勢の人の考えを変えさせたほどでした。

「グリゴーリイ」の性格については前に説明がありました。

それは、「いったん何らかの理由、それもたいていの場合おどろくほど非論理的な理由によって、変わることない真実として一つの点が目の前に設定されるや、その点をめざして頑なほどまっすぐ歩みつづける、意志の堅固な一徹者である。」ということでした。

「グリゴーリイ」は「フョードル」を疑ってなかったのでしょうか。

「おどろくほど非論理的な理由によって」疑う気持ちを捨てたのかもしれません。

妻の「マルファ」がモスクワに行って商売しようといったときに、「たとえ相手がどんな人間であろうと、これまでのご主人のもとを去ったりすべきではない、『なぜなら、それが今の俺たちの義務だからだ」とも言っています。

「グリゴーリイ」にとっては主人の「フョードル」を守ることは絶対的な義務なのです。

「グリゴーリイ」は「あの卑しい女が、自分で罪を作ったのさ」と断定的に言い、相手の男は《ねじ釘のカルプ》にきまっていると主張しました。

《ねじ釘のカルプ》というのは、(これは当時この町で有名だった凶悪な囚人で、そのころ県の刑務所から脱獄して、この町にひそんでいた男のことだった)ということです。

この推理はもっともらしく思われました。

「カルプ」の名は人々の記憶にありました。

それもちょうど秋口の、問題の夜あたりに市中をうろついていて、三人から追剝をはたらいていたことをみんなはおぼえていました。


しかし、この出来事や、こうしたすべての噂も、哀れな神ががり行者に対する世間の同情に水をささなかったばかりか、だれもがいっそう彼女に目をかけ、大事にしてやるようになりました。


2017年1月20日金曜日

295

「リザヴェータ」を冷やかした一杯機嫌の紳士たち一同は「フョードル」の思いがけない意見を聞いて、もちろん大笑いし、だれか一人が「フョードル」をけしかけはしましたが、ほかの連中は、相変らず度はずれにはしゃいではいたものの、いっそうけがらわしそうに唾を吐きすて、しまいにはみんなさっさと逃げだしました。

この時の事実はここまでしか書かれていませんので、あとは読者の想像にまかせますということになりますが、このあといろいろ書かれていることを考えると、読者はそうであったと確信をもつようになるのですが、あくまでその事実は書かれていません。

後日「フョードル」は、自分もあの時みんなといっしょに帰ったのだと、誓いまでたてて言い張ったとのことですので、かなり疑われていたのだということがわかります。

「ことによると、本当にそうだったのかもしれないが、だれひとりたしかにそれを知っている者はいないのだし、」絶対にわかるはずもなかったけれど、五、六ヶ月たつと、町じゅうの者がみんな「リザヴェータ」の大きなお腹を見て、心からのはげしい憤りをこめて噂するようになり、いったいだれの仕業なのか、だれが辱しめたのだろうと、たずねまわり、追求しはじめました。

その矢先に突然、辱しめた犯人はほかならぬあの「フョードル」だという恐ろしい噂が町じゅうに広まりました。

「どこからこの噂が流れたのだろう?」

この疑問符は誰が言っているのでしょう、何でもよく知っているこの物語の語り手です。

あの晩遊んだ紳士たちの五人ばかりは、このころには各地に散ってしまっており、町に残っていたのは一人だけで、それも年ごろの娘を何人もかかえた家庭持ちの、もう年配の、尊敬すべき五等官だけでしたので、かりに何事かあったとしても、決して言いふらしたりするはずはありませんでした。

しかし、噂はずばり「フョードル」をさしていましたし、その後もさしつづけました。

「もちろん、当人はさほど自分の仕業だと吹聴したわけではなかった。」そこらの商人や町人風情に答えるつもりもなかったにちがいありません。

「そのころ彼は傲慢で、口をきくのは、自分があれほど笑わせてやる官吏や貴族の仲間うちに限られて」いました。

ここで「そのころ彼は・・・」というこの一文を入れることの配慮は何気ないようですが、読者に時間を意識させる意味で効果が絶大ですね。

また、「フョードル」は「さほど自分の仕業だと吹聴したわけではなかった。」と書かれていますが、これはどういうことでしょう。


「そこらの商人や町人風情」が「フョードル」を名指しで噂しているときも、反論しなかったということでしょうか、それとも「官吏や貴族の仲間うち」の誰かに内密にしゃべったことがあったのでしょうか、これも事実は書かれていませんが、読者に、そうかもしれないと思わせるだけの何かがあります。


2017年1月19日木曜日

294

「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」の描写は長いですが、まだまだ続きます。

彼女が眠るのは、たまに教会の入口であったり、でなければどこかの生垣を乗りこえて(この町には今日でも塀の代りに生垣が数多くあるのだ)どこかの菜園であったりしました。

わが家、つまり死んだ父が世話になっていた主人の家へは、だいたい週に一度は顔を見せ、冬になれば毎日くることもありましたが、それも夜寝るときだけで、玄関の土間とか、牛小屋に泊るのでした。

世間では彼女がこんな生活に参らないのをふしぎがっていましたが、彼女にしてみれば、ただ慣れてしまっただけの話で、背丈こそ小さかったものの、体格は並みはずれて頑丈だったのです。

この町でも上流人士の中には、彼女は高慢さからそんなことをやっているのだと言い張る者もいましたが、どうもこれは当たっていません。

なにしろ一言もしゃべれないのですから、ときおりは舌を動かして唸るだけですので、この場合高慢さなど関係ないのです。

「さて、こんな出来事があった。」と作者はさりげなく書いていますが、これは先の展開を知っている人はわかるのですが、将来的に因縁めいた重大な結果をもたらす原因を読者に予想させることとなるのです。

もうだいぶ以前の話です。

あるとき、満月の明るい暖かな九月の夜、「われわれの概念ではもうきわめて遅い時刻に」夜遊びしてきたこの町の上流人士たち五、六人の、したたか者ばかりの酔払った一団が、クラブから《裏道づたいに》わが家に向っていました。

小路の両側には生垣がつづき、その向うには立ちならぶ家々の菜園が長くのびていました。

小路は、この町では時として小川とよぶならわしのある、悪臭のひどい細長い水溜りにかけ渡された木橋に通じていました。

生垣のわきの、いらくさと山ごぼうの茂みの中に、この一行は眠りこけている「リザヴェータ」の姿をみつけました。

一杯機嫌の紳士たちは笑いながら彼女をのぞきこむように立ちどまり、ありとあらゆる破廉恥な冗談をとばしはじめました。

ふいに、さる若い貴族の頭に、『だれでもいいが、こんなけだものを女として扱うことができるだろうか、なんなら今すぐにでも・・・』という、許しがたい問題に対するまったく常軌を逸した疑問がうかびました。

みなは、傲慢な嫌悪の色をうかべて、できないと結論しました。

ところが、たまたまこの一団の中に「フョードル」がいて、すぐさまとびだすなり、女として扱えるばかりか、むしろ大いに望むところだし、一種特別な刺激があっていい、などと言いきりました。

たしかに当時の彼は、あまりにもわざとらしいくらい道化の役割を押し売りし、なにかとでしゃばっては紳士たちを笑わせるのが好きで、うわべはもちろん対等の付き合いでも、実際のところみなの前ではまったくの下郎にほかなりませんでした。

これは、いつのことなのか、作者は書いています。

この出来事があったのは、彼が最初の妻「アデライーダ」の訃報をペテルブルグがら受け、帽子に喪章をつけたまま飲んだくれたり、乱行の限りをつくしたりしていた、ちょうどそのころで、あまりのひどさにこの町でいちばん極道な連中の中にさえ、彼を姿を見て眉をひそめる者があったほどでした。


この記述でわかりましたが、この出来事は「ドミートリイ」が三歳の時で、後に「フョードル」が殺害されるのですが、その時「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」が産んだ子「スメルジャコフ」は二十四歳くらいになっていたと思います。


2017年1月18日水曜日

293

「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」の父親「イリヤ」は年じゅう病気がちで、ひねくれ者でした。

そして、彼女が帰ってくると、情け容赦なく打ちすえました。

しかし、彼女は、神がかり行者ということで、町じゅうどこでも食べさせてもらえたから、家に帰ることはめったにありませんでした。

「イリヤ」の主人だちも、当の「イリヤ」も、さらには主に商人や商家のおかみさんたちなど、町の情け深い人たちの多くも、一度ならず「リザヴェータ」に、肌着一つでいるよりはましな格好をさせようとしましたし、冬になるといつも皮外套を着せ、長靴をはかせてやるのでしたが、彼女はたいてい、おとなしく着せてもらって立ち去り、どこか、主に教会の入口あたりで、プラトークよし、スカートよし、皮外套よし、長靴よし、と恵んでもらったものを必ずそっくり脱いで、全部その場に置きすて、それまでどおり肌着一つにはだしという姿で行ってしまうのでした。

プラトーク【platok】とは、「ロシアの民族的な女性用被り物で,季節を問わず用いられる。ふつうは四角い布切れ,またはニット地で,頭に被るほか,肩にかけたり,首に巻いたりする。原色の華やかな花柄が多く好まれる。民族的な被り物とはいっても,広く使用されるのは機械による大量生産が開始された19世紀半ば以降のことである。その時期以降,伝統的な被り物にかわって,農民,商人など広く一般庶民の間に流布するようになった。」とのこと。

あるとき、この県の新知事がこの町を視察に立ち寄ったことがありました。

知事は「リザヴェータ」を見て、やさしい心をいたく傷つけられ、報告のとおりそれが《神がかり行者》であると理解はしたものの、やはり、うら若い娘が肌着一つでさまよい歩いているのは良俗を乱すものだから、今後はこんなことのないようにと、注意を与えました。

しかし、知事が帰ってしまうと「リザヴェータ」は今までどおり放っておかれました。

やがて父親「イリヤ」が死にます。

それで、彼女は、町じゅうの信心深い人たちすべてにとって、みなし児としていっそう愛される存在になりました。

また実際、だれもが彼女を愛しているかのようでしたし、少年たちでさえからかったり、いじめたりしませんでした。

この町の少年たち、それも特に小学校の生徒なぞは腕白な連中ではありましたが。

彼女が知らぬ家へ入っていっても、だれひとり追いだそうとせず、むしろみんなかわいがり、小銭を恵んでやりました。

しかし、彼女はその小銭をもらっても受けとるなり、すぐに教会か刑務所の募金箱に入れてしまいました。

市場で輪形や三日月形の白パンをもらっても、必ず最初に出会った子供にその白パンをやってしまうか、でなければこの町のいちばん裕福な奥さんかだれかをよびとめて、与えるのでした。

奥さんたちもむしろ喜んで頂戴していました。

どうして「この町のいちばん裕福な奥さん」なのでしょうか。「最初に出会った子供」というのは納得できるのですが、あえて意図的に「この町のいちばん裕福な奥さん」というのは、実際にはそんなことはありうるのですが、作者の真意はどこにあるのでしょうか。

「リザヴェータ」自身の食事は、黒パンに水だけときまっていました。


よく彼女が金持の商店に立ちよって一休みするとき、こっちには高価な商品が、あっちには現金が放りだしてあるようなことがあっても、主人たちは、彼女の前でだとえ何千というお金をとりだして置き忘れても、ただの一カペイカも取ったりしないことを承知していましたので、決して警戒することもありませんでした。


2017年1月17日火曜日

292

二 リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ

暖かい五月の夜、「グリゴーリイ」と「マルファ」が六本指の赤ん坊を葬ったその日の夜のことです。

「フョードル」の家の庭の木戸の近くに風呂場があり、「グリゴーリイ」はそこで「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」が赤ん坊を産みおとしたのを発見したのです。

なんとも、いくつかの偶然が、しかもそのひとつひとつがありえないような偶然が重なったまさに「特異な事件」と言うしかないような出来事ですね。

そして、これには、「グリゴーリイ」がかねてからいだいていた不快な、いまわしいある疑惑を決定的なものにして、深い衝撃を与えたある特別な事情がありました。

この「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」というのは、死後この町の信心深い老婆たちの多くが目をうるませて回想したとおり、《一四〇センチそこそこ》しかない、非常に小柄な娘でした。

このとき、彼女の年齢は二十歳、健康そうな、幅の広い、血色のいい顔をしていましたが、完全に白痴の顔で眼差しは柔和ではありましたが、少しも動かず、不快な印象を与えていました。

一生の間、夏も冬も、粗末な麻の肌着一つに、はだしで通していました。

羊の毛のように縮れた、おそろしく濃い、ほとんど真っ黒な髪が、まるで何か巨大な帽子みたいに頭にかぶさっていました。

それだけではなく、いつも地べたや泥濘で眠るため、いつ見ても髪は土や泥にまみれ、木の葉や、木片や、鉋屑などがこびりついていました。

父親は身代をつぶした宿なしで病身の、「イリヤ」という町人で、酒に溺れ、もう長年の間この町の裕福な町人のもとに、下男といった形でころがりこんでいました。

「リザヴェータ」の母親はずっと以前に他界していました。

この「リザヴェータ」という名前は、この物語の中で三回目になります。

一回目は「ゾシマ長老」が修道院の表階段のところで祝福を与えた乳呑児、二回目は「ホフラコワ夫人」の車椅子の娘です。

『罪と罰』では、金貸し老婆の義妹で市場で古着を商う女でソーニャの友達ですが「ラスコーリニコフ」に殺されます。

この「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」のような人はある意味で人間を超えた超人間的存在であり、神に近い者として、共同体の人々と特別な関係にあり、昔はよく見かけましたが、現在ではほとんど見かけなくなりました。


しかし、それは現在、目に見える形として見かけないだけであって昔から現在まで変わらぬ精神的な領域があるとすれば、そのシステムを支えるものとして、形を変えて存在しているのかもしれませんし、人間の精神的な深部に隠されて眠っているのかもしれません。


2017年1月16日月曜日

291

その「特異な事件」は六本指の赤ん坊を葬った同じその日に起こりました。

「マルファ」が夜中にふと目をさまして、新生児の泣き声にも似た声をききつけました。

彼女はぎょっとして、夫を揺り起こしました。

「グリゴーリイ」は耳をすまし、それがむしろだれかの呻き声で、それも『女の人らしい』と判断しました。

彼は起きて服を着ました。

かなり暖かい五月の夜でした。

表階段に出ると、呻き声が庭からするのがはっきりきこえました。

しかし、庭の門は夜分には内側から錠をおろしてしまうし、庭の周辺には高い頑丈な塀がめぐらしてあるため、その門以外に入る場所はないはずでした。

「グリゴーリイ」はいったん家に戻ると、カンテラをともし、庭の鍵を持って、相変わらず子供の泣き声がきこえるとか、あれはきっと坊やが泣いて呼んでいるのだとか言い張る妻のヒステリックな恐怖には注意も払わず、無言のまま庭に出ていきました。

庭に出てみると、呻き声が庭の木戸の近くにある風呂場からきこえてくることがはっきりわかりました。

風呂場の戸を開けるなり、彼は呆然と立ちすくむような光景を目にしました。

巷をいつもさまよい歩いて、町じゅうに有名な、「リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」(訳注 悪臭のひどい女という意味)という綽名の、神がかり行者が、風呂場に入りこみ、たった今赤ん坊を産みおとしたところだったのです。

赤ん坊がかたわらにころがり、女は虫の息でした。

女は何一つ語らなかったのですが、それはもともと口がきけなかったからにすぎませんでした。


作者いわく、「だが、この事件は別に説明しなければなるまい。」


2017年1月15日日曜日

290

「グリゴーリイ」はどこからか《われらが神の体得者イサク・シーリン神父》(訳注 七世紀の隠遁者)の箴言・説教集を手に入れてきて、何年も根気よく読みつづけ、そこに書いてあることはほとんど何一つわかりませんでしたが、たぶんそれだからこそこの本をいちばん大切にし、愛読したのにちがいありませんでした。

この《われらが神の体得者イサク・シーリン神父》の箴言・説教集は、ずっと後になって、黄色い本ということで出てきます。

そして、「グリゴーリイ」はごく最近になって、たまたま近くでその機会に恵まれたため、鞭身教の教えに耳を傾け、学ぶようになって、どうやら感動を受けたらしいのですが、新しい宗派に移ろうという気は起こしませんでした。

「鞭身教」という言葉は、少し前に「フョードル」が修道院で神父たちに言いがかりをつけたときに使われていましたね。「神父さん、どうもあなた方は鞭身教(訳注 ロシア正教の一分派。禁欲と苦行を説いた)の傾向がありなさるようだ・・・」と。

「グリゴーリイ」の《神さまのこと》に関する造詣は、当然のことながら彼の容貌にいっそう重々しさを与えました。

もしかして、彼にはもともと神父主義的な傾向があったのかもしれません。


そのような彼なのですが、そこへもってきて、まるであつらえたように、六本指の赤ん坊の誕生とその死という出来事にぴったり時期を合わせて、さらに別の、のちに当人が表現したとおり、心に《刻印》を刻みつけたきわめて奇怪な、思いがけぬ、特異な事件が起こったのです。


2017年1月14日土曜日

289

その不幸な子は結局二週間しか生きられませんでしたが、「グリゴーリイ」はその子が生まれてから別に意地悪をするわけでもなく、しかし、ほとんど顔を見ることもせず、目にとめようとさえしないで、たいてい小屋を留守にしていました。

二週間後に赤ん坊は鵞口瘡(訳注 乳児の口内炎)のために死にました。「グリゴーリイ」はみずから小さな柩におさめてやり、深い悲しみをたたえて見つめ、小さな浅い墓穴に土がかけられると、ひざまずいて、地面に顔をすりつけるようにして墓前に祈っていました。

それ以来長い歳月の間に、彼は一度も赤ん坊のことに触れなかったし、「マルファ」も夫の前では決して赤ん坊を思いだそうとせず、たれかと《坊や》の話をする機会ができたりすると、その場に「グリゴーリイ」がいなくとも、ひそひそ声で話すのでした。

「マルファ」が言うには、彼はこの墓所のとき以来、もっぱら《神さまのこと》を学ぶようになり、たいてい一人で黙々と、そのつど大きな丸い銀縁の眼鏡をかけて『殉教者列伝』を読んでいました。

大斎期のとき以外は、声をあげて読むことはめったにありませんでした。

この「大斎期」のことについて「ウィキペディア」ではこう書かれています。

「四旬斎(しじゅんさい、英語: Great Lent)とは、キリスト教(正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、プロテスタント)において、復活祭を準備する期間。正教会では大斎(おおものいみ)、カトリック教会・ルーテル教会では四旬節、聖公会では大斎節と呼ばれるのが一般的である」

正教会では大斎(おおものいみ)というそうです。いろいろと複雑ですが、拾い読みすると「40日間続く大斎の祈祷においては、信者は、己個人の罪を痛悔するのみならず、人間の罪が来たったそもそもの起源とそれにもかかわらず注がれる無限の神の恩寵を思い、またキリストとその受難また十字架の勝利を予告する旧約中の予表に注意を傾注させ、その成就としてのキリストの受難と復活へ向かう。禁食やその他の節制は、このような神との交わりに人間が立ち返ることを準備するためのものである。大斎においては、シリアの聖エフレムの祝文など、大斎中にのみ行われる祈祷が多種類存在する。また時祷においても、通常と異なる祈祷文がしばしば付加される。」そして「また信者が私的に行う祈祷でも、朝晩の祈りにこれを加える。」とのこと。

「グリゴーリイ」は「ヨブ記」を好んで読んでいました。

「ヨブ記」については「『ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、旧約聖書に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。ヘブライ語で書かれている。『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。」