2017年9月30日土曜日

548

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・彼らは静かに死に、お前のためにひっそりと消えてゆき、来世で見いだすものも死にすぎない。しかし、われわれは秘密を守りとおし、彼らの幸福のために天上での永遠の褒美で彼らを誘いつづけるのだ。なぜなら、かりにあの世に何かがあるとしても、もちろん彼らのような連中のためにあるわけではないのだからな。噂や予言によると、お前が舞い戻ってきて、ふたたび勝利をおさめ、誇り高く力強い選ばれた人々を率いてやってくるそうだが、われわれは、彼らが救ったのは自分らだけにすぎないけれど、われわれはすべての人々を救ったのだ、と言ってやる。なんでも、獣にまたがって神秘を手に握りしめた淫婦が恥をかかされ、非力な人々がまた反乱を起して、女の衣を引き裂き、《不浄な》肉体をあらわにする、とかいう話だね(訳注 ヨハネ黙示録第十七、十八章)。だが、そのときこそわしは立ちあがって、罪を知らずにきた何十億という幸福な幼な子だちを、お前にさし示してやる。そして、彼らの幸福のために彼らの罪をかぶってやったわれわれが、お前の前に立ちはだかって、言うのだ。《できるものなら、そんな勇気があるのなら、われわれを裁いてみよ》とな。わしがお前なぞ恐れていないことを、よく承知しておくがいい。よくおぼえておけ、わしも荒野にいたことがあるのだし、いなごと草の根で生命をつないだこともある。お前が人々を祝福するのに用いた同じその自由を、わしも祝福したことがあるのだし、お前の選ばれた人々の一員に、《員数を埋める》という渇望に燃えて力のある強い人々の一員になろうと覚悟したこともあったのだ。だが、わしは目をさまし、狂気に仕えるのがいやになった。わしは引き返して、お前の偉業を修正した(十字の上に傍点)人々の群れに加わった。誇り高い人々から離れ、つつましい人々の幸福のためにつつましい人々のところに戻ってきたのだ。わしが今お前に話していることはきっと実現するだろうし、われわれの王国も築かれる。もう一度言っておくが、明日になればお前は、あの従順な羊の群れが、われわれの邪魔をしに来た罰にお前を焼く焚火に、わしの合図一つで熱い炭をかきたてに走るさまを見ることができよう。なぜなら、われわれの焚火にもっともふさわしい者がいるとすれば、それはお前だからだ。明日はお前を火あぶりにしてやるぞ。Dixi(わしの話は終りだ)』」

これで「イワン」は自分がつくった叙事詩『大審問官』を語り終えました。

この話が広場にある《都》という飲み屋で話されたということはある意味ですごいことですね。

まず、「ヨハネ黙示録第十七章」です。

「それから、七つの鉢を持つ七人の御使(みつかい)のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦(だいいんぷ)に対するさばきを、見せよう。
地の王たちはこの女と姦淫(かんいん)を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。御使(みつかい)は、わたしを御霊(みたま)に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫(かんいん)の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦(いんぷ)どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。すると、御使はわたしに言った、「なぜそんなに驚くのか。この女の奥義と、女を乗せている七つの頭と十の角のある獣の奥義とを、話してあげよう。あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。ここに、知恵のある心が必要である。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。御使(みつかい)はまた、わたしに言った、「あなたの見た水、すなわち、淫婦(いんぷ)のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である。あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。神は、御言(みことば)が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨(みむね)を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。」

つぎに、「ヨハネ黙示録第十八章」です。

「この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫(かんいん)に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」。わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。彼女と姦淫(かんいん)を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。また、他の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。その商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布(ひぬの)、各種の香木、各種の象牙細工(ぞうげざいく)、高価な木材、銅、鉄、大理石などの器、肉桂(にっけい)、香料、香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、そして人身などである。おまえの心の喜びであったくだものはなくなり、あらゆるはでな、はなやかな物はおまえから消え去った。それらのものはもはや見られない。これらの品々を売って、彼女から富を得た商人は、彼女の苦しみに恐れをいだいて遠くに立ち、泣き悲しんで言う、『ああ、わざわいだ、麻布と紫布と緋布をまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは』。また、すべての船長、航海者、水夫、すべて海で働いている人たちは、遠くに立ち、彼女が焼かれる火の煙を見て、叫んで言う、『これほどの大いなる都は、どこにあろう』。彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫ぶ、『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』。天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。すると、ひとりの力強い御使(みつかい)が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない。また、おまえの中では、あかりもともされず、花婿、花嫁の声も聞かれない。というのは、おまえの商人たちは地上で勢力を張る者となり、すべての国民はおまえのまじないでだまされ、また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。」

以上、なかなかわかりにくいです。

ここでは、大審問官もはじめはキリスト教だったということが言われています。

そして、選ばれた人だけが救われるという「狂気」に気づき、大勢の人のためにキリストの偉業を修正した人々の群れに加わったというのです。

その方法は、天上での永遠の褒美つまり天国にいけると嘘をつくわけですが、ここでは噓も方便なのですね。

第一、大審問官も先ほどあの世があれば教えてくれとキリストに聞いていたのですが、彼自身もあの世のことはどうなっているかわからないし、自信がないので「かりにあの世に何かがあるとしても、もちろん彼らのような連中のためにあるわけではないのだからな」なんて言っています。

天国があってもなくても大衆には嘘をついていて、嘘をつくこは悪魔は平気なんでしょう。


そして、明日、民衆の手でキリストを火あぶりにすると言っています。


2017年9月29日金曜日

547

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・その無理解をいちばん助長してきたのはだれか、言ってみるがいい。いったいだれが羊の群れをばらばらにし、勝手知らぬいくつもの道にちらばしたのだ? だが、羊はふたたび集まり、ふたたび服従する。今度はもう永久になのだ。そのときこそわれわれは彼らに静かなつつましい幸福を、意気地なしの生き物として創られている彼らにふさわしい幸福を授けてやろう。そう、われわれは彼らに結局、驕ってはならぬと説いてやるのだ。それというのも、彼らをお前がおだてあげ、その結果驕ることを教えこんだからだ。われわれは、彼らが意気地なしであり、哀れな子供にすぎぬことを、だが子供の幸福はだれの幸福よりも甘美であることを証明してみせよう。彼らは臆病になり、われわれを注視するようになり、ひよこが親鳥に寄り添うように、おどおどとわれわれにすがりつくようになるだろう。彼らはわれわれに驚嘆し、われわれを恐れ、何十億という荒々しい群れを鎮めてしまえるほどわれわれが強力で聡明なことを自慢するようになるだろう。彼らはすっかりへこたれてわれわれの憤りに震えあがり、彼らの知恵は臆し、目は女子供のように涙もろくなることだろうが、われわれの合図一つで彼らは、同じくらい簡単に快活さや、笑いや、明るい喜びや、幸福そうな子供の歌などに移行することだろう。そう、われわれは彼らを働かせるけれど、仕事から解放された自由な時間には彼らの生活を、歌あり、合唱あり、あどけない踊りありという子供の遊戯のようなものにしてやるつもりだ。そう、われわれは彼らに罪を犯すことさえ許してやる。彼らは弱く、無力だから、罪を犯すことを許してやったというので、われわれを子供のように慕うことだろう。われわれは、どんな罪でもわれわれの許しを得てなされたのであれば償われる、と言ってやるつもりだ。彼らを愛していればこそ、罪を犯すのを許してやるのだし、その罪に対する罰は、当然われわれがひっかぶるのだ。かぶってやれば、彼らは、神に対する罪をわが身にかぶってくれた恩人として、われわれを崇めるようになるだろう。そして彼らはわれわれに対して何の秘密も持たなくなる。彼らが妻や恋人と暮すことも、子供を持つか持たぬかということも、すべて服従の程度から判断して許しもしようし、禁じもしよう。そうすれば、彼らは楽しみと喜びとを感じてわれわれに服従するだろうからな。良心のもっとも苦しい秘密さえ、彼らはすべてわれわれのことろに持ってくるだろうし、われわれはすべてを解決してやる。そして彼らは大喜びでわれわれの決定を信ずるのだ。なぜなら、その決定こそ、個人の自由な決定という現在の恐ろしい苦しみや、たいへんな苦労から、彼らを解放してくれるからだ。そして、すべての人間が幸福になるだろう。彼らを支配する何十万の者を除いて、何百万という人々がすべて幸福になるのだ。それというのも、われわれだけが、秘密を守ってゆくわれわれだけが不幸になるだろうからな。何十億もの幸福な幼な子を、善悪の認識という呪いをわが身に背負いこんだ何十万の受難者ができるわけだ。・・・・

ここで切ります。

この部分で驚いたのは、この支配する者と支配される者という構図の中で、支配する者が何十万人もいることです。

延々と続く大審問官の口から発せられる悪魔側の言い分を聞いていると何だか、現代の支配層と被支配層との関係のように思えてきます。


悪魔の側は被支配層に生きていけるだけのものを与え、喜びも苦しみもコントロールするということですね、それが一番いいことだという悪魔側の理念の表明でしょうか。


2017年9月28日木曜日

546

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・だがそのとき、そのときはじめて人々にとって平和と幸福の王国が訪れるのだ。お前は自分の選良たちを誇りにしているが、お前のはしょせん選ばれた人々にすぎないし、われわれはすべての人に安らぎを与えるのだからな。そのうえさらに、こう言えるのではないだろうか。それらの選ばれた人々や、選ばれた人になりえたはずの力強い人々のうちの大部分は、お前を待っているうちに、しまいに疲れてしまい、自己の精神力や情熱をほかの分野に移してしまったし、今後も移すことだろう、そして最後にはお前に対してその自由(二字の上に傍点)な反旗をひるがえすようになるのだ。だが、お前自身もその旗をひるがえしたのだったな。われわれの下ではあらゆる人が幸福になり、もはやお前の自由にひたっていたころのように、いたるところで反乱を起すことも、互いに滅ぼし合うこともなくなるだろう。そう、人々がわれわれのために自由を放棄し、われわれに服従するときこそ、はじめて自由になれるということを、われわれは納得させてやる。どうだね、われわれの言うとおりになるだろうか、それともわれわれが嘘をつくことになるだろうか? われわれの正しさを、彼らは自分で納得するはずだ。なぜなら、お前の自由とやらがどんなに恐ろしい隷属と混乱に導いたかを、彼らとて思いだすだろうからな。自由や自由な知恵や科学などは彼らを深い密林に引きこみ、たいへんな奇蹟と解決しえぬ神秘の前に据えてしまうので、彼らのうちの反抗的で凶暴な連中はわれとわが身を滅ぼすだろうし、反抗的であっても力足りぬ者は互いに相手を滅ぼそうとし合い、あとに残った弱虫の不幸な連中はわれわれの足もとにいざり寄って、泣きつくことだろう。《そうです、あなたのおっしゃるとおりでした。あなた方だけが神の神秘を支配していたのです。あなた方のところに戻ってまいりますから、わたしたちを自分自身から救ってください》とな。われわれからパンをもらう際に、もちろん彼らは、自分たちの手で獲得したパンをわれわれが取りあげてしまうのは、いっさいの奇蹟なしに分配してやるためだったことを、はっきりとさとるだろうし、われわれが石をパンに変えたりしなかったことにも気づくだろうが、本当の話、彼らはパンそのものより、われわれの手からパンをもらうことのほうをずっと喜ぶだろう! なぜなら、以前われわれのいなかったころには、自分らの稼いだパンが手の中で石ころに変わってしまってばかりいたのに、われわれのところに戻ってくると、ほかならぬその石ころが手の中でパンに変ったという事実は、あまりにも記憶に新ただろうからな。永久に服従するということが何を意味するか、彼らはどんなに高く評価しても評価しすぎることはないのだ! そして、このことをさとらぬかぎり、人間は不幸でありつづけるだろう。・・・・

ここで切ります。

この辺まで話がくると、もう論の展開はなくなり、言葉を変えて繰り返すのみになります。

つまり、キリストは選ばれた者たちだけを幸福にし、選ばれなかった者たちは取り残される、しかも肝心なときに現れず、人々がキリストが現れるのを待つ間にも混乱が起こっている。

悪魔はすべての人間にパンを与え永遠に幸福にし、人々もそのことに納得すると。


これだけを聞けば、悪魔の側に軍杯があがりそうですが。


2017年9月27日水曜日

545

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・実際のところ、お前はあのときすでに帝王の剣を受けとることもできたはずだった。なぜお前はあの最後の贈り物をしりぞけたのだ? あの力強い悪魔の第三の忠告を受け入れていれば、お前は人間がこの地上で探し求めているものを、ことごとく叶えてやれたはずなのに。つまり、だれの前にひれ伏すべきか、だれに良心を委ねるか、どうすれば結局すべての人が論議の余地ない共同の親密な蟻塚に統一されるか、といった問題をさ。なぜなら、世界的な統合の欲求こそ、人間たちの第三の、そして最後の苦しみにほかならぬからだ。人類は全体として常に、ぜひとも世界的にまとまろうと志向してきた。偉大な歴史をもつ偉大な民族は数多くあったが、その民族が偉大であればあるほど、よけい不幸になった。なぜなら、人々の統合の世界性という欲求を、他の民族よりずっと強く意識したからだ。チムールとかジンギスカンといった偉大な征服者たちは、全世界の制服を志して、この地上を疾風のように走りぬけたものだが、その彼らにしても、無意識でこそあったけれど、やはり人類の世界的、全体的統合という、まったく同じ偉大な欲求を示したのだ。世界と帝位とを引き受けてこそ、全世界の王国を築き、世界的な平和を与えることができるはずではないか。とにかく、人類の良心を支配し、パンを手中に握る者でなくして、いったいだれが人間を支配できよう。われわれは帝王の剣を受けとったが、受けとった以上、もちろんお前をしりぞけ、彼のあとについたのだ。そう、人間の自由な知恵と、科学と、人肉食という非道の時代が、さらに何世紀かつづくことだろう。なぜなら、われわれの知らぬうちにバベルの塔を築きはじめた以上、彼らはしょせん人肉食で終るだろうからな。だがそのときこそ、けだものがわれわれのところに這いよってきて、われわれの足を舐め、その目から血の涙をふり注ぐのだ。そしてわれわれはけだものにまがらり、杯をふりかざす。その杯には《神秘!》と書かれていることだろう。・・・・

ここで切ります。

「マタイによる福音書第四章」の三つめの問いは次のようなものでした。

「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。」

そして、「世界的な統合の欲求」、人類の志向していることだと。

チムールとは、「ティムール(ペルシア語: تيمور‎ Tīmūr/Taymūr, 1336年4月8日 - 1405年2月18日)は、中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)。中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。」。

ジンギスカンとは、「チンギス・カン(モンゴル語:Cinggis qagan.svg、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。」


大審問官は、自分たちは帝王の剣を受けとったのですが、人々が「われわれの知らぬうちにバベルの塔を築きはじめた」ので、非道の時代が何世紀か続き、その後にふたたび自分たちのところに泣きついてくるだろうと言うのです。


2017年9月26日火曜日

544

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・強い人たちが堪え忍んだことに、それ以外の弱い人たちが堪えられなかったからといって、何がわるいのだ? 弱い魂があんな恐ろしい物を受け入れられぬからといって、いったい何がいけないのだ? まさか本当にお前は選ばれた者のために、選ばれた者のところへだけやって来たわけではないだろう? だが、もしそうなら、それは神秘であって、われわれの理解すべきことではない。また、もしそれが、神秘であるなら、われわれも神秘を伝道して、《大切なのは心の自由決定でもなければ愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わねばならぬ神秘なのだ》と教えこむ権利があるわけだ。われわれがやったのは、まさにそれさ。われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟(二字の上に傍点)と神秘(二字の上に傍点)と権威(二字の上に傍点)の上にそれを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の群れのように導かれることになり、あれほどの苦しみをもたらした恐ろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを喜んだのだ。われわれがこんなふうに教え、実行してきたのは正しかったかどうか、言ってみるがいい。われわれがかくも謙虚に人類の無力を認め、愛情をもってその重荷を軽しくてやり、われわれの許しさえあれば、人類の意気地ない本性に対して、たとえ罪深いことでさえ認めてやったからといって、はたしてそれが人類を愛さなかったことになるだろうか? いったい何のためにお前は今ごろになってわれわれの邪魔をしに来たのだ? それにどうして黙りこくって、そんな柔和な目でしみじみとわしを眺めている? 怒るがいい。わし自身お前を愛していないのだから、お前の愛なぞほしくない。それに、このわしがいったい何をお前に隠しだてせねばならないのだ? それとも、わしが今だれと話しているか、知らぬとでも言うのか? わしがこれから言おうとすることは、お前にはもうすべてがわかっているはずだ。それくらい、お前の目を見れば読みとれるさ。このわしまで、われわれの秘密をお前に隠すと思うのか? ことによるとお前はその秘密をわしの口からききたいのかもしれんな。それなら、よくきくがいい。われわれはもはやお前にではなく、彼(一字の上に傍点)(悪魔)についているのだ、これがわれわれの秘密だ! もうだいぶ以前からお前ではなく、彼についておるのだ。すでに八世紀にもなる。ちょうど八世紀前、われわれは彼から、お前が憤りとともにしりぞけたものを、つまり、彼が地上のすべての王国を示してお前にすすめた、あの最後の贈り物を受けとったのだ(訳注 紀元七五四年、フランク王のピピンが教皇ステファヌス二世から承認されて国王となり、そのお礼に中部イタリアの土地を教皇領として寄付したことをさす)。われわれは彼からローマと帝王の剣とを受けとり、自分だけが地上の帝王であり唯一の帝王であると宣言したのだ。もっともいまだにわれわれの仕事を完全な仕上げに持ってゆけずにいるけれども。だが、それがだれの罪なのだろう? そう、この仕事はいまだに初期の段階にすぎないけれど、とにかく始められたのだからな。完成までこの先まだ永いこと待たなければならないし、大地はこれからもたくさん苦しみぬくことだろうが、われわれはいずれ目的を達して帝王になり、そのときこそもう人々の全世界的な幸福を考えてやるのだ。・・・・

ここで切ります。

フランク王のピピンはウィキペディアで調べてみましたが、文中で書かれていたような事実のことはさがせませんでした。

教皇ステファヌス二世とは、「752年3月23日に教皇に選出されるが、その3日後に脳卒中で死亡。最も在位期間が短い教皇。教皇冠を受けることなく死亡しているため、正式な歴代ローマ教皇リストから除かれている。「二世」という名称の代を示す序数は欧米では付されておらず「教皇選出者ステファヌス」か、或いは括弧付きで「二世」と表記される。この結果、日本ではステファヌス二世以降は、序数がずれることになり、例えば日本でのステファヌス三世は、欧米ではステファヌス二世と表記されるか、或いはステファヌス二世(三世)と括弧付きで記載される。」とのことです。

しかし、ここで大審問官は、自分が悪魔の側についたのだとはっきりと宣言しました。

キリスト教がなしえなかった不備を修正したのです。


つまりキリスト教が一部の人間にたいしてだけ行ったことを、人間の本当の姿を正しく知ることによって全体に敷衍し、それに応じた対策を施したということなのでしょう。


2017年9月25日月曜日

543

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・お前の偉大な預言者(訳注 ヨハネのこと)は、最初の復活につらなった者をすべて見たがその数は各部族から一万二千人ずつだったと、幻想と比喩に託して語っている(訳注 ヨハネ黙示録第七章)。しかし、彼らの数がそれだけだとしたら、彼らも人間ではなく、神のようなものではないか。彼らはお前の十字架を堪え忍び、いなごと草の根とで生命をつなぎながら、飢えと裸の荒野の何十年かを堪えぬいたのだ。だから、もちろんお前は、自由と、自由な愛と、お前のための自由で立派な犠牲との子らを、誇らしげにさし示してかまわない。だが、彼らがたった数万人でしかなく、それも神にひとしい人々であることを思いだすがよい。そのほかの人たちはどうなのか?・・・・

短いけどここで切ります。

「ヨハネ黙示録第七章」です。

この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。」

大審判官は、選ばれたイスラエルのユダ、ルベン、ガド、アセル、ナフタリ、マナセ、シメオン、レビ、イサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンの十二の部族のそれぞれ一万二千人、合計十四万四千人という数に注目していて、それ以外の人々はどうなるのかと言っています。

たしかに、「ヨハネ黙示録第七章」では、選民ということが大きな問題になりますね。

宗教のような概念的なことに関しては、実数的なことの根拠はないのではないでしょうか。


仏教の経典では、とてつもない桁数をあげてこの辺のことはうまくできていると思いますが。


2017年9月24日日曜日

542

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・人々がお前をからかい、愚弄して、《十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だと信じてやる》と叫んだとき、お前は十字架からおりなかった。お前が下りなかったのは、またしても奇蹟によって人間を奴隷にしたくなかったからだし、奇蹟による信仰ではなく、自由な信仰を望んだからだ。お前が渇望していたのは自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する囚人の奴隷的な歓喜ではなかった。だが、ここでもお前は人間をあまりにも高く評価しすぎたのだ。なにしろ彼らは、反逆者として創られたとはいえ、もちろん囚人だからだ。あたりを見まわして、判断するがいい。すでに十五世紀が過ぎ去ったけれど、お前が自分のところまで引きあげてやったのがどんな連中だったか、見てみるがいい。誓ってもいい。人間というのは、お前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだぞ! その人間に、お前と同じことがやりとげられるだろうか? お前は人間を尊ぶあまり、まるで同情することをやめてしまったかのように振舞った。それというのも、人間にあまり多くのものを要求しすぎたからなのだ。しかも、それがだれかと言えば、自分を愛する以上に人間を愛したお前なのだからな! 人間への尊敬がもっと少なければ、人間に対する要求ももっと少なかったにちがいない。それなら、もっと愛に近かったことだろう。なぜって、人間の負担ももっと軽くなっただろうからな。人間は弱く卑しいものだ。人間が今いたるところでわれわれの権力に対して反逆し、反逆していることを誇っているからといって、それがどうだと言うんだ? そんなものは、子供か小学生の誇りにすぎんよ。教室で造反して、先生を追いだした小さな子供たちと同じさ。だが、子供たちの歓喜にもいずれ終りがやってくる。子供たちにとっては高いものにつくだろう。彼らは寺院をぶちこわし、大地を地で汚すことだろう。しかし、愚かな子供たちもしまいには、たとえ自分たちが造反者であるにせよ、自分の造反さえ持ちこたえられぬ意気地なしの造反者にすぎないことに思いいたるのだ。愚かな涙を流しながら、彼らはやっと、自分たちを造反者として創った神は、疑いもなく、自分たちを笑いものにするつもりだったと認める。彼らは絶望しきってそう言うにだが、彼らの言ったことは神への冒涜になり、そのため彼らはいっそう不幸になるだろう。なぜなら、人間の本性は神への冒涜に堪えられずに、結局はいつも本性そのものが冒涜に対する復讐をするからなのだ。というわけで、不安と混乱と不幸とが、彼らの自由のためにお前があれほどの苦しみに耐えぬいたあとの、人間の現在の運命にほかならない! ・・・・

ここで切ります。

私の記憶にありませんが、十字架にかけられたキリストに対して、下りてみろと叫ぶ場面があったのでしょう。

キリストが神の子なら、奇蹟を起こして十字架から下りることもできるのでしょうが、そんなことをして、人々を驚かせてキリスト教に改宗させることは邪道だと。

そうではなくて、キリストは人間がそれぞれの意思でキリスト教を選びとることを望んだと。

しかし、大審問官は人間は実際のところ弱く卑しい存在だからそんなきれいごとではすまない、つまりキリストは人間をかいかぶっているのだと、そしてそのことで結果的に人間を不幸にしていると。

さらに現在、人間は権力にたいする反逆を行なっているが、これは子供的な未熟な反逆で、子供と同じようにいずれ反省の段階に移行し、その時には大きな代償を払うだろう、そして、人間の本性はそういうものとして創られているからだと。


結局ここで大審問官は人間の現在の運命、つまり現状は不安と混乱と不幸だと言っています。


2017年9月23日土曜日

541

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・地上には三つの力がある。そしてただその三つの力のみが、こんな弱虫の反逆者たちの良心を、彼らの幸福のために永久に征服し、魅了することができるのだ。その力とは、奇蹟と、神秘と、権威にほかならない。お前は第一の力も、第二も、第三もしりぞけ、みずから模範を示した。聡明な恐ろしい悪魔が寺院の頂上にお前を立たせて、《もしお前が神の子なのかどうかを知りたければ、下にとびおりてみるがいい。なぜなら、神の子は天使に受けとめられ、運ばれるので、下に落ちることもないし、怪我もしないと書いてあるのだから。そうしてこそ、お前が神の子かどうか、わかるだろうし、そうしてこそ父なる神へのお前の信仰がどんなものなのかえを証明できるのだ》と言ったとき、お前をそれをきき終ってから、提案をしりぞけ、誘いにのらず、下にとびおりたりしなかった。ああ、もちろんあの場合お前は、神として、誇り高く立派に振舞った。だが人間が、この弱虫な反逆者の種族が、いったい神だろうか? そう、あのとき、一歩踏みだしさえすれば、とびおりようと身動きしさえすれば、とたんに神を試みることになり、神への信仰をことごとく失って、お前が救うために来た大地にぶくかって大怪我をしたにちがいないし、お前を試した聡明な悪魔が大喜びしたにちがいないことを、お前はさとったのだ。だが、もう一度言うが、人間の本性は、奇蹟をしりぞけるように創られているだろうか? 人生のこんな恐ろしい瞬間、つまり心底からのいちばん恐ろしい、根本的な、やりきれぬ疑問に苦しむ瞬間に、心の自由な決定だけですましていられるなんて、そんなふうに人間の本性は創られているのだろうか? そう、お前は自分の偉業が福音書に書きとどめられ、末長く地の果てまで到達することを知っていたので、人間もお前に倣って奇蹟をしりぞけるやいなや、ただちに神をもしりぞけてしまうことを、お前は知らなかった。なぜなら、人間は神よりはむしろ奇蹟を求めているからなのだ。そして人間は奇蹟なしにいつづけることなぞできないため、今度はもう新しい、自分自身の奇蹟を作りだして、祈祷師に奇蹟や、まじない女の妖術にひれ伏すようになる。たとえ自分がたいそうな反逆者で、異端者で、無神論者であったとしてもだ。・・・・

ここで切ります。

地上には、奇蹟と神秘と権威という三つの力があるということですが、これらは神の属性でしょう。

次に二つ目の悪魔の問いです。

「マタイによる福音書第四章」にはこう書かれていました。

「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。」

ここでは、神を疑い試すことはいけないことだという神に対する信の深さ、つまり絶対的な信のあり方が語られています。


しかし、人間の本性はそんな信のあり方になく、たとえ卑近なものであっても奇蹟を信じたがるのだと大審問官は言っています。


2017年9月22日金曜日

540

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・お前に惹かれ、魅せられた人間が自由にあとにつづくよう、お前は人間の自由な愛を望んだ。昔からの確固たる掟に代って、人間はそれ以来、自分の前にお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなければならなくなったのだ。だが、選択の自由などという恐ろしい重荷に押しつぶされたなら、人間はお前の姿もお前の心理も、ついにはしりぞけ、反駁するようにさえなってしまうことを、お前は考えてみなかったのか? 最後には彼らは、真理はお前の内にはないと叫びだすだろう。なぜなら、彼らにあれほど多くの苦労と解決しえぬ難題を残すことによって、お前がやってのけた以上に、人間を混乱と苦しみの中に放りだすことなぞ、とても不可能だからだ。こういうわけで、お前自身が自己の王国の崩壊に根拠を与えたのだから、もはやこの点ではだれをも責めてはならないのだ。実際また、お前が提案されたのも、このことではなかっただろうか? ・・・・

ここで切ります。

この中で「善」と「悪」という言葉が出てきますが、この判断こそ人間にとっては困難なことであると言っています。

「善」と「悪」の判断は個々の人間にまかされており、正しく判断しうることもあるし、誤ることもあるでしょう、そういったことの集積が混乱を招き、キリスト教社会の崩壊につながっているということでしょう。


そして、その判断の自由を誰かに手渡せば、人間はもっと楽になれるのだから、悪魔がキリストに提案したのはそのことだと。


2017年9月21日木曜日

539

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。しかし、その一方、もしだれかがお前に関係なく人間の良心を支配したなら、そう、そのときには人間はお前のパンすら投げ棄てて、自己の良心をくすぐってくれる者についてゆくことだろう。この点ではお前は正しかった。なにしろ、人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。それはまさにそのとおりだが、しかし結果はいったいどうだ。お前は人間の自由を支配する代りに、いっそう自由を増やしてしまったではないか! それともお前は、人間にとって安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを、忘れてしまったのか? 人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。しかも、それをしたのがだれかと言えば、人間のために自分の生命を捧げに来た男なのだからな! 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。・・・・

ここで切ります。

「パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。」というのは無意味な発言ですね。

なぜ人間はパンを与えればひれ伏すがの説明にはなっていません。

この辺で大審問官の言っていることの筋みちが立たなくなってきます。

あれほど、パン第一主義的な発言をしていたのですが、人間の良心を支配すれば「パンすら投げ棄てて」そちらについていくと言っています。

しかも、「人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな」とまで言いだしました。

そして「何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう」と。

「いさぎよしとせぬ」という言葉がここで使われているのはおかしいですね。

そして、「パンすら投げ棄てて」の文脈の不整合さを何とかしたいと思ったのでしょうか、唐突に「たとえ周囲のすべてがパンであったとしても」なんていう言葉を挟んでいます。

つまり、人間は「何のために生きるかという確固たる概念」が「地上のパン」より上位に来ているばかりか、その概念がなければ生きていけないとまで言っています。

これまでの話は何だったんでしょう。

また彼は「人間の自由」を支配すべきだと思っているのですが、ここでいう「良心の自由」もその「人間の自由」に含まれており、キリストはその「良心の自由」について、それを増やしたと批判しています。


そしてキリストは「異常なもの、疑わしいもの、曖昧なもの」を人間に与えて、人間に「良心の自由」をもって判断させるという苦痛をも与えたということでしょうか。


2017年9月20日水曜日

538

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。彼らは神を創りだし、互いによびかけた。《お前たちの神を棄てて、われわれの神を拝みにこい。さもないと、お前たちにも、お前たちの神にも、死を与えるぞ!》たぶん、世界の終りまでこんな有様だろうし、この世界から神が消え去るときでさえ、同じことだろう。どうせ人間どもは偶像の前にひれ伏すのだからな。お前は人間の本性のこの主要な秘密を知っていた。知らぬはずがない。それなのにお前は、すべての人間を文句なしにお前の前にひれ伏させるために提案された、地上のパンという唯一絶対の旗印をしりぞけてしまった。しかも、自由と天上のパンのためにしりぞけたのだ。そのあとお前が何をしでかしたか、よく見るといい! そして何もかもが、またしても自由のためになのだからな! お前に言ってくが、人間という不幸な生き物にとって、生まれたときから身にそなわっている自由という贈り物を少しでも早く譲り渡せるような相手を見つけることくらい、やりきれぬ苦労はないのだ。だが、人間の自由を支配するのは、人間の良心を安らかにしてやれる者だけだ。パンといっしょにお前には、明白な旗印が与えられることになっていた。・・・・

ここで会話を切ります。

今度は、宗教戦争のことが話されています。

そして、人間が神を創りだしたと言っています。

その人間と人間の創りだした神が、別の人間とその別の人間が創りだした神と「跪拝の統一性という欲求」のために戦うのです。

「この世界から神が消え去るときでさえ」というのは、宗教がなくなるとき、まさに今起きつつある革命の時のことなのでしょう、その時になっても人間は偶像崇拝をやめないのだと。

まさに、その通りに歴史は動いたと思います。

「人間の本性」は、支配者を求めるということが言われているのですね。


キリストはそのことを知っていながら、そしてどうすれば支配者になれるかその仕組みを知っていながら、「自由と天上のパンのためにしりぞけた」のです。


2017年9月19日火曜日

537

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・彼らをふたたび欺くわけだ。なぜなら、お前を二度とそばへ寄せつけはしないからな。この欺瞞の中にこそ、われわれの苦悩も存在する。なぜなら、われわれは嘘をつきつづけなければならなぬからだ。これこそ、荒野での第一の問いの意味したものだし、お前が何よりも大切にした自由のために拒絶したものも、これにほかならない。また、一方、この問いにはこの世界の偉大な秘密がふくまれてもいたのだ。《パン》を認めていれば、お前は、個人たると全人類たるとを問わずすべての人間に共通する永遠の悩みに答えることになったはずだった。その悩みとは、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることなった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょに(九字の上に傍点)ひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにはかならない。・・・・

内容的にも途中ですが、ここで切ります。

「荒野での第一の問いの意味したもの」は「欺瞞」だと言っています。

「マタイによる福音書」によれば、この「第一の問い」というのは、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」というものでした。

この意味が、「欺瞞」ということならば、あまりにも抽象的すぎて理解に苦しみます。

「パン」というのは、これは実際のパンのことでもあるし、拡大解釈すれば食のことだけでなく、生きるための物質的なあらゆる条件ということになります。

たとえば、「石」と「パン」が交換可能なものとして、A=Bという形で置かれていることとは違うと思います。

つまり悪魔は、AをBに変換するマジックをキリストに要求しているのではなく、全能の神であるなら、すべてを作り変えろと言っているのではないでしょうか。

それにしてもよくわかりません。

この「第一の問い」の意味することと言うのは、悪魔にとってそれが結局は、本当のことを表に出せず、キリストの存在を隠しつづけなければならないということであり、それは悪魔の主観にほかならないとおもうのですが。

この辺の理解については自分ではさっぱりわかりません、いろんな人が解説をしているはずですので、いずれ読んでみようと思います。

また、「第一の問い」には秘密が含まれており、それは人間の「跪拝の統一性という欲求」というのです。

人間は、みんながいっせいにひれ伏す対象を探すものだと言うことですが、これは違うように思うのですが。

いわゆる広い意味での神ということですね。


それは、キリストであったり、お金であったり、イデオロギーであったりするかもしれませんが、これらは人間が要求したものではなく、現象としてあるのではないでしょうか、それとも人間に本来的にそうした欲望があるからなのでしょうか。


2017年9月18日月曜日

536

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・彼らはそのときになってまた、地下の埋葬所(カタコンブ)に隠れているわれわれを探しまわり(というのも、われわれはふたたび弾圧され、迫害されているだろうからな)、見つけだして、訴えることだろう。《われわれに食を与えてください。天上の火を約束した人が、くれなかったのです》そうすればもう、われわれが塔を完成してやる。なぜなら、食を与える者こそ塔を完成できるのだし、食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ。お前のためにな。いや、お前のためにと、われわれは嘘をつくのだ。ああ、われわれがいなかったら、人間どもは決して、決して食にありつくことはできないだろう! 彼らは自由でありつづけるかぎり、いかなる科学もパンを与えることはできないだろう。だが、最後には、彼らがわれわれの足もとに自由をさしだして、《いっそ奴隷にしてください、でも食べものは与えてください》と言うことだろう。ついに彼ら自身が、どんな人間にとっても自由と地上のパンとは両立して考えられぬことをさとるのだ。それというのも、彼らは決してお互い同士の間で分ち合うことができないからなのだ! 彼らはまた、自分たちが決して自由ではいられぬことを納得する。なぜなら、彼らは無力で、罪深く、取るに足らぬ存在で、反逆者だからだ。お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することにできない何百万、何百億という人間たちはいったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間だけで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てばそれでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。彼らは罪深いし、反逆者でもあるけれど、最後には彼らとて従順になるのだからな。彼らはわれわれに驚嘆するだろうし、また、われわれが彼らの先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承諾してくれたという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう、-それほど最後には自由の身であることが彼らには恐ろしくなるのだ! しかし、われわれはあくまでもキリストに従順であり、キリストのために支配しているのだ、と言うつもりだ。・・・・

ここで切ります。

何か、難しくて、重要なことが話されているように思います。

そして悪魔は「食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ」と言います。

このこと、つまり悪魔の言う「食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ」がこの話の前提になっていますが、ここではそれを疑うことなく読み進めなくてはなりません。

そして、「お前のためにな。いや、お前のためにと、われわれは嘘をつくのだ」と言っていますが、「お前」というのはキリストのことですね。

《いっそ奴隷にしてください、でも食べものは与えてください》という言葉は人間としての尊厳を欠いた言葉ですね。

人間は、①分かち合うことできず、②無力で、③罪深く、④取るに足らぬ存在で、⑤反逆者で、⑥かよわい、⑦永遠に汚れた、⑧永遠に卑しい種族とまで言っています。

そして、自由と地上のパンとは両立できないと。

「天上のパン」と「地上のパン」というのは何でしょうか。

「地上のパン」はわかりますが、キリストが約束した「天上のパン」とは。

「何千、何万の人間がお前のあとに従う」とのことですので「天上のパン」というのはキリスト教の信者のことですね。

そして「天上のパンのために地上のパンを黙殺することにできない何百万、何百億という人間たち」とおうのはそれ以外の人です。

悪魔は、そのような人も「われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ」と言います。

「われわれが彼らの先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承諾してくれたという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう」この中の「彼らを支配することを承諾してくれた」というのは、彼らに頼まれて支配するということですから、一筋縄ではいかない支配と被支配の構図です。

そして悪魔はさらに、自分たちを神と見なすようになった民衆に対して、そうではなくて神はキリストでありキリストのためにしていることだと言うというのですからさらに複雑です。

つまり、民衆を支配するためにキリストを使うということです。

悪魔によると、今のキリスト教社会は共産主義によって滅ぼされるのですね。

そして、それも共産主義はその理念通りに完成されることはなく、「ふたたび恐ろしいバベルの塔がそびえ」ることになるのです。


なんだか、この歴史観は当たっているように思えます。


2017年9月17日日曜日

535

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・自分で判断してみるがいい、お前と、あのときお前に問いを発した悪魔と、いったいどちらが正しかったか? 第一の問いを思いだすのだ。文字どおりでこそないが、意味はこうだった。《お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらで行こうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生れつき不作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかったからなのだ! この裸の焼野原の石ころが見えるか? この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう。もっとも、お前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのをやめはせぬかと、永久に震えおののきながらではあるがね》ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。お前は、人はパンのみにて生きるにあらず、と反駁した。だが、お前にはわかっているのか。ほかならぬこの地上のパンのために、地上の霊がお前に反乱を起し、お前とたたかって、勝利をおさめる、そして人間どもはみな、《この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!》と絶叫しながら、地上の霊のあとについて行くのだ。お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの叡智と科学との口をかりて、《犯罪はないし、しがたって罪もない。あるのは飢えた者だけだ》と公言するようになるだろう。《食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!》お前に向ってひるがえす旗にはこんな文句が書かれ、その旗でお前の教会は破壊されるのだ。お前の教会の跡には新しい建物が作られる。ふたたび恐ろしいバベルの塔がそびえるのだ。もっとも、この塔も昔のと同様、完成することはないだろうが、いずれにせよ、お前はこの新しい塔の建設を避けて、人々の苦しみを千年分も減らしてやることができたはずなのだ。なぜなら、人々は千年もの間この塔に苦しみぬいたあげく、われわれのところへやってくるにきまっているからな!・・・・

ここで切ります。

悪魔は「人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかった」と言います、そして服従を求めています。

つまり、キリスト=自由、悪魔=服従の対立なのです。

人間は自由のために千年苦しんだ、「人はパンのみにて生きるにあらず」と理想を掲げたが、そのために千年苦しんだ。

たしかに人間は動物ではないので「人はパンのみにて生きるにあらず」は正しいのはあるが、パンのみで生きることすら実際に人間にとって困難であり、その困難さはさまざまな不幸とともに現在もあり続ける。


つまり服従を避けつづけて生きていくために、言葉を変えれば、ただ食べるためだけのことで、実際にそれだけのことで人間は千年苦しんできた、あげくのはてに、新しい思想のもとに新しい支配のシステムが完成されようとしているがそれも中途半端であり失敗に終わるだろう、そして最後には食べるため、生存するために自由を手渡し悪魔に服従を望むということでしょうか、そしてそれは何を意味するのでしょうか。


2017年9月16日土曜日

534

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・一例としてためしに今、もしあの恐ろしい悪魔の三つの問いが福音書から跡形もなく消え失せてしまい、それを復元して福音書にふたたび記入するために、新たな問いを考えだして作る場合を想定しうるとしたら、そしてそのために支配者や高僧、学者、哲学者、詩人など、この地上のあらゆる賢者を集めて、《さあ、三つの問いを考えて作るがいい、だがその問いは事件の規模に釣り合うだけではなく、そのうえわずか三つの言葉、わずか三つの人間の文句で、世界と人類の未来の歴史をあますところなく表現しうるようなものでなければならぬぞ》と課題を与えるとしたら、一堂に会した地上の全叡智は、はたしてあのとき力強い聡明な悪魔が荒野で実際にお前に呈した三つの質問に、深みや力から言って匹敵できるようなものを何かしら考えだせるとでも、お前は思うのか? これらの質問を見ただけで、またそれらの出現した奇蹟を見ただけで、お前の相手にしているのが人間の現在的な知恵ではなく、絶対的な永遠の知恵であることが理解できるはずだ。なぜなら、この三つの問いには、人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言されているのだし、この地上における人間の本性の、解決しえない歴史的な矛盾がすべて集中しそうな三つの形態があらわれているからだ。当時このことはまだ、さほど明らかではなかったかもしれない。なにしろ未来はうかがい知れぬものだったからな。しかし、すでに十五世紀をへた現在では、この三つの問いの中で何もかも実にみごとに推測され、予言され、ぴたりと的中しているので、もはやこの問いに何一つ付け加えることも、差し引くこともできないということが、よくわかるだろう。・・・・

ここで区切ります。

「三つの問い」のことが語られています。

読んでいると、これはいったい誰が語っているのかわからなくなりますが、叙事詩ですから、「イワン」が創作した語り手でしょう。

この「三つの問い」が「世界と人類の未来の歴史をあますところなく表現しうる」ものであり、「人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言されているのだし、この地上における人間の本性の、解決しえない歴史的な矛盾がすべて集中しそうな三つの形態があらわれている」と最大限の評価を与えています。

この本文にはもちろん「マタイによる福音書第四章」は出てきませんが、その内容はキリスト教の文化圏では常識なのでしょうか。

何の知識も無く、本文だけを読み進めていくと、なにやらわかりずらいところです。

「三つの問い」は「人間の現在的な知恵ではなく、絶対的な永遠の知恵」として、実際には言葉であらわせぬ深遠なものとして存在しており、それが福音書の中で「人間の文句」として人間に理解できる形で表現されているのですね。


そして、その「三つの問い」の中の言葉は十五世紀をへた現在、完璧に的中していると言っています。


2017年9月15日金曜日

533

「でも、警告や指示に不足はなかったはずだというのは、どういう意味です?」

「アリョーシャ」がたずねました。

「そこが老審問官のぜひとも言わねばならぬ肝心の点でもあるわけさ。『聡明な恐ろしい悪魔が、自滅と虚無の悪魔が』と老審問官は言葉をつづけたのだ。『偉大な悪魔が、かつて荒野でお前と問答を交わしたことがあったな。福音書には、悪魔がお前を《試みよう》としたかのように伝えられているが(訳注 マタイによる福音書第四章)、本当にそうだろうか? そして、悪魔が三つの問いという形でお前に告げ、お前が拒否し、福音書の中で《試み》とよばれているあの言葉よりも、いっそう真実なことを何かしら言いえたたろうか? 実際のところ、もしこの地上でかつて真の衝撃的な奇蹟が成就されたことがあるとすれば、それはあの日、つまりあの三つの試みの行われた日にほかならない。あの三つの問いの出現こそ、まさしく奇蹟が存しているからだ。・・・・

ここで切ります。

ここで老審問官は「悪魔」を「偉大な」と言っており、「福音書」の中の記述を必ずしも事実であるとは考えていないように思えます。

常識的にはキリストは光輝く善であり、「悪魔」はその反対に位置するものですが、老審問官は別の位置に立ってこの両者を眺めているかのようです。

『聡明な恐ろしい悪魔が、自滅と虚無の悪魔が』という表現には彼が「悪魔」をキリストと同格に扱っていることが垣間見えるように思えます。

「マタイによる福音書第四章」です。

「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。」

悪魔がキリストに言った三つの「警告や指示」が「マタイによる福音書第四章」に書かれています。

一つ目は「石をパンに変えろ」、二つ目は「飛び降りろ」、三つ目は「ひれ伏せ」ということです。

キリストはそれぞれの「警告や指示」に行動ではなく、つまり、言われたことを実行せずに言葉で答えています。


それにたいして老審問官は「いっそう真実なことを何かしら言いえたたろうか?」と言っていますが、この疑問符の具体的な意味がわかりません。


2017年9月14日木曜日

532

「僕にはまたわからない」

「アリョーシャ」が口をはさみました。

「大審問官は皮肉を言って、からかっているんですか?」

「とんでもない。老審問官は、ついに自分たちが自由に打ち克ち、しかも人々を幸福にするためにそうやってのけたことを、自分と部下たちの功績に帰しているのさ。『なぜなら今こそやっと(つまり、彼の言っているのは異端尋問のことなのだ)、はじめて人々の幸福について考えることが可能になったからだ。人間はもともと反逆者として作られている。だが、はたして反逆者が幸福になれるものだろうか? お前は警告を受けていたはずだ』と彼はキリストに言う。『警告や指示に不足はなかったはずなのに、お前は警告をきこうとせず、人々を幸福にしてやれる唯一の道をしりぞけてしまったのだ。しかし、幸いなことに、去りぎわにお前はわれわれに仕事を委ねていった。お前は約束し、自分の言葉で確言し、人々を結びつけたり離したりする権利をわれわれに与えた。だから、もちろん、今となってその権利をわれわれから取りあげるなぞ、考えることもできないのだぞ。いったい何のためにわれわれの邪魔をしにきたのだ?』」

ここで言う「警告や指示に不足はなかったはずなのに」とは何でしょうか。


また、「去りぎわにお前はわれわれに仕事を委ねていった。お前は約束し、自分の言葉で確言し、人々を結びつけたり離したりする権利をわれわれに与えた」とはどういうことを言っているのでしょうか。


2017年9月13日水曜日

531

「じゃ、囚人も沈黙しているんですか? 相手をみつめたまま、一言も言わないんすか?」

「それはどんな場合にもそうでなけりゃいけないよ」

「イワン」がまた笑いだしました。

「老人自身が指摘しているとおり、キリストは昔すでに言ったことに何一つ付け加える権利はないんだからね。なんだったら、まさしくこの点にこそローマ・カトリック教の根本的な特徴があると言ってもいいんだ。少なくとも俺の考えではね。つまり、『お前はすべてを教皇に委ねた。したがって今やすべては教皇の手中にあるのだから、いまさらお前なんぞ来てくれなくてもいいんだ。少なくとも、しかるべき時まで邪魔しないでくれ』というわけだ。こういう意味のことを彼らは言っているばかりか、ちゃんと書いてもいるんだ、少なくともイエズス会の連中はな。俺自身、この派の神学者の本でよんだことがあるもの。ところで、『お前が今やってきた、向うの世界の秘密をたとえ一つなりとわれわれに告げる権利が、お前にはあるだろうか?』と老審問官はたずね、キリストに代って自分で答える。『いや、あるものか。それというのも、昔すでに語ったことに付け加えぬためだし、この地上にいたころお前があれほど擁護した自由を人々から取りあげぬためなのだ。お前が新たに告げることはすべて、人々の信仰の自由をそこなうことになるだろう。なぜなら、そのお告げは奇蹟として現われるからだ。お前にとっての人々の信仰の自由とは、すでに千五百年も前のあの当時から、何よりも大切だったはずではないか。あのころしきりに《あなた方を自由にしてあげたい》と言っていたのは、お前ではなかったろうか。ところがお前は今その《自由な》人々を見たのだ』ふいに老審問官は考え深げな笑いをうかべて、いい添える。『そう、この仕事はわれわれにとって、ずいぶん高いものについた』きびしくキリストを見つめながら、彼はつづける。『しかし、われわれはお前のためにこの仕事を最後までやってのけたのだ。十五世紀の間、われわれはこの自由というやつを相手に苦しんできたけれど、今やそれも終った。しっかりと完成したのだ。しっかりと完成したのが、お前には信じられないかね? お前は柔和にわしを見つめるばかりで、憤りさえ表わしてくれないのか? だが、承知しておくがいい、今や、まさしく今日、人々はいつの時代にもまして自分たちが完全に自由であると信じきっているけれど、実際にはその自由を自ら我々のところに持ってきて、素直にわれわれの足もとに捧げたのだ。しかし、それをやってのけたのはわれわれだし、お前の望んでいたのもそのことだったのではないか、そういう自由こそ?』」

「イエズス会」については、(359)で説明しましたが、簡単に言うと、ローマ教皇への絶対服従を誓い、プロテスタントに対抗してカトリックの世界布教を目指し伝道に努めることを使命としている修道会です。

ここで語られているのは「自由」です。

「自由」の概念がよくわかりませんがこの「自由」とは何でしょうか。

民衆は、自分たちの「自由」を教会に預けたことで、完全な「自由」を得たと信じているということですね。


つまり「自由」とは人々に考えることを要求してくるものであり、それに耐えられぬ人々は安心を得るために、その「自由」を信頼できる教会に預けたということでしょうか。


2017年9月12日火曜日

530

「イワン」の発言の続きです。
・・・・大審問官は入口で立ちどまり、一分か二分じっとキリストの顔を見つめる。やがて静かに歩みより、燈明をテーブルの上に置くと、キリストに言う。『お前はキリストなのか? キリストだろう?』だが、返事が得られぬため、急いで付け加える。『答えなくてもよい、黙っておれ。それにお前がいったい何を言えるというのだ? お前の言うことくらい、わかりすぎるほどわかっておるわ。そのうえお前には、もう昔言ったことに何一つ付け加える権利はないのだ。なぜわれわれの邪魔をしにきた? なにしろお前はわれわれの邪魔をしにきたんだし、自分でもそれは承知しとるはずだ。しかし、明日どうなるか、わかっているのか? お前がいったい何者か、わしは知らんし、知りたくもない。お前がキリストなのか、それともその同類にすぎないのか、わしは知らないが、とにかく明日になったらお前を裁きにかけて、異端のもっとも悪質なものとして火あぶりにしてやる。そうなれば今日お前の足に接吻した同じあの民衆が、明日はわしの合図一つでお前を焼く焚火に炭を放りこみに走るのだ、お前にはそれがわかっているのか? そう、おそらくお前はそれを承知しとるんだろうな』大審問官は囚人から一瞬も視線をそらさず、思い入れたっぷりな瞑想にふけりながら言い添えた」

大審問官は相手がキリストだとわかっていますね。

そして、民衆が簡単に裏切ることも。

大審問官は臆せずにキリスト対抗していますが、これは不自然なことのように思いますが叙事詩だからでしょう。

何はともあれ、キリストは神なのですから別格だと思いますが、大審問官は自分と同格とでも思っているのでしょうか、そんなわけはないと思いますが、彼の本心はどうなのでしょうか、もしキリストだと確定されれば、彼の存在自体が抹殺されるでしょうから。

大審問官としての個人の権力意識が極限まで昂揚し、神の位にまでなってしまっているようです。

もし、そうだとしたらそれもすごいことです。

「あまりよくわからないけど、それはいったい何のことです? 兄さん?」

それまでずっと黙ってきいていた「アリョーシャ」が微笑して言いました。

「ただの雄大な幻想ですか、それとも老人の何かの誤解か、およそありえないような qui pro quo(人違い)ですか?」

「なんなら後者と受けとってもいいんだぜ」

「イワン」は笑いました。

「もしお前が現代のリアリズムにすっかり甘やかされた結果、何一つ幻想的なものは受けつけず、あくまでも qui pro quoであってほしいというんなら、それでもかまわんさ。たしかにそのとおりだよ」

彼はまた大笑いしました。

「なにしろ老人は九十なんだから、とうの昔に自己の思想で気がふれかねなったんだしな。それに囚人がその外貌で彼をびっくりさせたかもしらんしさ。結局のところ、こんなのは、死を目前に控え、しかも百人もの異端を焼き殺した昨日の火刑でまだ興奮のさめやらぬ、九十歳の老人のうわごとか幻覚にすぎないかもしれないんだよ。しかし、俺たちにとっては、qui pro quoだろうと、雄大な幻想だろうと、どうせ同じことじゃないかね? 要するに問題は老人が自分の考えを存分に述べる必要があるという点なんだし、そしてついに九十年の分をひと思いに述べ、九十年も黙っていたことを声にだして話しているという点だけにあるんだからな」


「イワン」は大審問官の言う言葉が必要なことであって、つまり大審問官の頭の中の沈黙していた言葉を表に引き出させることが、この叙事詩の役割であって、そのほかの装置的なことは不自然であってもその不自然さは不自然さにおいては関係ないということですね。


2017年9月11日月曜日

529

まだ「イワン」の続きです。

・・・・と、まさにこの瞬間、寺院のわきの広場を、当の大審問官たる枢機卿が通りかかったのだ。ほとんど九十歳に近い老人で、背が高く、腰もまっすぐだし、顔は痩せこけて目は落ちくぼんでいるが、まだ火花のようなきらめきを放っている。しかし、昨日ローマの信仰の敵どもを焼き殺したとき、民衆の前で着飾っていた、あのきらびやかな枢機卿の衣裳ではなく、このときは古ぼけた質素な修道僧の法衣をまとっているにすぎない。そのあとには一定の間隔をおいて、陰気くさい補佐役たちや、奴隷、それに《神聖な》護衛たちがつき従っている。大審問官は群衆の前で立ちどまり、遠くから観察する。彼は一部始終を見た。柩がキリストの足もとに置かれるのも見たし、少女が生き返るのも見た。そして、大審問官の顔は暗くなった。真っ白な濃い眉をひそめ、その眼差しも不吉な炎にかがやいた。彼は指を突きだし、キリストを引っ捕らえるよう護衛に命じた。すると、なにしろ彼の権力は絶大だし、それに民衆はもうすっかり教えこまれ、馴らされて、彼の命令を恐れおののいてきくようになっていたため、ただちに護衛の前に道をあけ、護衛たちはふいに訪れた死の沈黙の中でキリストに手をかけ、引きたててゆく。民衆はたちまち、全員がまるで一人の人間のように、老審問官の前に跪拝する。大審問官は無言のまま民衆に祝福を与え、わきを通りすぎてゆく。護衛兵は神聖裁判所の古い建物にある、狭い陰鬱な丸天井の牢に捕虜を連れてゆき、錠をかける。昼が過ぎ、熱気のこもる暗い《息たえたような》セヴィリヤの夜が訪れる。大気は《月桂樹とレモンの香り》にみちている(訳注 プーシキンの詩『石の客』より)。深い闇の中で突然、牢獄の鉄の扉が開き、当の老大審問官が燈明を片手にゆっくり牢獄に入ってくる。彼は一人きりで、入ったあとただちに扉はしめられる。・・・・

ここで切ります。

ついに、キリストともう一人の主役である大審問官の登場です。


プーシキンの詩『石の客』は、アレクサンドル・ダルゴムイシスキーによって、ロシア語でオペラ化されています。内容は「ヨーロッパ各地に残るドンファン伝説を土台にしたプーシキンの韻文を基に作られており、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と同じ題材です。ダルゴムイシスキーはプーシキンのテキストを一字一句変更することなく音楽化し、ラウラの2つの歌など一部除いて、全編に渡り、朗唱様式をはりめぐらせています。」とのこと。


2017年9月10日日曜日

528

「イワン」の続きです。

・・・・計り知れぬ慈悲心からキリストは、十五世紀前に三年間、人々の間をまわってみたときと同じ人間の姿で、もう一度、人々の間を歩いてみようというわけだ。キリストは南国の都市の《炎熱の広場》へ降りたったのだが、ちょうどその広場の《壮麗な火刑場》で、つい前日に、国王はじめ、廷臣、騎士、枢機卿、美しい宮廷社交界の貴婦人たちの臨席を仰ぎ、セヴィリヤ全市のおびただしい数にのぼる住民の前で、ad majorem gloriam Dei(訳注 ラテン語。神のより大きな栄光のためにという意味。イエズス会の言葉)、ほとんどまる百人におよぶ異端者たちが、枢機卿である大審問官によって一度に焼き殺されたばかりのところなんだ。キリストは気づかれぬようにそっと姿を現したのだが、ふしぎなことに、だれもが正体を見破ってしまう。ここは叙事詩の中でもっともすぐれた場面の一つになるかもしれないな、つまり、なぜ正体を見破るかという個所がね。民衆は抑えきれぬ力でキリストの方に殺到し、取りかこみ、その人垣はどんどん大きくなっていき、彼のあとについてゆく。キリストは限りない同情の静かな微笑をうかべて、無言のまま、人々の間を通ってゆく。愛の太陽がその胸に燃え、光明と教化の力との光がその目から流れ、人々の上にふり注いで、人々の心を対応の愛で打ちふるわせる。キリストが手をさしのべ、祝福を与えると、彼の身体に、いや、その衣服にさわるだけで、治癒の力が生ずるのだ。と、群衆の中から、子供のころ盲になった一人の老人が叫ぶ。『主よ、わたしを癒してください、そうすればわたしもあなたさまのお姿を拝めますから』すると、まるでその目からうろこでも剝げ落ちるかのように、盲人にはキリストの姿が見えるようになる。民衆は感泣し、キリストの歩いた大地に接吻する。子供たちは彼の前に花を投げ、歌をうたい、『ホサナ!』(訳注 神やキリストを讃える言葉)と叫ぶ。『あのお方だ、まさしくあのお方だぞ』みんなが口々にくりかえす。『あのお方にちがいない、あのお方にきまっているとも』キリストはセヴィリヤ大寺院に入口に立ちどまる。と、まさにそのとき、蓋をせぬ子供用の白い柩が、泣き声とともに寺院に運びこまれてくる。柩にはさる偉い人の一人娘である七歳の少女が納められているのだ。子供の遺体は花に埋もれて横たわっている。『あのお方がお子さんを生き返らせてくださるよ』泣いている母親に群衆の中から声がかかる。柩を迎えに出てきた大寺院の神父は、けげんな面持ちで見つめ、眉をひそめる。だが、このとき、死んだ子供の母親の泣き声がひびき渡る。母親はキリストの足もとに身を投げ、『もし、イエス様でしたら、わたくしの子供を生き返らせてくださいませ!』と、両手をさしのべながら、叫ぶ。葬列は立ちどまり、柩が寺院の入口でキリストの足もとに置かれる。キリストは同情の目で眺めやり、その口が低い声でふたたび、『タリタ、クミ』(起きよ、娘)とつぶやいた。そして『少女は起きあがった』(訳注 マタイによる福音書第九章)のだ。少女は柩の中で身を起し、坐ると、微笑を浮かべながら、大きく見はったふしぎそうな目であたりを見まわす。その手には、柩にいっしょに納められていた白いバラの花束を抱えている。群衆の間に動揺と、どよめきと、嗚咽が起った。・・・・

ここで、一旦区切ります。

スペインの異端審問につきましては、(527)でも少し書きましたが、興味深いので、「スペインの異端審問」として項目立てされているウィキペディアの説明をそのままコピーします。

「スペイン異端審問(スペインいたんしんもん)は15世紀以降、スペイン王の監督の下にスペイン国内で行われた異端審問のこと。宗教的な理由というよりも政治的な思惑が設置に大きく関わっている。15世紀末にフェルナンド2世が、コンベルソ(カトリック改宗したユダヤ教徒)に起因する民衆暴動を抑え、多民族であるスペインのカトリック的統一を目的にローマ教皇に特別な許可を願って設置された。王権制約的であったアラゴン諸王国に対する王権行使の機関、中央集権機関としての側面もある。設立当初の審問の対象者は主にコンベルソとモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)であった。」
「時代背景:13世紀の「大レコンキスタ」以降、イベリア半島の大部分がイスラム教国家からキリスト教国家の領土となったが、依然グラナダなど南部を中心に多くのイスラム教徒たちが暮らしていた。カスティーリャ王国では、信仰の自由と自治権を保障されたアルハマ(ユダヤ人共同体)があり、セビリャ、ムルシア地方にも多数のムデハル(キリスト教国支配下のイスラム教徒)が存在した。またアラゴン王国でも、バレンシアなどに多くのムデハルが暮らしており、バルセロナなどに多くのユダヤ教徒がいた。この頃は非キリスト教徒に対しても寛容な時代であった。14世紀の半ば頃から、ペストの流行や経済的問題などにより、比較的富裕層が多かったユダヤ教徒に不満が集まった。1391年のセビリャで大規模なポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こると、それは各都市に飛び火した。これによって多くのユダヤ教徒が虐殺され、改宗を強いられた。けれどもユダヤ人への不信感は払拭されず、度々反ユダヤ暴動が起こった。またアラゴン王国では他のヨーロッパ諸国と同様に教皇庁の任命した異端審問官が巡回する異端審問が行われていたが、それほど大掛かりには行われなかった。またアラゴン王国の宮廷では多くのユダヤ人が仕えていた。フェルナンドとイサベル1世の結婚を斡旋したのもペドロ・デ・ラ・カバレリャというユダヤ人家臣であった。」
「スペイン異端審問の開始:カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚(1469年)レコンキスタの完了(1492年)により、スペインに待望の統一王権が誕生した。フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベルソの存在が邪魔なものになっていた。フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。さらにフェルナンドはユダヤ人金融業者から多額の債務を負っていたため、もし金融業者たちを異端審問によって社会的に抹殺できれば債務が帳消しになるという思惑もあった。フェルナンドはローマ教皇と親交を深めることで自らの王権を強化しようと考えていたが、同時に教皇の影響力を自国からできる限り排除したいとも思っていた。異端審問はすべて教皇の管轄下で行われるため、もしフェルナンドがスペイン国内で異端審問を行っても自分の思い通りにはできず、教皇庁の介入を許すことになる。フェルナンドは異端審問を自らの政治目的に沿って利用するためにも、教皇の監督行為を排除した異端審問を行いたいと考えていた。そこでスペインにおいて王の監督のもとに独自に異端審問を行う許可を教皇シクストゥス4世に願った。教皇は当然、世俗権力によって異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知し、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。そこでフェルナンドはさまざまな方策を用いて、この許可を得ようとした。ここで活躍したのがスペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハであった。彼の奔走の甲斐もあって、1478年に教皇はしぶしぶながらカスティーリャ地方以外においてのみ独自の異端審問を行うことを許可した。(これによってボルハ枢機卿は後年のコンクラーヴェでスペイン王の強力な後押しを受けることができた。彼こそが堕落した中世教皇の筆頭にあげられるアレクサンデル6世である。)こうしてユダヤ教徒とイスラム教徒に狙いを定めたフェルナンドとイザベルによって異端審問所の長官に任命されたのがトマス・デ・トルケマダである。そもそも「異端」審問というものは、「キリスト教徒でありながら、正しい信仰を持っていないもの」を裁くためのものであり、ユダヤ教徒やイスラム教徒をその信仰ゆえに裁く権利はなかった。しかし初期のスペイン異端審問所は、一旦改宗しながらユダヤ教、イスラム教の習慣を守るコンベルソ、モリスコを多く裁いた。
シクストゥス4世はセビリアから始められたスペイン異端審問がユダヤ人に的をしぼって行われていることに見かねて抗議したが、フェルナンド王が自らの支配下にあるシチリア王国の兵力による教皇庁への支援打ち切りをほのめかして恫喝したため、引き下がらざるを得なかった。教皇としてフェルナンド王の行きすぎた行動や見境のない処罰がキリスト教と異端審問の名を借りて行われていることを看過できず、スペイン異端審問を「ユダヤ人の財産狙いの行為である」と断言している。「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧的に臨んでいた。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。勢い盛んだったオスマン帝国がギリシアを支配下においてイタリア本土を脅かし始めたのだ。教皇領とイタリア半島の安全はシシリア王国の軍事力によって保障されていた。シシリア王国の主でもあるフェルナンドはこれを対教皇折衝の切り札としていたのである。教皇はフェルナンドの要求を飲まざるを得ない状況に追い込まれた。こうしてスペイン異端審問に教皇の正式なお墨付きを得たフェルナンドは、教皇の干渉なしに自由に異端審問を利用できるようになった。」
「スペイン異端審問の変遷:1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。拷問は自白を引き出すために用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。刑罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。異端審問を受けた被告の処罰はしばしば都市の広場で行われた。異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)そしてそれに続く火刑は、公権力の存在を人々に知らしめるものであった。異端審問は告発者が秘密であることが特色であったため、しばしば異端と関係ない無実の人々が恨みなどから、あるいは王室から与えられる報奨金目当てに訴えられることも多かった。裕福なフダイサンテ(スペイン語版)(隠れユダヤ教徒)の告発は王室自身が行っていたであろうことは裁判後に資産が王室に没収されたことからうかがえる。宗教改革の時代に入ると、異端審問所はその照準をフダイサンテから「古くからのキリスト教徒」へ移す。彼らの宗教生活を監視し、少数ではあったがプロテスタントや照明派に対しても審問が行われ、スペイン反宗教改革の中心的役割を負った。またスペインにおいては魔女は異端審問ではほとんど扱われず、訴えがあった場合でも精神異常者ということで釈放されることが多かった。17世紀に入ると、審理件数は減少の一途をたどり、18世紀になるとほとんど機能しなくなる。スペインにおける異端審問が正式に廃止されたのはナポレオン・ボナパルトの支配を受けた1808年である。ナポレオンの元でスペイン王となったジョゼフ・ボナパルトは、異端審問の廃止を決定したが、その決定には反発も根強く、その後いったん復活するが、もはや実効性はなく、1834年摂政マリア・クリスティーナのもと、完全に廃止となった。スペイン異端審問の正確な被害者数を知ることは難しいが、ある研究者はトマス・デ・トルケマダの15年の在職期間中に2000人ほどのユダヤ人が火刑になったと考えている。イスラム教徒やイスラムからの改宗者の犠牲者はそれよりずっと少なかったと考えられている。最新の研究によれば、スペイン異端審問において12万5千人近くが裁判を受けたが、実際に死刑を宣告されたのはそのうち1200人~2000人程度で、ほとんどの被告は警告を受けるか、無罪が証明されて釈放されたとされている。どうやらスペイン異端審問には(スペインを批判するために用いられた)「黒い伝説」の一部として、誇張され過大に語られてきた部分もあると見られる。」

正確かどうかはわかりませんが以上が、「スペインの異端審問」についての記述です。

また、「ad majorem gloriam Dei」とラテン語のまま書かれています。

これもウィキペディアに出ていましたが、翻訳機能を使いましたので意味がよくわからないですね。

「Ad maiorem Dei gloriamまたはad majorem Dei gloriam [注1]は省略語 AMDGとも呼ばれ、 カトリック教会の宗教的秩序であるイエズス教会のラテン語の モットーです。 それは、「神の栄光がより大きくなる」という意味です。」また、「このフレーズの由来は、イエズス会の創始者であるロヨラの聖イグナティウス ( Saint Ignatius)が、社会の宗教的哲学の基調講演となることを意図したことによるものです。 聖イグナチオに帰された完全な言葉は、「神の栄光と人類の救いのために」、 悪ではない作品、たとえ霊的な生命にとって重要でないと考えられる作品さえあれば、それが神に栄光を与えるために行われるならば、霊的に功績を上げることができるという考えの要約です。」

「イワン」はキリストがそっと姿を現したのを民衆が見破るところを「ここは叙事詩の中でもっともすぐれた場面の一つになるかもしれないな」と自画自賛していますが、この部分が一番絵画的でもありますね。

ここでは、キリストは盲目の老人の目を見えるようにし、死んだ少女を生き返らせています。

子供たちが叫んだ「ホサナ」という言葉は以下のように説明されています。

「ホサナ(ラテン語: osanna, hosanna、英語: hosanna /hoʊˈzænə/)は、ヘブライ語で「どうか、救ってください」を意味する ホーシーアー・ナー(hoshia na)の短縮形 ホーシャ・ナー(hosha na)のギリシャ語音写に由来し、キリスト教において元来の意味が失われて歓呼の叫び、または神を称讃する言葉となった。アーメン、ハレルヤ(アレルヤ)などと共に、キリスト教の公的礼拝で使用されるヘブライ語の一つとなっている。なお、ホーシーアー・ナー の語意について、一部の英語文献ではそれを "save, now" としているが、これはヘブライ語の na が懇願を表す副詞であるとともに時間の副詞としても用いられることによる。ラテン語では「オザンナ」もしくは「オサンナ」と発音する。日本のカトリック教会では公的礼拝において「ホザンナ」を、日本正教会では「オサンナ」を使用している。」

「マタイによる福音書」の第九章は以下のとおりです。


「さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。これらのことを彼らに話しておられると、そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った、「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。すると彼らの目が開かれた。イエスは彼らをきびしく戒めて言われた、「だれにも知れないように気をつけなさい」。しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言いひろめた。彼らが出て行くと、人々は悪霊につかれたおしをイエスのところに連れてきた。すると、悪霊は追い出されて、おしが物を言うようになった。群衆は驚いて、「このようなことがイスラエルの中で見られたことは、これまで一度もなかった」と言った。しかし、パリサイ人たちは言った、「彼は、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」。イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。」