2016年8月31日水曜日

153

次は「フョードル」の番です。

「偉大な長老さま、どうぞはっきりおっしゃてくださいまし。わたしの活きのよすぎるのがお気にさわりますか、どうでしょう?」と、肘掛椅子の腕木を両手でつかみ、返事しだいでは跳びだしかねない勢いで叫びました。

これは、「フョードル」を非難した「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」を擁護するような対応をした「ゾシマ長老」に不服をぶつけるような感情的な発言です。

そして、長老は「フョードル」に教えさとすように言いました。

「あなたには切におねがいしますが、どうぞご心配やご遠慮はなさいませんよう」「ご遠慮なさらず、わが家におられるおつもりで楽になすってください。何よりも、そんなにご自分のことを恥ずかしくお思いにならぬことです。なぜって、それがすべての原因ですからの」

これは、名言だと思います。

つまり、気張らずリラックスせよということでしょう。


そうでなければ、本心を語ることができないと思います。


2016年8月30日火曜日

152

取り乱して部屋を出ていこうとしかけた「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」に対し、長老は言います。

「ご心配なさいますな、どうぞ」と長老は衰弱した足で自席から腰を浮かし、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の両手をとって、ふたたび肘掛椅子に座らせました。

この「ご心配なさいますな」は、何を心配しなくてもいいと言っているのでしょうか?

文脈から言うと、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」が「フョードル」の仲間と思われることへの心配と、この人を連れてきた(?)せいで、長老に迷惑をかけていることへの心配でしょう。

いずれにしても少しピントがずれています。


そして「落ちつきなさいませ、お願いいたします。あなたには特にわたしのお客になっていただきたいのです」と言って、一礼し、向きを変えて、また自分のソファに座りました。

これが、この会合における「ゾシマ長老」のはじめての発言ですが、すばらしい対応ですね。


「・・・あなたには特にわたしのお客になっていただきたいのです」は相手の気持ちをくんだみごとな言葉だと思います。


2016年8月29日月曜日

151

「申しわけございません・・・」と突然のように、今度は「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」が長老に話しはじめました。

しかし、この「申しわけございません・・・」は長老に対する「フョードル」の無礼を謝っているのではないのです。

彼は、自分が「フョードル」の「けしからぬ悪ふざけ」の仲間ではないと言い、「フョードル」が「こんな立派なお方をお訪ねする際は自分の義務をわきまえる気になるだろう、などと信じた」のが自分の誤りで、「この人といっしょに来たことを、お詫びせねばならぬ羽目になろうなどとは、考えてもみませんでしたので・・・」と言います。

彼は、しまいまで言い終らぬうちに、取り乱し、部屋を出て行こうとしかけました。


いつものことですが、彼は余裕がないと言うか、この状況をどうするでもなく、自分だけの立場を守るためだけに動いているように見えますね。


2016年8月28日日曜日

150

「フョードル」のこのような敬意を失した道化ぶりは、僧庵にとっても前代未聞のことでありましたし、「それを見た人々、すくなくともその中の一部の人々の心に、狐につままれたような思いとおどろきをひき起こし」ました。

さずがに司祭修道士たちは、表情を変えず、「長老が何と言うかを真剣な注意をこめて見守って」いましたが、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」同様に、「今にも立ちあがりかねぬ気配」でした。

「アリョーシャは泣きだす寸前で、うなだれたまま立って」いました。

そんな彼は、兄の「イワン」の何も言わないことが不思議でした。

彼は「イワン」にもっとも期待をかけていました。

彼は、「イワン」は「フョードル」をとどめることができるほどの影響力を持つ唯一の人間だと思っていましたが、「今になってもまるきり身じろぎもせずに椅子にかけたまま、目を伏せ、まるで自分はここではまったく局外者だと言わんばかりに、どうやら何か興味しんしんたる好奇心さえいだきながら、これらすべてがどう落着するかと待ち望んでいるらしいことで」した。

そして、「アリョーシャ」は、「きわめて懇意な仲で、親しいと言ってもいいほどの神学生ラキーチンを眺めやることさえ」できませんでした。

彼には「ラキーチン」の思想がよくわかっていたからです。

そして、そのことを知っているのは、修道院じゅうで「アリョーシャ」一人だけでした。


たぶん、二人は年代的にも近く、心が通じるところはあるものの、考え方の基本的なところが大きく違っていたのでしょう。


2016年8月27日土曜日

149

「フョードル」の饒舌な道化ぶりもここまでくると、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」もあらかじめ予想してはいたものの、自分の伯母のことまで言われたこともあって、気が動転したのでしょう。

彼は「忍耐を失ったばかりか、われを忘れたようにさえなって、立ちあがった。彼は憤りにかられ、その姿がわれながらこっけいなことを意識していた。」そうです。

「たしかに庵室では何かまったくありうべからざることが起こりつつあった」のです。

以前の長老たちのころから、おそらく四、五十年、この庵室にさまざまな訪問者が集まってきましたが、みんな深い敬虔の念をいだいた人ばかりでした。

面会を許されるほとんどすべての人が、庵室に入りながら、自分たちは大変な恩恵に浴したことをさとり、大半の者がひざまずき、訪問の間じゅう立とうとしなかったそうです。

「《高貴な》人々や、もっとも学識の深い人たちの多くでさえ、いや、それどころか、あるいは好奇心で、あるいはほかの動機から来訪する自由思想の持ち主たちの一部でさえ、みなと連れだって庵室に入るなり、あるいは差向かいの面会を許されるなりすると、一人残らず、面会の間ずっと、きわめて深い敬意と、こまやかな心遣いという、ごく最初の義務に身を置く」のでした。


そして、ここでは別にお金はかかりませんし、「一方からは愛と慈悲」、相手側からは、「何かむずかしい問題とか、自分の心の生活のなかの困難な時期とかをなんとか解決したいという渇望と後悔とかがあるだけなのだから、なおさらのことだった」のです。


2016年8月26日金曜日

148

もう、そろそろこのへんで、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の堪忍袋の緒が切れます。

「フョードル・パーヴロウィチ、もうやりきれない!だって、自分がでたらめを言っていることや、そんな愚劣な一口話が嘘っぱちだってことくらい、自分でも知ってるはずでしょうに。何のつもりでそんな悪ふざけをするんです?」

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は、自分を抑えきれなくなって、ふるえ声で言いました。

ここで、「フョードル」の話した「ディドロ」の逸話が嘘で、それを本人がわかっていながら喋っているということを「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」以外の人はわかっていたのでしょうか?

「フョードル」は、「嘘だってことくらい、今までずっと感じとってましたよ!」と夢中になって叫びました。

そして、「わたしはね、みなさん、それじゃ真相をすっかりぶちまけましょう。偉大な長老さま、どうぞお赦しくださいまし。・・・」と、「ディドロ」の洗礼のくだりは、自分が今、話している最中に、はじめて頭に浮かんできて創作した、話を面白くするためのでっちあげであり、自分がこのような悪ふざけをするのは少しでも人気者になりたいためだと言います。

さらに、自分が人気者になりたいからからといっても、「時には自分でも何のためだかわからないところだってあるけど。」と、ある意味、正直に自分のことを吐露しています。

だいたい、「フョードル」という人物は正直は正直なのだと思います。

そして、彼は若いころ、ここの地主たちのところに居候していた時分に、あの《心狂える者》という話を二十遍ばかり連中からきかされて、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の伯母さんの「マーヴラ・フォミーニシナ」からもきかされたと言います。


さらに「あの人たちはみんな、無神論者のディドロがプラトン主教のところへ神を論じに行ったと、いまだに信じきってますからな・・・」と。


2016年8月25日木曜日

147

「フョードル」は自分を無神論者の「ディドロ」になぞらえているのですね。

「フョードル」によると、「ディドロ」がロシアの「プラトン主教」を訪ねたとき、彼は部屋に入るなり『神はいない』と言ったそうです。

これに対して、偉大な「プラトン主教」は、指を一本立てて、『心狂える者はおのれの心に神なしと言う!』と答えたそうです。

そして、これを聞いた「ディドロ」は「プラトン主教」の足もとにひれ伏して、『信じます、洗礼も受けます』と叫んで、その場で洗礼を受けた、そういう話です。

彼の教母には、ダシコワ公爵夫人(訳注 女帝の側近)、教父にはポチョームキン(訳注 女帝の寵臣)がなったとか(訳注 ディドロは1773年にロシアを訪問、エカテリーナ女帝に進歩的改革を進言した。プラトン主教とのこの話は、ディドロの無神論を否定する反動的な貴族の間で作られたものである)・・・とのことです。

この注釈では、1773年にディドロはロシアを訪問となっていますが、「アンリ・トロワイヤ」の『女帝エカテリーナ(上)』(中公文庫)を見ると、クーデターから9日目にエカレリーナ2世はディドロをペテルブルグに招待して、《百科全書》の続きを出版するように言って断られています。前にも書いたように「『百科全書』完結後の1773年、ロシアを訪問した。」という資料もあり、本当のことはわかりませんが、『女帝エカテリーナ(下)』(中公文庫)を見ると、1773年5月に出発し、1774年3月に帰路に着いたと詳しく書かれていますのでこちらが正しいのでしょう。いずれにせよ、「ディドロ」は、何ヶ月かエカレリーナ2世に直接会っていろいろと助言を与えたようですが、それは多岐にわたってはいましたが、ロシアの現実には適合しないものであり、エカレリーナ2世にとっては、世間知らずの十歳の子供のようだとの印象を持ったりもしているのです。
また、『女帝エカテリーナ』には、ロシア訪問時に「ダーシュコヴァ」(「ダシコワ公爵夫人」)と会った「ディドロ」は彼女について、芸術文化の教養には深く感銘を受けていますが、容姿についてはこれ以上ないくらいめちゃめちゃに書いているとあります。

「ダシコワ公爵夫人」は、「エカテリーナ女帝」の側近ですが、Wikipediaによれば、「エカテリーナ女帝」は「ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在の小エルミタージュのこと。後に隣接する冬宮など新旧の宮殿と合わせ、現在はエルミタージュ美術館として一般公開)の建設にも熱心であった。」という説明の中で「英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人」として説明され、「1766年、現在音楽院のある土地を、後に科学アカデミーとロシア・アカデミーとなるエカテリーナ・ダシコワ公爵夫人が購入。建築はバジェノフの設計により1790年代に終わる。ダシコワ公爵夫人はここで毎冬を過ごしました。1810年に甥の、ボロジノ戦の英雄ミハイル・ヴォロンツォフが相続。1812年に火災がありましたが24年に修復。1871年にモスクワ音楽院が建物を借り、1878年に購入しました。」ともあります。

次に「ポチョームキン」です。

彼も「エカテリーナ女帝」の説明のところで出ています。

「私生活面では生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる男性愛人を抱え、夜ごと人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。1774年頃(45歳頃)、10歳年下のポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)と結ばれる。家庭には恵まれなかったエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と言うべき男性で、私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなった。「2人は極秘裏に結婚していた」「エカチェリーナ46歳の時(1775年)に2人の間には実娘エリザヴェータ・ポチョムキナ(ロシア語版)が産まれた(後にカラゲオルギ将軍と結婚し、その末裔は現在も実在する)」などの説があり、かなり信憑性のある史料(近年公表された女帝直筆の恋文等)からもそういう事実があったことが窺えるが、真相は今も研究中である。2人に男女の関係がなくなった後も「妻と夫」であり続け、エカチェリーナの男性の趣味を知り尽くしたポチョムキンが、選りすぐった愛人を女帝の閨房に送り込んでいたという。互いの信頼関係は長く続いたが、1791年ポチョムキンは任地に向かう途中で倒れ、女帝に先立って病没した。晩年のポチョムキンは女帝から遠ざけられ、失意のうちに死去したとされるが、女帝は「夫」の訃報に「これからは1人でこのロシアを治めなければならないのか」と深く嘆き悲しんだという。ポチョムキン以降に女帝が関係を持った寵臣のほとんどは、公的な影響力を持たなかった。例外として、アレクサンドル・ランスコーイは美貌だけでなくそれなりの能力もあり女帝を補佐し、しかも国家や宮廷の問題には関与せず、女帝の寵愛も深かったが、1784年に26歳の若さで急逝した。また、エカチェリーナ最晩年の寵臣プラトン・ズーボフは、ポチョムキンの立場をも脅かすほどの影響力を持ち、ポチョムキンの死後は、老齢の女帝の寵愛を良い事にかなりの権力を持ったようだが、容姿以外大した能力はなく、女帝の死と共に失脚した。」


以上の2名は、実在の人物ですが、偉大な「プラトン主教」は、わかりませんでした。


2016年8月24日水曜日

146

「フョードル」の話はさらに続きます。

「わたしは哲学者のディドロと同じようなもんです、長老さま。哲学者のディドロがエカテリーナ女帝の御代にプラトン主教を訪ねた話は、ごぞんじらっしゃいますか、長老さま。」

哲学者の「ディドロ」とは、「(Denis Diderot、1713年10月5日 - 1784年7月31日)は、フランスの哲学者、作家。主に美学、芸術の研究、性やエロティシズムの研究などで知られる。18世紀の啓蒙思想時代にあって、ジャン・ル・ロン・ダランベールとともに百科全書を編纂した、いわゆる百科全書派の中心人物であり、多様な哲学者と交流した。徹底した唯物論者であり、神について初期は理神論の立場に立ったが後に無神論へ転向した。ポール=アンリ・ティリ・ドルバックなどとともに、最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人とされる。思想的には、初期の理神論から唯物論、無神論に進んでいる。『盲人に関する手紙(盲人書簡)』(1749年刊)の唯物論的な主張のため投獄されたこともある。英語に堪能で、ル・ブルトン書店がイギリスで刊行し成功したチェインバースの百科事典のフランス語版を依頼されたことが、18世紀を代表する出版物『百科全書』の編纂・刊行につながった。事業としての『百科全書』が狙っていた主要な対象は新興のブルジョワ階級であり、その中心は当時の先端の技術や科学思想を紹介した項目だが、それらにまじえながら、社会・宗教・哲学等の批判を行ったため、『百科全書』を刊行すること自体が宗教界や特権階級から危険視された。ディドロは、たびたびの出版弾圧、執筆者の離散を跳ね返し、『百科全書』(1751年-1772年)の完結という大事業を成し遂げた(『百科全書』はフランス革命(1789-1794年)を思想的に準備したともいわれる)。1751年、プロイセン科学アカデミーの外国会員となる。ロシアの女帝エカチェリーナ2世と個人的に交流した。1765年、娘の結婚資金を確保するため、ディドロは蔵書をエカチェリーナ2世に売り渡したが、その契約は、ディドロの生存中はそれら蔵書を手元において自由に利用できるという条件付きであり、実際にはエカチェリーナからの資金援助という性格をもつ。そうした援助にむくいるため、『百科全書』完結後の1773年、ロシアを訪問した。パリ第7大学にその名が残る。」


「エカチェリーナ2世」については、いろいろと興味深いところがありますが、「当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、ヴォルテール、ディドロなどとも文通して、教育の振興・病院の設立・文芸の保護を行った。」そうです。また、日本人との関係については「1783年、伊勢白子(現鈴鹿市)の船頭である大黒屋光太夫は、江戸への航海途中に漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。その後ロシア人に助けられ、シベリアの首府イルクーツクに滞在した。ここで学者のキリル・ラックスマンの援助で、帰国請願のためサンクトペテルブルクに向かい、1791年、エカチェリーナ2世に拝謁して、帰国の儀を聞き届けられている。キリルの次男アダム・ラックスマンが、鎖国状態の日本に対して、大黒屋光太夫および小市、磯吉の三名を返還すると同時に、シベリア総督の通商要望の信書を手渡すために、遣日使節として日本に派遣され、1792年、光太夫らは根室に帰着した。」とあります。この話は井上靖『おろしや国酔夢譚』に書かれていますね。


2016年8月23日火曜日

145

「フョードル」の話は続きます。

彼は、自分は「若いころ、貴族のところで居候暮らしをしていて、只飯にありついていた時分からこうで」、「生れつき、根っからの道化」で、「言うなれば神がかり行者と同じようなもの」で、「ひょっとすると、悪魔でも体内に住みついているのかもしれませんな、と言ったところで、ちっぽけなやつでしょうがね。」と、とどまるところを知りません。

そして、悪魔でも「もっと偉いやつは別の棲家を選ぶでしょうからね。ただ、あんたじゃありませんよ。ミウーソフさん。あんただって、たいした棲家じゃありませんからな。」と、言葉の勢いで喋りながら、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」を挑発するようなことを言います。


そして、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」と違って、自分は信仰は持っていると、「神さまを信じてます。」が、最近になって疑ったこともありましたが、「その代り今はおとなしく偉大なお言葉を待っているしだいでして。」


2016年8月22日月曜日

144

「いつだってわたしはこの調子で、損ばかりしているんですよ!」と言う「フョードル」に対して、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は「現に今もやっているじゃありませんか」と嫌悪をこめてつぶやきました。

前から、少し気になっていたのですが、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は、相手に正面から発言するのではなく、いつもつぶやいていますね。

長老は、そんな二人を無言のまま見くらべていました。

そして、再び「フョードル」が話はじめます。

彼の場合は「いいですか、ミウーソフさん」と相手に呼びかけて話ます。

自分は、わかって、こんな話をしているのであって、口をひらいたときから、その予感はしていたし、「あんたが真っ先にそいつを指摘するだろうってことも、ちゃんと予感していた」と言います。


そして、自分は「自分の洒落がうまく通じないことがわかると、両の頬っぺたが下顎に張りついちまって、まるで痙攣でも起こったみたいになりましてね、長老さま。」と、今度は長老に呼びかけて話しはじめます。


2016年8月21日日曜日

143

次は、「フョードル」が相手に気に入られようとして、冗談を言って失敗した話のその二です。

相手は、さる有力者です

「フョードル」は、『お宅の奥さまはくすぐったがり屋でらっしゃいますね』と言いました。

彼のこの発言の意図は、名誉心=道義心がデリケートということだったそうです。

相手もなかなかついていけませんね。

だしぬけに、『じゃ、家内をくすぐったことがあるんですね?』と質問されました。

そうすると、「フョードル」は、「突然、我慢できなくなって、お愛想のつもりで言ったんですよ。『はい、くすぐったことがございます』とたんに、その人にしたたかくすぐられましたっけ・・・」

彼はこの話はずっと以前のことなので、話しても恥ずかしくない、と言います。

そして、「いつだってわたしはこの調子で、損ばかりしているんですよ!」と。


私は、「その人にしたたかくすぐられましたっけ・・・」の部分は、情景が理解しがたく、考え込んでしまいました。


2016年8月20日土曜日

142

結局、話は「フョードル」は気に入られようとして洒落を言ったのが相手に通じなくて失敗したという話なのですが、さらに続きます。

洒落の通じなかった警察署長は、大まじめで突っ立ったまま、まじまじと「フョードル」を見つめていました。

そこで「フョードル」は、自分はみんなを楽しませるために、少し冗談を言っただけで、「ナプラーヴニク」というのは、有名なロシアの指揮者であって、われわれの仕事の和を保つためにも「やはりぜひ指揮者のような存在が必要なものですから・・・」と、なかなか筋の通った説明をしたのですが、と弁解めいたことを言いました。

そうすると、署長は『失礼だが、わたしは警察署長です。わたしの役職を洒落に使ったりするのは許しませんぞ』と言って、くるりと背を向けて、出て行こうとしました。

「フョードル」はそのうしろ姿に叫びました。

『そう、そうですとも、あなたは署長(イスプラーヴニク)さんです、ナプラーヴニクなんぞじゃありませんよ!』

そんなことを言ってももう手遅れで、相手は、『いいや、ああ言われたからには、つまり、わたしはナプラーヴニクなんでしょう』とへそを曲げてしまいました。

これで仕事もぶちこわれてしまいました。

「フョードル」は何をやっても自分はそんなで、いつもお世辞でかえって損をするんだと言います。


以上が、「フョードル」の自虐的な話のその一ということになりますが、いきなりはじまった独演会はその二へと続きます。


2016年8月19日金曜日

141

「フョードル」は、その癇癪もちに、「単刀直入に、それも、世馴れた人間らしいくだけた口調で」次のように言いました。

『署長(イスプラーヴニク)さん、ずばり言って、わたしらのナプラーヴニク(訳注 十九世紀ロシアの作曲家、オペラ指揮者)になっちゃくださいませんか!』

彼は、人を見る目があるだけあって、どういう相手にはどういう態度をとればいいということがわかっていて、その判断に自信もあったのでしょう。

ここでは、気むずかしそうな癇癪もちの警察署長をなごませようとして、くだけた調子で洒落を言っています。

なかなかうまい洒落だと思うのですが、相手は『なんです、そのナプラーヴニクとやらは?』と、この洒落は通じませんでした。

「フョードル」は、すぐに「こいつは失敗したとわかりましたよ。・・・」

さすがに、「フョードル」の反応は早いですね。

自分の失敗をすぐに理解しています。

ところで、「ナプラーヴニク」とはどんな人物か調べました。


「エドゥアルド・フランチェヴィチュ・ナープラヴニーク(またはナプラヴニク、ナプラーヴニクとも) 1839年8月24日 ボヘミア地方ビーシチ - 1916年11月23日)はチェコ人の指揮者・作曲家。サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で永年にわたって首席指揮者を務めたことにより有名。リムスキー=コルサコフやキュイらロシア人作曲家による多くのオペラを初演した。また、チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」は、ナープラヴニークによる改訂稿が一般に使用されている。14歳で孤児となったため、地元の教会でオルガンを演奏して生計を立てるようになる。1854年にプラハのオルガン学校に入学し、教師の温情によって学業を続けることができた。1861年にロシアから招かれ、サンクトペテルブルクでユスポフ大公(悪名高いフェリックス・ユスポフ公とは別人)の私設オーケストラの指揮者の地位を得た。1864年からロシア音楽協会の演奏会に指揮者として登場し、1869年からはミリイ・バラキレフの後任として同音楽協会の常任指揮者(1881年まで)およびマリインスキー劇場の主席指揮者となる。 ロシア・オペラ界における活躍のほかに、チャイコフスキーの弦楽セレナーデの公開初演(1881年)など、器楽曲の指揮にも携わった。自作もオペラや舞台音楽が数多いが、交響曲や管弦楽曲、室内楽曲やピアノ曲もいくつか遺している。1914年に健康を害して、それ以上の活動を続けることができなくなった。」


2016年8月18日木曜日

140

「フョードル」の独演会みたいになっています。

まず、「人間はやはり、気に入られなけりゃいけませんからね、そうでしょうが?」の例証がはじまります。

それは、彼が取引のためにある町に行って、そこの商人たちと仲間を組もうとしていた7年ばかり前のことです。

何かいろいろと頼みごとがあって、一度設ける必要があり、警察署長のところへ行きました。


「ところが、出てきた署長というのが、太ったブロンドの大男の、気むずかしそうな人間でしてね、こういう場合いちばん危険なタイプなんですよ。癇癪もちなんです、癇癪ですな。」


2016年8月17日水曜日

139

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はずっと不機嫌でしたので、『どれをとってみても、意地わるで低級なくせに、高慢な心の持主だな』と長老のことを思いました。

ちょうど、振子のついた安物の小さな柱時計が、あわただしい音で正午を告げ、これが、話を切り出すのに役立ちました。

ここで、「きっかりお約束の時間でございますね」と「フョードル」が叫びました。

そして続けて、息子の「ドミートリイ」が来ていないことを「神聖な長老さま!」に詫び、自分はいつも几帳面で、一分たりとも遅れたりはせず、「正確さこそ帝王の礼儀(訳注 ルイ十八世の座右の銘)をおぼえておりますので」、と言います。

このとき、「神聖な長老さま!」という言葉をきいて、「アリョーシャ」はぎくりとしました。

彼はもう父親がふざけることを予感したのでしょう。

ドイツのことわざで、「定刻は帝王の礼儀です」というのがあるそうですが、「正確さこそ帝王の礼儀」というルイ十八世の座右の銘の出展はどこにあるのかわかりませんでした。

この「フョードル」の言葉に「しかし、少なくともあなたは帝王じゃありませんからね」とこらえきれなくなった「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」がつぶやきました。

もう、「フョードル」の道化が、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」と掛け合いながらはじまっていますね。

ここからしばらく、「フョードル」と「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の漫才が続きますが、この二人、修道院の中にいること自体が何かの間違いのような気がしますし、もっともこの場所にふさわしくない人たちだと思います。

「フョードル」は、「ええ、そうですとも、わたしゃ帝王じゃありませんよ。・・・そんなことくらい、わたし自身だって知ってますよ、本当に!・・・いつもわたしはこの調子で、場違いなことを言ってしまうんです!長老さま!」となにやら感激調で叫びました。


そして、「今、長老さまのお目を汚しているのは、本当の道化でございます!」と自分で自分を道化と名乗り、こういうやり方が自分の自己紹介で、昔からの癖でそうしているのであって、ときおり場違いな嘘をわざとついて、みなさんを楽しませて、気に入られようとしていると、そして、「人間はやはり、気に入られなけりゃいけませんからね、そうでしょうが?」と。


2016年8月16日火曜日

138

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は庵室の《形式主義》にひとわたりざっと目を走らせ、射るような視線を長老にそそぎました。

「彼は自分の目を高く買っていた。そんな欠点があるのだ。が、いずれにせよ、彼がすでに五十歳、つまり、聡明で世馴れた、生活の心配のない人間なら必ず自分に対して、ときには意に反してさえ、敬意をいだくようになる年輩になっていることを考慮に入れるなら、大目に目てやるべき欠点である。」

これは、自信過剰ということでしょうか、それを年輩者の「大目に見てやるべき欠点」と言っていますね。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の場合は、自らの思想に基づく批評的で挑戦的な志向がありますので、この庵室内のことすべてが権威的で《形式主義》的なものと捉えて、ある意味用心深くなっているのでしょう。

彼は、「最初の瞬間から」長老が気に入りませんでした。

ここで長老の容姿について書かれています。

まず、長老の顔には「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」以外の多くの者にも気に入らぬと思われるような何かがありました。

それは、彼が小柄で猫背で足が弱く、病気のせいでまだ六十五歳でしかないのに老けて、十くらい上に見えたことと、顔全体がしなびて、細かい小皺におおわれていて、それは特に目のまわりに多く、目は小さく、色は明るいが、「まるで二つのきらきら光る点のように、よくかがやき、すばやく動」きました。

また、白い髪が残っているのは、小鬢のあたりだけで、しょぼしょぼしたまばらな顎ひげがくさび型に生え、しばしば薄笑いをうかべる唇は二本の細引きのように細いのでした。

鼻は長いというほどではありませんでしたが、まるで鳥の嘴のように尖っていました。


以上、いろいろ書かれていますが、要するに老けているということでしょうね。


2016年8月15日月曜日

137

巨大なサイズの聖像画のわきには、「被い金の燦然とかがやく別の聖像画が二枚、さらにそのまわりに、いかにも作り物めいたケルビム天使像や、陶製の卵、嘆きの聖母に抱かれた象牙製のカトリック十字架、過去何世紀かにわたるイタリアの偉大な画家たちの外国製の版画数枚、なぞが飾られてあった。」そうですが、これらの版画は「典雅な高価な版画」と表現されているものです。

そして、「被い金の燦然とかがやく別の聖像画」に訳注が付いていて(聖像画には、顔と手の部分だけを示して、あとを金属で被ったものが少なくない)とあります。

これがどういうものか、ざっと調べてみたのですが、見つかりませんでしたので、後でまた探してみたいと思います。

それから、「ケルビム天使像」の「ケルビム」も調べました。

「旧約聖書の創世記によると、主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた。エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という。「彼はケルブに乗って飛び、」(サムエル記下22章11節)「主はケルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる。ケルブの起源はアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」といわれている。旧約聖書によるとケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その顔は“人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持っていた。…生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。…ケルビムの“全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた”(知の象徴)…ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)…またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている。なお絵画表現において、セラフィムと混同されて描かれているものもある。」

さらに「陶製の卵」はイースターと関係があるかもしれませんが、調べてみました。

「卵を飾る習わしは、キリスト教および復活祭よりもかなり古くから存在する。卵とウサギは、古来より豊壌のシンボルだった。ユダヤ教の過ぎ越しの祭の正餐(セーデル・シェル・ペサハ)では、塩水で味付けをした固ゆで卵が、エルサレムでの新しい命と信仰のシンボルとして食べられる。中央アジアの新年ノウルーズの象徴的な食卓にも卵が必須である。イースター・エッグの起源を語る物語は数多く存在する。1つには、イエス・キリストの復活は赤い卵と同様ありえないとある皇帝が言ったため(マグダラのマリア参照)、さらに言えば、イースター・エッグの伝統は四旬節の間の節制(断食)が終わることを祝うためである。西方教会では、卵は「肉類」と同様に見られ、四旬節の間は食べることを禁じられるのである。同様に東方教会では、血を流さずに採られる卵は酪農食品(乾酪)に分類され、大斎中は肉や魚とともに禁食の対象となる。もう一つの根強い伝統は、イースターを祝うとき友人に赤く染めた卵を贈るというものである。この習慣はマグダラのマリアに起源を持つ。キリストの昇天の後、彼女はローマ皇帝の元に赴き、赤い卵を贈って「イエスが天に上げられた」ことを示した。それから彼女は彼にキリスト教を説き始めたのである。卵が象徴するものは、墓と、そこから抜け出すことによって復活する命である。赤は、卵で示されるように、キリストの血によって世界が救われることを表し、またキリストの血によって人類が再生することを表している。卵そのものが復活のシンボルであり、休止の間もその内側に新しい生命を宿している。卵を固ゆでにするのは鶏が生み出した食べ物を浪費しないためで、同じ理由からスペインの伝統的な復活祭の料理オルナソ(hornazo)は固ゆで卵を主要な材料とする。イギリス北部ではイースターの時期にエッグ・ジャーピング(egg-jarping)、エッグ・タッピング(egg-tapping)またはエッグ・ダンピング(egg dumping)として知られる伝統的なゲームが行われる。固ゆでの卵が配られ、個々のプレーヤーは自分の卵を他のプレーヤーの卵にぶつけるのである。最後まで無傷な卵の持ち主が勝者となり、敗者は自分の卵を食べる。このゲームはブルガリアや他の国でも見られ、アフガニスタンでも新年を祝って行われる。また、アメリカ合衆国では野原に卵を散らばして、それを探す「エッグハンティング」大会が行われ、中でも1985年4月に開催された「ガリソン・エッグハンティング大会」では、ゆで卵延べ7万2000個と飾り卵4万個を散らばして行われ、ギネスブックに掲載された。」

引用ばかり長くなりました。

さて、これらの高価なものとならんで、どこの市場でも数カペイカで売っているような、聖者や殉教者や高僧などのロシアの庶民的な石版画が何枚かありました。


別の壁には、現代や過去のロシア大主教たちの石版肖像画も数枚ありました。


2016年8月14日日曜日

136

聖像画というのは、イコンのことだと思いますが、ネットで正教徒のイコンについて以下のように説明されていました。

「正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある。聖大ワシリイ(大バシレイオス)(330年頃 - 379年)は、「聖像への尊敬はその原像に帰す」とした。ダマスコのイオアン(676年頃 - 749年)はこれを引用した上で、原像は聖像化されるものであるとともに結果を得る(尊敬を得る)元になるものでもあるとして、こうした聖像への敬拝を、東に向かって祈ることや十字架への尊敬とともに、書かれざる聖伝(アグラフォシス・パラドシス)に数えた。すなわち正教会において、イコンは信仰の対象ではなく、崇拝の対象でもないが(崇拝・礼拝は神にのみ帰される)、信仰の媒介として尊ばれる。こうした教義は第七全地公会議において確認されたが、この公会議では全き人としてこの世に存在した全き神であるハリストス(キリスト)を画き出すことは、神言の藉身(受肉)に対する信仰を守ることであることも確認された。正教徒がイコンの前で祈る時、描かれたハリストス(キリスト)、生神女、聖人に祈る。人はイコンを通じて霊の世界やそこに住む者に触れることが出来るようになる。パーヴェル・フロレンスキイは「イコンとは別の世界への窓口」であるとした。イコンは神の国の存在を信徒に証するとともに、教会にある信徒が神の国にいることを証してもいる。正教の信仰において、イコンは「使用を認められた」というよりも、むしろ属神的(ぞくしんてき、霊的)必需品であるとされる。ギリシア語の「イコン」(ギリシア語: εικώνの中世 - 現代ギリシア語読み、古典ギリシア語再建音ではエイコーン)は、似姿、印象、かたどり、イメージという意味がある。思いや考えを託す器としてのイメージ(イコン)は、託されたものを表現する働きも持つため、器(イメージ、すなわちイコン)の破壊は器に盛られているものの破壊に通じると考えられる。ここでいう「器」は、具体的には伝統的なイコンの技法、既定された色や構図であると整理される。」

庵室の隅のたくさんの聖像画の中に巨大なサイズの聖母像がありまして、これはおそらく教会分裂(訳注:十七世紀半ば、ニコンの宗教改革をめぐって正教が分裂した)のずっと前に書かれたものに違いなかったと書かれています。

この絵の前には燈明がともっていました。

ここでまた、「ニコンの宗教改革」を調べてみました。

ロシア正教全体のことを理解していなければ、わかりずらいのですが、とりあえず、「ニコンの宗教改革」の部分だけを抜書きします。

「ロシア正教会史の中でも特筆される大事件として挙げられることが多い総主教ニーコン(ロシア語版、英語版)による改革は、特筆されて然るべきさまざまな決定的影響をロシア正教会に残した。この改革に対する評価は賛否両論があり、現代の正教会関係者からも必ずその功罪の両面が挙げられる。その背景と顛末を、概要のみ記す。なお、この改革は宗教改革とは呼ばれない。17世紀前半まで、キエフを含むウクライナ西岸はポーランド・リトアニア共和国の勢力下にあった。すなわちカトリック教会の影響下にあったことになる。同じ時期、カトリック教会にはプロテスタントに対抗する対抗宗教改革が起きており、世俗権力からもローマカトリック教会からも、ウクライナにおける教会をローマ教皇の下に帰属させようとする活発な動きが生じた。1596年にはブレスト合同によりウクライナ東方カトリック教会が成立。現在も存続する、東方典礼を保持しつつローマ教皇の教皇首位権を認める教会である東方典礼カトリック教会のうち最大級の教会がウクライナに誕生した。これによって、ウクライナに関わるコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下にあった正教会指導者に生じた潮流は、大きく分けて二つある。一つはキリロス・ルカリス(キリル・ルカリス)(1572年-1638年)にみられる、反ローマカトリック感情からプロテスタントの影響を受け入れる傾向。いま一つはキエフ府主教ペトロー・モヒラにみられる、ローマカトリックに対抗するためにラテン神学を用いようとする傾向である。しかし両派ともに西欧の神学的な影響を全否定するものではなかった。寧ろ「全否定できなかった」という方が正しい。その要因はさまざまなものがあるが、一つの理由として当時、独自の正教会の学問機関がほぼ皆無であったことが挙げられる。オスマン帝国では正教会の教育機関維持は許されず、高位聖職者となる人々はイタリアに行ってラテン語で神学教育を受けるしか高度な教育を受ける方法がなかった。この時代、聖師父に則った正教会の正統的信仰をまだしも汲むものとして評価されているのは1672年のエルサレム総主教ドシセオス2世による信仰告白書であるが、ドシセオスは独学で聖師父学を学んでいた人物であった。より正教会の伝統的な信仰を明らかにする著作としては、後代アトス山のフィロカリアを待たねばならないとされる。キエフ府主教ペトロー・モヒラはカトリック国のポーランド・リトアニア共和国の支配下にあって圧倒的ハンディを抱えつつも、1632年、キエフ神学校を設立する。正教会の神品達にラテン的素養を具えさせ、以てカトリックに対抗しようという狙いがあったこの学校の声望はすぐに高まった。しかしながら当然このようなラテン系の術語等を正教に導入する試みは、いかに正教を護るためという善意から出たものであっても、正教会内の伝統を重んじる者達から反発を買うのは自然な流れであった。ウクライナが1654年に大幅な自治権の保証つきでロシアのツァーリの宗主権を認めポーランド・リトアニア共和国の支配から脱出したことで、ロシアと西ウクライナの物流と人の交流は活発化していく。それはモスクワを中心とするロシア正教会に西欧化の波が押し寄せて来ることをも意味した。こうした時に登場してきたのがニーコン(ロシア語版、英語版)であり、彼はアヴァクームらと共に正教会の西欧化に危機感を抱き、正教会の伝統を守る意識を持っていた人物であった。だが1652年にニーコンがツァーリであるアレクセイの支持を受けて総主教に着座し教会の改革を始めた段階で、アヴァクームらの一派と分裂が生じた。先述の通りこの時代、ロシア正教会では所有派が指導的立場にあったが、所有派は非常に形式を重んじる人々であり、形式主義は非常に深くロシア正教会に根を下ろして居た。形式主義への偏重を中庸の状態に適正化させる事。およびロシア正教会の形式を、正教世界の中心たるロシアに相応しくギリシャに倣ったものとし、ギリシャの奉神礼・伝統・祈祷書を取り入れることで正教会世界の標準的地位をロシアに確立する事。以てカトリック教会への対抗とする。これらがニーコン改革によって目指された。なお誤解されることもあるので注意を要するが、ニーコン改革はロシア正教会を革新しようとしたのではなく、あくまでも(少なくとも改革者の主観的には)他教会と共通する正教会の伝統を確立しようとしたのみであって、伝統をいかに保持すべきかという問題意識についてはニーコンに賛成した側も、ニーコンに反対する側も、異なるところはなかった。西欧におけるカトリックとプロテスタントの間の相違ほどには両者には見解上の溝はなかったと言える。だがそれでもニーコンによる改革は、ルーシから先祖代々、祈祷形式を護ってきた自負を持つ人々からの猛烈な反発を生み、反対者から致命者も出た。ツァーリの縁戚からも致命者が出たことにこの反対運動が広く起こっていたことが示されている。これらの改革に反発した人々は改革を受け入れた人々から「分離派(ラスコーリニキ)」と蔑称された。正教古儀式派が中立的な呼称である。後代、帝国の安定を期す帝権の思惑から「『分離派』という名称は差別的である」として、彼等に対して若干の配慮が示されるようになり、エカチェリーナ2世の時代から公文書においては「古儀式派」の名称を使用するようになった。現代においても「古儀式派」が、当事者に配慮した名称となっている。当初は古儀式派に対する弾圧は人頭税を二倍払わせるなどの間接的手段に止まったが、次第に実力行使の面が増大。ニーコン総主教はツァーリの摂政という立場を活かし、古儀式派への実力行使を伴った弾圧を進めていった。古儀式派による集団焼身自殺といった熱狂的な抵抗運動はロシア全国各地でみられた。反対運動の背景には、当時、正教会世界にあって長時間立ったままで祈祷を行っていたのはロシア正教会のみであり、ロシアにやってきた外来の正教徒(特にオスマン帝国領内やポーランドといった異教徒の支配下にある正教徒)が長時間の起立姿勢に堪えられない姿などを目の当りにしていたロシア正教徒からすれば、「自らこそが正統の祈りを護っている」という意識が生まれても仕方なかったという事情もあった。アヴァクームらの一派はその後、数々の分派を生みつつ「古儀式派」として存続していくことに成る。弾圧の程度に時期による濃淡はあったものの、ロシア帝国政府は基本的にこれを長い間認めなかったので、彼等はシベリアなどの辺境に逃れていくこととなった。改革がこうした大規模な波乱を呼び起こした結果、ニーコン総主教の改革の方針は認められたものの、全国的に生じた混乱をツァーリ:アレクセイから指弾されたニーコン総主教は1666年に追放された。元々教権が俗権に優越することを主張して譲らなかったニーコン総主教とアクレセイ皇帝は、その基本的な立場からしてすでに差異が大きくなってきており、改革の是非云々は追放の口実に過ぎなかったという側面も指摘される。正教会世界同士の交流が深まる中、明らかになってきた奉神礼や祈祷書の差異の是正は確かに必要不可欠であったのであり、ニーコン総主教による改革は不可避であったともいわれる。この時代に、ロシア正教会が現代に至るまで保持する奉神礼の骨格が出来上がっており、ロシア以外の正教会との差異は縮まった。だがニーコン総主教は性急に過ぎ、また暴力的に過ぎた。不可避とはいえ改革を強引に進めた結果生み出されたもの、それは大規模な分派である古儀式派であり、加えてツァーリによる総主教追放を招来したことによる、ロマノフ朝によるロシア正教会に対する統制の完成であった。ただし、古儀式派の主導者であった長司祭アヴァクームは、ニーコン総主教が追放された後、1682年に火刑に処されており、この「改革」がニーコン一人の手によってなされたわけではない事には注意が必要である。」

長い引用になりましたが、あまり頭に入ってきません。

なぜ、この巨大な聖母像が教会分裂以前のものに違いないと自信を持って書かれているのでしょうか。


絵の内容がロシア正教の伝統的なものと違うからか、単に絵が古そうだからか、わかりません。


2016年8月13日土曜日

135

さて、庵室での面会の場面です。

長老はたいへん古いマホガニー製の皮張りのソファに腰をおろしました。

客の四人は、反対側の壁ぎわにある四つのかなり擦りきれた黒い皮張りのマホガニー製の椅子にならんで座りました。

司祭修道士の一人は戸口近くに、もう一人は窓ぎわに分かれて座りました。

そして、神学生と「アリョーシャ」と見習い僧は立ったままです。

庵室は狭く、みすぼらしい感じでした。

家具や調度品は無趣味で、貧弱で、必要なものしかありません。


出窓には花瓶が二つ置かれ、部屋の隅にはたくさんの聖像画が飾られていました。


2016年8月12日金曜日

134

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は、昨夜から修道院では修道院の慣習に従おうと決心していましたが、「しかし今、司祭修道士たちのこうした最敬礼や接吻を見るなり、彼は一瞬のうちに決心を変え」ました。

そして、「重々しいまじめな様子で市井風のかなり深いおじぎをすると、椅子の方に引き」さがりました。

つまり彼は思っていることと反対の行動をとってしまったわけですね、こういうことはよくあるといえばよくあることなのですが、ここでは、初志を貫徹してほしかったですね。

少し前、彼がこの僧庵に入ってくるとき、「いくらか苛立った気持ち」になっており、『俺には今からわかってるんだ。いらいらして、きっと議論をはじめるにきまってる・・・そのうち、かっとなって、自分自身も思想も卑しめることになるんだ』との独白がありましたが、これが伏線になっており、何かがはじまりそうな予感がします。

そして、「フョードル」はどうしたでしょう。

彼は、「からかい面で猿のように」、そっくり「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の真似をしました。

本来なら「フョードル」こそ、司祭修道士たちの真似をしそうなのですが、ここでは、あえて「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の真似をして、彼を煽っているようです。

もう、この辺で、彼らの内心は穏やかなものではなく、波立ってきているのではないでしょうか。

さて、「イワン」はどうしたでしょう。

彼は「ひどくもったいぶって丁寧におじぎをしたが、やはり両手をズボンの縫目につけたまま」でした。

「ピョートル・フォミーチ・カルガーノフ」は、「すっかり上がってしまい、全然おじぎも」しませんでした。

彼は、前に紹介されたときに「じっと永いこと見つめていながら、相手の姿なぞまるきり目に入っていないことがときおりある」と書かれていましたが、今回もそのとおりのようです。

「ゾシマ長老」は「祝福を与えるために上げかけていた手をおろすと、もう一度おじぎをして、みなに椅子を」すすめました。

「アリョーシャ」は恥ずかしくなって赤くなりました。


彼の「不吉な予感が的中しつつ」ありました。


2016年8月11日木曜日

133

ここでやっと「ゾシマ長老」の登場になります。

彼は、見習い僧一人と「アリョーシャ」を従えて出てきました。

先ほどから部屋で待っていた司祭修道士は立ち上がり、指が地に触れるほど深いおじぎをしました。

そして、「ゾシマ長老」の祝福を受けて、長老の手に接吻しました。

「ゾシマ長老」は、「パイーシイ神父」にも祝福を与えました。

そして、二人に対して、それぞれ指を地に触れさせて深いおじぎを返し、自分のための祝福も一人ひとりに求めました。

この場面は、ロシア正教の内実を知らない者にとってはなかなか想像しがたいです。

こういった一連の行動は、毎日行われる礼式のような堅苦しさはまったくなく、まじめに感情を込めて行われていました。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はいっしょに入った仲間たちの先頭にいましたが、彼にとってはこの儀礼的な行動はすべて意識的な演出で行われているような気がしました。


彼は、昨夜のうちから考えていたのですが、いかなる主義信条があろうともそれにかかわらず、ここではそれが慣習なのだから、単なる儀礼的な面から言っても、歩みよって、手に接吻はしなくとも、長老の祝福は受けるべきでした。


2016年8月10日水曜日

132

二 年とった道化

一行が庵室に入ったのは、来客の知らせをきいてすぐに寝室から現れた長老と、ほとんど同時でした。

庵室ではすでに僧庵の司祭修道士が二人、長老を待っていました。

一人は図書係の神父で、もう一人は「パイーシイ神父」でした。

「パイーシイ神父」はそれほど高齢ではありませんでしたが、たいそうな学者と評判されており、病身でありました。

後で司祭修道士が立ち上げる場面がありますので、この二人は椅子に腰かけていたと思います。

さらにこのほか、普通のフロックコートを着た、見たところ二十二、三歳の青年が片隅に立って長老を待っていました。

彼はその後も終始立ちどうしでした。

彼は、神学校を卒業した未来の神学者で、どういうわけか、この修道院と僧団の庇護を受けていました。

かなりの長身で、頬骨の広い生きいきした顔をしており、細い褐色の目は注意深く聡明そうでした。

そして、顔には申し分ないうやうやしさが表されていましたが、それも露骨なおもねりの色などなく、礼儀正しいものでした。

誰もいない僧庵で計3名の関係者が待ち受けていたのですね。

そして、その名前すら出てこない青年についての描写が続きます。

彼は、「入ってきた客たちに対しても、自分が対等の立場ではなく、むしろ、まだ庇護下にある、一本立ちしていない人間であるとして、おじぎで挨拶することさえしなかった。」そうです。


このような心理描写がこの小説を支えているように思います。


2016年8月9日火曜日

131

嫌味を言われた「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」がそれに答える暇もなく一同は僧庵の中に案内されました。

そして、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は「いくらか苛立った気持で入っていった・・・」のです。

彼の頭の中には『俺には今からわかってるんだ。いらいらして、きっと議論をはじめるにきまってる・・・そのうち、かっとなって、自分自身も思想も卑しめることになるんだ』と、こんな思いがひらめいたのでした。

この章ではずいぶん「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の人間性がわかるようなことが書かれているのが印象的です。

ここでの彼の頭の中に浮かんだ悲観的な思いは、革命期にパリに行き来していた自分がたぶんおこなってきたであろう多くの人々との議論の中での彼の経験に基づくのではないでしょうか、『俺には今からわかってるんだ。・・・』と言っていますが、そのようにして、いらだって、自分の思想も卑しめてしまった経験が記憶に残っており、今回も頭によぎったのではないでしょうか。


普通なら、自分が苛立っていることが自分でわかっているなら、それをコントロールすることができるとおもうのですが、彼は無理にそういうことをしないようですね。


2016年8月8日月曜日

130

「フョードル」が過去にこの僧庵のあるところまでやってきたかどうかはわかりませんが、僧庵が美しいバラの花に囲まれているというようなことをどこかで聞き、知っていたかのような書き方です。

そして「フョードル」は表階段をあがりながら、前の「ワルソノーフィイ長老」は「優美なものがきらいで、ご婦人方にさえ、とびかかって杖で殴ったとかいう話ですけど」そのような長老のころにも、このような美しい花はあったのかと、修道僧に質問します。

修道僧は前の「ワルソノーフィイ長老」は時によると神がかり行者のように見えることがあって、それで愚かしい話もたくさんありますが、杖で殴るなんてことは一度もありませんと答え、お取次するので少々お待ちくださいと言いました。

花のことには触れてませんね。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はその隙にタイミングを見計らって、「最後に一つだけ条件があります」が、と「フョードル」に言います。

「態度をよくしてくだいよ、でないと思い知らせてあげますからね」と。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はそのことばかり気にしていますが、あまりしつこく言われると、逆効果ではないでしょうか。

「フョードル」は、せせら笑って、嫌味を言いました。


「どうしてあんたがそんなに心配するのか、さっぱりわかりませんな」、相手=「ゾシマ長老」は目を見ただけでどういう用件できたか、わかるそうだから、あんたは自分の罪を見抜かれることを恐れているのかな、それならパリ仕込みの進歩的な紳士であるあんたは連中の考えを信じていることになる、「おどろきましたな、まったく!」というようなことを言います。

そうです、「ゾシマ長老」は、「訪れてくる見ず知らずの人の顔をひと目見ただけで」、「訪問者が一言も口をきかぬうちに相手の秘密を言いあててびっくりさせ、うろたえさせ、時には怯えに近い気持ちさえひき起こさせたという。」のですから。


2016年8月7日日曜日

129

「フョードル」は少しふざけはじめてきていますね。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は、置いて帰りますよ、そうしらたあなたは両手をつかんで引きずりだされますよと、「フョードル」に言います。

なんだか、ここまできて、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」も「フョードル」の同類のように思えてきました。

本人は正反対と思っているでしょうが、どこか補完しあっているようです。

「フョードル」は僧庵の囲いの内へ一歩入るなり、「見てごらんよ、なんてすばらしいバラの谷間に暮らしてるんだろう」と突然叫びました。

そこには、今の季節はバラはありませんでしたが、たくさんの珍しい美しい秋の花が一面に咲き乱れていました。

作者は、「おびただしい数の珍しい美しい秋の花」と書いていますが、その一部でも花の名前を書いてほしかったです。


これらの花の世話は、経験の豊かな人が行っているらしく、花壇は教会の囲いの内にも、墓の間にも作られており、長老の庵室のある入口の前の渡り廊下のついた木造の小さな平屋も花に囲まれていました。


2016年8月6日土曜日

128

修道僧の答えたことについて、「フョードル」は、「してみると、やはり僧庵から女性たちのところへ抜け道が通じてるんですね。いや、神父さん、わたしが何か妙な勘ぐりをしてるなんて思わんでくださいよ。べつに他意はないんですから。」と、とんでもないことを喋りだしました。

修道僧に「神父さん」と敬称で読んでおり、「べつに他意はない」と言っていますが魂胆が見えていますね。

以前に「アリョーシャ」がはじめて「フョードル」に修道院に入りたいと話したときに、酔いがまわってきた「フョードル」が《修道院妻》とまわりから呼ばれている小さな村を郊外に持っている修道院の話をしたことがありましたが、それを思い出したのかもしれませんね。

そして、「アトスじゃ女性の来訪が許されないだけではなく、どんな生き物でも雌はいっさいいけないそうですな、鶏だろうと、七面鳥だろうと、子牛だろうと・・・」と話は続きます。

以前に長老制度の歴史のところでアトスが出てきましたが、「フョードル」は物知りですね。

宗教的ではまったくない彼が、自分の付き合いの中で誰かにそのような話を聞いたのでしょうか。

アトスは女人禁制ということは、有名らしいです。

『芸術新潮』の2016年6月号に「修道士の祈りと記憶の巡礼」というタイトルでアトスのことが書かれてあり、「1400年頃から女人禁制となり、今日までその掟は堅く守られている。家畜も全てオスという徹底ぶり(ネズミを捕獲するために猫だけはメスがいる)。」と書かれていました。


「フョードル」が先ほど「他意はない」と言ったのは、彼にしては実際にそのとき頭に浮かんできた疑問であり、案外本当かもしれないと思い直しました。


2016年8月5日金曜日

127

修道僧は「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の言葉を聞いて、「青白い血の気のない唇に、一種ずるそうな感じの多少ある、微妙な無言の微笑がうかんだが、何とも返事をしなかった。自尊心から沈黙を守ったことは、あまりにも明らかだった。」そうですが、文学でしか表現できないなんとも細やかな描写ですね。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は修道僧の微妙な態度に気づいたからでしょうか、いっそう眉をひそめました。

そして、「えい、くたばりやがれ、こんなやつら。何世紀もかかってやっと作りあげたような顔をしてやがるけど、実際は偽善とでたらめじゃないか!」という思いが頭の中をよぎったのでした。

彼は自由主義者ということですから、このような宗教的な権威やそれを背景としたすべてのことに対抗し反発する意識を持っているのでしょう、この修道院内においてもかなり挑戦的な態度です。

一方、「フョードル」も「礼儀正しく振舞おう」と約束したにもかかわらず、はじめから発言はあぶなっかしい要素を含んでいるように思えます。

「フョードル」いわく、「あれが僧庵だ、やっと着いたな!塀をめぐらして、門を閉めきってあるな」。

そう言って、「門の上や横に描かれている聖者たちに、大仰な十字を切りはじめた。」のです。

もう、ここまでで、すでに道化的要素が自ずから出てきてしまっているように感じますが、さらにエスカレートします。

「フョードル」は「人それぞれに流儀あり、と言うけれど・・・」と余計な軽口をたたきながら、「ここの僧庵じゃ全部で二十五人もの聖人が行を積んでらして、互いににらめっこをしては、キャベツばかり食べてるんだそうだ。・・・」

もう、すでに完全に馬鹿にしている言い草ですね。

そして、ここの僧庵には、「女性は一人もこの門をくぐれないというんだから、これが特に立派な点さね。実際そうなんだからね。ただ、ちょいと小耳にはさんだところだと、長老はご婦人にお会いになるそうですな?」と、突然に修道僧に問いかけました。

「フョードル」は全く神に敬意など払っていないのでしょう、理論で無神論者になった者よりもこっちの方が根っからの無神論者かもしれません。

修道僧は質問されたことについて説明します。

それによりますと、たしかに、平民の女性は渡り廊下のわきに寝て、長老を待っていますし、渡り廊下の囲いの外に身分の高い婦人のために小部屋が二つ設けてあって、その窓がここから見えていますが、長老が元気なときには内廊下を通ってその小部屋のところにいらっしゃいますが、あくまでもそれは囲いの外というわけらしいです。

今もハリコフ県の地主でホフラコワさまという婦人が衰弱しきったお嬢さまをお連れになって待っているとのことです。


それは、たぶん長老が会うと約束をしているからでしょう、最近は、会衆のところへ出かけるのもやっとという状態でありますが、と修道僧は答えました。


2016年8月4日木曜日

126

「フョードル」が地主の「マクシーモフ」のことを「フォン・ゾーンにそっくりだ」と言ったことにたいして、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は、どうして彼が「フォン・ゾーン」に似ていると言うのか、そしてそもそも「フォン・ゾーン」を見たことがあるのか?と聞き返します。

「フョードル」は写真を見たことがあると言います。

そして、目鼻立ちは似てなくても、「いわく言いがたい点が似てますな。まさに正真正銘フォン・ゾーンの複製だ。こういうことは、顔だちを見ただけでわかるほうでね」と言います。

「フョードル」は世の中のことに長けているだけあって、人を一目で見抜くことには自信があるのでしょう。

いったいどういう点が似ているのかわかりませんが、顔立ちでなければ、直感的なものでしょう。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」も「そりゃ、あなたはこういうことに関しちゃくわしいでしょうよ。・・・」と言います。

そして、彼は、そのような会話から「フョードル」の道化のようなことがはじまる予感がしたのかもしれず、「わたしらは礼儀正しく振舞おうと約束したんですからね・・・」くれぐれも自制してください、と釘をさします。

また、彼は自分は「フョードル」なんかとは違う、そして「フョードル」といっしょに、「ちゃんとした人たちの前へ出るのがこわくてならない」と修道僧に言いました。

すいぶん自己主張が強い人ですね、自分は「フョードル」なんかとは関係なく、ちゃんとした人間だということを訴えています。