2016年12月31日土曜日

275

「フョードル」は修道院長の言葉に毒づきます。

「これだ、これだからな!偽善だ、古くさい台詞だ!台詞も古けりゃ、しぐさも古くさいや!古めかしい嘘に、紋切型の最敬礼ときた!そんなおじぎは、こちとら承知してまさあね!シラーの『群盗』にある『唇にキスを、胸には短剣を』ってやつだ。神父さん、わたしゃ嘘がきらいでね、真実がほしいんですよ!しかし、真実はウグイの中にゃありませんぜ、わたしが言ったのもそこでさあ!ね、神父さんたち、あんた方はなぜ精進をなさるんです?どうして、それに対するご褒美を天国に期待してるんです?そんなご褒美にありつけるんなら、わたしだって精進しまさあね!だめですよ、尊いお坊さん、修道院なんぞにひっこもって据膳をいただきながら、天国でのご褒美を期待していたりせずに、この人生で徳をつんで、社会に益をもたらすことですな、そのほうがずっとむずかしいんだから。わたしだってまともなことを言えるでしょうが、院長さん。ところで、ここにゃ、ご馳走がならんでるんだろう?」彼は食卓に近づきました。

「ファクトリーの古いポートワインに、エリセーエフ兄弟製造の蜂蜜酒か、いやはや、神父さん!こいつはちとウグイとは様子が違うようですな。神父さんが酒壜をならべるとはね、へ、へ、へ!いったい、こういうものをすべて、ここへもたらしてくれたのは、だれでしょうな?それはね、ロシアの百姓でさ、勤労者がマメだらけの手で稼いだわずかばかりの金を、家族や国家の必要からもぎとって、ここへ納めたんですよ!あんた方はね、尊い神父さんたち、民衆を食いものにしてるんですぜ!」

修道院長に対して、よくここまで楯突いたものだと思いますが、「フョードル」の言うことには正しい一面があります。

つまり、天上でなく地上で生きなさいと言うことでしょう。

こんなことは、西洋に思想に影響された「ミウーソフ」が言うべき言葉です。

ここでは、またシラーの『群盗』が出てきますが、「フョードル」は、何かを別の何かにあてはめて置き換える才能の持ち主のようですが、これはほめすぎかもしれませんが、ある意味で思想家と言ってもいいのではないでしょうか。

また彼は、人物に対する観察力たけではなく、その経験からいろいろな物にたいする知識も深く、食卓の上にならんだ「ぶどう酒」を「ファクトリーの古いポートワイン」と言い、「修道院でとれた上等の蜂蜜酒」を「エリセーエフ兄弟製造の蜂蜜酒」とすぐに見抜いています。

この「エリセーエフ兄弟」というのをネットで見てみると、面白い資料がみつかりました。

詳しくは調べておりませんが、「ロシア極東連邦総合大学函館校」というところの一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の講話内容として掲載されていました。以下のとおりです。

テーマ:「エリセーエフ家の人々」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)

 エリセーエフ家は、19世紀末から20世紀にかけ、食料品店「エリセーエフ兄弟商会」を営み、富を築きました。今日は、この一家で主にセルゲイ・エリセーエフ(Сергей Елисеев 1889~1975年)という人物とその店についてお話します。
 エリセーエフ兄弟商会の始まりは、ピョートル・エリセーエフの始めた果物とワインを取り扱う店でした。ピョートルは自らの足で、スペインなどの諸外国に行き、各地の名産のワインを集めて販売し、気づけば街で第一級の店舗を構えるまでになっていました。
 お店は、モスクワ中心部のトヴェルスカヤ通りとペテルブルクのネフスキー通りにあり、どちらも豪華絢爛なつくりで建てられました。店には、食料品、乾物、果物、お菓子、食器の5つの部門のほか、地下にはワイン蔵もありました。
 ピョートルには息子が3人おり、この店については孫のグリゴーリの活躍により大きくなり、フランスにも店舗をだすほど成長しました。グリゴーリは、店舗経営のほか、銀行設立、市議会議員も務め、『エリセーエフ』という名前を世に知らしめました。
 話を戻しますが、ピョートルの3人の息子の一人、セルゲイ・エリセーエフは、英才教育によって中等学に上がる前に必要な教育は全て終えていたと言われています。フランス語、英語、ドイツ語を話すことができ、中等学校に入学後はギリシャ語とラテン語を勉強し、卒業するころには、母国語以外に5つの国の言葉を自由に話すことができました。
 またパリ万国博覧会を訪れた際に中国などの東洋文化にとても興味を持ち、中等学卒業後はベルリン大学で東洋学の専門家のもとで学びました。このベルリン大学での勉強が日本へ留学するきっかけとなりました。
 1908年、日本の東京帝国大学へ留学した彼は、成績優秀でした。日本美術史を隅から隅まで学び、日本文学も学びました。1912年の卒業式では、明治天皇が臨席し、最前列で天皇を迎えるという栄誉を得ました。
 1914年に帰国後は、ペトログラード大学で日本語の講師となりました。しかし、1917年に起こったロシア革命で、国内での学者としての道を閉ざされました。ロシア有数の富豪の息子だったという理由だけで、抑圧の対象となり投獄されたのです。
 その後フランスに亡命し、日本大使館で通訳として働きながら、ギメ東洋美術館の日本コレクションの管理者となり、次にソルボンヌ大学で教鞭を執りました。
 1932年にはアメリカのハーバード大学の日本語講師として招かれ、働き始めましたが、気が付くと学部長にまでなり、およそ四半世紀にわたり教鞭を執りました。彼はロシア人でありながら、フランス国籍を持ち、アメリカで日本学の開祖となりました。
 第二次世界大戦時、アメリカ陸軍に対して行う日本語学習プログラムの依頼も受けました。大統領などから日本についての質問をよくされたそうです。彼は日本への原爆投下予定都市を聞き「京都だけは外すように」と強く訴えました。その訴えがどれほどの影響を与えたのかは分かりませんが、京都は爆撃を受けずにすみました。
 戦後、彼はハーバード大学に戻り、定年後は、ロシアではなくフランスに帰りました。今は、パリ郊外の墓地で静かに眠っています。
 最後になりましたが、彼の生家「エリセーエフ兄弟商会」はその後どうなったかというと、ソ連時代には名前を変え「食料品店No.1」となりました。当時、学校もそうでしたが、お店の名前なども全て番号制になっていました。しかし、街の人たちは親しみをこめ、かわらず「エリセーエフ(兄弟商会)」と呼びました。
 当時、建てられた豪華な店舗は現在も残っています。ペテルブルクの店舗は長い時間をかけて改装し、2012年に新装開店しました。20世紀初めのイメージで美しいインテリアで統一されています。今日は、そのお店の様子を映像と写真で見て終わりにしましょう。(略)

以上です。「カラマーゾフの兄弟」が単行本として出版されたのが1880年ですから、「フョードル」のいう「エリセーエフ兄弟製造の蜂蜜酒」というのは、当時のこの店のことです。この講義でこの家と日本との関係についても語られており驚きとともに興味深く読まさせていただきました。


また、日本に来たセルゲイ・エリセーエフは夏目漱石らとも親交があり、このあたりのことは、荒このみ氏が「エリセーエフ兄弟商会」というタイトルで詳しく書かれております。(PDFで公開されています)


2016年12月30日金曜日

274

「なんて卑劣なんだ!」と「ミウーソフ」がどなりつけました。

そして、「失礼ですが」と、ふいに修道院長が言いました。

「昔からこう言われております。『人々われにさまざまなことを言い、ついにはいまわしき言にすら及ぶ。われすべてを聞き、心に言う。そはイエス・キリストの医術にして、わが虚栄の心を治癒せんがために遣わされたるなり』と。ですから、わたしどもも賓客のあなたに謹んでお礼を申しあげます!」と、こう言って、院長は深々とおじぎをしました。

これは、このあとの「フョードル」の言葉を聞いてもわかるように、この場においては適切な言い方ではないですね。

この例えは、修道院の内部というか、そういった立場の人間が自分で思うようなことであって、勘のいい「フョードル」にとっては、逆効果でしょう。


「ゾシマ長老」なら、どのような言い方をするか知りたいところです。


2016年12月29日木曜日

273

「フョードル」は自分のことを「名誉の騎士」だと言っています。

これは、真実を闇の奥から救い出すために、自ら傷つきながらも戦っている姿を自分に重ね合わせているのでしょうか。

「フョードル」の発言はめちゃくちゃな口から出まかせもかもしれませんが、そのような一面も確かにあるような気がしてきました。

作者は、「ここで注釈が必要だ。」と書いています。これは、たんなる読者へのサービスではなく、「フョードル」の発言に対する弁護の一面もあります。

その注釈とは次のような内容です。

「フョードル」は世間の噂には耳ざといほうで、「かつて(ここの修道院に関してだけではなく、長老制度の確立している他の修道院でもそうだったが)、あたかも長老が尊敬されすぎていて、修道院長の地位さえ危うくしかねぬほどだとか、なかでも特に長老が懺悔の聖秘礼を悪用している、などという悪意にみちた噂が流れ、大主教の耳にまで達したことがあった。この町でもどこでも、そのうちにひとりでに消えてしまったような、愚にもつかぬ非難である。」しかし、神経のたかぶった「フョードル」にとっては、彼を捉えて離さない、そしてどこかますます遠く恥辱の深みへ連れ込もうとする愚かな悪魔が取り憑いていました、その悪魔は、最初の一言をきいただけでは、「フョードル」自身も理解できなかったような、ひと昔前のこのような長老制度への避難を彼に吹き込みました、「フョードル」だって、このような避難を筋道だって話すことなどできませんでしたし、ましてこの場合だって、長老の庵室でだれ一人ひざまづいていたわけでも、声をだして懺悔したわけでもないのですし、だから「フョードル」自身も何一つそんな光景をみるはずはなく、どうにか思い出した昔の噂やデマを頼りに話しているにすぎませんでした、しかし、「フョードル」は愚かな言葉を口にしてしまったあと、「彼は愚にもつかぬたわごとを口走ったと感じましたので、ふいに聞き手たち、なかでもとりわけ自分自身に対して、決してたわごとを言ったのではないことをただちに証明したくなった。これから一言しゃべるたびに、すでに口にだしたたわごとに、いっそう愚劣なことを上塗りするばかりだと、十分承知してはいたものの、もはや自分を抑えることができず、坂道をころげ落ちるのにひとひしい有様だった。」ということです。


ただほとんど翻訳文を転記しただけなのですが、これはたんなる登場人物の心理描写ではなく、あくまで小説の形を保ちつつも奥深く人間というものを文章化した小説の一片であり、私のそんなにも多くはない読書経験の中なのですが、見たことがありません。自分の思っていること、感じていること、頭をかすめて消え去ったものを、いかに深く捉えて分析しているか、いかに集中力を発揮して、物事の本質を捉えようとしているか、でしょう。


2016年12月28日水曜日

272

「これはいったいなんということだ?よくもこんなことが?」司祭修道士のグループの中で声があがりました。

司祭修道士のグループと書かれていますが、「イォシフ神父」「パイーシイ神父」ともうひとりの司祭修道士の三人です。

名前が挙げられてないもうひとりの司祭修道士の発言かもしれません。

「帰ろう!」と「ミウーソフ」は「カルガーノフ」をふりかえって叫びました。

ところがそうはさせません、「フョードル」は「そうはいかん、待ちなさい!」と部屋にさらに一歩踏みこんで、金切り声でさえぎります。

そして、こう言います、あっちの庵室で自分は、まるで失礼な振舞いをしたみたいに、恥をかかされたけど、それと言うのはウグイのことを口走ったからで、自分の親戚の「ミウーソフ」さんは、「話の中に誠意より上品さのほうが多いのをお好みだが、わたしは反対で、自分の話に上品さより誠意の多いほうが好きなんでさ。上品さなんぞ、くそ食らえですよ!そうだろうが、フォン・ゾーン?失礼ですがね、院長さま、わたしはそりゃ道化だし、道化をよそおってもいますけど、しかし、名誉の騎士ですから、はっきり申しあげておきたいんです。そうですとも、わたしゃ名誉の騎士だけれど、このミウーソフさんなんざ、ひねこびた自尊心があるだけで、はかには何もありゃしませんや。さっきわたしがこちらへ伺ったのだって、ことによると、しかと見届けてはっきり言わせてもらうためかもしれませんぜ。実は倅のアレクセイがこちらで修行しているんですが、わたしは父親として倅の身の上が案じられますし、また案ずるのが当然ですからな。わたしはずっと話をきいたり、演技をしたり、こっそり観察したりしてきましたけど、こちらであなた方に最後の一幕を演じてさしあげたいんでさ。そもそもわが国の現状はどうですか?わが国では、倒れた物は倒れっぱなし。倒れたら最後、永久に倒れてなけりゃならないんでさ。なんとかこれを変えられないものでしょうか?わたしは立ち上がりたいんです。神父さん、わたしゃあなた方に腹を立てているんですよ。もともと懺悔というのは偉大な聖秘礼で、それに対してはこのわたしだって敬虔な気持になるし、ひれ伏すつもりでいるというのに、ふと見ればあそこの庵室じゃみんながひざまずいて、声をだして懺悔してるじゃありませんか。いったい声をだして懺悔するなんてことが許されているんですか?懺悔はひそやかに耳もとでと、尊い神父さんたちによって定めらいるんだし、そうしてこそはじめて懺悔が聖秘礼になるんでさ、しかし、これは大昔からずっとですよ。でなけりゃ、早い話このわたしが、つまり、これこれしかじかだなんて、みんなの前でどうして説明できますか、わかるでしょうに?時には口にだすのがはしたないことだってありますからね。そんなことすきゃ、それこそスキャンダルだ!いけませんよ、神父さん、どうもあなた方は鞭身教(訳注 ロシア正教の一分派。禁欲と苦行を説いた)の傾向がありなさるようだ・・・わたしは手近な折をみて宗教院に投書しますからね、それから倅のアレクセイは家へ引きとります・・・」と。


この「フョードル」の長い発言には一貫性というものがありません。自分が「ウグイで神さまが買える」のかと、修道士たちに毒づいたことが原因で、恥をかくはめになったのだと、反省しているような素振りも少しあるような言い方をし、それから、それとは別に話が変わってまたまた「ミウーソフ」批判です、つまり、自分は上っ面より誠意の方を取ると言っています、世間体や礼儀などより、気持ちや心を大事にしているということです、そして、「ミウーソフさんなんざ、ひねこびた自尊心があるだけで、はかには何もありゃしませんや」と徹底的に「ミウーソフ」を批判しています、ここで「自尊心」とは「ウィキペディア」では、「心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度である。一般には自惚れなどとも同一視されるが、ここでは社会心理学における自己の概念に関連して高揚もしくは維持されようとする態度、あるいは精神医学(QOL)上の『ありのままの自己を尊重し受け入れる』態度とする。」と説明されています、この説明では、「自尊心」はありすぎても、なくても困るのですが、「ミウーソフ」の「自尊心」は自己肯定や自惚れというものであって、そういうものはなくてもいいものです、しかし、この「自尊心」を自分の中でどう処理するかということは難しいことですが、そして、次に「フョードル」は、「さっきわたしがこちらへ伺ったのだって、ことによると、しかと見届けてはっきり言わせてもらうためかもしれませんぜ。」と続けていますが、これは、読み方によって意味が違ってくるのですが、あとに続く「アリョーシャ」を引き取るという話ではなく、彼がわざわざ引き返してきた一番大きい理由として、「ミウーソフ」の「自尊心」のことを言いたかったのではないかと思います、また、最後に「あなた方に最後の一幕を演じてさしあげたいんでさ。」と言って、修道院に対して苦言を呈しています、そのひとつは、弱者を救済しないこと、あとひとつは、懺悔のことです、これらは、正論であると思いますが・・・。


2016年12月27日火曜日

271

修道院長もこの「フョードル」の行動には驚いたことでしょうが、「お相伴させていただけますかな?」と言われれば断ることはできないでしょう。

「衷心からおねがいいたします!」と修道院長は答え、「みなさん!僭越ではござりまするが」と突然のように「心からみなさんにお願いします。いっときの諍いを忘れて、主への祈りを捧げながら、この和やかな食事の間に、愛と親族の和とで結ばれますよう・・・」と急いで言い添えました。

「親族の和」と言う言葉を使った修道院長はおそらく僧庵で同席していた神父たちに先ほどの「フョードル」の行状について聞いていと思います。

そして、「ミウーソフ」も予想外の展開に気が動転して「いや、いや、だめです」とまるで我を忘れたように叫びました。

「フョードル」は、「ミウーソフさんがだめとあっちゃ、わたしもだめだ。わたしも残らぬことにしましょう。そのつもりで来たんですから。わたしゃ今度どこへ行くにもミウーソフさんといっしょにしますよ。ミウーソフさんが帰るとおっしゃるなら、わたしも失礼しますし、残るとありゃ、わたしも残ることにします、院長さま、親族の和とは、この人には特に耳の痛い言葉でしてね。なにしろ、わたしの親戚だってことを認めていないんですから。そうだろう、フォン・ゾーン?ほら、そこにいるのがフォン・ゾーンでさ。元気かい、フォン・ゾーン」と。

もうここまでくれば、めちゃくちゃですね。
理屈も何もあったもんじゃなく、駄々っ子の言い草です。
おまけに、何の関係もない「マクシーモフ」まで茶化しています。
たぶん「フョードル」はあだ名をつけるのが得意な人間なのでしょう。
人を見て、何かに関連づけるということは、人を見る観察眼がすぐれていなければできないことですね。

「フォン・ゾーン」と揶揄された当の地主の「マクシーモフ」は、「それは・・・わたしのことで?」と肝をつぶしてつぶやきました。

「もちろんお前のことさ」と「フョードル」が叫びました。「きまってるじゃないか?まさか、院長さまがフォン・ゾーンのはずもあるまい!」と。

「マクシーモフ」は「わたしだって、フォン・ゾーンなんかじゃありませんよ。わたしはマクシーモフです」と叫びました。

「フョードル」はよほど「フォン・ゾーン」という思いつきの言葉が気に入ったのでしょう。なんか子供じみていますが「マクシーモフ」のことを「フォン・ゾーン」だと言い張ります。

そして「以前そういう刑事事件がございましてね」と今度は修道院長に「フォン・ゾーン」のことを説明します。その男は魔窟で殺された、たしか、こちらではあの場所のことをそう呼ぶんでしたね、彼はいい年をしていたにもかかわらず、殺されて、身ぐるみはがされて、箱詰めにされ、密封されて、荷札つきでペテルブルグからモスクワへ貨車で送られたのです、箱を釘付けするときには、淫らな踊り子どもが歌をうたったり、グースリ(訳注 琴に似た民族楽器)をひいたりして大うかれだったそうです、これが「フォン・ゾーン」です。その男が死者からよみがえったというわけでした、そうだろう、フォン・ゾーン?と、再び「マクシーモフ」に話を振ります。

作者の詳しい時代設定がわかりませんが、この修道院での出来事はおそらく1860年代の後半あたりのこととしていると思います。小説としては13年前のことを思い出すという形で書かれています。
実際にフォン・ゾーン事件は1869年の年末のことなので、そのころこの事件はかなり騒がれていたのかもしれません。

そして、琴に似た民族楽器の「グースリ」とは、ウィキペディアでは次のように説明されています。

グースリ(ロシア語: Гусли)は、ロシアに伝わる弦楽器。中世ロシアにおいては、ロシア正教会が器楽演奏を禁じていたが、グースリはその唯一の例外であった。中世ロシアで活動したスコモローフが多用し、口承叙事詩ブィリーナを語る際にもグースリを膝に置いてつま弾いていたと考えられている。ブィリーナの中では、キエフの勇士ドブルィニャ・ニキーティチやノヴゴロドの商人サドコの物語に、グースリがスコモローフのトレードマークとして登場する。使用された時代と共鳴器の形によって、翼型、兜型、箱形の3つに分けられる。

実際にグースリの音を聞いてみたいのですが、youtubeで見つけることができませんでした。

小説の中で語られているグースリの形は、時代からいって翼型か兜型と思われます。参考に兜型グースリの絵を掲載します。


2016年12月26日月曜日

270

何かやらかしてやろうと決心した「フョードル」が修道院長の食堂に姿をあらわしたのは、お祈りが終ってみなが食事に移ろうとしたその瞬間でした。

彼は戸口に立ちどまって、一同を睨めまわしまし、そして、みなの目を不敵に眺めながら、ふてぶてしい、憎たらしい長い笑い声をたてました。

彼は「みんな、俺が帰ったと思ってるらしいが、ほら、やってきたぜ!」と、広間じゅうにひびく声で叫びました。

何ともはや、大変なシーンになったわけですが、この場に「アリョーシャ」がいなくて幸いだと思います。

一瞬、だれもが戸口に立った「フョードル」をまじまじと見つめて、沈黙し、ふいにみなが、今すぐ疑いもなく恥さらしな騒ぎをともなう何か愚劣な、うとましいことが持ちあがるにちがいない、と感じました。

「ミウーソフ」は、この上もなく柔和な気分から、とたんに、きわめて凶暴な心境に変りました。

心の中で火を消し、静まっていたものがすべて、いっぺんによみがえり、頭をもたげました。

ということは、「ミウーソフ」が心を入れかえて神妙な気持ちになったというのは、「フョードル」がいないことが前提だったのですね。それは、まったく本心からの反省ではなかったようです。

この場でも作者は「ミウーソフ」を茶化していますが、「フョードル」もずっと「ミウーソフ」を茶化し続け、同じく作者も「ミウーソフ」を茶化すような表現を続けています。つまり、作者は「フョードル」に同化して、彼のようなインテリを茶化しているのかもしれません。

「ミウーソフ」は、「だめだ、こんなことを僕は我慢できない!」と叫び、「とうてい、できん・・・絶対にできるものか!」と。

血が頭にのぼりました。舌がもつれましたが、もはや言葉なぞにかまっておられず、彼は帽子をひっつかみました。


そこで、「フョードル」が「この人はいったい、何ができないって言うんです?」とわめき、「『とうていできん、絶対にできるもんか』だなんて。院長さま、入ってもいいですか、それともだめですか?お相伴させていただけますかな?」と。


2016年12月25日日曜日

269

「フョードル」が思い出したことは、彼にとってどう作用したのでしょうか。

彼は、今このことを思いだし、しばし考えに沈んだまま、彼は声もなく憎さげにせせら笑った、そうです。

そして、目がきらりと光り、唇までがふるえはじめました。

『なに、毒食わば、皿までだ』だしぬけに彼は決心しました。

この瞬間、胸奥に秘めた感じは、こんな言葉で表現しえたにちがいない、と作者は書いています。

すなわち、『今となっちゃ、どうせ名誉挽回もできないんだから、いっそ恥知らずと言われるくらい、やつらに唾をひっかけてやれ。お前らなんぞに遠慮するもんか、と言ってやろう、それだけの話さ!』

「フョードル」は自分も含めて人間というものを嫌っているのでしょう、そこには開き直った一貫性のようなものがあります。彼にとっての善悪の基準は何でしょうか。

「フョードル」は迎えに来た馭者にしばらく待つように命じ、急ぎ足に修道院にとって返し、まっすぐ院長のところに向かいました。

彼は、自分が何をしでかすか、まだよくわかりませんでしたが、もはや自制がきかず、ちょっとした刺激で今や一瞬のうちに何か低劣さのぎりぎりの線まで堕ちてしまうことはわかっていました。

と言っても、低劣というだけのことで、決して何か犯罪とか、あるいは法廷で罰せられるような行為ではありませんでした。

彼はいつもほどほどに抑えておくすべを心得ており、ときにはわれながら感心するくらいでした。


「フョードル」は複雑な人間ですね。周りにいる普通に社会生活している人間すべてが、偽善者のように思えて不快なのでしょう。彼らには意識的か無意識的かわかりませんが、心の中に押し殺しているものがあって、それをあばきたてたいという衝動があるのだと思います。


2016年12月24日土曜日

268

このまますんなりと話はすすむわけではありません。

ここで驚くべきことが起こります。

先に帰ったはずの「フョードル」が、まさにこの時、最後のとっぴな振る舞いに出たのです。

作者は、「断っておかねばならないが・・・」と前置きし、「フョードル」は本当に帰る気になりかけていましたし、長老の庵室であんな恥さらしな行いをしたあと、何事もなかったような顔をして修道院長のところへ昼食をよばれにいくことはできぬと、実際に感じもしていました。

しかし、彼はひどく恥じ入ったり、自責の念にかられたりしたわけではなく、むしろあべこべだったかもしれませんが、それでもやはり食事をするのは失礼だと感じたのです。

「むしろあべこべだった」かもしれないというのは、どういう心境だったのか、わかるような気もするのですが、これは微妙で複雑で、すぐに消えてしまいそうな感情です。

「フョードル」は、宿坊の玄関へがたぴし音のする馬車がまわされ、もはや乗りこむ段になってから、ふいに足をとめました。

彼は長老のところで言った自分の言葉を思い出したのです。

それはこういう言葉でした。「わたしゃいつも、どこかへ行くと、自分がだれより卑劣な人間なんだ、みなに道化者と思われているんだ、という気がしてならないんです。それならいっそ、本当に道化を演じてやろう、なってあんあたらは一人残らず、このわたしより卑劣で愚かなんだから、とおもうんでさ」

シーンを遡ってみれば、長老に、遠慮しないでわが家にいるように楽にしてくださいと言われた「フョードル」の発言です。

実際には、「・・・わたしはいつも、人さまの前に出るたびに、俺はだれより下劣なんだ、みんなが俺を道化と思いこんでるんだ、という気がするもんですから、そこでつい『それならいっそ、本当に道化を演じてやれ、お前らの意見など屁でもねえや、お前らなんぞ一人残らず俺より下劣なんだからな!』と思ってしまうんです。わたしが道化なのも、そんなわけなんでして。羞恥心ゆえに道化になるんです、長老さま。・・・」というところです。

そして「フョードル」は、自分自身のいやがらせに対する腹癒せを、みなにしてやりたくなったとありますが、腹癒せは、普通はいやがらせをされた側がするのですが、彼の場合は相手が自分にいやがらせをさせられた、という被害者意識を持っているのでしょうか。実際そうかもしれませんが、次の展開をみると少し違うようです。

「フョードル」はこんな時に、ふいに、たまたまなのですが、以前にあったことについて思い出したのです。

それは、「あなたはどうして、だれそれをそんなに憎んでいるんです?」ときかれたときのことです。

そのとき彼は、日ごろの破廉恥な道化ぶりの発作にかられて、こう答えました。

「つまり、こういうわけでさ。そりゃたしかに、あの男は何もわたしにしませんでしたよ。その代り私のほうが恥知らずないやがらせをしてやったんでさ。しかも、やってのけたとたんに、それが原因であの男が憎らしくなったんですよ」

この会話がされた時、どういう場面で、どういう相手だったのかわかりませんが、道化た者が道化られた相手を憎むとは理不尽なことではあります。


しかし、いやがらせをしたり、いじめたりしているうちに、相手はぜんぜん悪くないのにその相手に対して憎しみを抱くようになるということは、ありうることで、それは自分自身の問題でもあるのかもしれません。


2016年12月23日金曜日

267

「ミウーソフ」は心を入れ替え愛想よく対応しようと決心していましたので、たとえ修道院長の手に接吻しそこねたといえども、そんなことは気にとめず、「院長さま、まことに申しわけございませんが」と愛想よく歯をのぞかせて微笑しながら、それでもまだもったいぶった、うやうやしい口調で切り出しました。

「愛想よく歯をのぞかせて微笑しながら、それでもまだもったいぶった、うやうやしい口調で」という描写が彼の複雑な自意識を見事にあらわしています。

彼は言います、「実は、お招きにあずかったフョードル・パーヴロウィチを置いて、われわれだけで参ったのでございます」、そのわけは、先ほど「ゾシマ長老」の僧庵で、ご子息との不幸な家庭内の諍いに前後を忘れて、場所柄をわきまえぬ、まったく失礼な言葉を口にしました・・・そのことはたぶん(と司祭修道士たちを見やって)もう院長さまのお耳にも達していると思いますが、というわけです、当人も自分の非を自覚し、心から反省して恥じ入っており、わたしとご子息の「イワン」君とに、くれぐれも院長さまに遺憾の意と、悲しみと後悔とをお伝えしてくれと頼んだしだいでございます・・・「一口に申して、当人はいずれ後日すべての罪ほろぼしをしたいと考え、望んでいるのですが、今日のところは院長さまのご祝福を乞い、先ほどの出来事を水に流していただきたと申しておりますので・・・」と。

「ミウーソフ」はここまで言って口をつぐみました。

彼はこの長広舌の最後のくだりを言い終えて、自分に満足し、先ほどまでの腹立ちなど心に痕跡もとどめぬくらいでした。

そして、彼はふたたび人類を心からまじめに愛していました。

「ミウーソフ」はいわゆる大人の対応をしたわけですが、「一口に申して、当人はいずれ後日すべての罪ほろぼしをしたいと考え、望んでいるのですが、今日のところは院長さまのご祝福を乞い、先ほどの出来事を水に流していただきたと申しておりますので・・・」のくだりは、彼としては自己満足しているのでしょうが、余計なサービスのように思いますが。

「彼はふたたび人類を心からまじめに愛していた」というのは、作者のユーモアですが、かなり奥深いユーモアです。

修道院長は「ミウーソフ」の話をもったいらしくきき終えると、軽く頭を下げ、答えて言いました。

「お帰りになった方のことは、まことに残念に存じます。ひょっとしたら、食事の間に、わたしどもがその方を愛しているのと同じように、わたしどものことも好きになっていただけたかもしれませんのに。さあ、どうかみなさん、召しあがってくださいませ」と。

さすがにすばらしい対応の仕方だと思います。

修道院長は聖像の前に立ち、声をあげてお祈りをはじめました。


みなはうやうやしく頭をたれ、地主の「マクシーモフ」なぞは、とりわけ敬虔な気持から両の掌を組んで、ひときわ前に身をのりだしたほどでした。


2016年12月22日木曜日

266

結局、会食に招かれたのは、「イォシフ神父」「パイーシイ神父」ともうひとりの司祭修道士、「ミウーソフ」「カルガーノフ」「イワン」「マクシーモフ」の七人です。

「フョードル」は先に帰ってしまいましたし、「ラキーチン」は弱輩なので当然のことですが招かれませんでした。

「ミウーソフ」「カルガーノフ」「イワン」が修道院長の食堂に入っていったときには、神父たちはもう席についていましたし、脇の方にいた「マクシーモフ」は待ちくたびれた顔をしていました。

修道院長は客を迎えるために部屋の中央にすすみでました。

彼は、つまり、ニコライ神父は、長身で瘦せぎすではありましたが、まだまだ頑健な老人で、黒い髪にはおびただしい白髪がまじり、面長の、陰気臭い、いかめしい顔をしていました。

彼は無言のまま客たちと挨拶を交わしました、すると今回は客たちは祝福を受けるために彼に歩みよりました。

彼らは、特に「ミウーソフ」は自らの主義信条から儀礼的なことに反感をもっていたので「ゾシマ長老」と面会したときは、祝福をうけようとせずに、おじぎをしただけだったのですが、今回は思い直して祝福を受ける気になったのですね。

「ミウーソフ」は勇気を出して、修道院長の手に接吻しようとしましたが、彼は何かのタイミングで手をひっこめたので、接吻は行われませんでした。

その代り、「イワン」と「カルガーノフ」は、ごく素朴に庶民的に、音をたてて手に接吻し、今回は存分に祝福を受けました。


この三人の祝福を受ける状況描写は何か意味があるのかもしれませんが、わかりません。


2016年12月21日水曜日

265

この会合の昼食のメニューについては「ラキーチン」があとで「アリョーシャ」に教えてくれたということになっていますが、彼はどうしてそんなことまで知っているのでしょうか。

彼は、好奇心をおさえきれず、以前から顔のきく修道院長の調理場をわざわざのぞいて、嗅ぎだしたのです。

次に、突然ですが、先ほどから辛辣な意見を披露している「ラキーチン」の性格について描写されています。

「ラキーチン」はどこでも顔がきき、どこに行っても情報をつかんできます、そして、いたって落ちつきのない、嫉妬深い心の持主です、すぐれた才能を十分自覚してはいるのですが、持ち前のうぬぼれから神経質なほどそれを誇張してみせるのです。

また、彼と非常に親しくしている「アリョーシャ」を悩ませたのは、彼が、やがて何らかの面で活躍することを自覚しているのでしょうが、不正直なくせに自分ではまるきりそれを意識しておらず、むしろ逆に、自分はテーブルの上のお金を盗むような人間ではないと自覚しているため、きわめて正直な人間とすっかり自分できめてかかっている点でした。

こうなるともう、「アリョーシャ」のみならず、だれであろうと、手の施しようがないにちがいありません。

「ラキーチン」と会話していた「アリョーシャ」の受け答えがぎくしゃくしているように思われたのはそのせいかもしれません。


ひとことで言えば、「ラキーチン」は自分で自分をいい人だと思っている人間だということでしょうか。


2016年12月20日火曜日

264

「ミウーソフ」は先ほどの自分の言動を自省して神妙な気持ちになっていたのですが、修道院長の食堂に入るときには、よりいっそうその気持ちは強くなりました。

修道院長の住居は、たった二部屋でしたので、食堂はありませんでしたが、長老の庵室にくらべると部屋はずっと広く、便利にできていました。

しかし、部屋の飾りつけは特に立派というわけでもなく、応接セットも二十年代の古めかしい型の皮張りのマホガニー材のもので、床も白木のままでした。

その代わり、何もかもが清潔さにかがやき、窓には高価な花がたくさん飾られていました。

そして、この場の最大の贅沢と言えば、当然のことながら、しかし、それは相対的に言えばではありますが、豪華に用意された食卓でした。

テーブルクロスは清潔そのものでしたし、食器はぴかぴか光り、みごとな焼き具合の①パンが三種類、②ぶどう酒が二本、修道院でとれた上等の③蜂蜜酒が二壜、それに近在でも評判の高い修道院製の④クワスを入れたガラスの水差しが置かれていました。

ウォトカは全然ありませんでした。

あとで「ラキーチン」が話してくれたのですが、この日は五皿の料理が用意されていたそうです。

ということは、「アリョーシャ」と「ラキーチン」は、「フョードル」と「イワン」と「ミウーソフ」と地主の「マクシーモフ」が修道院長のところから飛び出していくのを、少し離れた場所から目撃していますので、当然だれも食事はしていないでしょうし、「アリョーシャ」と「ラキーチン」は食卓を見てもいないのでしょう。

食卓に用意された五皿というのは、⑤鱘魚(ちょうざめ)のスープ、⑥魚をつめたピロシキ、何か一種特別なすぐれた調理法による⑦蒸し魚、⑧鱘魚(ちょうざめ)の捏ね揚げ、⑨アイスクリーム、⑩果物の砂糖煮(コンポート)、ミルク・ゼリーのような⑪プリンという献立でした。

以上が、料理です。

ところで、③蜂蜜酒というのは聞いたことがあるのですが、飲んだことがありません。ネットの通販でもいろいろと販売されていますが、良質の蜂蜜とドライイーストがあれば簡単に作れるそうです。

蜂蜜酒についてウィキペディアの説明(一部)は次のとおりです。

蜂蜜を原料とする蜂蜜酒は、ワインなどよりも古く1万年以上前からあったとされる人類最古の酒である。水と蜂蜜を混ぜて放置しておくと自然にアルコールになることから、発祥は人類がホップやブドウに出合う前の旧石器時代末にまで遡るといわれている。青銅器時代に蜂蜜の消費量が増加したことから、蜂蜜酒の生産がこの頃に拡大していたと推測される。しかし、ビールやワインなどの他の醸造酒が台頭するに連れて蜂蜜酒は日常的な飲み物ではなくなっていった。現在、蜂蜜酒の市場は東欧やロシアが主である。自家生産される地域は中東、エチオピアなどアフリカ諸国、中米からブラジルにかけて点在している。

次に④クワスとは何でしょう。

ウィキペディアでは、東欧の伝統的な微炭酸の微アルコール性飲料。キエフ大公国時代から知られ、現在はウクライナ、ベラルーシ、ロシアなどで好まれている。クワスはライ麦と麦芽を発酵させて作る。また各家庭においてはパンと酵母を原料として手軽に作られる。アルコール度数は1~2.5%、とあります。


また、料理では鱘魚(ちょうざめ)が多く使われていますが、この魚の卵はキャビアですね。


2016年12月19日月曜日

263

八 恥さらしな騒ぎ
ここで、「ミウーソフ」と「イワン」が会食のために修道院長のところへ入って行く場面まで時間がさかのぼります。

「ミウーソフ」について、彼は根は上品でデリケートな人間です、ということで、修道院長のところに入っていくころには、心の中にあるデリケートな変化が急速に生じ、腹を立てているのが恥ずかしくなってきました。

何となく、このような気持ちの変化はよくわかります。

「ミウーソフ」は、あんなやくざな「フョードル」なんかは、尊敬しないのは当たり前のことで、さっきのように、長老の庵室で冷静さを失ってわれを忘れたりすべきでなかったと思いました。

『少なくとも修道僧たちには、この場合なんの罪もないんだ』と、院長の住居の表階段で、ふいに彼は結論を下しました。『ここにだってまともな人たちがいるとしたら(修道院長のニコライ神父も、確か、貴族の出だったな)、その人たちにやさしく、愛想よく、いんぎんに接していけない理由はあるまい?議論はよそう。いっそ相槌ばかり打って、愛想のよさでひきつけておいて、それから・・・そう・・・最後には、俺があんなイソップ爺の、あんなピエロん仲間じゃなく、みんなとまったく同じように不愉快な思いをさせられたんだってことを証明してやろう・・・』

自分の行為を反省したまでは、よかったのですが、やはり、彼の考え方には少し問題があるようですが、しかし、日常生活における人間の心理というのは、大体がこういう陳腐なものかもしれないとも思わせてくれるような描写です。


そして彼は、係争中の林の伐採権や漁業権、そんなものがどこにあるのか自分でも知らなかったのですが、それらを今日にでもきっぱりと永久に譲ってしまおう、そんなものは取るに足りぬほどの値打ちしかないのだし、修道院相手の訴訟も全部打ち切ろう、と決心しました。


2016年12月18日日曜日

262

「グルーシェニカ」が自分の親戚だと言われた「ラキーチン」はかんかんに怒るのですが、読者の疑問に思うところはすぐに、「アリョーシャ」が聞いてくれます。

「アリョーシャ」は「おねがいだから赦してくれたまえ、まるきり予想もしていなかったことだよ。それにどうしてあの人が売春婦なのさ?ほんとに・・・そんな人なの?」」と言ってから、ふいに赤くなりました、そして、「くどいようだけど、僕は親戚たって聞いたんだよ。君はあの人のところへよく出入りしているし、それに君自身、あの人と色恋の関係はないって言ってたから・・・君があの人をそんなに軽蔑してるとは、ついぞ考えてもみなかったよ!でも、ほんとうに軽蔑に値する人なのかい?」と。

こういう言い方だと「アリョーシャ」の本心がさっぱりわかりません。

「ラキーチン」は、自分が「グルーシェニカ」に家を訪ねるのはそれなりの理由があるからで、君の相手はもうたくさんだ、それに親戚ということになると、むしろ、君の兄さんなり親父さんなりがあの女を親戚にしてくれるだろうさ、僕じゃなく、君の親戚にね。」と。

そして、ふたりで歩きながら、食事の場所に着いたのです。

「ラキーチン」は続けます。

「さ、やっとついた。台所へ行くほうがいいぞ。あ!いったい何事だ、あれはどうしたんだ?」と、そして、僕らは遅れたのかな?しかし、こんなに早く食事が終るはずはないしな?、君の親父も「イワン」も院長のところからとびでてきた、カラマーゾフ家の連中が何かしでかしたかな?イシドル神父が表階段の上から、二人のうしろ姿に何かさけんでいるし、君の親父も叫んで手を振っているし、きっと悪態をついているんだぞ、あ、「ミウーソフ」まで馬車で逃げていった、地主の「マクシーモフ」も逃げてくる、これはひと騒ぎあったな、つまり食事はしなかったってわけだ、院長を殴ったんじゃあるまいな、それともやつらが殴られたかな?それなら当然の報いなんだけど!、と叫びました。

「ラキーチン」の叫びは本当のことでした。

かつてきいたこともないような、思いもかけぬ恥さらしな騒ぎが起ったのした。

それにしても「フョードル」は先に帰ったはずなのですが、また戻ってきたのですね。


そして、すべては《インスピレーションの産物》でしたと書かれていますが《インスピレーションの産物》って何のことでしょう。


2016年12月17日土曜日

261

「ラキーチン」が「グルーシェニカ」の家の寝室に隠れていたことは、誰もが疑問に思うことです。

「ああ、そうだ、忘れてたよ、あの人は君の親戚だったね・・・」と「アリョーシャ」がすぐにその疑問を解いてくれます。

しかし、新たな疑問が起こります。

「ラキーチン」は真っ赤になってどなります。

「親戚?グルーシェニカが僕の親戚だって?おい、気でも違ったのか?頭がイカれたんだな」と。

「アリョーシャ」は、「どうして?本当に親戚じゃないの?僕はそうきいてたけど」と。

「ラキーチン」は、どこでそんなことをきけるのか?君らカラマーゾフ家の連中は何やら古い家柄の偉い貴族を気どっているけど、君の親父などは道化役でよその食卓をまわって歩き、お情けで台所に入れてもらったくせに、そりゃ、僕が坊主の倅で貴族の君らにくらべたら蛆虫同然だとしても、そんな愉快そうな態度で侮辱するのはやめてもらおう、僕にだって名誉心があるから、アレクセイ君、「僕がグルーシェニカの親戚であるはずがないだろう、あんな売春婦の。よくおぼえといてくれたまえ!」と、かんかんに怒って言いました。

「ラキーチン」はなぜこんなに怒っているのでしょう。

「グルーシェニカ」の親戚であれば、まずいのでしょうか。

この言い方だと、町の人たちは、彼らが親戚であるとは思っていないのでしょう。


親戚でなければ、なぜ「グルーシェニカ」の家に出入りしているのでしょう。



2016年12月16日金曜日

260

「カテリーナ・イワーノヴナ」のところで「イワン」が語ったという「ラキーチン」の将来像の予言めいた発言を「ラキーチン」自身から聞いた「アリョーシャ」ですが、突然、こらえきれなくなって楽しそうに笑いながら、それはそっくりそのまま実現するかもしれないよ、最後の一言にいたるまで、と叫ぶように言いました。

「ラキーチン」は「君まで当てこする気かい、アレクセイ君」。

「アリョーシャ」は、いや、とんでもない、冗談だよ、ごめん、全然別のことを考えてたもんだから、と、そして、失礼だがそんな細かい点まで君に伝えられるような人はだれかな、兄さんが君のことを話していたとき、君自身が「カテリーナ・イワーノヴナ」のところにいたはずはないしね、と。

そうですね、ここまで詳しい話は「ラキーチン」が「カテリーナ・イワーノヴナ」から聞き出したとしか思えないです。

ところが、実際は予想外の人物でした。

「ラキーチン」は「僕はいなかった。その代り、ドミートリイがいたさ。」と、そして、この話は「ドミートリイ」から聞いたんだと、しかし、知りたきゃ教えるけど、と前置きして、「ドミートリイ」が僕に話したわけではなく、僕が「グルーシェニカ」の寝室にこもっていて、隣の部屋に「ドミートリイ」がいたので、出られずにいるときに彼が話したのを聞いたんだ、と。

なんと、複雑で疑問だらけの状況設定でしょう。

まず、「カテリーナ・イワーノヴナ」の家に「ドミートリイ」と「イワン」がいて、「イワン」がこの話を「ドミートリイ」と「カテリーナ・イワーノヴナ」にするわけです、そして、「グルーシェニカ」の家の寝室に「ラキーチン」が隠れていて、それを知らない「ドミートリイ」が「イワン」から聞いたこの話を「グルーシェニカ」にするわけです。


「ドミートリイ」が「カテリーナ・イワーノヴナ」の家にいるのも少し違和感があるのですが、そこに「イワン」もいるというのが不思議ですし、一番疑問なのは、「ラキーチン」が「グルーシェニカ」の家の寝室に隠れているということです、また、「ドミートリイ」が「グルーシェニカ」にこんな話をなぜしたのかも腑に落ちません。


2016年12月15日木曜日

259

実は「ラキーチン」には「イワン」を嫌う理由がもうひとつあるのでした。

「ラキーチン」は、「アリョーシャ」が自分を侮辱していないというならそれは信じるよ、しかし、君も「イワン」もどうとでもなれ、だ!、君ら兄弟にはわかるまいが、「カテリーナ・イワーノヴナ」のことがなくても、「イワン」なんて男は大いにきらうだろうよ、どうして自分があんな男を好きになれるって言うんだい、胸くそがわるい!、だって彼自身さんざ僕の悪口を言ってるんだからね、なぜ僕には彼の悪口を言う資格がないんだい?、と。

彼の「イワン」に対する怒りはかなりのものですが、「アリョーシャ」は何のことを言っているのかわからず、「イワン」が自分に、「ラキーチン」のことなどは話題にしたことは全然ない、と言います。

「ラキーチン」は、僕のきいた話だと、おととい「イワン」は「カテリーナ・イワーノヴナ」のところで、この僕をくそみそにけなしつけたそうだ、「そんなにまでこの忠実な下僕に関心をお寄せいただくとはね、こうなると、君、だれがだれに嫉妬してるのやら、わからんね!」、こんな話を披瀝したそうだ、「もし僕がきわめて近い将来に修道院長になれる出世コースをいさぎよしとせず、頭を丸める決心もつかぬとしたら、きっとペテルブルクへ出て、大雑誌の、それも必ず批評部門にもぐりこんで、十年ほど書きつづけ、最後にはその雑誌を乗っとっちまう。それからふたたび発行をつづけるけど、必ず自由主義的な無神論の傾向で、それに社会主義的な色どりを、というより、むしろ少しばかり社会主義の装いをさせる。ただし、耳をそばだてて、つまり、本質的には味方も敵も警戒して、ばかどもの目をくらませるんだとさ。君の兄さんの説によると、僕の栄華の極みはこうなるんだって。つまり、社会主義的な色どりにもかかわらず、僕は予約金をどんどん当座預金に積みたて、ユダヤ人かだれかのコーチの下に、折をみてその資金を回転させ、やがてついにはペテルブルグに大ビルディングを建てる。そして編集局をそこに移して、ほかの階はアパートにするんだそうだ。そのビルの場所まで指定してくれたんだぜ。なんでも、目下ペテルブルグで、リティナヤ通りからヴィボルグスカヤ通りへ、ネワ河にかけ渡そうと計画中の新カーメンヌイ橋のたもとだそうだ・・・」と。

ここまで、詳細に自分の将来について、他人から言われると頭にきますね。

自分のことがそのように見られているということですから。

当たっているところも、はずれているところもあるでしょうし、決心をつけかねているところや、言葉にできずに頭の片隅にもやもやしているところもあると思いますが、それらをきっぱりと言葉に出しているわけですから、「ラキーチン」のショックは大きかったでしょう。

この内容自体、客観的には「ラキーチン」の性格の本質をついたものだと思います。


程度のほどはよくわかりませんが、「カテリーナ・イワーノヴナ」をめぐる「イワン」と「ラキーチン」の三角関係ゆえに互いの憎しみも相乗効果を帯びているようです。



2016年12月14日水曜日

258

むきになった「ラキーチン」はふっと黙りました。

ここで、少し間があったのでしょう。

そして、自省したのでしょう。

「ラキーチン」は「しかし、もうたくさんだ」と、前よりもいっそうゆがんだ笑いをうかべ、「どうして笑ってるんだい?低級な男だと思ってるんだろう?」と言いました。

「アリョーシャ」は、君が低級な男だなんて考えたこともなく、頭がいいと思っている、まあいいじゃないか・・・自分はうっかり笑っただけなんだから、君がむきになるのは自分だってわかるよ「ミーシャ」、君の熱しぶりを見て思いあたったんだけど、「君自身もカテリーナ・イワーノヴナに無関心じゃないんだね、僕はずっと前からそうじゃないかと思ってたんだ。だから君はイワンをきらうんだよ。嫉妬しているんだろう?」と。

「ラキーチン」の「イワン」に対する批判は論文の内容までにおよんでおり、少し異常じゃないかと思えるほどの憎み方なのですが、彼が「カテリーナ・イワーノヴナ」に好意を持っているとなると納得できます。

そして、いろんな糸で引っ張られている登場人物たちの関係性にさらに糸の力が加わりより複雑になりますね。

「ラキーチン」は、「そして、あの人のお金にも嫉妬してるってわけか?そう付けくわえたらどうだい?」と言います。


「いや、お金のことなんぞべつに付け加えないよ、君を侮辱するつもりはないもの」と「アリョーシャ」。


2016年12月13日火曜日

257

「どうして君はそんなに何もかも知ってるんだい?なぜそんなに確信をもって言えるの?」と「アリョーシャ」は突然眉をひそめてきびしくたずねました。

そうすると「ラキーチン」は「じゃ、なぜ君は今そうやって質問しながら、きく前から僕の返事を恐れているんだね?つまり君自身も、僕が真相を語っているってことを認めているわけさ」と反撃します。

よほど、「アリョーシャ」の態度が普通ではなかったのでしょうか。

「アリョーシャ」は言います。

「君はイワンがきらいなんだよ。イワンは金に釣られたりしないさ」と。

次の「ラキーチン」の発言をきくと、これは図星だったように思います。

「そうだろうか?じゃ、カテリーナ・イワーノヴナの美しさには?この場合、金だけじゃないさ、もっとも六万ルーブルは魅力的な代物ではあるけど」と。

「ラキーチン」は「イワンがきらいなんだよ」という言葉を否定していません。

「アリョーシャ」は、イワンの狙いはもっと高いところにあって、彼はどんな大金にも釣られないし、イワンの求めているのはお金や、平安じゃなくて、ひょっとしたら、苦悩を求めているのかもしれない、と言います。

「これはまた何の寝言だい?いや、君らは・・・貴族だよ!」と「ラキーチン」は驚きます。

「ああ、ミーシャ、兄さんの心は嵐のようにはげしいんだよ。思考が一つことにとらわれているんだ。兄さんの思想は偉大だけれど、まだ未解決のままなのさ。兄さんはね、何百万の金だろうと見向きもせず、思想の解決だけを必要とするタイプの人間なんだよ」と「アリョーシャ」は「イワン」のことを弁護します。

「ラキーチン」は、それは文学的な剽窃で、長老の二番煎じじゃないか、「とにかくイワンは君らに謎をぶつけたもんだ!」と、敵意を露骨に示して叫びました、そして、顔つきまで変り唇がゆがんでいました。そして、続けます、しかもその謎は愚にもつかないもので、わざわざ解くほどのものではないし、ちょっと頭を働かせればわかるし、彼の論文なんてこっけいで愚劣なものだ、さっきも『不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべてが許される』というばからしい理論をきかされたが、(それはそうと、あのときミーチャは『おぼえときましょう!』なんて叫んでたっけな)、卑劣漢には魅力的な理論さ・・・いや、これじゃ悪口になってしまう、ばかげた話だ・・・卑劣漢じゃなく、《解決しえぬほど深い思想を持つ》中学生じみたほら吹きと言いなおそう、単なるハッタリさ、その本質は『一面から言えば認めざるをえないし、他面から言ってもみとめぬわけにはいかない』というだけのことじゃないか、彼の理論なんざ、卑劣そのものだ、人類は、たとえ不死を信じなくとも、善のために生きる力くらい、ひとりで自分の内部に見いだすさ!自由、平等、同胞主義などへの愛の中にみいだすにちがいないんだ・・・、と。

「ラキーチン」はすっかりむきになり、ほとんど自分を抑えることができぬほどでした。


そして、突然、何かを思いだしたかのように、ふっと黙りました。


2016年12月12日月曜日

256

さらに「ラキーチン」の話は続きます。

「ドミートリイ」と「フョードル」の間にたった「グルーシェニカ」は「どっちにも色よい返事をせずに、今のところまだのらりくらりと二人を適当にあしらいながら、どっちが得かを観察している状態だよ。」、なぜかというと親父さんからはごっそりお金を搾り取れるだろうが、その代り結婚してくれそうもないし、おそらく最後にはがめつくなって財布を閉ざしてしまうだろうし、そうなれば、「ミーチャ」もすてがたく、お金はないが、結婚はできるだろうから、金持で貴族で大佐の娘で無類の美人であるいいなずけの「カテリーナ・イワーノヴナ」を棄てて、老いぼれ商人で身持のわるい土百姓の町長「サムソーノフ」風情の妾だった「グルーシェニカ」と結婚することになる、「こうしたいっさいのいきさつから、ほんとうに犯罪がおこりかけないんだ。また、それを待っているのが君の兄貴のイワンさ。そうなりゃ濡手で粟だもの。恋こがれているカテリーナ・イワーノヴナもいただけるし、六万ルーブルという持参金もがっぽりだ。」と、そして「イワン」のような無一文の男にとっては、幕開きとしてはきわめて魅力的な話であるし、見落としてはいけないことは、そうなれば「ミーチャ」を傷つけることはないし、死ぬまで恩を売ることにさえなる、というのは自分は先週「ミーチャ」が飲屋で酔払ってシプシー女たち相手に大きな声でいいなずけの「カテリーナ」は俺にはもったいない女だ、弟の「イワン」なら似合いの相手だとわめいていたのを知っているから、当の「カテリーナ・イワーノヴナ」にしても「イワン」ほどの魅力的な男なら最後には拒みきれなくなるだろう、現に今でも二人の間でぐらついているくらいだから、それにしてもあの「イワン」て男のどこが君らみんなを惹きつけたのかわからないが、彼は君らをせせら笑って濡手で粟で、勘定はそっちもちで甘い汁を吸わせてもらうぜと言わんばかりだ、と。

これで、ひとまず「ラキーチン」の大胆な発言は一区切りです。

彼は「グルーシェニカ」のところに出入りしているので、彼女が「どっちにも色よい返事をせずに、今のところまだのらりくらりと二人を適当にあしらいながら、どっちが得かを観察している状態だよ。」というのは信憑性があります。


また、「イワン」が「カテリーナ・イワーノヴナ」に恋こがれているということもここではじめてわかりました。


2016年12月11日日曜日

255

「アリョーシャ」は「グルーシェニカ」に自分のところへ訪ねて来るようにと言われているのですが、「よろしく伝えといて。伺いませんからって言っといてよ」と苦笑して、断るように「ラキーチン」に頼みました。そして、「それより、ミハイル、言いかけた話をすっかり言いたまえよ。そのあとで僕の考えを言うから」と。

ここで「ラキーチン」のことをはじめて「ミハイル」と言っています。

そしてここからの「ラキーチン」の話は少々長いのですが、ここまで進行したこの物語の、一方的かもしれませんが、まとめ的な意味があります。


「ラキーチン」は、万事がはっきりしていることだから、すっかり話すほどのことはない、こんなのは毎度おきまりの筋書きなのさ、と前置きし、もし「アリョーシャ」の内部にも女好きがひそんでいるとすれば、同腹の兄さんである「イワン」だって、カラマーゾフなのだから同じである、女好きと、強欲と、神がかり行者!「ここにカラマーゾフ家の問題のすべては存するんだ」と、「イワン」は無神論者でありながら、何かわからぬ愚かしい打算で、今のところ冗談半分とはいえ、神学の論文を発表して、その行為の愚劣さを自分でも認めている、そればかりか長兄の「ミーチャ」から婚約者を奪おうとしているし、きっとその目的もはたすことだろう、おまけに当の「ミーチャ」の同意のもとにそうなるだろう、どうしてかというと、「ミーチャ」はただ婚約者から解放されて一刻も早く「グルーシェニカ」のところへ駆けつけたいという一心で自分からいいなずけを弟の「イワン」に譲ろうとしているんだからね、婚約者はあんなにも高潔な無欲な人柄であるというのに、ここが大事なところなのだが、こういう連中はまったく宿命的だ!ということ、こうなると君ら兄弟のことはまるきりわけがわからない、なにしろ自分の卑劣さを認めながら、みずから卑劣さにはまりこんでいくんだから、まあ、先をききたまえ、ところが今度は「ミーチャ」の行手をさえぎるのがあの老いぼれの親父さんてわけだ、彼は突然「グルーシェニカ」に首ったけになってしまって、彼女を眺めているだけで、涎をたらす始末だ、今しがた庵室で醜態を演じたのもあの女のことが原因だ、それも「ミウーソフ」があの女をさかり時の牝犬だなんで言っただけでね、べた惚れなんてなまやさしいものではない、以前あの女は飲屋か何かのいかがわしい仕事で給料で働く身にすぎなかったんだけど、今ごろになってふいに親父さんが気づいて、見直し、すっかりのぼせて、世帯を持とうと言い寄りはじめた、もちろん誠意はないんだけど、そこで親子が一本道で鉢合せとという仕組みだ、と。




2016年12月10日土曜日

254

「ラキーチン」の男女の関係についての見解を聞かされた「アリョーシャ」ですが、「それは僕もわかると」と、ふいに口をすべらせました。

その言葉を聞いた「ラキーチン」は「ほんとかい?一言のもとに僕もわかるなんて口をすべらせたからには、つまり、本当にわかるってわけだ」と、小気味よさそうに言いました。

「ラキーチン」はまるで「アリョーシャ」の弱点を見つけたかのように、その発言にこだわり、相手の弱みを握って有利になった人間が得意がってたたみかけるように会話を続けます。

これから、「ラキーチン」の話す内容は、この物語のここまでの大筋のわかりやすい説明になっています。

彼は「グルーシェニカ」の関係でこれからもちょこちょこ登場するのですが、作者は彼にこの物語の大筋の説明させて読者を本筋からそれないように集中させるという重大な役割を課せるための脇役として創作したのではないでしょうか。

「ラキーチン」の話は続きます。

君はうっかり口をすべらせて本音を吐いたのだから、その発言はなおさら値打ちものだ、要するに君にとっては、すでにお馴染みのテーマで、つまりそれは情欲ということについてなのだが、そんなことを自分ですでに考えていたんだね、いや、「アリョーシャ」、君はたいした純情坊やだな!君はおとなしい人間で聖人君子だということに異存はないが、しかし、何を考えているのかわかったもんじゃない、どこまで知っているのか見当がつかない、純情坊やのくせにもうそんな深淵を通りぬけている、自分はずっと前から君を観察しているが、「君自身もやっぱりカラマーゾフだよ、完全にカラマーゾフだ。要するに、血筋がものを言うってことだな。」、父親譲りの色好みで、母親譲りの神がかり行者ってわけだ、どうしてふるえているんだい?僕の言うとおりなんだろ?、と。


そして、続けて「あ、そうそう、グルーシェニカに頼まれてたんだ。『あの人を』つまり君のことだぜ『あの人を連れてきてよ、あたし僧服をぬがせてみせるわ』だとさ。連れてきて、連れてきて、そりゃしつこく頼んでたぜ。」と、そして、自分はいったい君のどこがそんなにあの人の興味をひくんだろうと、あの人だってめったにいないほどの女性だからね!、と。


2016年12月9日金曜日

253

「君はあの女性のことで誤解しているよ。ドミートリイはあの人を・・・軽蔑しているんだよ」と、なぜか震えながら「アリョーシャ」は言いました。

「あの人を」と「軽蔑しているんだよ」の間に「・・・」がありますが、この「・・・」の意味することろは複雑なことと思われます、また「なぜか震えながら」と書かれていますので、心中もおだやかではありません。

そしてここでは「アリョーシャ」は「ミーチャ」と言いそうなところですが、そうではなく「ドミートリイ」と言っていますので、これも何か意味するところがありそうです。

「ラキーチン」は、「グルーシェニカをかい?とんでもないよ、君、軽蔑なんかしているものか。だって、いいなずけを公然とあんな女に見変えた以上、軽蔑してなんかいないさ。ここには・・・ここには、今の君にはわからないことがあるんだよ。男ってやつはね、何かの美に、つまり女性の身体なり、あるいは女性の身体のごく一部なりにでさえ、ぞっこん参ってしまったら(女好きなら、このことはわかるんだが)、そのためには自分の子供でも手放すし、父や母でも、ロシアでも祖国でも売り渡しちまうもんなんだ。正直だった男が盗みを働き、温厚でありながら人殺しをし、忠実だった男が裏切ったりするのさ。」と、そして、女性の足の賛美者である「プーシキン」は詩の中で女の足をたたえているし、ほかの連中もぞくぞくしずにはいられない、しかしそれは足だけに限らないが、だから、仮に「ドミートリイ」が「グルーシェニカ」を軽蔑しているとしても、この場合、軽蔑なんか何の役にも立たないんだよ、と。

しかし、なぜ「ドミートリイ」はあの女性、つまり「グルーシェニカ」のことですが、軽蔑していると言ったのでしょうか。

「フョードル」は先ほど「グルーシェニカ」のことを「あんたら修行中の司祭修道士なんぞより、よっぽど神聖かもしれませんよ!」とまで言っていました。

「アリョーシャ」の言葉をそのままとれば、「ドミートリイ」と「フョードル」この二人の「グルーシェニカ」にたいする見方の違いが興味深く思われます。


また、「ラキーチン」は「軽蔑」とか「神聖」とかを越えた男女間の関係のあり方を物知り顔で披露していますが、「いいなずけを公然とあんな女に見変えた以上、軽蔑してなんかいないさ」と言うあたりは、うわべだけ見て本質をはずしているように思います。


2016年12月8日木曜日

252

「アリョーシャ」の質問について「ラキーチン」は二つの別個の質問であって、この質問は当然の質問でもある、そして、一つずつ別々に答えようと言います。

一つ目は犯罪が起こることを「どうして僕にわかるかって」ことで、「ラキーチン」の答えは、今日突然「ドミートリイ」って人のありのままの姿を一遍で理解したからだ、それは、ある一面のことであるが、ああいう真正直だけれど色好みという人には越えてはならぬ一線があること、それを越えてしまえば、彼は親父さんだってナイフでぶすりとやるだろう、それに親父さんが飲んだくれで抑えのきかない道楽者で、いまだかつて何事にも節度ってものをわきまえたことがない、両者とも抑えがきかなくなって、もろとも溝の中へざんぶりと・・・、と。

「違うよ、ミーシャ、それは違う」と「アリョーシャ」は遮ります。

そして、「それだけのことなら、僕はほっとしたよ。そこまで行きっこないもの」と。

「アリョーシャ」はなぜ「ほっとした」のでしょう、もっと別のことを予想していたのですね。

「じゃ、どうしてそんなにふるえてるんだい?」と「ラキーチン」は言います、そして、「ミーチャ」は愚かであるが正直であって女好きでもある、これが彼の定義であり内面的本質のすべてである、これは父親から卑しい情欲を譲り受けたからだ、と。そして「アリョーシャ」に対し、君にだけはおどろいている「どうして君はそんなに純情なんだろう?君だってカラマーゾフなんだぜ!」君の家庭じゃ情欲が炎症を起こすほどなっていて三人の女好きが今や互いにあとをつけまわし合っているんだ、長靴にナイフを忍ばせて、三人が鉢合せしたのさ、「君はことによると四人目かな」と。

これが、「ラキーチン」は二つ目の質問、「なぜこんなことに、それほど関心がある」かの回答かもしれません。

会話は別方向に流れて、明確な答えというようにはなっていませんが。


「アリョーシャ」だけは、カラマーゾフ家の情欲からは全く離れているように思いますが、「ラキーチン」に「君はことによると四人目かな」と言われました。


2016年12月7日水曜日

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君の家庭に犯罪が起こる、と言われた「アリョーシャ」は釘付けされたように立ちすくみ、再び「何の犯罪さ?人殺しって、だれのことだい?君は何を言ってるの?」と、立ちどまった「ラキーチン」に問います。

「ラキーチン」は、「だれのこと?知らないみたいに言うじゃないか?賭けてもいいけど、君自身このことを考えてみたはずだぜ。それはそうと、こいつはおもしろいぞ。あのね、アリョーシャ、君はいつもどっちつかずの煮えきらぬ態度をとりはするけど、常に本当のことしか言わない人間だ。答えてごらん、君はこのことを考えたことがあるかい、それともないのかい?」

「あるよ」と、「アリョーシャ」が低い声で言いました。

さすがの「ラキーチン」もうろたえました、そして、「何だって?本当に君も考えたことがあるのかい?」と叫びました。

「僕は・・・考えたってわけじゃないけど。君が今あんな妙な言い方をするもんだから、こっちまで考えたことがあるような気がしたんだよ」と、「アリョーシャ」はつぶやきました。

この「アリョーシャ」のつぶやきは何なのでしょうか、答えになっていませんし、次の「ラキーチン」の発言からみても、このつぶやきはたんなる内心の声といったところでしょうか、それにしても「ラキーチン」の言うように「どっちつかずの煮えきらぬ態度」です。

「ラキーチン」は「ほらね、君は実に明確に表現したもんだね、どうだい?今日、親父さんと兄貴のミーチャを見ているうちに、君は犯罪のことを考えたってわけだ?してみると、僕の思い違いじゃないんだね?」と言いました。

「明確に表現した」と言うのは、「アリョーシャ」がひとこと言った「あるよ」という言葉でしょうから、次のつぶやきの部分、つまり、「考えたことがあるような気がした」というところは飛ばされています。


だから、「アリョーシャ」は「まあ、待ちたまえ、待ってくれよ」と不安そうにさえぎりました、そして、「いったいどうして君にはそんなことがすべてわかるの?なぜこんなことに、それほど関心があるんだい、これが第一の問題だよ」と言います。