2016年7月31日日曜日

122

不思議なことに、この訪問者たちの出迎えはないようでした。

というのは、「フョードル」はついこの間、最初の妻「アデライーダ」のために千ルーブルを喜捨したばかりでしたし、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」にいたっては、彼自身きわめて裕福な地主であり、最高の教養をつんだ人物であって、この修道院とは長年にわたり、河の漁業権などで係争中でもある重要な人物でしたので、本来ならばある程度の敬意が表されて正式の出迎えがあってもいいのではないかということです。

しかし、修道院側で出迎えるような人はひとりもいませんでした。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は教会のまわりにある墓石を眺め「こういう《神聖な》場所に葬る権利代だけでも、これらの墓石は遺族にとって高くついたに違いない」と言いかけましたが、黙りとおしました。

作者は続いて「単純な自由主義的な皮肉が、心の内でほとんど憤りに変りかけていたからだ」と書いていますが、どういう意味かよくわかりませんが、墓石で大儲けしていることに怒っているのでしょうか。

彼は、修道院の出迎えがなく、どこに行けばいいのかもよくわからないことやそれを誰にきいていいのかわからないことに腹をたて、「・・・時間ばかりたっていっちまうからな・・・」と突然、ひとりごとのようにつぶやきました。


彼は何十年も修道院と係争中なので気長な人物と思っていたのですが、短気な一面もあるのですね。


2016年7月30日土曜日

121

先頭の馬車からかなり遅れて到着した辻馬車には「フョードル」と「イワン」が乗っていました。

この馬車は二頭の年とった「月毛」にひかせており、ひどく古びてがたぴし音がしましたが、収容力だけは大きな馬車でした。

「月毛」の馬とは、栗毛より明るくクリーム色から淡い黄白色の馬だそうです。

二人二組の馬車を使っているのですが、馬車の選び方ひとつにもそれぞれの特徴が表れているようでおもしろいです。

肝心の「ドミートリイ」ですが、「アリョーシャ」が前の晩に時間を連絡しておいたにもかかわらず、すでに遅刻していました。

四人の訪問者たちは、修道院の外塀のわきにある宿坊で馬車を乗りすて、歩いて修道院の門をくぐりました。

「フョードル」はこの修道院にも何度か足を運んでいるのですが、あとの三人はどうやら修道院に来るのははじめてらしく、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」なんかは、おそらく三十年ばかり教会にさえ行ってないと思われます。

ですから、彼は「いくぶん無遠慮をよそおった感じのしないでもない、好奇の目であたりを眺めまわして」いました。

しかし、観察力の鋭い彼にとっても、教会や住居などのありきたりの建物以外なにもめずらしいものはみつかりませんでした。

ちょうど礼拝式が終り、教会から最後の会衆が、帽子をとって十字を切りながら出てくるところでした。

民衆の中には、遠くから来た上流社会の二、三人の貴婦人や、一人の非常に高齢な将軍の姿もありました。

この人たちはみな宿坊に泊まっていました。

そのとき、乞食たちがわが訪問者を取りまきましたが、誰も何も恵んではやりませんでした。

ただ「ピョートル・フォミーチ・カルガーノフ」だけは、財布から十カペイカ銀貨を取りだし「なぜかわからぬが妙にそわそわと照れて」、一人の女に握らせ「平等に分けるんだぞ」と早口につぶやきました。

あとの三人はだれも、彼の行為に気づいていませんでしたので、別に照れることもなかったのですが、彼はそれに思い当たるといっそう照れてしまいました。


微妙な若者の心理をさりげなく描いていますね。


2016年7月29日金曜日

120

第二編 場違いな会合

一 修道院に到着

長老との面会の日がやってきました。

それは、八月の末、晴れわたったあたたかな日でした。

時間は、遅い朝の礼拝式のあと、ほぼ十一時半ごろと決められていました。

会合の参加者たちは、みんな礼拝式には参列せず、ちょうど終りごろに、二台の馬車で乗りつけました。

先頭の馬車は、高価な駿馬を二頭つないだハイカラな幌馬車で、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」と彼の遠縁の二十歳くらいの青年「ピョートル・フォミーチ・カルガーノフ」が乗っていました。

ここではじめて登場する「ピョートル・フォミーチ・カルガーノフ」です。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はどういうわけでか、彼をしばらく預かっていました。

そして、自分といっしょにチューリッヒかイェーナへ行って、そこで大学に入り、学業を終えるようにと彼に薦めているところでしたが、彼はまだ決心をつけかねていました。

彼は黙考型で、どこかぼんやりしているようでもありました。

容姿については、感じのよい顔だちで、頑丈な体格をしており、かなりの長身でした。

眼差しがときおり妙に固定することがあり、ひどく放心状態にある人のように、じっと永いこと見つめていながら、相手の姿なぞまるで目に入っていないことがときおりありました。

口数は少なく、いささか融通はきかぬほうではありましたが、だれかと一対一の時などは急におそろしく饒舌になり、興奮して、笑い上戸になり、時には何がおかしいのかわからないのに笑いくずれることもありました。

しかし、そのようなこともその生じ方が急激なのと同じようにすぐにふっと消えてしまうのでした。

彼はいつも立派な、垢ぬけた身なりをしておりましたが、すでにある程度の独立した財産を持っており、将来的にもさらに増えることが保証されていました。

「アリョーシャ」とは友達でした。


この会合の前日に「アリョーシャ」は「さる知人」を通して「ドミートリイ」に「言伝て」を送りましたが、「さる知人」というのは「ピョートル・フォミーチ・カルガーノフ」ではないでしょうか。


2016年7月28日木曜日

119

「アリョーシャ」はあまりの心配のため思い切って、この会合にやってくる顔ぶれについて、前もって、長老の耳に入れておこうとさえ思ったほどでした。

しかし、少し考えてから、黙っていることにしました。

なぜ、黙っていることにしたのでしょう、書かれていません。

たとえば、長老のことを全面的に信じているからでしょうか、それとも何か試してみたかったのでしょうか、告げ口のようで気が進まなかったのでしょうか、公平でないと思ったからでしょうか、そんなことをすれば長老に嫌われるとでも思ったからでしょうか。

ただ、しかし、「アリョーシャ」は会合の前日に「さる知人」を通して「ドミートリイ」に「言伝て」を送りました。

「アリョーシャ」と「ドミートリイ」を結ぶ「さる知人」とはいったい誰なのでしょうか。

「言伝て」は「自分は兄を非常に愛しているし、約束をはたしてくれるものと期待している」との内容の「言伝て」です。

これは、口頭で伝えたのですね。

これを聞いた「ドミートリイ」は「いったい何を約束したのか、さっぱり思いだせなかったので、首をひねり、返事をしたため」ました。

「言伝て」に対し、「ドミートリイ」は手紙を返したのですね。

しかし、実際には「アリョーシャ」は「ドミートリイ」と別に約束などしていないと思うのですが、暗に「ドミートリイ」に変な振舞いはしないようにと釘を指しているように思えます。

そして、「ドミートリイ」は自分は《卑劣な振舞いに対しても》精いっぱい自制するつもりであると、そして自分は長老や「イワン」を深く尊敬してはいるのだが、これには何か「自分に対する罠か、不埒な喜劇が仕組まれていることを確信している」と書かれていました。

それから、手紙の結びにはこう書かれていました。

『いずれにせよ、お前がそれほど尊敬している、神聖なお方に対して礼を失するような真似をするくらいなら、いっそ自分の舌を噛んで死ぬだろう』と。

しかし、「この手紙もさほどアリョーシャには力づけにならなかった。」とのことです。


そうですね、こんな大げさなことを言う人物は正直ではあってもちょっと疑問符が付きますね。


2016年7月27日水曜日

118

「アリョーシャ」はこの会合のことでひどく困惑していました。

彼はみんなが考えているほど単純で素朴な人間ではありませんでしたので、いろいろなことを考え、重苦しい気持ちでその日を待ち受けていました。

そして、彼は、この人々、自分を除く4人の中で、この会合を公正に検討することのできる人間がいるとしたら長兄①「ドミートリイ」だけではないかと思いました。

あとの人たちはみんな軽薄で、おそらく長老にとっては屈辱的な目的でやって来るに違いないと思いました。

つまり、無神論者である②「イワン」と③「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は「たぶんきわめて無礼な好奇心から来るだろうし」、④「フョードル」にいたっては「何かしら道化的な、芝居じめた一幕をねらって」いそうに思いました。

「アリョーシャ」は口にこそ出しませんでしたが、「もう自分の父親を十分なくらい深く知って」いました。

恐らく「アリョーシャ」という人物は、感受性が強く、人を見抜く力がすぐれていたのでしょう。

誰がどういう人であるか、即座に的確に見抜いているように思います。

彼が心の奥でひそかに、家庭内の不和が収まってほしいと願っていたことは疑う余地はありませんが、この会合での最大の心配ごとは、実は長老のことでした。

特に「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」のいんぎん無礼な嘲笑と、学識豊かな「イワン」の見くだすような当てこすりで長老の名誉が損なわれることを恐れていました。


「アリョーシャ」には、それらの思わしくない情景がありありと目に浮かんでくるのでした。


2016年7月26日火曜日

117

「イワン」は父の家で暮らしていましたが「ドミートリイ」は町の反対側のはずれに一人だけで別に暮らしていました。

「イワン」は父とは正反対の性格ではありましたが、みんなが不思議がるくらいにうまくやっています。

内心ではどう思っているのかわかりませんが、相性がいいのでしょうか、それとも忍耐強いのでしょうか。

一方「ドミートリイ」は現に争いの真っ最中で、そうでなくとも、ある意味父親と性格が似ており、反発しあって絶対に父とはうまくやっていけないでしょう。

ここでもう一人の人物が登場します。

当時この町で暮らしていた「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」です。

彼は亡くなった「フョードル」の最初の妻であり「ドミートリイ」の実母である「アデライーダ」の従兄で、リベラリストで、自由思想家で、無神論者です。

パリに長く住み、放浪生活を続けていた例の人です。

そして、若いころ、修道院に接する広い領地を相続したときに、文化的な市民として修道院に対抗するということで、河の漁業権とか森林の伐採権とかにかんする訴訟を起こしていた人です。

彼は、今回の家族会議に異常に興味を持っており、自分も参加することを希望しているのですが、その口実としたのが修道院との領地の争いを円満に打ち切るために自分も修道院長とじっくり話してみたいということなのです。

しかし、実際には、たぶん退屈しのぎか、でなければ軽薄な気晴らしのために、この問題に度はずれの関心をしめしたのです。

そのように、作者は、今回の「フョードル」の突飛な思いつきに大はりきりで飛びついて、だしぬけに修道院や《聖者》を見たくなったというこの人物に皮肉をこめて書いています。

修道院としては、この家族や「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の訪問の意図について、それなりの理由があるものとして考えざるを得ません。

長老は病気を理由に一般の訪問客さえ断っている状態ではありましたが、修道院の方である程度の内部工作をしてくれたのか、結局のところは、長老が同意を与えて、日取りが決められたそうです。


長老は微笑を浮かべて「あの人たちの間で八つ裂きにするように、わたしを放り込んだのは、いったいだれだろうね?」と「アリョーシャ」に言いました。


2016年7月25日月曜日

116

このころ、ひとつの興味深いイベントの話が持ち上がりました。

言い出したのはもちろん「フョードル」です。

彼は、はじめはおそらく冗談まじりで言い出したことらしいのですが、「ゾシマ長老」の僧庵で家族会議を開こうということです。

「ドミートリイ」と「フョードル」は当時、遺産や財産上の勘定をめぐって争っており、それはどうしようもないところまできていました。

そして、二人の関係はとげとげしくなり、耐えがたいものになっておりました。

「フョードル」としては「ゾシマ長老」に直接の調停を頼まぬにしても、長老の前で話をすれば、彼の「位とか風貌」とかが何かしら和解的な、暗示的な効果をもたらすかもしれないと考えたのです。

まさに、彼らしい発想だと思います。

「フョードル」はそれまで一度も長老を訪れたことはなく、「ドミートリイ」の方は彼に会ったことすらありませんでした。


しかし、「ドミートリイ」は最近の父との争いにおける数々の乱暴な言動を少々反省していたこともあり、父が突然長老などを持ち出して自分を脅す気なのだろうとは思いつつ、この申し出を受け入れたのです。


2016年7月24日日曜日

115

長兄「ドミートリイ」は弟の「イワン」にたいへん深い敬意を持っているようで、彼のことを話すときは「何か一種特別な」まごころのこもった口調になるのでした。

最近、「あの重大な事件」のことで、「ドミートリイ」と「イワン」は、傍目にもわかるような固い絆で結ばれました。

「アリョーシャ」がそのことを知ったのは「イワン」からではなく「ドミートリイ」からでした。

「ドミートリイ」の感激しきったような「イワン」に対する批評を聞いていると、この二人は「人柄といい性格といい、ひょっとすると、これほど似たところのない二人を考えだすことは不可能ではないかという気がするくらい、際立った対照をなしていた」そうです。

特に兄弟の「アリョーシャ」から見ると不思議でもありました。

この二人は幼いときから別々に育てられたわけですから、兄の性格に反発しながら弟の性格が形成されたということはありませんので、なおさら不思議な感がありますね。

そうすると、考えられるのはやはり母親の違いでしょうか、「ドミートリイ」の母親「アデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソフ」は直情的な性格で結局子供を捨てて駆け落ちしてしまいますし、「イワン」の母親「ソフィヤ・イワーノヴナ」は病気になるほど、内面的な複雑な性格でありましたが、子供に対する愛情は深かったようです。


この辺の愛情の違いも二人の性格に少しは影響を与えているかもしれませんが、もちろん性格形成はそこから時間をかけて作られていくものですから、今の二人の性格のこの違いは、やはり不思議なことには違いありません。


2016年7月23日土曜日

114

ここで、長兄「ドミートリイ」と次兄「イワン」の登場です。

「アリョーシャ」から見れば「ドミートリイ」は腹違いの長兄です。

次兄「イワン」が一足先にこの町に帰郷していました。

あとから「ドミートリイ」が帰省しますが、「アリョーシャ」がすぐに親しく打ちとけることができたのは「ドミートリイ」の方でした。

「アリョーシャ」は同腹でもある「イワン」のことをよく知りたいと関心をいだいていましたが、彼がこの町で暮らすようになってからもう二ヶ月になり、かなりひんぱんに顔を合わせてはいましたが、いっこうに親しくなれませんでした。

「アリョーシャ」はもともと口数が少なく、相手から「何かを期待するような、何か面映いような感じだったし」、「イワン」も、最初のうちは「アリョーシャ」が気づくほどまじまじと好奇の眼差しを注いでいたものだったが、間もなくそれもなくなりました。

「アリョーシャ」はそれに気づき、とまどい、いろいろなことを考えました。

「イワン」の自分にたいする無関心や冷淡さは、年齢も違うし、教養も違うからかもしれないし、また、もしかして何かわからないが、彼はきわめて困難な何らかの目的に向かってひたむきにすすんでいるので、自分になんかかまっていられないのだ、そして、それが時々彼が自分を放心したように見つめる理由かもしれないと思いました。

また、「アリョーシャ」は「イワン」が無神論者であることを知っていましたので、愚かな見習い僧でしかない自分に対する、学識豊かな無神論者としての軽蔑があるのではないかとも考えました。

「アリョーシャ」はそのような軽蔑があったとしても怒ることはできませんでした。

しかし、それでもやはり、「自分自身にもわからぬ何か胸騒ぎのする不安」をおぼえながら、兄が自分に近づく気になってくれるのを心待ちしていたのです。

ところで、「自分自身にもわからぬ何か胸騒ぎのする不安」という表現は宗教に身を捧げる決心をした「アリョーシャ」の存在自体を言い表しているように思います。

無神論者の兄「イワン」が「アリョーシャ」に近づくということは、「アリョーシャ」の思想の崩壊につながりかねませんが、「アリョーシャ」自身が心の中でその接近を望んでいたようなのです。


2016年7月22日金曜日

113

長老が亡くなった時には並みはずれた栄誉を修道院にもたらすであろうという確信は、修道院の中でもぼちぼち聞かれましたが、実は「アリョーシャ」が一番そう思っていたのかもしれませんでした。

そして、彼の心の中には「ここのところずっと、一種の深い、炎のような内面的な歓喜」がますますはげしく燃えさかっていました。

それは「アリョーシャ」の夢と言っていいものでした。

それは次のようなことです。

しかし、その前に、「ゾシマ長老」は日常的に接している彼の前では、一個の人間ではありましたが、それは、彼にとってはどうでもいいことでした。

『同じことだ。長老は聖人で、御心の中には万人にとっての更生の秘密と、最後にこの地上に真実を確立する力とが隠されているのだ。やがてみんなが聖人になって、互いに愛し合うようになり、金持も貧乏人も、偉い人も虐げられている人もいなくなって、あらゆる人が神の子となり、本当のキリストの王国が訪れることだろう』と、「アリョーシャ」はこんな夢を心に描くのでした。

幸福とか充実とか人生の満足感とか、他にもいろいろと言い方はあると思いますが、たとえば地位や名誉や財産などがそのような気持ちを抱かせることはよくあることでしょう。

個人的な価値観の違いによって、幸福とか充実とか人生の満足とかいうものは、人それぞれで一様ではありませんが、程度の差こそあれ、だいたい似たり寄ったりです。

つまり、最高の生活をしていても、また最低の生活状態であっても、人はそれぞれ幸福感を持てるということです。

ここで言っているのは、そのような幸福感のことではないのです。

現実では実現されることはめったにありませんので、わからない人は見向きもしないような話です。

しかし、想像力を総動員し、また、少しでもそれに近い経験をしたことがあれば、わかりやすいかもしれませんが、「アリョーシャ」が心に描く夢、「金持も貧乏人も、偉い人も虐げられている人もいなくなって」というのは、そのような幸福感や満足度と全然、質が違うのです。

これは、全くわかりにくいことではありますが、そして、順番をつけるのはよくないと思う人もいるかもしれませんが、他のことで得られる幸福感より「アリョーシャ」が心に描く夢、「金持も貧乏人も、偉い人も虐げられている人もいなくなって」の方が、高レベルなのです、いや、同じ段階の話ではなくて、別物と言った方が正しいでしょう。


2016年7月21日木曜日

112

「アリョーシャ」はこの世の真実はこうなんだということをよく知っていたんだと思います。

つまり、ロシアの民衆は、日常的な不公正や、自分自身の罪、全世界の罪などにいつも苦しめられており、しかし、それだからこそ、穏やかな魂も持ち合わせており、何か「聖物なり、聖者なりを見いだして、その前にひれ伏し、礼拝する以上の、慰めや欲求など存在しない」ということです。

つまり、祈るしかなかったということですね。

次に二重鍵括弧でこう書かれています。

『かりにわれわれに罪悪や、不正や、悪の誘惑があるにせよ、やはりこの地上のどこかに神聖な、最高の人がいることに変わりはない。われわれの代りに、その人のところに真実が存在し、その人が代りに真実を知っておられるのだ。してみれば、真実がこの地上で滅びることはないわけだし、つまりは神の約束なさったとおり、そのうちに真実がわれわれのところにもやってきて、全地上に君臨するようになるのだ』

「アリョーシャ」は民衆がこのように感じ、判断していることがわかっていました。

そして、「彼自身も、感涙にむせぶ百姓や、自分の子供を長老の方にさしだす病身の女たちといっしょに、長老こそまさにその聖者にほかならず、民衆の目に映じた神の真理の守護者なのだということを、いささかも疑わなかった。」


2016年7月20日水曜日

111

「アリョーシャ」の心がとくにときめいたのは、長老の姿に接して祝福を受けようとロシア全土から集まってくる信者たちの群れが、僧庵の門のわきで長老の出てくるのを待っているところへ長老が姿をあらわす瞬間でした。

信者たちは、①長老の前にひれ伏して、②泣き、③長老の足に、長老の立っている地面に接吻し、④感涙にむせび、⑤女たちは自分の子供を長老の方にさしだし、⑥癲狂病みの女たちを連れてきたりもしました。

長老は彼らを言葉を交わし、短いお祈りを読んで、祝福してから、帰してやりました。

一連の流れは、まるでショー化されているようですが、そういうものなのでしょう。

しかし、長老は最近は病気の発作のために、時にはすっかり衰弱しきって、僧庵を出るのもやっとのこともありました。

ですから、信者たちは時には何日間も修道院で長老のお出ましを待っていました。

何ゆえそこまで信者たちは熱心になれるのかと思いますが、「アリョーシャ」にとってはそんなことは疑問にもなりませんでした。


2016年7月19日火曜日

110

「アリョーシャ」は長老の奇蹟力を絶対的に信じていました。

長老の力を示すたとえ話で、棺が教会から飛び出した話がありました。

この話は昔の伝説にすぎないと作者は書いていましたが、「アリョーシャ」はそれをも無条件に信じていたのです。

彼がどうして長老のことをこれほどまでに信じるようになったのでしょう。

人々は病気の子供や成人した肉親を連れて修道院を訪れ、長老が彼らの頭に手をのせて祈祷を読んでくれるよう哀願しました。

間もなく、なかにはその翌日に、また戻ってきて、涙を浮かべながら長老の前にひれ伏し、病人の快癒のお礼を述べるのでした。

「アリョーシャ」はこんな情景を何度も見るうちに長老を全面的に信じるようになったのです。

彼にとっては、それらの病気が長老のおかげで快癒したのか、そうでなくて自然に快癒したのかなどどいうことは、すでに問題ではありませんでした。

彼は、もうわが師の精神力を全面的に信じていましたし、長老の名声は自分自身の勝利にもひとしかったのです。

なんだか、「アリョーシャ」の中に長老がいて、一体化しているようですね。


2016年7月18日月曜日

109

「アリョーシャ」が気づいていたことがありました。

それは「ゾシマ長老」とはじめて差向かいの話をした多くの者は「ほとんど全部といっていいくらい、入って行くときには恐れと不安に包まれているのに、長老の部屋から出てくるこきにはたいていの場合、晴ればれとした嬉しそうな顔になっており、どんなに暗い顔も幸せそうな顔に変わっている」ということです。

また、並はずれて「アリョーシャ」の心を打ったのは、長老がまったく「厳格でなく、むしろ反対にほとんどいつも対応が快活であること」でした。

「修道僧たちは長老のことを噂して、長老は罪深い者ほど愛着をおぼえ、いちばん罪深い人間をだれよりも愛するのだ」と語っていました。

しかし、長老はもう歳で、人生の終りに近づいていました。

それでも、修道僧の中には、長老制度に反対し彼を憎んだり、妬んだりする者もおりましたが、それももはや少数となりました。

その中には「もっとも古い修道僧の一人で、偉大な無言の行者であり、まれに見るほどの斎戒精進者である高僧のように、きわめて著名な、修道院での重要な顔ぶれも何人か入っていたにもかかわらず、もっぱら沈黙を守っていた」そうです。

しかし、圧倒的多数の修道僧たちは、「ゾシマ長老」派でした。

そして多くの者は長老を「心から、熱烈に、ひたむきに愛してさえいた。」のです。

そういった者のなかにはほとんど狂信的に惹かれている者もいました。

彼らは、あまりおおぴらにではないのですが、長老が聖人であることは疑う余地もないないことであって、「長老の死後ただちに奇蹟が生じてごく近い将来この修道院に大きな栄誉がもたらされることを期待していた」そうです。


2016年7月17日日曜日

108

ここまでは、長老および長老制度の説明でしたが、次にやっと「ゾシマ長老」が登場します。

彼は、65、6歳で、地主の出身、若い頃は軍籍に身をおき、尉官としてコーカサスに勤務したこともありました。

「ドミートリイ」も地主の出身でコーカサスで軍務につき将校に昇進したのでしたね。

将校とは、広義には少尉以上の軍人を意味する士官の類義語だそうですから、士官の最下級であり、佐官の下、准士官の上に位置する尉官とどっこいどっこいでしょうか、関係ありませんが。

そして、「ゾシマ長老」は「何か一種特別な心の特質」で「アリョーシャ」を驚かせたのでした。

「アリョーシャ」は長老に非常に目をかけられ、長老の僧庵で暮らしていました。

しかし、「ここで指摘しておかねばならないが」と以下に続きます。

「アリョーシャ」は「この当時、修道院で生活はしていたものの、まだ何の束縛もなく」、何日でもどこへでも出かけられたし、僧服は自分が気に入って、そうしたいから身につけていただけのことでした。

つまり、まだ僧籍に入ったわけではなくて、中途半端な状態であったということですね。

たぶん、長老に気に入られているからこそ、その特権的な立場が許されたのでしょう。

「ゾシマ長老」には、力と名声があり、「アリョーシャ」もたしかにその影響を受けました。

長老については、多くの人が言っていることがあります。

彼は永年にわたって、心の秘密を告白しにやってきて、彼から忠告や治療の言葉を聞こうと渇望している人たちを近づけて、数知れぬくらいの打明け話や嘆きや告白を自分の心に受け入れたため、きわめて鋭敏な洞察力を身につけ、訪れてくる見ず知らずの人の顔をひと目見ただけで、どんな用件で来たのか、何を求めているのか、どんな悩みが良心を苦しめているのか、見ぬくことができるようになりました。

そして、訪問者が一言も話さないのに、相手の秘密を言いあてましたので、相手はびっくりし、うろたえて、時には怯えに近い気持ちさえ引き起こしたそうです。


2016年7月16日土曜日

107

長老に絶対的権力を付与するこの制度はロシアの修道院では最初、迫害を受けましたが、民衆の間ではすぐに受け入れられました。

この町の修道院でもそうでした。

庶民だけでなく、高貴な人たちも長老の前にひれ伏して自分の迷いや罪業や悩みを告白し、忠告と訓戒を仰ごうとひきもきらずに押しかけてくるのでした。

これを見て、長老制度の反対者たちは、このようなことが行われると聖秘礼としての魂の懺悔告白の立場が軽々しくなり、卑しめられると非難しました。

長老制度には、他にもざまざまな非難がありましたが、それは書かれていません。

結局、長老制度はロシアの修道院に徐々に確立されていったそうです。

懺悔告白とは何でしょう。

すぐに思い浮かべるのは、教会のせ小さな密室(告解室)で司祭に秘密を打ち分けるシーンですが、これはカトリックの場合のことで、正教会の場合は痛悔機密(つうかいきみつ)というそうです。

Wikipediaでは「信者は司祭と並んで十字架と福音経が置かれたアナロイの前に立つ。一人ひとりが自らの罪を告白し、司祭はそれに対し信徒としての生活の改善の為に精神的助言を与える。最後に司祭は痛悔者の頭にエピタラヒリを載せ、十字を描き、神の赦しと和解としての祝福を行う。痛悔の内容が他人に聞かれる事がないように、堂内では別の信徒によって聖詠(詩篇)などが大きめの声で誦経される中で行われる事が多い。また、時課などの奉神礼が行われている最中に痛悔機密が並行して行われるケースも多い。」と説明があります。

これに対して長老制度は「人間を奴隷状態から自由へ、道徳的完成へと精神的に生まれ変わらせるため」試練済みであり、千年の歴史を持っています。

そして、作者は、この長老制度は、両刃の剣にもなりうるのであり、「温容と最終的な自制の代わりに、あべこべにきわめて悪魔的な傲慢さへ、つまり、自由へではなく束縛へと導かれる者も、おそらく出てくるにちがいない。」と警鐘的な言い方をしています。


2016年7月15日金曜日

106

長老との絆の話には、ごく最近の実話もあると言います。

アトスで行を積んでいたロシアの修道僧が突然、長老からあることを命じられました。

それは、アトスを離れ、エルサレムへ聖地巡礼に行き、ロシアに戻って、北国のシベリヤに行け、ということでした。

「お前のいるべき場所はここではなく、向こうなのだ」と。

彼はアトスを静かな隠れ場所として心底から愛していましたので、びっくりして悲しみに打ちのめされました。

そして、彼は、コンスタンチノープルの総主教のもとにおもむき、服従を免じてくれるよう懇願しました。

しかし、総主教は「服従を免ずることは総主教たる自分にもできぬばかりか、すでにいったん長老によって課された服従を免じうるような権力は、それを課した当の長老の権力以外に、この地上には存在しないし、存在しえないのだ」と答えたそうです。

この修道僧も、人事異動に不満のある社員が社長に直接掛け合うようなもので、客観的にみて無理ですね。

それにしても長老の権力は絶対なのですね。

例えはよくないですけど、親分に死ねと言われれば死ぬ任侠の世界みたいですね。

それだからこそ、長老はそれなりの人物が選ばれるのでしょうけど、呆けてきて変なことになったりはしなかったのでしょうか。

作者も書いていますが、「長老というものは、ある場合には、理解しえぬほどの無限の権力を与えられている。だからこそ、わが国では多くの修道院で最初のうち、長老制度がほとんど迫害に近い迎えられ方をしたのである。」と。


2016年7月14日木曜日

105

《服従》と言っても、ロシアの修道院にも常に存在していた《服従》と違って、「長老に従う者すべての永遠の懺悔であり、結ぶ者と結ばれる者との間の断ちがたい絆である。」そうです。

次に、この長老との絆についての昔話が語られています。

ある修道僧が、何かはわからないが、長老に課された服従をはたさず、シリアからエジプトに行ってしまいました。

そこで彼は、長い間、偉大な功績を積み、最後は信仰のため拷問にあい、殉教の死をとげました。

教会はすでに彼を聖者と見なしていました。

しかし、遺体を葬るときに、「信じざる者、外に出でよ!」という補祭の高唱とともに、突然、棺がとびあがって、教会から放りだされました。

これが三度。

そして、人々は、彼が数々の偉業にもかかわらず、昔、長老の服従を破ったことに気づきました。

その長老の許可なしには赦しもありえませんので、長老を招聘して服従を免じ、はじめて葬式を行うことができたということです。

高唱のところに訳注があり、(正教の礼拝式で、この高唱の際に、キリスト教徒でない者は教会から出なければならぬとされていた)そうです。



2016年7月13日水曜日

104

「長老とはいったい何者なのか?」

それは、「すなわち、あなた方の魂と意志を、自分の魂と意志の内に引き受けてくれる人」なのです。

「いったん長老を選んだならば、あなた方は自己の意志を放棄し、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老の完全な服従下にさしだすのである」

そして、己れに打ち克ち、自己を制し、一生の服従を通じて、自分自身からの完全な自由を獲得するのです。

それは、「一生かかっても自己の内に真の自由を見いだせなかった人々の運命をまぬがれる」ことだと言います。

だから、人はこの試練、この恐ろしい人生の学校をすすんで受けるのだそうです。

このような長老制度は理論的なものではなく、千年におよぶ実際の経験から生まれました。

「自分自身からの完全な自由」とは何でしょうか、人は常に何かにとらわれており、それからの自由になることでしょうか、つまり歴史的、地域的、文化的、慣習的、道徳的に人をしばる余計なことを排して、本来の人間とはなにか気づかせることでしょうか、他には思い浮かびませんが、そういったことが、長老制度によって「自己の内の真の自由」を見いだすことに、どうしてつながるのか、わかりません。

確かに、自分の内面を、広く世間を知っていて公平な人物に託すことは、気持ちが楽になることではあるでしょう。

それは自分の中にある特殊性の幻想を放棄するというか、一般性に解消するという意味では救われる部分もあるかもしれませんが、そこで「自己の内の真の自由」を見いだすということは、そのような経験をしたことのないわたしには、実感としてわかりません。


2016年7月12日火曜日

103

いろいろと歴史のある長老制度ですが、この町の修道院に、いつ、だれによって定着したのかは「わたし」には確言できないそうですが、もうすでに三代目の「ゾシマ長老」の時代になっています。

しかし、「ゾシマ長老」ももはや老衰と病気で明日をも知れぬ身であり、後任にだれを選ぶべきかさえもまだわからない状態であるとのことです。

このことは、何もとりたてて有名なもののない「わが修道院」にとっては、重大な問題であります。

ここの修道院には、「聖者の遺体もなければ、奇蹟によってあらわれた霊験あらたかな聖像もなく、歴史に関連のある名誉な伝説さえなかったし、祖国に対する歴史的な偉業や勲功もべつになかった。」からです。

この「修道院が栄え、ロシア全土に有名になったのは、まさに長老のおかげであり、長老に会い、長老の話をきくために、信者たちがロシア全土から、何千キロの道もいとわず、群れつどってこの町にやってくる」のだそうです。


2016年7月11日月曜日

102

ロシアで、とだえていた長老制度がふたたび復活したのは、偉大な苦行者の一人パイーシイ・ヴェリチコフスキー(訳注 一七二二-九四。偉大な長老)と、その弟子たちによってです。

このあたりのことをネットで調べ、コピペします。

「二十世紀初頭まで続いたペテルスブルグ帝国の退廃期は、教会にとっては霊的再生の時代でした。修道者たちがまず、伝統的な正教の源泉に目覚め始めました。モルダヴィアの修道士、パイーシイ・ヴェリチコフスキー(†1794)はアトス山へ巡礼し、ロシヤに「フィロカリア」の珠玉の言葉を持ち帰りました。彼は、このフィロカリアの抜粋集を教会スラブ語に翻訳したのです。この彼の働きをきっかけに、「スターレツ」(長老)とよばれる霊的指導者の伝統がロシヤに植え付けられ、十九世紀のオプティナ修道院で見事に花開きました。」

しかし、百年近くをへた今日でさえ、存在しているのはごく一部の修道院だけで、時にはロシアではかつてきいたことのない新制度として、迫害されることもあったそうです。

作者も書いていますが、長老制度がロシアで特に栄えたのは、有名なコゼーリスカヤ・オープチナ修道院だそうです。


2016年7月10日日曜日

101

東方全体では、特にシナイやアトスなど、正教の長老制度の歴史は古くて、千年も昔から存在しているそうです。作者は「確かな説によれば」と前置きして、東方のシナイやアトスのように、古代のロシアにも長老制度は存在したが、諸事情によりこの制度が忘れ去られ、長老は途絶えたのだと言っています。

ここからはロシア史の勉強です。

諸事情としてあげられているのは、ロシアのさまざまな災厄や、タタールの支配、動乱、コンスタンチノープルの陥落後における東方とのそれまでの交渉の中断です。

まず、「タタールの支配」の訳注は(十三世紀から十五世紀にいたる二百年、ロシアはタタールに支配された)とのことで、これは、「世界史」の「タタールの軛」というやつで、『ロシア史では、モンゴル人に支配された時代を「タタールのくびき」といい、ロシア史においては、野蛮なモンゴルの圧政の下に高いキリスト教信仰を持つロシア民族が苦しんでいた時代』とネットに出ていました。

次に訳注があるのは、「動乱」、これは(イョアン四世の死後、一六〇四年から十三年までロシアは相つぐ内乱と、外的の侵入に苦しんだ)とあります。これは、「ロシアの大動乱」というそうですが、くわしいことは省略します。

最後は「コンスタンチノープルの陥落後」の後に訳注があり、(一四五三年トルコのスルタン、マホメットがコンスタンチノープルを占領)とありますが、これも詳細は省力します。





2016年7月9日土曜日

100

東方全体では、特にシナイやアトスなど、正教の長老制度の歴史は古くて、千年も昔から存在しているそうです。

シナイに訳注があり(シナイ半島の山。ここの修道院で十九世紀半ば、ギリシャ語聖書の写本が発見された)とあります。

アトスにも訳注があり(マケドニア海岸からエーゲ海に突きだした半島にある山。ギリシャ正教会の拠点で、聖なる山とよばれる)とあります。

調べますと、(シナイ半島の山)というのは、出エジプト後ヘブライ人らはシナイ半島へ渡って、シナイ山でモーセがで十戒を授かったとされています。麓には、337年にコンスタンティヌス帝の母ヘレナによって創建された聖カトリーナ修道院があるそうです。(ギリシャ語聖書の写本)とは、『シナイ写本』といわれ、4世紀ごろのものと考えられており、1844年にモーゼの出エジプトの故事にゆかりの深いシナイ山の聖カテリナ(カタリナ)修道院でコンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフによって発見されたとあります。そして、ロシア皇帝に献上されたが、ロシア革命後、1933年にソビエト連邦から売却され、大英博物館に所蔵されているそうです。

一方、アトスについての「Wikipedia」の情報です。「ギリシャ国内にありながら同国より治外法権が認められ、各国正教会の20の修道院・修道小屋(「ケリ」と呼称される)によって自治がおこなわれる共和国である。首都はカリエス。ギリシャ共和国では正教会の一員たるギリシャ正教会が主要な宗教であるが、アトスでは正教会で第一の格式を持つ総主教庁であるコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)の管轄下にあり、現在も中世より受け継がれた厳しい修行生活を送る修道士が暮らす。こんにち、約2,000人の修行僧が女人禁制のもと、祈りと労働の生活を送っている。」とあります。絶壁のそそり立つ修道院が有名です。

アトスの修道院については、村上春樹の紀行文で読んだとこがありますが、記憶が薄れていますのでもう一度読んでみましょう。

→ということで、『雨天炎天』(村上春樹著)を読んでみました。(ギリシャ編)と(トルコ編)に分かれており、読んだのは(ギリシャ編)のみです。これは、1988年に作者とカメラマンと編集者の3人の旅です。一応、日本を代表する作家の紀行文ではありますが、少し期待して再読したのがいけなかったのか、残念な内容です。

以上、シナイやアトスなど調べれば調べるほど興味がつきませんが、『シナイ写本』の一部を下にコピーして終りにします。




2016年7月8日金曜日

99

ここからは、この修道院の長老である「ゾシマ長老」の話になります。

「ゾシマ長老」という名前は、前に数回でてきていましたので、気にはなっていました。

しかし、その前に「わたし」は、わが国の修道院における《長老》の説明をしなければならないが、「残念なことに」あまり詳しくないので、正確ではないかもしれないと断っています。

作者は「この方面にくわしい専門家の確言によると」と前置きしてはじめます。

長老とか長老制度とかが、ロシアの修道院にあらわれたのは、ごく最近のことでまだ百年にもなっていないそうです。

訳注にも長老制度の説明が書かれていますが、それは教会政治の一つの形態としてカルヴァン派の教会で用いている長老制度のことではなく、魂の指導者たる長老の呼称と書かれています。

例によって「Wikipedia」で調べてみましたら大きくふたつに説明に分かれており、「長老 (キリスト教)」の説明では「長老制とは、キリスト教の教会における、三種類に大別できる教会政治制度の一。その他の二つとは監督制と会衆制。」とあり、おもにカルヴァン派のことが書かれていましたが、長老 (正教会)の説明に「正教会における長老(ロシア語: стáрец, 英語: Starets、スターレツ)は、正教会において、精神的に優れていると認められ、精神的指導を行う年長者。神品(聖職者)でもある者もいれば、神品ではない者もいる。歴史的にはロシア正教会において発展した制度であり同教会で言及される事が多いが、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会など、他の地域の正教会にも長老と呼ばれる人々の系譜が現代まで連なっており、ギリシャ語では"Γέρων"(ゲロン)と表記される。」とあります。


2016年7月7日木曜日

98

「アリョーシャ」が宗教の道に入った理由は、ほかにもあるかもしれないと作者は言います。

たとえば、幼いころ、母に連れられてこの町の修道院の礼拝式に行ったときに、何か印象づけられるものがあったのかもしれません。

また、癲狂病みの母が幼い彼を抱き上げて聖像の前に差し出したときに見た入日の斜光も作用しているのかもしれません。

このときの彼の記憶のことは前に書かれていましたが、母の祈りと叫び声と入日の斜光という強力なイメージが交錯する狂気のような特別の世界が彼の原体験として残されていたのではないでしょうか。

そして彼は瞑想に耽りがちな人間ですので、もしかすると、この町へやってきたのは「ここにはすべてがあるのか、それとも二ルーブルにしかすぎないのかを確かめるためにだけ」だったのかもしれません。

しかし、運命はそうはさせてくれませんでした。

「そして、修道院であの長老とめぐりあったのだった・・・」と続きます。


2016年7月6日水曜日

97

信仰の道に入った「アリョーシャ」はすべてが変わってしまい、自分のこれまでの生き方はいったい何だったのかと思うようになりました。

ここで聖書の言葉が引用されています。

『完全でありたいと望むならば、すべてを分け与え、わたしに従え』と。

ネットで調べてみましたら、この言葉は、マタイによる福音書19章21節の引用で、別の訳もたくさんありましたが、そのうちのひとつは、以下のとおりです。

イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」

イエスはある富める青年に対し、あなたに足りないことがひとつある、あなたのすることがまだひとつ残っていると言って、いつくしんで、彼に言った言葉です。

「アリョーシャ」はこの言葉に従いたいと思いました。

《すべて》の代りに二ルーブルを与えてお茶を濁したり、《わたしに従う》代りに礼拝式に通うだけにすることなど自分にはできないと自問します。

完璧主義ですね。



2016年7月5日火曜日

96

「アリョーシャ」はよくよく考え抜いた末に「不死と神は存在する」と確信しました。

そして、自分はそのために生きて、中途半端な妥協など受け入れないという決心をしました。

しかし、彼の考えた結論が反対に「不死や神は存在しない」となっていれば、すぐに無神論者か社会主義者になっていたでしょう。

なぜならば、と、次はカッコ書きで書かれています。

(なぜなら、社会主義とは、単に労働関係や、いわゆる第四階級の問題ではなく、主として無神論の問題でもあり、無神論の現代的具体化の問題、つまり、地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ)と。

そして、「第四階級」とは何か、訳注が付けられています。

それによると、封建社会で第一階級は国王や大名、第二階級は貴族、僧侶、第三階級はブルジョアジーを中心とする平民、そして第四階級はプロレタリアートを示すそうです。

この辺も私にとってはたいへん難しいです。

まず「社会主義」というのは、思想であったり、運動であったりするのですが、その定義はいろいろあると思います。

ひとことで言うことは、できないでしょうが、無理やり言ってしまえば、単純すぎるかもしれませんが「平等」ということではないでしょうか。

私の想像でしかありませんが、「アリョーシャ」が目をつけたのもそういう社会的な矛盾を解消しようというところからで、その手段が宗教であっても、社会革命であってもよかったのかもしれません。


2016年7月4日月曜日

95

「アリョーシャ」にはみんなと同じように真理を求め、生命をかけて行動する「わが国の現代青年」という一面もありました。

しかし、一般には不幸なことに、これら青年たちはある場合には生命を犠牲にすることが、もっとも簡単なことであるということがわかっていません。

また、青春期の5〜6年間を、自分の理想を達成するための力を10倍ほども強めるために、つらい困難な勉学や研究のために犠牲にすることがどれだけたいへんなことであるか、まったくと言っていいほどわかっていません。

しかし、「アリョーシャ」の場合は違っていました。

彼は多くの青年と同じように早く偉業をなしとげたいという思いは同じでしたが、みんなと反対の道を選びました。

このあたりは、どういう意味か、私はわかりません。

ロシアの青年たちは目先の目的のために命を犠牲にしがちであり、たいへん忍耐力のいることではあるが、今はじっと我慢してよりよい目的達成のためにもっと勉強したり研究したりする必要があるというようなことを言っているのでしょうか、わたしにはこの部分の意味がよくわかりませんでした。


2016年7月3日日曜日

94

次は、◯◯と考えるかもしれないが、そうではなくて◯◯、の形式の三つ目になります。

「アリョーシャ」は①鈍くて、②発育が遅れていて、③学校も途中までしか行ってないと言う人がいるかもしれないが、③以外はそうではなくて実は①と②はたいへんな間違いであると言っています。

その理由について、以前にも書かれていたことをあらためてくりかえしておくと前置きされて、「彼がこの道に入ったのは、もっぱら、当時それだけが彼の心を打ち、闇を逃れて光に突きすすもうとあがく彼の魂の究極の理想を一挙にことごとく示してくれたからにほかならない。」と、「アリョーシャ」の紹介の章で説明されたことと同じ内容が書かれています。

そして、さらにそれに加えて、彼が、「わが国の現代青年」であり、つまり誠実で、真理を求め、探求し、信ずる人間であり、いったん信じれば、全身全霊でそれをなしとげようとし、そのためなら生命をも犠牲にしようと、やむにやまれぬ気持ちをいだいている青年であると。